Vanilla
「好きだよ」
のんびりと歩く足音と共に、広い背中がゆらゆらと揺れる。
微かな振動。
揺れるつま先。
胸元に感じる体温。
どうやら自分は誰かに背負われているらしい。
首筋からは、香水だろうか。バニラのような甘い香りがたちのぼり、歩くたびにふわふわと千沙を包み込む。
――え?
「誰って、わらからない?」
千沙は首筋に額をつけ、小さくうん、と答える。
すると彼はまた小さく笑う。
「君のことだよ」
私のこと?
そう尋ねた千沙に、彼はもう一度刻むように好きだと告げる。
その言葉は彼が纏っている香りと同じくとろけるように甘い。
「知らなかった?」
――うん
こくりとうなずく千沙に、彼はそうかと呟く。
「じゃあ、もう忘れないよね?」
そうだね、忘れない。
そういって頷きかけたものの、背中越しに聞こえてくる声はまるでアイスクリームのようにあっという間に溶けて消えてしまいそうだった。
いや、言葉だけではない。
たった今、目の前で起きている出来事すらまるで砂のようにつかんだそばから指の間からこぼれおちていく。
千沙はそれを食い止めるように首にまわした手にぎゅっと力をこめる。
だが、それすらすぐさま曖昧にぼやけていく。
薄れゆく記憶の中、聞こえてきた笑い声はバニラのように甘いものだった。
「うう……」
ずきずきと痛むこめかみをおさえ、千沙は顔をしかめた。
どうしてあんなに飲んでしまったのだろう。
ようやく業績が回復し、数年ぶりに新入社員が来たということもあって先日の飲み会は昨今稀ににみる盛り上がりだった。
だが、おかげでこのありさまだ。
そんなにお酒に強いわけでもないのに、場の雰囲気にのまれてついつい飲みなれない日本酒なんかに手をつけたのがいけなかった。
記憶は日本酒を飲み始めたあたりからぼやけ、気が付けば自室のベッドに寝ていた。
一体どうやって帰ったのか、まったくもってわからない。
鞄もコートもちゃんと持って帰っていたし、スーツもハンガーにかかっていたところを見ると酔っぱらっていたとはいえ、なんとか無事帰った。そう思いたいところだが。
千沙はこめかみをぐりぐり指でもみながら、会社の休憩室へとむかう。
食堂と同じフロアにあるここは、ちょっとした休憩コーナーを兼ねていて軽食や飲み物の自動販売機が並んでいる。残業で小腹がすいたときや昼食を食べそびれた時などは、千沙もずいぶんお世話になっている。
それは千沙だけにかぎったことではない。
今朝も早くから出社したのだろう。数人の社員たちの姿がフロアのあちこちに見える。
いつもならば千沙も顔見知りのところに挨拶にいくのだが、今朝の体調ではそうもいかない。
痛む頭をかかえ、自販機の前に向かおうとした千沙はすでに居た先客の姿に目を見開く。
「秋月……さん」
かっちりとした黒いスーツに、硬質な印象を与える細い銀フレームの眼鏡。
腕にはフレームと同じ銀の腕時計をつけているのは、設計部の秋月涼。千沙よりも二年後輩だ。
やたらと整った顔立ちということもあって、女子社員の間でも知らぬものはいないという有名人。たしか、先日の飲み会でもいたはずだ。
思わず足をとめた千沙に、自販機のボタンを押しながら秋月は驚いたように軽く眉をあげた。
「……おはようございます。長瀬さん」
「お、おはようございます」
軽く頭をさげ、千沙はのそのそと自販機に近づく。
「あの……昨日は……酔ってしまって……その」
「ああ、本当にすごかったですね、昨日の長瀬さんは」
笑みを含んだ秋月の声に、千沙の頬がかっと赤くなる。
思わず振り返った千沙に、秋月はフレームの奥にある目をわずかに眇めた。
「あんなに酔っぱらった人をみたのは久しぶりですよ」
「そ、それは……その、すみません。あの、ご、ご迷惑おかけし」
「ええ、そうですね」
あっさりとうなずく秋月に、千沙はうっと声を詰まらせる。
ここは普通、そんなことないですよ、と言う場面ではないだろうか。
おもいっきり顔をひきつらせる千沙に、秋月は薄く笑みを浮かべた。
