#7 心の距離、光の揺らぎ
#7 心の距離、光の揺らぎ
夜の井戸の縁に腰を下ろし、俺は深い息を吐いた。
昨日――いや、ここ数日だけでも、人生で経験したことがないほど、いろんなことが起きている。
地底の少女ニカの声が突然途絶えた。
地下世界アガルタと地上を繫ぐ声の通話は、本来なら禁忌らしい。
頭では理解しようとしても、胸の奥に残るのはただ一つの事実。
――ニカが苦しんでいる。
なのに、俺には何もできない。
地上で普通に授業を受け、普通に飯を食って、普通に眠る。
そんな“普通”がやけに薄っぺらに感じた。
竹内は心配してくれているが、俺はひたすら曖昧な笑みで誤魔化していた。
「……ニカ、今どうしてるんだろ」
井戸の暗闇を覗き込む。
もちろん返事はない。
光の筋も、気配のようなものも感じない。
“沈黙の夜”はまだ続いていた。
アガルタ――光の管“アンリフィス”が迷路のように走る巨大都市。
そこを照らす淡い白光は、いつもより少しだけ弱く揺れていた。
ニカは自室のベッドに腰掛け、膝を抱えていた。
審問の場で浴びせられた数々の言葉が、まだ耳の奥に刺さっている。
> 「地上の少年と交信? 重大な規律違反だ」
> 「外界への干渉は、光の均衡を乱す。理解しているのか?」
> 「声の共鳴は“絆”を形成する。危険だ。お前はそれを許した」
ニカは瞳を閉じ、小さく震える肩を押さえた。
「……わたし、そんなつもりじゃなかったのに」
良太の声は、ただの偶然だった。
ニカが、たまたま彼の叫びに気づいただけだ。
だけど――
あの声に救われた。
心が孤独に飲まれそうだったとき、同じように孤独を抱えていた良太の声が、暗い底を照らしてくれた。
その一瞬に“絆”が生まれたなんて、ニカ自身が一番驚いていた。
でも、確かにあった。
言葉だけで繫がる小さな光。
審問官たちは言う。
アガルタは光の均衡で保たれている。
一つの個人的な感情で均衡が狂えば、都市全体が揺らぐと。
――でも本当に?
ニカは胸に手を当てた。
「良太……」
彼の声は、今は届かない。
審問以来、アンリフィスの交信路は彼女の部屋から閉ざされたままだ。
それでも、脳裏にははっきりと残っている。
地上に広がる空がどんな色か、彼の説明を聞いただけで胸が温かくなった。
見たことのない世界の話を聞くのが嬉しかった。
その気持ちのどこが“危険”なんだろう。
夕暮れ、校舎の屋上。
竹内が風に髪をなびかせながら、俺の隣に立っていた。
「最近さ、おまえ……なんていうか、ぼんやりしてるよな」
「……まあ」
「また、井戸の彼女のこと考えてるか?」
竹内は軽く笑いながら言うが、その目は真剣だった。
「大したことじゃないよ…」
「お前にとって彼女は、たいしたことじゃないってことかよ?」
「やめろ」
でも、竹内は余計な深掘りはせず、代わりにコーラを俺に差し出した。
「ま、頑張れよ。おまえのそういう顔、なんか見てらんねぇし」
その言葉だけでも、少し心が軽くなった。
――俺は一人じゃない。
だけど、俺とニカのふたりの間にある距離は、地上と地底ほどに深い。
◇
夜。
ニカは審問以来ずっと考えていた“ある決意”を、ようやく実行に移した。
部屋の灯りを消し、小さな懐中灯だけを持って、アンリフィスの保守階段へ向かう。
本来、許可証が必要な区域だが、下級補佐の彼女でも、わずかな時間だけなら立ち入りは可能だった。
深い通路を抜け、アンリフィスの巨大な光柱が見えたとき、胸がぎゅっと締めつけられた。
良太に声を届けていた、この白く螺旋を描く光の道――。
「……どうしても、伝えたいの」
ニカは指先を光に触れた。
ほんの少しだけ波紋が広がる。
交信路は閉じられている。
声は届かない。
なら、せめて――。
ニカは胸から取り出した、小さな“光片”の欠片を見つめた。
それは審問のとき、議長代理が机に落としていった古い光結晶の破片。
本来なら触れてはいけないもの。
でも、ニカはそれを少しだけ分けてもらった。
誰にも気づかれないように。
光片をアンリフィスにかざすと、薄い共鳴が生まれ、小さな光の波が走った。
> 届かないかもしれない。
> でも、もし運がよければ――一瞬だけ光の揺らぎに変換されて、どこかへ流れてくれる。
「……良太。わたし、ちゃんと……また、話したいよ」
震える声でそう呟き、光片をアンリフィスへ押し込んだ。
淡い光が吸い込まれ、通路に静かな余韻だけが残る。
その夜。
俺はまた井戸へ来ていた。
「……あれ?」
風が止まり、空気が少しだけ揺れた。
まるで、井戸の奥が一瞬だけ光ったような。
気のせいだろうと思った。
でも、胸の奥がはっきりと熱くなった。
呼ばれている。
そんな気がした。
「ニカ……? いるのか?」
もちろん返事は――ない。
だが、その沈黙は、昨日までの“何も返ってこない空白”とは違った。
静かだけど、そこに“意志”の残り香を感じた。
――繫がりは、まだ切れていない。
その事実だけで、胸が震えた。
アガルタ。
ニカは光片を使ったあと、力が抜けたように床へ座り込んでいた。
だが、久しぶりに胸の内側が温かかった。
審問で押しつぶされかけた心の灯りが、ついっと揺れ戻るような感覚。
「待ってて……良太」
遠い遠い地上の少年を思いながら、彼女はゆっくりと目を閉じた。
それぞれの世界で、
同じ夜空の下で、
会えない二人が、同じ想いを抱いていた。
やがて近づく運命など知らぬまま、
揺れる光に手を伸ばしながら――。
二人は、それぞれに“決意”を固めつつあった…。 #8へ続く




