第1話:どんなに身体が冷えても、晴と母が暖かい母屋に入れてもらえることはない。
「今朝は少し、お水が温かい」
晴は洗濯桶の水に着物を浸しながら口の中で呟いた。
これから少しずつ暖かくなる季節。
そうしたら、洗濯も少しは楽になるかな。
今朝は少し、お水が温かい。
お屋敷の庭に菫の花が咲いた。
頼まれていた繕い物が上手にできた。
今日は誰にも打たれなかった。
そんな、小さな「良いこと」を数えながら、
どんなに辛い目に遭っても、どんなに惨めな思いをしても、卑屈にならず、顔を上げて前を向いていれば、
いつかきっと、幸せがやってくる。
それが、母の口ぐせだった。
任される家事の中で一番辛いのは冬場の洗濯だった。
冬の井戸水は氷のように冷たく、心の臓がきんと痛むほどだ。
「はる、ごめんね。いつもあなたにばかりやらせて」
「お母さん、寝てなきゃ駄目だよ……!」
晴を手伝おうと出てきた母に慌てて声をかける。
「今日は少し暖かいから……」
晴は首を横に振った。
「風が冷たいわ。また風邪を引いてしまう」
晴は母を伴って土蔵に向かった。
晴は七つの時から、瑞守家のお屋敷の外れにある古い土蔵に、母と暮らしている。
どんなに身体が冷えても、晴と母が暖かい母屋に入れてもらえることはない。
冷たい土間にせんべい布団を敷いて、寒い時期は二人で身を寄せ合って暖を取りながらやっと眠る。
冬は寒く、夏は蒸し暑い土蔵に押し込められて、身体の弱い母は死ねと言われているようなものだ。
「はるー……!!ちょっとはるー……!!」
井戸端に戻り、洗濯の続きを始めたら、佐知子お嬢さまの甲高い声が割って入った。
また何か言い掛かりを付けにきたのか……。
晴はうんざりして顔を上げた。
「ちょっと見なさいよ、これ!大事な着物の裾が破れているんだけど……!?あんたがやったんでしょう……!!」
そんなことはしていない。
どうせまた、自分でどこかに引っかけてしまったんでしょう。
心の中でそう反論したが、口にすれば火に油を注ぐだけだと分かっていたので黙っていた。
腹違いの妹である佐知子お嬢さまは、気に入らないことがあるとすぐに晴たち母子のせいにするのだ。
「まったく……これだから賎しい出自の者は。心まで賎しいのね。どうせ私の着物が羨ましかったんでしょう?あんたには一生手に入らないものね、こんな豪華な着物」
一生……。
そうかもしれない。
卑屈にならず、顔を上げて前を向いていれば、いつかきっと、幸せがやってくる――母は口ぐせのように言うけれど、そんなのは気休めだって、心のどこかでは分かっている。
晴はこのままお嫁にも行けず、一生この人たちの下働きとして鼠だらけの冷たい蔵の中で暮らしていくだけなのだろう。
「なんとか言ったらどうなのよ……っ」
「……分かりました。破れたお着物は繕っておきます」
晴は溜め息をついて、頭を下げる。
早く話を終わらせたかった。
洗濯もまだ途中だし、その後はお昼の支度も待っている。
遅れたら響子奥様にもこっぴどく叱られるのだから。
「そう。じゃああんたがやったって認めるわけね」
佐知子お嬢様はこともあろうに、洗濯の途中だった洗い桶をひっくり返した。
冷たい水が晴の髪と着物に掛かる。
晴は自分の髪から滴る冷水と、ぶちまけられた洗濯物を呆然と眺めていた。
「あはははは……!いい気味ね。洗濯もやり直し……!またお母様に叱られるといいわ。あんた、愚図だからね。着物も今日中よ。明日のお出掛けに着るんだから。必ず今日中に直しておきなさいね……!」
佐知子お嬢様は晴に着物を押し付けて、そのまま行ってしまった。
晴は溜め息をつく。
濡れてしまった髪を絞り、散らばった洗濯物を集めながら。
「……今朝は少し、お水が温かい」
晴はもう一度その言葉を口にした。
「良いこと……?」
良いこと……。
良いことなんて、ひとつもない。
ここに来てから毎日毎日。
辛いことばっかり。
私だって、同じ瑞守家の娘なのに。
あまりの惨めさと悔しさに、涙が滲みそうだった。