「長瀬さんっていつもあんな感じなんですか?」
「い、いつもはあんな感じじゃないです! き、昨日はたまたま、えっと、その調子に乗ったというか、なんというか……」
ああ、これが二年後輩に対する言葉だろうか。
自分で言っていて情けなくなってくる。
そもそも、なんであんなに酔っぱらってしまったのか。何度考えても答えはでてこない。
もともと酒は強い方ではないのは十分わかっていたはず。
だからこそ、あのような会社での飲み会では飲みすぎないように、失礼のないようにと今までずっと注意していたのに。
もごもごと呟きながら、千沙は項垂れた。
と、その時だ。
ふわり、と甘い香りが千沙の鼻をかすめた。
香水、だろうか。
思わず顔をあげた千沙に、秋月は薄い唇をかすかに歪める。
「調子に乗った、ね」
「す、すみません……」
再び項垂れる千沙に秋月は自販機から取り出したトマトジュースを差し出す。
「二日酔いにはトマトジュースだそうですよ」
「へ?」
千沙は差し出されたトマトジュース、そして秋月を見る。
「あの、どうして……」
首をかしげる千沙に、秋月は無理やりトマトジュースを握らせる。缶の固い金属の感触と、そこから広がる冷たい感覚に思わず体をこわばらせる。
いや、冷たいのは缶だけのせいではない。
彼の視線そのものが冷たく、背筋をこわばらせる。
怯えたように見上げる千沙に、秋月はふっと笑みを浮かべた。
「酷い顔だからですよ」
薄く笑んだ彼の言葉は、その笑みに反してなんともそっけない。
彼はくるりと踵を返し、そのまま立ち去る後姿を千沙は茫然と見つめる。
「……そんなに酷いかな」
「そんなことないってば」
突然聞えた声に、千沙はわっと声をあげる。
「さくら!」
「おはよう、千沙」
隣からぴょこんと顔をのぞかせたのは、営業部の溝端さくらだ。
ゆるくカールさせた髪に、ほんのりとバラ色に染まる頬。下がり気味の眼は大きく潤み、さながら昔、持っていた絵本のお姫様のようだ。
だが、その容姿に対し性格はというと、狙った獲物は逃さない。
学生時代のあだ名がハンターというところからして、彼女の性格がどのようなものかはわかるというものだろう。
そんな性格が功を奏してか、営業部での彼女の成績は常に上位。
おそらくこの先、もっとも出世をするであろう人物の一人だ。
さくらは千沙の肩をぽんと叩き、去っていく秋月の後姿ををにやにやと見つめた。
「お疲れ。いやいや、昨日はなかなか面白いものが見れたよ。いやー、楽しかったねー」
「やめてよ、もう」
頬をふくらませ、千沙はかるくさくらを睨む。
覚悟はしていた。あれだけ飲んだのだ。何か絶対言われるだろう、と。
しかしいくら覚悟していたからといっても、気分のいいものではない。
なにしろ当の本人である千沙に昨日の記憶がないのだから。
思わず顔をしかめてみせた千沙に、さくらは自販機でコーヒーのボタンを押しながらまあまあとなだめる。
「そんな怒らないの。まさか、本当に覚えてないってことないでしょ?」
「……覚えていたらよかったんだけどね。記憶が無くなるまで飲んだのって私、初めて」
疲れたようにため息をついた千沙に、さくらはくくっと笑う。
「だったら惜しいことしたね。あんた昨日、すごい人気だったのよ」
「は? 何よそれ」
ぎょっとする千沙に、さくらは笑ったままぐっと顔を近づける。
「なんと新田さんと秋月が千沙をめぐって大バトル! いやあ、見物だったわよ」
「は!? 新田さん……って、営業部の?」
「そそ。新田先輩」
にやりと笑うさくらに、千沙は思わず目眩がした。
新田先輩とは、さくらと同じ営業部で、千沙よりも四つ上の先輩だ。
派手めな容姿と明るくノリの良い性格で老若男女問わず人気がある。もちろん、千沙も例外ではない。新人のころから何かにつけ目をかけてもらっていた。
だが、それはあくまで先輩後輩の範疇でのこと。
個人的に特別親しいわけではない。もちろん、秋月にたいしても同じ。
一体何がどうなっているのだろう。
