サバンナの迷い子
激しく雨の降る昼のことでした。シマウマは雨宿りをしようと、木の大きなくぼみに入ると、同じように休んでいるものがいました。それはまだ子どもでした。この雨で体を冷やしてしまったのか、ひどく震えています。かわいそうに思ったシマウマは、その子どもに身を寄せ、優しく舐めて暖めてあげました
。その感触でようやく気がついたのか、力なくシマウマを見上げます。その目からは怯えの色しか窺えません。
「心配しなくてもいいの。こんな雨、すぐにやむものよ。雨がやんだらお行きなさい」
そう言うと、シマウマは雨がやむまでの間中、懸命に暖めてあげました。雨がやんだのは一時間ほど経ったあとでした。
「さあ、お行きなさい。お父さんもお母さんもあなたを心配している」
鼻先で、ぐいと子どもを押して早く行くよう急かします。しかし子どもは地面に足を張りつけるように頑なとしてその場から動かないのです。
「はぐれたからもう会えない」
子どもがぽつりと吐き捨てるように呟いた言葉で全てを悟りました。この子は群れから捨てられたのだと。もう帰る場所はないのだと。サバンナではこれは死を意味します。実はこのシマウマ、最近子どもを失ったばかりでした。これも何かの縁だと思ったシマウマは、自分の群れへとその子どもを連れていくことにしました。
無事に群れまで着いたシマウマですが、彼女を見た他のシマウマは皆ぎょっとしました。理由は彼女の傍らにいた子どもです。皆口を揃えて言います。
「その子を捨てろ」
けれど情が移ってしまった今、そんなことができるはずもありません。彼女は守るように子どもに寄り添いました。シマウマの長が騒ぎを聞きつけて2匹の前へ出てきました。
「傷心のお前の気持ちはわからなくもない。自ら手を下せぬのなら、我々が代わりにやろう」
「やめてください!」
彼女は必死に叫びます。
「種族は違えどまだ子ども。何の罪も、愛してくれる親もない子どもを見捨てろと言うのですか!?」
「愚か者が!!お前がこの間失った子は、“それ”の親がやったことかもしれんのだぞ?」
彼女は“それ”が何の子どもであるかは最初からわかっていました。わかった上で群れへと連れてきたのです。
「それでも……それでも私は、この子を見捨てません」
これ以上何を話しても無駄だと思ったのでしょう。長は大きくため息をつきました。
「ふぅ…。わかった。ならお前とはここまでだ。群れの者共には私から話しておく」
「……今までお世話になりました」
シマウマの群れから追い出された彼女は帰る場所を失いました。けれど後悔はしていませんでした。今度は子どもを守れたからです。シマウマは心に強く誓いました。この子を立派な大人にすると。それまで命に代えても守ってやると。
シマウマ一頭、子ども一匹。誰もがすぐに死んでしまうと思いました。いいえ、もう死んだと思われていました。
けれど厳しいサバンナの中、どうにか二匹は生き残っていました。ハイエナに狙われることは毎日でした。タカにも狙われることもありました。そのたびに必死に走り、逃げ延びました。
二匹の生き残る障害はそれだけではありませんでした。種族が違えば当然合わないことだって出てきます。……食べ物です。シマウマは草でいいのですが、この子どもはそうはいきません。肉食動物ですから、動物の肉を食べなければ生きていけません。しかし、草食動物のシマウマにはそんなものを用意できるはずもありません。彼女は自分だけお腹いっぱい食べられることをうらめしく思いました。この子にも何か食べさせてあげたいという気持ちでいっぱいでした。子どもはもう何日も水しか飲んでいなかったのです。しだいに子どもは弱っていきました。
「おなかすいた」
初めて出会った時に一言話してから何も話さなかった子どもは、ようやく口を開きました。
「ごめんなさい。私にはあなたのごはんを用意できないの」
