番外編 砂浜に遺された呼吸
アイルが海の底へと消えたあの日から、カイルの時間は半分止まったままだった。
村の大人たちは、行方不明になったアイルを「波にさらわれた不運な少年」として片付けようとした。
だが、カイルだけは知っていた。
潜水鐘の鉄窓越しに触れた、あの氷のように冷たく、けれど誰よりも悲しげだった瞳を。
カイルはそれから毎日、漁にも出ず、村の外れの断崖に座って海を見つめるようになった。
「お前はあそこで、何をしているんだ……アイル」
独り言はいつも、潮風にかき消された。
しかし、アイルが「四つの源流」を修復し始めた頃から、村の海に異変が起き始めた。
ある朝、浜辺を歩いていたカイルは、波打ち際に奇妙なものが打ち上げられているのを見つけた。
それは、この近海には存在しないはずの、深海に咲く「氷の珊瑚」の欠片だった。
手に取ると、それは一瞬で溶けて一滴の水になった。
だが、その水滴はカイルの掌で微かに震え、まるで行き先を示すように、沖合の一点を指して流れたのだ。
「……生きているんだな。戦っているんだな、お前は」
カイルは直感した。
アイルは死んだのではない。
何か、人間には計り知れない巨大な運命と引き換えに、この海を癒そうとしているのだと。
それからの数十年、カイルは村の長老となり、アイルが遺した「奇跡」を語り継ぐ役目を担った。
海が荒れ狂う夜、カイルが杖をついて浜辺へ向かい、海に向かってアイルの名を呼ぶと、不思議と波は静まり、翌朝には大漁をもたらす黄金色の魚群が村に押し寄せた。
村人たちはそれを「海の慈悲」と呼んだが、カイルだけは、それがアイルからの「返事」であることを知っていた。
カイルが最後の日を迎えたとき、彼は家族に抱かれながら、窓の外の海を見ていた。
沈みゆく夕陽が水面を琥珀色に染め、かつてアイルと一緒に見たあの景色を再現している。
「カイル、もう、頑張らなくていいのよ」
孫娘の優しい声が遠のいていく。
カイルの視界は次第に霞んでいったが、その時、部屋の中に潮の香りが満ちた。
誰もいないはずの枕元に、一人の青年が立っていた。
透き通るような青い髪を揺らし、身体のあちこちに星屑を散りばめた、あの日のままの姿のアイル。
「遅かったじゃないか……待ちくたびれたよ」
カイルは満足げに微笑んだ。
アイルは何も言わず、ただ優しく手を差し伸べた。
その手はもう、かつてのようにカイルを凍りつかせることはなかった。
それは、陸の体温よりもずっと穏やかで、懐かしい安らぎに満ちていた。
カイルがその手を取った瞬間、彼の魂は重い肉体を脱ぎ捨て、一粒の光る泡となった。
二人の影は、夕闇に染まる海面へと静かに溶け込み、波紋ひとつ残さず、深い、深い、紺碧の底へと帰っていった。
翌朝、浜辺には二つの、まったく同じ形をした美しい貝殻が、寄り添うように残されていたという。