首をかしげる千沙に、さくらは肩をすくめる。
「まあ、私も全部聞いたわけじゃないんだけど、どっちが千沙を送っていくとかでもめたらしいよ」
「は、はあ? え、あ、秋月さんが?」
信じられない。まあ、新田ならば百歩譲ってありえる。あの人なら酔い潰れた後輩がいたら、真っ先に自分が送っていくと言いだすだろう。実際、何度か千沙もそのような場面を見たことがあった。
だが、秋月がそんなことを言うなんて。
「……信じられない。だって」
「嫌われてるんだっけ? 秋月君に」
からかうようなさくらの声に、千沙は軽くうつむく。
そうだ。
秋月が自分を送って行くなんてこと、絶対あり得ないのだ。
頑なまでに千沙がそう思うのには理由があった。
そもそも秋月と出会ったのは彼がこの会社に入社してしばらくしてからのことだった。
新入社員である秋月とは、業務上かかわることも少なかったせいか廊下ですれ違ったときに挨拶を交わす程度の関係だった。
それからしばらくたち、仕事上でかかわるようになってもそれはあくまで社内の人間としての間柄だった。
だが、いつのころだろうか。彼の態度が冷たいものにかわったのは。
「想像できない……」
「私だって想像できなかったわよ」
昨夜の様子を思い出しているのか。さくらも信じられないといったように神妙な面持ちで頷いた。
「だってあの秋月がだよ? どんなに可愛い子が言いよっても足蹴にしてきた冷徹鉄面皮の秋月があんたを送っていくなんて言いだした時は、私の耳がどうにかなったのか。それとも秋月が酔っぱらって前後不覚にでも陥ったのかと思ったわよ」
「酔っぱらってたの?」
「いや、ぜーんぜん」
素面。あっさりと返され、千沙はがっくりと肩を落とす。
聞けば、秋月は最後までウーロン茶しか飲んでいなかったという。
「じゃあ、べろべろに酔っていたのって私だけ……」
「ま、そーゆーことになるね。だから余計に目立ってたんだけどね」
さくらはそっけなく言うとコーヒー片手に近くの椅子に腰をかけた。
「まあ、どちらにしても千沙のことは私が送っていくつもりだったんだけどさ。気が付いたら千沙も新田さんも秋月もいなかったってわけ。ねえ、誰が送ってくれたの?」
「どっちって……覚えてるわけないでしょ。記憶無いんだから」
困ったように眉をよせる千沙に、さくらはコーヒーを啜りながら軽く眉をあげる。
「あら、本当に記憶ないの? 冗談かと思った」
「こんな時に冗談なんて言ってどうするのよ」
誰よりもこの状況が冗談であってほしいと思っているのに。
しょんぼりと項垂れる千沙の肩を、さくらはぽんと叩いた。
「まあ、無事帰れたんだからよかったじゃない。さ、そろそろ時間だよ」
残ったコーヒーを一気に飲み干し、さくらは缶をゴミ箱に放り込む。
千沙は貰ったトマトジュースの缶を見つめる。
本当に昨日、何があったのだろうか。
思い出そうとすればするほど、記憶は霞がかる。
伸ばした指先は、寸でのところですり抜けていく。
自分のことなのに何もわからないなんて。
千沙は小さくため息をついた。
「へ? 設計部、ですか?」
困惑したように返す千沙に、先月五十を越えたばかりの部長はにっこりとほほ笑みうなずく。
「そう、設計部。知ってるでしょ? 三階のフロアの中央の部屋の。あそこに一日だけ手伝いに行ってもらえないかな?」
「手伝い、ですか?」
部長は大きく頷く。
「そう。ちょっとした事務作業なんだけどね」
「事務作業……」
そういえば、設計部は他部署とは違い事務を専門に扱う社員はいない。
下っ端の社員や、手の空いたものが日常の業務と一緒にこなしていると聞いたことがある。
「忙しいんですか? 設計」
「うーん、そうらしいんだよねぇ」
神妙な顔をして頷く部長に、千沙は軽く眉をよせる。
「でも、ウチだって暇ってわけじゃ……」
「あれ? 長瀬ちゃん、なんか急ぎの仕事あるの?」
「いえ……特には」
「じゃあ、問題ないよね」
にかっと笑う部長に、千沙は思わずひきつった笑みを浮かべる。
問題……?
