009.Learning The Game
食後に体育(格闘技)の授業があるのは不思議だが、雫谷学園の昼休憩は欧州風に120分あるので問題にならないのであろう。
何故か推奨科目に指定されているこの授業はインストラクター不在という事で休講が続いていたが、代理の講師が見つかったという事情もあり再開されたばかりである。
「この授業ってユウさんが新しい担当になったの?」
トーキョーオフィスに頻繁に出入りしているので、トーコは当然ユウとも面識がある。
「うん、そうみたいだね。昨日実技を手伝って欲しいって連絡があったし」
「手伝うって?」
「JOBER」
シンが苦笑を交えた表情で応えるが、英語がそれほど堪能では無いトーコは意味が分からないようで小さく首を傾げている。
トーコは授業に参加するつもりでは無かったが、シンとの付き合いでエイミーと一緒にトレーニングウエアに着替えている。
シンはトレーニングウエアに着替えた上、複合素材で出来た軽量プロテクター一式を装着している。
この装備は近接格闘戦専用のもので、トーキョーオフィスの定例訓練でいつもフウが着用しているのと同じものである。
暫くすると教室の中に疎らに人が集まって来て、やっと授業が開始される。
講師役のユウはCongohトーキョーの早朝トレーニングで着用しているスポーツウエアで、特にプロテクターなどは身に着けていない。
「この中から義勇軍に志願する生徒が何名居るか解りませんので、これから数回は実用的な護身術をメインにした授業にしたいと思います」
「まずは自己紹介を兼ねたデモンストレーションをやってみましょうか。
それではシン君、宜しく!」
「はい」
シンは模擬戦で使うゴム製のハンドガンをユウから受け取ると、リラックスしたツーハンドで構えてユウをポイントする。
「至近距離でこうした熟練したシューターに狙われてしまった場合、まず回避するのは不可能ですが……」
ユウが素早く踏み出した瞬間、シンの背後にユウが瞬時に移動する。まるでコマ送りのような動きに、見ている生徒達も唖然としている。
「こういうスピードがあれば、なんとか形勢逆転するのも可能でしょう」
シンは堪らず、自分の首に回され頸動脈を決められたユウの腕をタップする。
柔らかくて良い匂いがする彼女に背後から抱き付かれている状態は名残惜しかったが、このまま絞められると間違いなく気絶する醜態を周りに見られてしまうだろう。
「次に相手が腰だめでシングルハンドの場合。
踏み込んでスイングした手で、ハンドガンを払います。この時握った手の甲の側にヒットすると効果的です」
ユウの固く締められた手のひらの打撃で、シンの右手のゴム製のハンドガンがポロリと落とされる。
「相手の手首を掴んで、関節を極める方法もあります。
いずれの場合もマズルの位置をしっかりと把握しないと、この至近距離で撃たれたらその時点でアウトです」
流れるような動きでシンの右手首を極めて、ユウは説明を続ける。シンは激痛で、その場で膝をついて倒れこんでしまう。
その後は暴漢が抱き付いてくる実用的?なシチュエーションを繰り返し、シンは切り返しで体の各所に打撃を受け続けた。
プロテクター越しでもかなりのダメージが蓄積しているのが分かるが、シンは何故か嬉しそうな表情をしている。
見学していたトーコは不機嫌な表情で早々に退出してしまったが、エイミーは熱心な様子で授業を見ながら時折手足を動かし内容を反芻しているようだ。
繰り返しシンがJOBERとして倒された挙句、遂に立ち上がれなくなったのでユウが授業の終わりを生徒達に告げる。
生徒達が更衣室に戻っていく中ユウが急いでシンに駆け寄ると、何度も脳を揺さぶられて意識朦朧としているシンから頭部のプロテクターを外す。
見学していたエイミーもユウの横に駆け寄りシンの様子を心配しているが、首を振って意識がはっきりしてきたシンに安堵の表情を見せる。
「大丈夫?繰り返しでだいぶ無理させちゃったかな?」
「いいえ、大丈夫です。フウさんとの訓練で慣れてますから」
