【AI小説】二つのきらきら|2026
「あおい、もうすぐ夕ご飯だからね」
リビングの奥から、お母さんの声が飛んできた。
「はーい」
私はそう短く応えて、玄関へと向かった。私の家は学校のすぐ隣にある。
ソラを連れて散歩に出るときは、いつも決まったルートを歩く。家を出てすぐに学校の前を通り、海沿いの道をぐるっと回って、また学校の前を通って帰ってくる。それが私とソラの、毎日のささやかな決めごとみたいになっている。
やんちゃなソラに振り回されてもいいように、動きやすくて汚れても構わないズボン姿でドアを開けた。
案の定、待ちきれないといった様子でソラが私の胸に飛び込んできた。茶色い毛並みがふわっと私の顎をくすぐる。
湿った黒い瞳でじっと見上げられると、それだけで「行こうか」という気持ちになる。リードを握り直して外に出ると、午後の強い日差しに思わず目を細めた。
すぐ隣にある校庭。フェンスの向こう側で、誰かが鉄棒にぶら下がっているのが見えた。波多野くんだ。彼は一人で、何度も何度も逆上がりの練習を繰り返していた。鉄棒に足をかけようとするたび、鈍い音を立てて砂地に足をつく。その繰り返し。
昨日の体育の授業のことを思い出す。クラス全員が順番に鉄棒の前に立たされた。器用に体を回転させていく人たちの影で、波多野くんだけが、終わりのチャイムが鳴るまで一度も回ることができなかった。教室では私の前の席だけど、朝の挨拶を交わすくらいで、ほとんど話したことはない。良くも悪くもない、ただ風景の一部のような同級生。
ソラがぐいとリードを引っ張った。私は校庭の波多野くんから目を離し、海へと続く道を歩き始めた。
◇◇◇
海沿いのアスファルトの道は、遮るものもなくまっすぐに伸びている。右手には無機質なコンクリートの防波堤、左手には塩風に耐える畑と、瓦屋根の家々。風が運んでくる生々しい潮の匂いを吸い込むと、この島へやってきたばかりの、あの重苦しい初春の記憶が蘇る。
父親の仕事が完全に在宅勤務に切り替わったのは、数年前のことだった。リビングの隅で、一日中パソコンの画面に向き合う父親の背中。満員電車に乗らなくてよくなった父親は、ある日突然、「地元に帰りたいな」と呟いた。それが、父親にとっての故郷であるこの島への移住の始まりだった。けれど、都会で生まれ育った私にとって、ここは見知らぬ異郷でしかなかった。友達と離され、何もない場所に連れてこられる。当時はただ、すべてを奪われたような強い拒絶感だけが胸の奥にくすぶっていた。文化の墓場。そんな風にさえ思っていた。
◇◇◇
しばらく歩くと、ソラが急に足を速めた。防波堤が途切れて、砂浜へとつながる細い斜面。ソラは野生の直感でそこを見つけ、私を引っ張るように駆け下りていく。ピンと張り詰めたリードが手のひらに食い込んで少し痛い。
砂浜に降り立つと、ソラは濡れた鼻先を砂に押し付け、熱心に匂いを嗅ぎ始めた。そこにあったのは、小さな貝殻だった。
爪の先ほどの大きさで、ガラスみたいにつるつるしている。ソラが鼻先でつつくと、貝殻は砂の上をころころと転がった。それを嬉しそうに追いかけるソラを見て、私は思わず腰を落とし、その貝殻を拾い上げた。手のひらに乗せると、驚くほど軽い。西日に透かしてみると、薄い、泣き出しそうな青い色がガラスの向こうで揺れているように見えた。内側には自然が描いた細い模様が走っている。
「きれいだね」
声に出すと、ソラが短く吠えた。私はそれをズボンのポケットにそっとしまい込んだ。ソラはもう次の波打ち際を目指して走り出している。湿った砂の上には、私の歪な足跡と、ソラの小さな爪の跡が並んで刻まれていった。
どこまでも続く海岸線。白い波が寄せては返し、砂の上を優しく撫でては、また引いていく。