問題ならある。
設計部は秋月のいる部署。さらにいえば、設計部の隣のフロアは営業部。
あんなことがあって、平然としていられるほど千沙の神経は太くはない。だけど――千沙は小さく首を振った。
「いえ……問題はありません」
「そうか! ああ、よかった。いやね、設計の田津さんがどーしても手伝ってほしいってうるさくてさ。なんか営業は忙しいし、管理には頼みづらいらしくてさぁ。ほら、管理にはこの前散々世話になったらしくてね。泣きつかれちゃって正直困っていたんだよ。いやぁ、助かるよ」
田津とはたしか設計部の部長のことだ。
「では田津部長の所にいけばよろしいのでしょうか?」
尋ねた千沙に、部長は違う違うと首を振る。
「田津さんじゃなくて担当はえっと、確か秋月だったかな? 話は彼に聞いてほしいそうだ」
「え……あ、秋月……さん、ですか?」
千沙の頬がひくり、とひきつる。
最悪だ。
今日は厄日に違いない。
千沙は酷く重い足取りで歩きだした。
設計部は技術部の上のフロア。三階にある。
昨今の省エネを反映してか社員はエレベータの使用は固く禁じられもっぱら非常用階段をかねた薄暗い階段を使っている。その階段をあがり、三階についた千沙はパーテーションで区切られた南側の部署にむかった。大きな窓にはブラインドが常時下ろされ、強い日差しが遮られている。そのフロアの左端に秋月はいた。
ノートパソコンを開いていた秋月は、千沙が入ってくるのに気がついたのか手をとめ立ちあがった。
「あの、よろし」
「話は聞いていますか?」
「あ、いえ……」
挨拶をさえぎられた千沙は、相変わらずそっけない秋月の言葉にぎこちなく頭を振る。
「いえ、あの部長からは秋月さんのところに行くようにとだけ言われています」
「そうですか」
秋月は小さく頷き、千沙を促す。
彼が案内したのは設計部のフロアの隅にある、パーテーションで区切られた部屋に案内する。
フロアごとに会議室はあるが、ここはいわばちょっとした話し合いなどに使われているのだろう。小部屋の中心には大きめの机があり、その上にはプラスティックケースが三つほど置かれていた。
半透明のケースのどれもにこれでもかと書類が詰め込まれている。
さらに机のしたには封を開けていない段ボールがいくつか見えた。
「これは?」
首をかしげる千沙に、秋月は眼鏡のブリッジを指で押し上げながら振り返る。
「書類ですよ」
見てわからないのかというような小馬鹿にした秋月の態度に、千沙は軽く眉を寄せる。
「わかっています。この書類をどうしろっていうんですか」
「ファイルしてください」
「ファイルですか?」
首をかしげる千沙に、秋月は山から一枚書類を抜き出す。
いつの会議かわからない議事録だった。
これをまとめるということだろうか。そう尋ねると、秋月はいや、と頭をふった。
個人的なものや機密文書などはないが、設計にまわされくる書類などが乱雑に入っている。それらを種類別にわけ、時系列に並べなおして今日中にファイリングしてほしいとと聞かされ、千沙は一瞬目眩がした。
「……こ、これをファイルするんですか? 今日中に?」
「ええ」
できませんか? 冷たく問われ、千沙は反射的に首を振る。
「い、いえ。だ、大丈夫、だと」
「では、よろしくお願いします」
頼むというには、彼の言葉はあまりにも冷たい。
秋月は事務的に挨拶をするとそのまますぐに席に戻っていった。
一人残された千沙は、彼が出て行った戸口を見つめる。
やっぱり秋月は秋月だ。
あいかわらず態度は氷の様に冷たい。
「……何がモテた、よ」
昨夜のことは、やはりさくらの勘違いだ。
だって、今の彼の態度。いつもと何ひとつ変わってはいない。
今朝のトマトジュースだってきっとただの気まぐれ。深い意味はない。
千沙は小さく息をはき、視線を机の上に向ける。
「それにしても……」
一体、いつからこんな状況なのだろう。
先ほど秋月が手にした議事録の日付は二か月前のものだった。
あれには千沙も見覚えがある。千沙の部署にも配られて、それを彼女自身がファイルしたのだから。
それがあるということは、最低でも二カ月ほどは手つかずだったということだ。
「信じられない」
千沙は頭をふる。
いやいや、愚痴をいっても始まらない。
とにかくこの場所から逃げるためにはこの山をどうにかしなくてはならないのだ。
千沙はシャツの袖をまくり、書類の山に手を伸ばした。
問題は量なだけで、仕事内容は難しいものではない。
黙々と仕事をこなしていると時間がすぎるのはあっという間だった。山を崩し終えたところで昼のチャイムが鳴り響く。
「さーて、お昼はどうしようかな」
