038.Fly Me To The Moon
夜半。
「バウッ!」
イグルーの室内に敷き詰められている断熱シートの上で、横になっていたシリウスが突然反応する。
「あれっ、カレーの匂いは熊避けの効果はあんまりなかったのかな……。
シリウス、近くまで来てる?」
「バウッ!」
Congoh特製の折り畳みベットから跳ね起きたシンは、一瞬にして覚醒している。
隣に寝ているアイリーンは、折り畳みベットの寝心地が良いのか寝袋に包まったまま全く目覚める気配は無い。
「ああ、熊肉は硬いし調理しにくいから、あんまり駆除したくないんだよなぁ」
「バウッ?」
首を傾げる愛らしい仕草は、周囲の人間から学習したのだろう。
流石に知能が高いK-9である。
「初日だから、驚かす位で殺生はやめておこうかな。
シリウス、ちょっと様子を見に行こうか」
「バウッ!!」
イグルーの入り口に掛けられている断熱シートをくぐり、隣接しているテントから外へ出ると微かな獣臭さが漂ってくる。
見渡すとすぐに、大型テントの傍に何か大型の黒い物体が動いているのが目に入る。
時折チカリと光っているように見えるのは、僅かな眼底の反射なのだろう。
テントの中には食料は持ち込まないように厳命されているので、いきなりテントに突進されるのは回避出来たようである。
「バウッ!」
シリウスの存在に気が付いたヒグマ?は、こちらに向けて凄い勢いで突進してくる。
雪を蹴散らし巨体を揺らしながら迫ってくるその姿は、すごい迫力である。
「ちょっと痛い目に会わないと、躾にならないよね!」
シンはヒグマの巨体をしっかりと重力制御で捕捉すると、近くの太い幹に向かって放り投げる。
普通の人間ならば、全身の骨がバラバラになって即死は免れない勢いである。
トウヒの巨木に衝突したヒグマはほんの一瞬だけ動きを止めたが、すぐに立ち上がりまたシン達の方へ向かってくる。
「かなりタフだけど、動きがふらついてるな。
もう一回!」
今度は暴れるヒグマを空中にぐんぐん持ち上げ、高度50メートルから自由落下させる。
ドサッ!と雪にめり込んだヒグマは、今度は衝撃で脳震盪を起こしたらしく全く動かない。
数秒後フラフラしながら漸く立ち上がったが、ここで全力疾走したシリウスのタックルを受けるとまるでトラックにはねられたように雪の上を転がっていく。
⁎⁎⁎⁎⁎⁎
翌朝。
「シン、昨晩は何か外でガサガサしてなかったか?」
大型テントの横に残された雪の轍を見て、アイリーンがシンに尋ねる。
「ああ、熊が出たんでシリウスと一緒に退治してました」
大荷物に入っていた折り畳み式の簡易オーブンで、ピッザを焼きながらシンは応える。
持参して来たのは自家製生地を冷凍したマルゲリータ一択だが、チーズの溶けた香ばしい匂いが周囲に漂い始める。
配布されている陸軍用のMREをモソモソと食べているメンバー達が、シンに向けて羨望の眼差しを投げてくるのは当然であろう。
シリウスは、シンが皿に盛りつけた配給分のMREを美味しそうに食べている。
普段食べなれない米帝家庭料理風のメニューなので、彼女にとっては新鮮な味なのだろう。
「退治って?何だそりゃ?
さすがに銃声が聞こえれば、目が覚めるだろうに」
前日シンの配っていたカレーに文句を付けていたアイリーンだが、もはや食事に関しての小言は無駄だと諦めたようだ。
自分で煎れたインスタントコーヒーを片手に、シンがピッザを焼き上げるのを黙って待っているようである。
「ヒグマを駆除しちゃうと、解体が面倒なんで。
それに肉も硬くて、あんまり美味しくないし」
シンは皿に盛りつけたピッザにカットを入れて、参加メンバーに声を掛ける。
加熱調理可能なMREはそれほど不味くは無いが、やはり出来立てのピッザの魅力には勝てないのだろう。
メンバーはカットされたピッザに群がっている。
「今後の事も考えて、始末した方が良かったんじゃないか?」
カットした出来立てのピッザを頬張りながら、アイリーンは言葉とは裏腹に幸せそうな表情である。
厚手のアメリカンスタイルのクラストは、栄養補給としても十分なカロリーがあるだろう。
「あんな巨大なヒグマを食べきれる訳ないじゃないですか!
まぁシリウスが遊んであげたんで、二度とこの近辺には近づかないと思いますけどね」
MREの食事に満足したのか、雪の上に伏せたシリウスは大きな欠伸をしている。
いつものお代わりの催促をシンにして来ないのは、かなりカロリーが高いメニューだったのだろう。
「害獣駆除じゃなくて、食料調達を先に考えてたのか!