「ん~やられ役だけだと申し訳ないから、一回だけフリーで組手をしてみる?」
「はい、ぜひお願いします!」
シンは躊躇なく返答する。
メトセラのコミュニティとは距離を置いて育ったユウは、メトセラの女性にしては高圧的な部分が無いのでシンは普段から彼女に好感を持っている。
フリーの組手ならば相手がいかに強くても一方的にやられてしまう事は無いだろうし、料理以外の自分の良い所を見せられるかもという打算も働いていたのだろう。
薄いマットが固定されただけの格闘技用のリングで、シンとユウは距離を取って向かい合った。
もちろんロープは張られていないが、リングからエスケイプした場合は場外という事になるのだろう。
「いつでも良いよ」
「はい、行きます!」
シンはこの授業で初めて重力制御を使い生身の関節が耐えられる限界の速度でタックルしたが、目標のユウは視界から既に消えている。
周囲を確認する間もなく、シンの体がふわりと浮きあがりマットに叩き付けられる。
なんとか衝撃を緩和して立ち上がったシンだが、ユウの姿を視野から見失ったままである。
頭を振りながら周囲を見回すが、今度は背後から脛に強い衝撃がありふらついた体がまたも地面から引き抜かれるように宙を舞う!
スープレックスで強引に投げられたと自覚する間もなく、今度は受け身を全く取れずにシンは気を失ってしまったのであった。
☆
「うわっ」
氷の冷たさが首元に触れた瞬間、シンは覚醒した。
あっという間にユウに投げられて、良いところが全く無く瞬殺されてしまったのをぼんやりと思い出している。
「肋骨は折れてないから、打撲で済んだみたい。ごめんね、ちょっと手加減が足りなかったかな」
氷嚢をシンの後頭部に当てながら、申し訳なさそうにユウが言う。
シンがふと足元に違和感を感じると、頑丈な複合材のプロテクターがぱっくりと割れている。
プロテクターが無ければ、脛はローキックで骨折していたかもしれない恐ろしい威力である。
「ユウさん、すごいです。さすがキャスパーさんが選んだ人だけあります!」
エイミーの大げさな賞賛に控えめに笑みを返すと、氷嚢をシンの後頭部で動かしながら言葉を続ける。
「シン君、申し訳無いけど次回もお手伝いを頼んで良いかな?」
遠慮がちに言うユウの笑顔はたおやかで、その女性らしい仕草に圧倒的な強さがあるようには見えない。
「あっ……はい、了解です。こちらこそ組手有難うございました」
自分の能力を未だに上手くコントロール出来ていないシンとしては、瞬殺された以上にユウが手に入れたばかりのジャンプ能力を臨機応変に使いこなしている様にショックを受けていた。
相手の死角に的確に移動し瞬時にダメージを与えるというのは、特殊能力以前の基本的な格闘技における資質の問題である。
シンはユウから氷嚢を受け取る時、ユウの決して大きくはない手に微かに触れた。
ユウの手は、モデルのような見目麗しい外見とは大きなギャップがある『仕事をしている手』である。
短い爪と厚みのある掌が荒れているのは、包丁を握り、ハンドガンを構え、戦闘機のスティックを操って地道に繰り返されてきた日頃の鍛錬の所為なのだろう。
偶然手に入れたと言われているジャンプ能力を自在に使いこなせるのは、それらの続けてきた地道な訓練が下地になっているからに違いない。
それは彼女の料理の腕前に通じる、簡単には埋まらない経験の差というものなのかも知れない。
座り込んだまま沈黙しているシンの内心が分かっているように、エイミーが屈託の無い笑顔をシンに向けてくる。
その明るい表情に癒されながら、シンは自問自答する。
(Non uno die Roma aedificata est……)
子供の頃、亡き母が口癖の様に唱えていたラテン語の一節が脳裏に蘇る。
足音も立てずに更衣室に向かうユウの後ろ姿を眺めながら、シンはゆっくりとだが確かな足取りで立ち上がった。
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