いつもは昼は食堂で食べている。味はまあまあだが、なんといっても値段が安いのが魅力だ。このほかに地域的にオフィス街ともあって、手ごろな値段の店も多い。社員の中には値段は張るが外の方がおいしいといってそちらを選ぶ人も多い。中でもこのところの一番人気の店は、会社のすぐ近くにできたカフェだ。
コーヒーや紅茶といった飲み物もさることながら、人気なのは焼き立てのソフトフランスパンをつかったサンドイッチだ。外はパリパリ。中はふっくらとしたパンに、肉や魚をサンドしたそれは、女子社員に特に人気だ。
だが、それは限定品。すぐに買いにいかないとあっという間になくなってしまう人気商品だ。今からでは間に合わないだろう。
食堂にいっても席があるかどうか。
「コンビニかな……」
出遅れているので、品ぞろえはあまり期待できそうもないが無いよりはましだ。
気分はパンの気分なので美味しいのが残っているといいが。
「まだ居たんですか」
「うわああ!!」
突然かけられた声に、千沙はびくりと肩を震わせ振り返る。と、左手に紙袋を持ち、会議室のドアにもたれかかるように秋月が立っていた。
「昼はどうするんですか?」
唐突に尋ねられた千沙は思わず目を瞬かせる。
「お昼?」
「そうですよ。まさか食べないつもりですか?」
「あ、えっとこれからコンビニに行こうかなって」
「そうですか……」
秋月はゆっくりとテーブルに近づく。
「結構進みましたね」
「分けるところまではおわりました」
「では今日中にファイリングまで終わりそうですね」
そういうと、秋月は持っていた紙袋を差し出す。
「え?」
首をかしげる千沙に、秋月は顔をしかめた。
「昼、まだと言いましたよね」
「え、ええ……まだ、ですけど」
おずおずとうなずくと、秋月はやや乱暴に千沙に紙袋を持たせた。
手にかかるかすかな重み。そして香ばしい香りがふわりと千沙の鼻をくすぐる。これはなんだろう。
首をかしげる千沙を残し、秋月はくるりと踵を返した。
「適当に選んだので文句はいわないでください」
「え、あ、は、はい……」
そのまま秋月は部屋を出る。千沙は紙袋を改めてみる。と、これは会社の近くにある人気のカフェのものだった。
中に入っていたのはホットコーヒー、人気のソフトフランスパンのサンドイッチとカットフルーツが入っていた。サンドイッチはエビとアボカド、フルーツは苺とグレープフルーツだ。女子社員に人気の限定ランチボックスだ。
「わあ……」
わざわざ買ってきてくれたのだろうか。
千沙はぱっと立ち上がり、ドアから外をのぞく。だが、秋月の席は空だった。どこかにいってしまったのだろうか。
お礼を言いそびれてしまった。
しょんぼりと肩を落とし、千沙はテーブルに置いたままの紙袋を見る。
このランチボックスはかなりの人気商品で千沙も食べたのは何度もない。
そのお礼を、と思ったが、考えてみればあの秋月だ。礼を言ったところで素直に受け取るとも思えない。
いや、むしろこれ幸いにとネチネチ嫌みでもいってこられたらそれこそヤブヘビだ。
席に戻りかけた千沙は、戸口できょろきょろとフロアを見回していた新田に気が付いた。
「あれ……」
千沙の声が聞こえたのか。新田はおお! と声をあげ、にこにことこちらに駆け寄ってきた。
「なんだよ、こんなところに隠れてたのかよ」
「隠れてたって……、仕事してたんですよ。何か御用ですか?」
「いや、用っていうか、お前が設計で仕事してるっていうから見学にきた」
新田は会議室の中に入り、千沙のすわっていた椅子の隣に座る。
「どうだ? 仕事は」
「まあまあですよ」
「まあまあね」
にやりと笑い、新田は紙袋をテーブルに置いた。
それは秋月が持ってきたものと同じ模様のはいった、カフェの紙袋だった。
「あれ……それ」
「ああ、これはな……」
言いかけた新田は、テーブルにある同じ紙袋に気が付いた。
「あれ? お前、昼買ってきてたのか?」
「あ、ああ。えっと秋月さんが買ってきてくれたんです。新田さんも買ったんですか?」
「あ、ああ……まあな」
ぎこちなく笑い、新田は紙袋から取り出したコーヒーをすすった。
狭い会議室にコーヒーの良い香りがふわりと立ち昇る。その香りに食欲を刺激された千沙も、紙袋からサンドイッチを取り出した。
「しかし昨日は大変だったろ。二日酔いとか大丈夫だったか?」
「ばっちりしました。二日酔い」
千沙は苦笑いを浮かべる。
二日酔いも大変だったが、それ以上に記憶なかったことに混乱していた。そのせいで朝も食欲はなく、コーヒーをすするだけだった。
そのせいだろうか。