それで、遊んであげたって?」
アイリーンは2カット目のピッザに手を伸ばしながら、冷凍ピッザを続けてオーブンに入れているシンに尋ねる。
「こう見えて、シリウスは特殊な犬ですからね。
寮の近所で飼われている土佐犬は、シリウスの姿を見るとこそこそ逃げ出しますから」
組み立て式のオーブンは庫内温度に大きなムラがあり、しかも解凍していない冷凍ピッザは火加減が難しい。
会話を続けながらも、頻繁に生地の向きを変えているシンはかなり真剣な表情である。
「土佐犬って???」
まさかK-9について本当の事を言えるわけは無いので、アイリーンはシンの一言を何かの冗談だと思ったようだ。
実際にはシリウスのタックルを受けて気絶寸前だったヒグマは、這う這うの体で逃げ出したのであるが。
……
日中の地味で退屈なカリキュラムを終了した一同は、すでに就寝時間なのでテントに入っている。
緯度の関係でアラスカの日没は遅いので、まだ周囲は昼間と全く変わらない明るさである。
まだ薄暮にもなっていない時間帯にスキットルに入ったウイスキーを交代で煽りながら、シンとアイリーンはテントの中で雑談をしている。
目の前にはCongoh特製の携帯用ヒーターが動いているので、イグルーほどの気密性は無いが内部はかなり暖かい。
日中はクマ除けに周囲をパトロールしていたシリウスは、すでに床に伏せて熟睡している。
ただし時折耳がピクピクと動くのは、周囲の警戒を続けている所為だろう。
「オーロラですか?
ISS滞在中に、何度も見たんじゃないですか?」
シンが持参したスキットルに入ったウイスキーは、ハワイベースの食料倉庫にあったデッドストックである。
ユウがせっせと消費している割には、潤沢にある在庫は一向になくなる気配が無い。
「ああ。
でも地上から見たことが無いから、機会があったら見てみたいと思ってね」
極寒の地では、50度以上もあるライ・ウイスキーはウオッカと同じく体を温めるには最適である。
21歳以下であるシンがアルコールを口にしていても、アイリーンは特に気にする様子が無いのはその為であろう。
「君のジャンプは、もしかしたら他の惑星にも行けるんじゃないのか?」
「ええ、惑星の座標軸が判明しているなら可能みたいですね」
「大多数の宇宙飛行士は月にすら行けないからなぁ。
いいなぁ、ホントに羨ましい……」
NASAは現在、地球圏外への活動が全く出来ていない。
火星への有人探査についても、予算が付かないために構想段階から一歩も前進していない。
外宇宙から来ている宇宙船の存在が知られている現在、NASAの大掛かりな有人探査は非現実的な計画になってしまったのである。
「ヒューマノイドが居住している惑星へ行くのは、NewFrontierとは言えませんけどね。
ちょっと散歩しましょうか?」
「ん?散歩って?」
「シリウス、ちょっと出てくるから熊が出たら宜しくね!」
シンは手荷物が入ったバックパックを背負うと、イグルーの中でリラックスしているシリウスに声を掛ける。
「バウッ!」
⁎⁎⁎⁎⁎⁎
「うわっ、これは凄いな!」
亜空間ジャンプで飛行中のアイリーンは、感嘆の声を上げる。
横抱きにされるのに抵抗があった彼女だが、今はシンの首にしっかりと手を回し体を密着させている。
「とりあえずフェアバンクス上空まで行ってみましょうか」
上背がある割には体脂肪率が低い彼女は、見掛けよりも軽く感じる。
同じく鍛えている大統領と、殆ど同じ抱き心地?である。
「天気が良い割には、オーロラが出てませんね」
満点の星空はマウナケアの山頂で見た夜景に匹敵するが、周囲に数100キロに人家が全く存在しないこの場所の方がよりクリアに見えている気がする。
個人的にはこの星空だけでも十分に感動できる風景であるが、本日の目的はあくまでもオーロラである。
「……」
「じゃぁこのまま上昇しましょうか」
残念ながらこのタイミングではオーロラに遭遇できなかったので、シンはどんどん高度を上げていく。
「これは……すごい体験だな!
ISSから見れるのは小さな窓越しだが、これは周囲がすべてクリアに見えるぞ!」
『宇宙の渚』を見慣れているアイリーンでさえ、軌道上に丸腰で浮かんでいるかのようなこの光景は目を見張るものなのだろう。
「高高度飛行の経験がある人は、みんなそう言いますよね」
「このまま上昇したらどうなる?」
「えっと、時間はかかかりますけど月までは数時間で行けるんじゃないですか?」
「Fly Me To The Moonだな!」
アイリーンは日頃の鬱憤を晴らすように、満面の笑顔で呟いたのであった。
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