040.Hello Old Friend
「シン、私も遠出したかったです!」
深夜の大浴場に浸かっているトーコは、同じ湯船にシンが居るにも関わらずリラックスしている。
もちろん興奮しすぎて鼻血を垂らしたり、のぼせてしまいそうな兆候も無い。
これはSIDの発案で、トーコが入浴中に限り天井照明を細かく調光するようにした所為である。
シンの側からは彼女の姿は薄暗くぼんやりとしか見えないので、彼女の見られているという羞恥心が大幅に軽減されているのである。
SIDの説明に納得したトーコは、それ以来シンの視線が気にならなくなったのでこれは大きな進歩なのであろう。
「最近遠出してないもんね。
ハナみたいにキョートへも行ってないし」
ただしシンの湯舟の辺りは逆に明るく見えるので、トーコからはシンの姿は細部までしっかりと見る事が出来る。
シンはもちろん湯船の中でタオルを巻いたりしていないので、最近のシンは全身をくまなくトーコに観察されている。
彼個人としては大切な家族が何時までも男性恐怖症?では困るので、鼻血を噴出しない程度に慣れてほしいと思っているのである。
「ええ。
遠出は好きじゃないですけど、たまには気分転換したかったです」
さすがにシンの全裸も見慣れて来たのか、今のトーコは湯船の中で過剰に興奮する事は無くなっている。
ただし自室での妄想が、以前よりもエスカレートしているのかも知れないが。
「トーコの英語は上達してるけど、試食係としては好き嫌いが多すぎるからね。
それに地元民向けに改良した味だったから、トーコの口には合わなかったかも」
「試食は兎も角として、テキサスにあるアイさんのダイナーには行ってみたかったです」
「ああ、あそこならトーコが食べれないメニューは無いかな。
基本的にはニホンのファミレスと、遜色無い味付けだからね。
次回はトーコを誘うから、勘弁してよ」
「ええ、楽しみにしてます!
ハナは馴染みの店らしいですから、優先順位を忘れないで下さいね!」
「ところでのぼせてない?
まぁ倒れても、僕が居るから大丈夫だけどさ」
「シン!
意識しないようにしてるのに、思い出させないで下さい!」
トーコは頬を赤く染めながら反論するが、薄暗い照明の効果でシンに気付かれる事は無いだろう。
ここで足湯に浸かってリラックスしているシリウスが、大きな欠伸をする。
温泉に慣れてしまっている彼女は、シンと一緒の入浴が大好きなのである。
「トーコ、シリウスのドライヤーがあるから先に上がってるよ!
シリウス、上がるよ!」
暗がりの中でシリウスと一緒に脱衣所へ向かうシンの引き締まった後姿を見ながら、トーコは小さくため息を付いたのであった。
☆
翌日、午後の学園寮。
「あれ、ソラさんいつニホンに戻ったんですか?
まだレイさんのお供で、ロシアに居ると思ってましたけど」
特に約束もしていないで現れたソラだが、本来ならば態々顔を合わせる必要は無い。
SIDがリモート操作しているソラは、コミュニケーターで毎日会話をしているSIDそのものの人格だからである。
「ちょっとアップデートが必要だったんで。
それで今日は、トーコさんの今の保護者であるシン君と相談があって」
「顔をつき合わせて、話したい内容なんですね」
「ええ」
彼女は小さく頷きながら、手土産らしい真空パックされた白い肉塊をシンに手渡す。
土産物としてはニホンの税関を通すのが難しいサーロなので、どうやらワコージェットを使って帰国して来たのであろう。
プライベートジェット専用の通関は、一般客のそれと比べるとチェックが緩いのである。
「ああ、本場のサーロですね!
ルーがすごく喜びますよ!」
「ロシア土産だと、マトリョーシカとこれしか思い浮かばなくて。
それで、昨晩大浴場でトーコさんが遠出したいって言ってましたよね?」
「……ああ、トーコは確かにそう言ってましたね」
トーコの発言はリラックスした温泉での他愛無い雑談だったので、シンは一瞬ソラの発言の意味が分からなかったのである。
「シンにはこの機会に、私とトーコさんとの関わりを話しておきたいと思いまして……」
「???」
☆
翌日夜半。
「ちょっと話がしたいんだけど、今良いかな?」
トーコの居室に夜食のチキン・サンドを持参したシンが、珍しく彼女に声を掛ける。
普段はラップを掛けた夜食を置いて黙って退室するのだが、何か重要な話があるようだ。
「なんですか、改まって?」
椅子を回転させて振り返った彼女の膝上では、クーメルがすやすやと眠っている。
仕事中の膝の上でバランスを取って眠るのは大変そうだが、クーメルはまだ躰が小さいので可能なのだろう。
「トーコって、今何か大きなプロジェクトを抱えてる?」
「いえ。特には。
ハナが切羽詰った時にはヘルプしますけど、レイさんもロシア出張で居なかったし急ぎの仕事はありませんね」
熟睡しているクーメルの背中を優しく撫でながら、彼女は返答する。
体を伸ばし無防備な恰好で熟睡している仔猫は、トーコとかなり深い信頼関係が出来ているのだろう。
「実はソラさんが、トーコを数日借りたいって言っててね?」
「えっ、私をご指名なんてどんな事態なんですか?
それに現場仕事は、私には向いていないと思いますけど」
「仕事というか……ちょっと遠出したいから、同伴して欲しいんだって」
「へっ?