秋月が買ってきてくれたサンドイッチは以前食べたものとは比べ物にならなかった。
パンは評判通り外はぱりっと香ばしく、中はふっくらモチモチ。エビもぷりっとして、アボカドとの相性はばっちり。
こんなにおいしいサンドイッチは初めてだった。
「もう大丈夫なのかよ」
「ええ、なんとか」
そう言いながらも、千沙は二日酔いを思いだし顔をしかめる。
「でも、当分はお酒を控えます」
「なんだそりゃ」
はは、と笑い新田もサンドイッチを豪快にかじる。
「だって、記憶がなくなったなんて初めてだったんですよ」
「え? お前、昨日の記憶無いの?」
「ええ、あの……日本酒を飲んだところまでは覚えているんですけど……」
言いにくそうにする千沙に、新田はふうんと呟き、コーヒーをすすった。
ちびちびとサンドイッチをかじっていた千沙は、ふと昨日のことを新田に尋ねてみようかと思った。
記憶は相変わらず曖昧模糊としてはっきりとはしない。
失われた記憶はどうやら戻る気配なかった。
「あの、新田さん」
「ん?」
「昨日のこと、なんですけどあの、秋月さんが」
そう言いかけた千沙は、戸口に立つ人影に気が付いた。
ふと、振り返った千沙は思わず声をあげる。またしてもそこにいたのは秋月だった。目を見開く千沙に、新田も振り返る。とその瞬間、彼の顔から笑みが消えた。
秋月は戸口にもたれかかりながら、冷淡な目を向けた。
「俺がどうかしましたか?」
「あ、あの……いえ」
思わず口ごもった千沙に、秋月は冷たい笑みをむける。
「別に遠慮しなくていいんですよ。俺について聞きたいんでしょう?」
ああ、そうだ。と秋月は皮肉げに笑う。
「俺に直接聞いてくれてもいいんですよ」
「秋月」
新田が割り込む。
「何、絡んでんだよ」
「絡んでなどいませんよ」
「絡んでんだろうが」
持っていたコーヒーを置き、新田は秋月を見据える。
「お前、昨日からなんか変だぞ。言いたいことがあるならはっきり言ったらどうだ」
「別に」
秋月はふと視線をそらす。
「言いたいことなんてありませんよ。ただ」
「……ただ、なんだよ」
顔を険しくする新田に、秋月は数秒の沈黙の後、何かを誤魔化すかのように薄く笑みを浮かべた。
「営業の坂田課長が新田さんを探してましたよ」
「へ?」
予想外の答えだったのか。新田はなんとも気の抜けた声をあげた。
「坂田課長が?」
「ええ、急ぎの用があるみたいでしたが」
「急ぎの用……って、あっ!」
新田は腕時計に目をやる。
「やべ! 電話来るっていってたわ……、長瀬、悪い。相談はまた今度な!」
「あ、はい」
新田は千沙に軽く頭をさげると、昼食を一つかみにして部屋を飛び出した。
ばたばたと新田の足音が遠ざかる。
「……まったく」
ため息混じりの声に、千沙は顔をあげた。
去っていく新田を見送っていた秋月の表情はひどくつめたい。銀フレームがそう思わせるのか、それともレンズ越しの眼が理由か。それはわからなかった。
だが、一つだけはっきりしているのはやっぱり秋月は千沙のことが嫌いということだ。
でも、だったらどうして。
うかがうように見つめていると、秋月がゆっくりと視線を戻した。
「……何か」
「あ、えっと……あの、お昼御飯、ありがとうございました。あの代金は」
ポケットから小銭を取り出そうとする千沙を、秋月は首を振って押しとどめる。
「いえ、手伝っていただいてるお礼です」
「でも……」
「代金は部長持ちです」
その言葉に、千沙は小さく頭をさげた。
「ごちそうさまでした」
「いえ」
そっけなく返し秋月は、所在なさげにパンを包んでいた紙をいじる千沙を見つめる。
「記憶、無いんですか?」
「え? あの、どうして、それ」
驚いて返す千沙に、秋月はちょっとばかりばつの悪い顔をした。
「ちょっとだけ聞こえてしまったんです」
「ああ……えっと、そうですね……無いです」
小さく笑った千沙に、秋月はわずかに眉をひそめる。
「全部ですか?」
「あ、いえ……、全部というわけではないです。途中から、あの、日本酒を飲んだあたりからあまり覚えてなくて……」
「そうですか」
秋月の声が先ほどよりもわずかに低くなったような気がした。おやっと千沙は彼を見る。が、その時には彼は自分に背をむけてしまい、どんな表情をしているのかまではわからなかった。
「では、失礼します」
ぱたり、と会議室のドアが閉まる。
パーテーションの薄い壁越しに聞こえるざわめきが昼休みが残りわずかだということを知らせる。
千沙は慌てて手つかずだったフルーツを放り込む。
いつもは大好きなはずのそれが、今は妙に味気なく感じた。
結局書類の山が片付いたのは定時を一時間ほどすぎたころだった。