草を食べさせてみるものの、合わないのか吐き出してしまいます。やはり肉でなければならないのです。どこかに肉はないものかと、シマウマは必死に探します。しかし肉のあるところに肉食動物は必ずいるのでした。これではこちらが捕食されてしまいます。結局何も手に入れられませんでした。シマウマは、その夜決心しました。
「私を食べなさい。そうすればあなたはお腹いっぱいになるわ」
こうするしか他に方法はありませんでした。手の内にある肉は自分しかなかったのです。
「いやだ」
「食べなさい。わがまま言うもんじゃないの」
「いやだ」
「どうして言うことが聞けないの!」
「僕をひとりにしないで!」
シマウマは大切なことを忘れていました。自分がいなくなったら、誰がこの子を守って生きていくのでしょう。誰がこの子を愛してあげられるのでしょう。
「そうね。もうこんなこと言わないわ」
しかし、これでは何の解決にもなりません。彼が空腹なのには変わりはありません。その時、木陰からぴいぴいと鳥の鳴く声が聞こえてきました。近寄ってみると、そこには鳥の巣が落ちていました。天に祈る思いで巣の中をのぞくと、巣の中には鳥の子が数匹入っています。シマウマは舞い上がる気持ちを抑え、その巣をくわえて我が子のもとへと急ぎました。
「さ、これをお食べなさい」
子どもは臭いをくんくん嗅ぎ、ぺろりと小鳥を一舐めしました。
「この子にも、親はいるんだよね?」
「そうよ。でもそんなことは気にせず食べなさい」
「親がひとりになっちゃうよ?」
この子どもはサバンナに生き残るには優しすぎました。どうやらシマウマが教えることはたくさんありそうです。
「鳥はね、飛べなかったら助からないの。地に落ちた時点で食べられることが決まるのよ。あなたが……ぼうやが食べなくてもね」
子どもは黙って鳥にかぶりつきました。ぽつりとおいしいとつぶやきました。
それからというもの、シマウマはサバンナでの生きる術、食べ物の捕り方を事細かに教えていきました。狩りの仕方は今まで自身の体験したことや見たことから、見よう見まねで教えました。子どももシマウマを心配させないように強くなろうと努力しました。そして、その甲斐があってか、子どもはやがて、たてがみを生やした立派な大人になりました。もう一人前に狩りを行えました。その頃には彼の周りには同じ動物のメスがうろつくようになりました。
「ねえ、今から一緒にシマウマを狩りに行かない?」
狩りの誘いが来るようにもなりました。けれど彼はその誘いに一度も乗りません。親に気を使ったのです。ある日、シマウマはこの始終を見ていました。そして、彼が帰って来たときに言ったのです。
「そろそろぼうやも自立なさい。私の助けなしでも生きられるでしょうに」
けれど彼は聞きません。
「僕はひとりじゃ生きられない。お母さんだってそうだろう?」
「いつまで甘えているつもり?ひとりが嫌ならお嫁さんを見つけなさい!」
シマウマは心を鬼にしました。本当はシマウマだってひとりで生きていけるはずありません。しかし、我が子のためを思って突き放したのです。
「お母さんがいるじゃないか!」
「もうあなたの面倒を見るのは疲れたの」
彼は彼女の言葉を聞くと力なく項垂れました。 シマウマも泣きたいのをぐっとこらえます。全ては彼の未来のためでした。
「そっか…、そうだよね。ごめんね、お母さん。さよなら。今までありがとう」
彼は夜のサバンナをひとり静かに駆け去りました。我が子が去ったことを見計らったシマウマは、ひとり静かに泣くのでした。
その日から、シマウマは死ぬ思いで生き続けました。ぼうやを立派な大人にするまでは死ねないと心に強く誓ったあの日から、幾年過ぎたことでしょう。今では立派な大人になった彼と、走ることがやっとの彼女。シマウマは、彼を愛してくれるものが現れるまで死ぬものかとその思いだけで生きていたのです。