遠出って、何処なんですか?」
「それがね……
膝の上のその子にも、関係ある話なんだ」
「?」
☆
セルカーク
緑が豊かな南海の孤島。
シンのジャンプでいきなり此処へ運ばれたトーコだが、手荷物はバックパック一つとクーメルが入ったキャリーケースのみである。
先日シンとエイミーが過ごしたコテージには食料や日曜品がそのまま残してあるという事だったので、荷物も必然的に少なくなっている。
もっともトーコは料理が出来ないので、世話する人間抜きでセルカークに滞在するのは不可能である。
この島で外食可能な飲食店はブーランジェリーが一軒あるだけで、食事を調達できるコンビニや弁当屋が存在しないのである。
先にジャンプで到着していたソラは、シンとトーコをゲストハウスの前で待っていた。
ちなみにソラがジャンプを使えるようになったのは、ハナが開発に携わった新しいコミュニケーターのお陰である。
以前からソラのアヴァターラボディにはアンキレーが装着されていたが、SIDのコントロールから外れてしまうのでジャンプを行うことは不可能だったのである。
ソラの横にはこの島の総責任者であるアイラが立っていて、満面の笑みで到着した二人を出迎えている。
「シン君、ひさしぶり!
今日はガールフレンド2人を送って来たのかい、色男は大変だねぇ」
「ソラさんとは面識がある筈なのに、白々しいですね!」
トーコはシンと気安い会話をしているアイラを見て、二人の続柄について納得できたようだ。
容姿が似ているのは勿論だが、その存在感や雰囲気は血の繋がりというものを強く感じさせるのである。
「トーコ、こちらが僕の『曾おばあちゃん』のアイラさんだよ」
不躾な一言に、アイラは予備動作無しにシンのみぞおちに肘をストンっと打ち込んだ。
ヴィルトスを併用したその一撃でシンは体を折り曲げ悶絶しそうだが、アイラはその様子を見てしてやったりと笑顔である。
「はじめまして。
暫くお世話になります」
シンの様子を見ながら、ちょっとだけぎこちない米帝語でトーコは挨拶をする。
「おおっ、前髪ぱっつんが可愛いね!
トーコちゃんは、クーメルの世話をしてくれてるんだよね?」
いきなり流暢なニホン語に切り替えて、アイラが返答する。
「……はい。
手間の掛からない、とっても頭の良い子なんですよ」
キャリーケースから出されたクーメルは、トーコの肩の上で周囲を興味深げに見渡している。
果たして彼女は、生まれ故郷に帰ってきたと認識できているのだろうか?
「ああ、順調に成長してるみたいだね。
やっぱりシンに任せて、正解だったよ!」
⁎⁎⁎⁎⁎⁎
シンはトーコにコテージや周辺の説明を済ませると、ジャンプで早々に帰って行った。
さかんに胃の辺りを押さえていたので、先程の一撃はかなりの威力だったのだろう。
「ずいぶんと冷凍食材を持ってきたんですね」
キッチンで持参した食材をてきぱきと収納しているソラを見て、トーコが呟く。
大型の冷凍室はほとんど中身が空であり、持参した冷凍食材は余裕を持って収容できたようだ。
「ええ。シンから食材は過不足無い程度に手に入ると聞いていますが。
てもトーコさんは、魚介類は苦手ですよね?」
「ええ。
火が通っていない刺身類は、マグロ以外は殆ど食べられません」
「折角骨休みに来たのに、食事でストレスを溜めちゃうと本末転倒ですから。
Tokyoオフィスで保存している冷凍食材は、殆どがユウさんやアンが作ったものですから味は保証付きですよ」
幸いな事にトーコは小食なので、他の寮生と比較すると大量の食材は必要ないのである。
「……」
「寮の美味しい食事に慣れてるトーコさんには申し訳ありませんが、調理するのが私ですからそれほど期待しないで下さいね」
……
夕食時。
ソラはTokyoオフィスのメンバーから料理の手ほどきを受けているのか、手際よく夕餉の支度を行っていた。
ただし炊飯器で炊き立てのご飯とエイミーが残してあった出汁で作った味噌汁以外は、すべて作り置きを解凍調理したメニューである。
小ぶりのハンバーグの付け合わせは、フライドポテトとニンジンのグラッセのみ。
同じ皿に乗っているペンネのトマトソースは、これもアンが調理した余り物である。
「美味しい!
お皿に乗っているのは、私の好物ばかりですね」
「シンやエイミーちゃんほど、料理の腕前はありませんから。
解凍してソースを掛ける位で、手間は殆ど掛かっていませんけど」
ソラが並べたメニューは、実はトーコが良く食べていたコンビニのハンバーグ弁当と同じ組み合わせである。
トーコは全く意識していないだろうが、彼女の食事の好みはソラによって完全に把握されているのである。
「それに、なんか懐かしい感じがします。
お袋の味には縁遠い私なのに、なんか不思議ですね」
「トーコさんは、昔から好きなメニューは変わってませんから。
苦手な食材は持参してませんよ」
「……母親とご飯を食べると、こんな感じなんでしょうね。
最近は寮の皆と食事をしますけど、それとはちょっと気分が違いますね」
「……」
家族団欒を経験した事が無かったトーコの一言は、普段は人前では決して見せない彼女の本音なのだろう。
ソラは返す言葉が無く無言だが、なぜかその瞼が潤んでいるように見えたのであった。
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