といっても、まだ一時間だ。フロアの喧騒は何も変わらない。
テーブルの上には書類の山にかわってファイルの束がつみあげられていた。
あとはこのファイルを書庫に持っていくだけだ。
千沙は台車にファイルを積み上げ、未だざわつく設計部を後にする。
廊下は部署とは違い、ややひっそりとしている。その廊下の奥にある書庫の重い扉の前をそっと開いた。
書庫は部署ごとに棚が決まっている。
「設計の棚はたしか奥……だったかな」
台車を押し、書庫の奥へと進む。
予想した通り、一番奥の棚が設計部のものらしかった。
だが、棚の大半はファイルで埋まり開いているのは千沙の背よりも高い位置のものだけだ。
「うーん……届くかな」
つま先立ち、手を伸ばす。届くことは届くが、ファイルをここまで持ち上げることができるだろうか。
ファイルは分厚く、書類がぎっしりと詰まっている。
重さは……考えるだけでも嫌になる。
だが、踏み台を持ってくるほどではない。まさに微妙な高さだ。
千沙は腕まくりをし、台車からファイルを一冊持ち上げた。
「……くっ……」
ファイルは予想よりも重い。
千沙は歯を食いしばり、懸命に力を込める。が、ファイルの重さは持ち上げれば上げるほどずしりと両手にかかってくる。と、その時だ。
「……っ」
棚に置いた、と思ったその瞬間、千沙の手からファイルが離れた。
まだ中途半端だったファイルがぐらりと傾く。支えようと伸ばした指は、寸でのところで届きはしなかった。
千沙は咄嗟に目をつむった。
だが、その耳にファイルが落ちる音は聞こえてはこない。
おそるおそる目を開く。
「何をしているんですか」
「へ?」
振り返ると、真後ろにいたのは秋月だった。まるで千沙を抱きしめるように背後から手を伸ばし、秋月は落ちかけたファイルを支えていた。
「ファイルも一人で片付けられないんですか?」
「え……あ、あの……どうして」
「確認ですよ」
ファイルを棚におしこみ、秋月は空になった手を千沙に差し出した。
「はい」
「はい?」
首をかしげる千沙に、秋月は眉を寄せる。
「ファイルですよ。早くしてください」
「あ、は、はい」
手伝ってくれるということか。
千沙はあわてて足元にあるファイルを持ち上げる。秋月は無言で千沙の手からファイルを取ると、片手で棚に置いていく。
自分では両手で持っていたファイルも、秋月は片手で楽々と持ち上げている。シャツから見える腕は筋骨隆々ではない。だが、さすがは男というべきだろう。
自分でやるよりは断然早く終わるとは思う。
だが……近い。近すぎる。
ファイルをしまうだけなら、千沙のでもいいだろうに。どうして真後ろにいるのか。
千沙はファイルを持ち上げながら、なんとか秋月と距離を置こうとした。だが目の前には棚、すぐ隣にはファイルを乗せた台車、反対側は壁。さらには後ろに秋月では逃げ場なんてどこにもない。
とにかく仕事をかたずければ、今日はおしまいだ。
千沙は次々にファイルを秋月に渡した。
棚はあっという間にファイルで埋め尽くされ、最後の一つというところで秋月はふとその手をとめ、ため息をついた。
「……長瀬さんは、あいかわらずなんですね」
ぽつり、と呟いた秋月に、千沙は振り返る。
秋月は最後のファイルを棚に押し込むと、そのまま千沙の顔の脇に手を置いた。
それはまるで逃がさないというかのようだった。
「あの……秋月さん」
顔が近い。体が近い。というか、全体的に近い!
なんなんだ。この格好は。
怪訝そうにする千沙に、秋月はフレーム越しに冷たく見据える。
「何か」
「あ、えっと、あいかわらずってどういう意味ですか?」
「相変わらずは相変わらずですよ」
わずかにかがんでいるせいだろうか。いつもきっちりとしている秋月の髪がはらりとこぼれ、いつもの隙のなさが感じられない。
考えてみれば銀フレームの眼鏡やスーツ姿といった格好だから勘違いしそうになるが、自分よりも年齢は下だった。たしか二つ下のはず。
「……何だ」
「あ、いや……秋月さんってそういえば年下だったなーって思って。たしか二つ下だったよね」
思わず口にした言葉に、秋月はむっとしたように眉を寄せた。
「……それがどうしたんですか」
「い、いや、あの……それだけ、です」
慌てて目を伏せるが、秋月は苦虫をかみつぶした表情を崩さず、大きなため息を落とした。
「……そういうところがイライラするんですよ」
「え……」
ずきり、と胸が痛む。
たしかに好かれてはいないとは思っていたし、覚悟はしていたけど。やはりこうはっきり言われるとさすがにこたえた。
千沙はしょんぼりと肩を落とした。
「……そう、ですか」
