#6 届かない声と揺れる二つの世界
#6 届かない声と揺れる二つの世界
その夜――。
千間良太は、旧校舎裏の井戸の前に立っていた。
夏の湿った風が吹いているはずなのに、不思議と寒気がする。
まるで井戸の底から、ひんやりとした空気が吹き上がってきているようだった。
「……ニカ?」
声をかけても返事はない。
井戸の水面は静かで、ただ暗く沈んでいる。
いつもなら、数秒の沈黙の後で、少し緊張したような、でも嬉しそうな声が返ってくる。
『あ、良太 、今日も来たの!』
……その声が聞こえない。
良太は井戸の縁に腰を下ろし、深く身を乗り出した。
「おーい……聞こえてるか?」
波紋ひとつ返らない。
(どうしたんだよ……ニカ)
昨日までは普通に話せたのに。
むしろ昨日なんて、
『良太……会いたいよ』
って言われて、びっくりしたくらいだ。
壁にもたれたまま、良太は自分でも理由のわからない胸のざわめきを感じていた。
(嫌な予感が……する)
井戸の底は見えない。
けれど、いつもより暗く感じる。
その暗さが、まるで何かを飲み込んでいるようで…。
同じ頃。
地下世界アガルタのニカは、自宅のバルコニーに座り込んでいた。
小さなルミナランプの明かりだけが、彼女の震える肩を照らしている。
自宅軟禁。
外出も、通信石も、部活動も、友人との連絡すら禁じられた。
そしてもちろん、井戸への“共鳴”も封じられている。
彼女の腕には薄い光の腕輪がつけられていた。
「共鳴抑制具」。
強い感情が高まると光って、共鳴を遮断する。
(こんな……こんなものつけられるなんて……)
胸が痛む。
でも一番つらいのは――
「……良太の声……聞こえないよ……」
囁いた声は、夜のルミナ空に溶けていく。
彼の声。
笑った声。
少し不器用な返事。
からかうように名前を呼ばれたときの、胸の奥のくすぐったさ。
そのすべてが、もう届かない。
頬を伝う涙を拭う気力すらない。
昼間、光議会の審問が終わった後、ガルド長官に告げられた言葉が、まだ耳に残っていた。
『共鳴を断て。それだけが、地上人を守る方法だ』
『想いを捨てよ。でなければ彼の記憶を消す』
想いを捨てる――
そんなことできるはずがない。
でも、このままだと彼が危険になる。
(どうすれば……いいの……)
彼女は胸を抱え込み、そのまま膝を立てて泣き続けた。
そのとき、抑制具が淡く赤く光った。
「……!」
感情が揺れると反応する。
つまり今、彼女の心は限界まで張りつめている。
良太のスマホが震えた。
「よう、何してんの?」
画面には竹内からのメッセージ。
放課後になるとほぼ毎日来る、いつもの軽い調子だ。
良太は短く返信した。
《ちょっと井戸》
するとすぐ返ってくる。
《またかよw 声の彼女?》
良太は返事を打とうとして――指が止まった。
(……あれ? いつもなら笑って返すのに)
今日は笑えない。
竹内は異変に気づいたのか、数分後に直接旧校舎裏にやってきた。
「……お前、マジでどうしたんだよ」
良太は井戸を睨むように見つめたまま言う。
「……ニカが……返事しない」
竹内は呆れたように見えたが、すぐ表情を曇らせる。
「毎日話してたんだろ? 急に途切れるとそりゃ不安になるわな」
「いや……そんなレベルじゃなくて……」
説明のしようがない不安が胸を締めつけていた。
まるで、
“向こう側で、彼女が泣いてる”
とでも感じるような。
そんな馬鹿な、と言いたい気持ちもある。
だが、ニカと話すときの“声の温度”や“息遣い”が、まるで隣にいるかのように伝わっていたのも事実だ。
竹内はしばらく黙ったあと、ぽつりと言った。
「……良太。お前、あの子のこと……好きなんだろ」
「!」
否定しようとした。
けれど言葉が出なかった。
竹内は苦笑した。
「そりゃ返事ないとつれぇよな。……帰るか、今日のところは」
「……いや、もうちょっとだけ」
良太は井戸に向かって、やわらかく、しかし必死な声で呼びかけた。
「ニカ……聞こえたら返事してくれ。
なんでもいいから、声が聞きたい」
沈黙。
それでも彼は待った。
夜が深くなり、風が吹き抜け、竹内が「今日は帰れ」と背中を軽く叩くまで。
その夜。
ニカはベッドにうずくまり、抑制具の光が弱まるのを待っていた。
胸に手を押し当て、かすかに震える声で呟く。
「良太……ごめん……聞こえないの……」
そのとき。
――すぅ、と空気が揺れた。
耳の奥がかすかに震えた気がした。
(今……?)
気のせいかもしれない。
でも、ほんの一瞬だけ――
まるで、遠くで誰かが呼んだような。
『ニ……カ……』
ニカは顔を上げる。
「良太……?」
しかし次の瞬間、抑制具が強く赤く光った。
バチッ!
痛みが走り、共鳴の気配は消える。
「い、いた……!」
胸を押さえてうずくまる。
二人の声は、触れ合う寸前で断ち切られた。
良太は帰宅途中に空を見上げた。
(……届いた気がしたのに)
ほんの一瞬、胸があたたかくなった。
でもそれは、ただの自分の期待かもしれない。
竹内が横でつぶやく。
「……明日も来んのか?」
「……ああ」
迷いはない。
声が届かないなら、届くまで呼び続ける。
一方、アガルタ。
ニカは胸を押さえたまま、眠れない夜を過ごしていた。
「良太……会いたいよ……」
その言葉は、誰にも届かない。
ただ、静かに泣いた夜の空気だけが受け止める。
その翌朝――。
アガルタの光塔の天井に、大きな亀裂のような光の揺らぎが現れていた。
地上の誰も知らず、アガルタの民も気づかない。
ただ、世界の境界だけが静かに震えていた。
二人が会い、想い合ったせいではない。
だが――二つの世界は確かに、近づき始めていた。
#7へ続く