ぼうやはシマウマと別れたあと、悲しみに暮れていました。孤独を感じたのは、捨てられた時以来でした。そんな中、彼を励ましてくれるものもいました。いつの日か狩りに誘ってくれたメスです。
「いい獲物がそこにるんだけど、一緒に狩らない?」
いつもは誘いに乗らない彼でしたが、ひとりでいることに寂しさを覚えたためについ、うなずいてしまいました。
「嫌なことも食べれば忘れるわよ。狩り競争しよう」
そう言ってメスが連れて来てくれた木の陰からこっそり様子を伺います。
「あれはシマウマじゃないか」
彼の狩りにはシマウマは狙わないというルールがあったのです。メスはそのことを知りません。
「年老いているから捕まえやすそう。ここまで連れてきたけど、競争だから、あんたが負けたらあれは私のものよ」
彼が止める声も聞かず、メスは走って行ってしまいました。彼はあわててあとを追いますが、狩りのうまいメスは足が速いのです 。彼が追い付いたときには、シマウマの喉元に牙が突き立てられていました。シマウマの悲痛な鳴き声が聞こえてきます。彼はその鳴き声を聞いてはっとしました。
「お母さん……?」
「ぼ、ぼうや……」
なんと、メスが捕らえたシマウマは彼を育ててくれたシマウマだったのです。彼は全身から血の気が失せる気持ちがしました。
「この競争、私の勝ちね」
メスはシマウマの息の根を止めるべく、さらに喉元に噛みつこうとしました。
「ふざけるな。僕のお母さんに何てことを……」
彼はメスに噛みつきました。思わぬ攻撃だったので反応の遅れたメスは、よけることができませんでした。
「痛っ!ふざけてるのはあんたの方よ。このシマウマがあんたのお母さんだって?バカじゃないの?」
「僕のお母さんだ!ここを離れろ!」
再びメスを攻撃します。しかし、今度は避けられてしまいました。
「シマウマが母親だなんて聞いたことがない。ライオンのくせに!!」
今度はメスが噛みつきます。メスの言葉は鋭い牙と共に彼の体に深く突き刺さります。ライオン達の互いを見る目は本気で闘う肉食獣の目でした。
「そんなことは薄々気づいていた。僕がお母さんと何か違うってわかっていた」
彼は自分がライオンであることを信じられませんでした。しかし、今日までのことを思い返すと全てのつじつまが合うのです。シマウマの群れに入れてくれなかったことも、草が食べられなかったことも、母親が自立を促したことも。
オスのライオンは必死に闘いました。今度は自分がお母さんを守ると心に誓い、命をかけて闘いました。けれども、闘いはそう長くは続きませんでした。先にあきらめたのはメスのライオンでした。よほど激しい闘いだったのでしょう。ライオン達は、もう立つのがやっとのほどぼろぼろに傷ついていました。
「こんなところで死ねないわ。私は強いオスについていくんだから……」
メスはよろよろ立ち上がり、おぼつかない足取りでその場を去りました。安心したのか力尽きたのか、オスのライオンはその場に倒れてしまいました。
「ぼうや……。ごめんね。最期まであなたを幸せにできなかった」
「僕も…お母さんの幸せを……奪っていたんだよね?ごめんなさい」
緩やかなに時が過ぎていくような気がしました。傷を負って痛みを感じているはずなのに、なぜかこの親子は穏やかに感じていました。
「私は幸せだった……。あなたを育てることができて」
「僕も、僕も……お母さんに会えて幸せだったよ」
天も彼らを悲しんだのか、雨がしとしと降り始めました。ですが、この親子にはもう木陰に歩む力も残っていませんでした。
「ぼう…や、寒くは……ない?」
シマウマは最後の力を振り絞って、ライオンに這い寄ります。
「あ……あ、暖か…い」
ライオンはうとうとしています。そのままゆっくりとまぶたが落ちていきました。
「さ、も…寝ましょう。疲れた……でしょ…」
「う…ん、おやすみ……」
やまない雨の中、親子は静かに眠りにつきました。その寝顔は、過酷なサバンナを生きたものとは思えない、安らかな表情でした。