「そうですよ。嫌だとはっきり言わない。警戒心もまるでない」
秋月は吐き捨てるように言う。
結構、いや、かなり酷いことを言われていると思う。だけど、どうしてだろう。
わずかに赤くなった頬。逸らされた目。ふてくされたようなその表情を見ていると、なぜだろう。ほんの少しだけ可愛いなんて思ってしまった。
「警戒心……ですか?」
「そうですよ」
首をかしげてみると、秋月はさらに視線をそらす。
「飲み会の時もそうです。あんな下心丸出しの男に送ってもらおうなんかして」
「下心丸出しって」
……新田さんのことだろうか。
そう尋ねると、秋月は顔をゆがめた。
「新田さんはそんな人じゃないですよ。親切で送ってくれようとしただけで」
「親切?」
秋月はふん、と鼻を鳴らす。
「お人よしもここまでくると馬鹿ですね。あの人のどこが親切なんですか? あの男の下心が見えないなら、あなたの目は節穴ということですね」
「ちょ……ちょっと!」
自分のことはいい。何を言われてもかまわない。
けれども新田のことをそこまで言うのは許せなかった。たしかに彼は女の子に優しいかもしれない。けどそれは、彼の親切心からだ。
それに優しいのは自分だけに限ったことではない。
千沙はきっと眉をあげた。
「どいて!」
「……何?」
「その手、どいてっていってるのよ! 仕事は終わったんだから帰らせて!」
秋月の手を動かそうと手をかける。だが、腕は動かない。
千沙は再びきっと秋月を見る。
「秋月さん! 手を」
「好きだ」
囁くような秋月の声に、千沙は思わず目を開く。と、秋月の酷く不愉快そうな顔がそこにあった。
「な、何を言って……」
「好きだといってるんですよ。聞えなかったんですか」
「い、いや、聞こえたけど……」
思わず口ごもると、秋月の顔がさらに不愉快そうに歪んだ。
眉間のしわは深く、まるで苦虫をかみつぶしたような表情だ。この表情から、彼の言った言葉が罵詈雑言ではなく、告白だなんて。
一体誰が信じられるだろう。
いぶかしげに千沙は彼を見つめる。
実は告白とみせかけて、これは盛大な嫌みだったりするのではないだろうか。
「……まあ、気が付いてないとは思っていましたけどね」
「だ、だって……、秋月さん、私のこと嫌いだって」
「ええ、嫌いですよ」
ばっさりと返す秋月に、千秋はへっなんともと気の抜けた声をあげた。
「え? でも、さっき」
「……嫌いですよ。特に誰にでも良い顔をするところなんかは大嫌いですね」
「だ、大っきらいって」
人によって態度をころころかえるほうがどうかと思うが。
もそもそと答える千沙に、秋月はなんとも不愉快そうに眉をよせた。
「わかってます。そんなこと」
けれど。そう呟き、秋月は千沙をゆっくりと引き寄せる。冷たく、突き放すような言葉とは裏腹にその手つきは、まるで壊れ物を扱うかのようにひどく優しい。
「それでも」
「あきづ……」
千沙の額に秋月の唇が触れる。
思わず顔をあげた千沙を、秋月はじっと見つめる。そしてゆっくりと顔が近づいてきた。
鼻先が触れ、千沙は思わず瞳を閉じた。
そして――
「……っ!!」
思い切り突き飛ばしてしまった。
秋月の背が金属製の大きな棚にぶつかり、大きく音をたてる。
「あ、あの、私」
「……いつもはっきりしないのに、今日に限ってどうして流されてくれないんですか」
「だ、だって……、それは」
それとこれとは別の話だ。
いくらお人よしだからって、流されてしまっていい話ではない。そこまでばかじゃない。
そう言うと、秋月は大きくため息をつく。
「……まあ、いいですよ」
スーツについた埃を払い、秋月はふたたび千沙を見る。
その瞬間、千沙の肩がびくりと跳ねた。
思わず後ずさる彼女に、秋月は軽く眉をあげた。
「大丈夫ですよ。無理やりするのは趣味じゃないし、それに場所がわるい」
「ば……場所の問題?」
ぎょっとする千沙に、秋月は至極真面目な表情で頷いてみせる。
「ええ、ちゃんと場所を改めて、正々堂々正面から行きます」
覚悟していてくださいね。
そう言い、秋月はそのまま千沙を残し書庫を出て行ってしまった。
残された千沙は、大きく息を吐き、へなへなとその場に座り込んだ。
「な……なんなの……?」
一体どうなっているのだろう。
千沙は胸に手をあてる。心臓はばくばくと大きく音をたてたまま、静まる気配はない。
ふと、何かが千沙の鼻孔をかすめた。
「……バニラ?」
蕩けるような甘い香り。
さして珍しいものでもないはずなのに。
「……なんでだろう」
千沙は指で額をなぞる。
甘い香りはさらに色濃く、千沙の体を抱き締めるようにゆっくりと立ち昇った。