ここには、都会にあったものが何ひとつない。引っ越してきた当初、その空虚さに息が詰まりそうだった。深夜のコンビニの明かりも、ゲームセンターも、映画館も、新しい本が並ぶ本屋もない。何より、心を許せる友達がいない。
けれど、いま目の前に広がっているのは、視界をすべて覆い尽くすほどの圧倒的な青だ。空と海が溶け合う水平線。その水面が、いま、太陽の光を浴びて激しく脈動している。まるで無数の銀の粒子が水面で踊り狂っているみたいに、どこまでもきらきらと輝いていた。波の一つ一つが光を跳ね返す鏡のようだ。
沖の方には、のり養殖の黒い柱が規則正しく海から突き出ている。それはまるで水没した街の跡のようにも見えるけれど、ここで島の人たちが確かに生きているという、力強い営みの証拠でもあった。都会のビル群には決してなかった、この場所だけの景色。そんな贅沢な青を惜しみながら、緑豊かな、なだらかな丘のすそを回り込むように歩いていく。
◇◇◇
緩やかな角を曲がったところで、パッと視界が開け、漁港が見えてきた。白い灯台と、ペンキの剥げた青い船。茶色く染まった漁網が潮の匂いを吸い込んでいる。
この島で、初めて友達と呼べる子ができたのは、つい最近のことだ。隣の席のみおちゃん。いつも明るくて、教室の空気を柔らかくしてくれるような子。
「あおいちゃんって、都会から来たんだって?」
最初に声をかけてくれたのは彼女だった。
「うん」と短く答えた私に、彼女は「すごいね、私、都会に行ったことないんだ」と目を輝かせた。私は少し迷ってから、「ここも、悪くないと思うよ」と言った。本心から出た言葉だった。みおちゃんは嬉しそうに「ありがとう」と笑った。その瞬間、私のまわりの冷たい空気が、少しだけ解けたような気がした。
漁港の隅では、いつものおじいさんが船の手入れをしていた。日に焼けて深く皺の刻まれた手で、太いロープを巻き、網の目を繕っている。
「やあ、あおいちゃん」潮風にかすれた声で、おじいさんが手を挙げた。
「こんにちは」私も右手を少し高く挙げて応える。
「今日もいい天気だね」
「はい」
「ソラも元気そうだ」
ソラがおじいさんの足元に身を寄せると、大きな手がソラの頭をわしわしと撫でた。ソラはちぎれんばかりに尻尾を振っている。
「また来ます」
「ああ、気をつけてな」
短い言葉を交わして、おじいさんはまた自分の仕事へと視線を戻した。漁港には、魚の匂いや重油の混ざった、濃密な海の生活の匂いが満ちている。
◇◇◇
来た道を、今度は逆方向に歩く。右手の防波堤の向こう側では、まだあの光の粒が、海面をきらきらと激しく焦がし続けている。静かな畑と民家を通り過ぎ、やがて、あの大きなコンクリートの校舎が視界に戻ってきた。また、学校の前に戻ってきた。
フェンスの隙間から校庭を覗くと、波多野くんはまだ、あの鉄棒の前にいた。彼の額から流れる汗が、傾いた太陽の光を浴びて、息をのむほどきらきらと光っている。手のひらは、何度も鉄の棒を握り締めたせいで、真っ赤になっていた。波多野くんは一度動きを止め、肩を大きく上下させて激しく息を吸い込んだ。それから、また何かに挑むように、鉄棒へと体をぶつけていく。
その姿を見た瞬間、私の胸の奥が、どくんと大きく跳ね上がった。私は思わず、彼から視線を逸らしてしまった。
……どうして、私は目を背けてしまったんだろう。なぜ。その答えを頭の中で形にしようとした、その瞬間だった。
ズボンの裾がぐいと引っ張られた 。ソラがもう行こうよと促すように、ぐいぐいと私を引っ張っている。私の思考はそこでぷつりと途切れた。
「わかった、帰ろう」
ソラに引かれるまま、私はまた足を動かし始めた。家に帰れば、そろそろ夕ご飯の時間だ。私はソラのリードを握り直し、夕暮れの光に染まる我が家へと、静かに歩調を速めた。
──THE END──




