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#45 名前に触れる夜

 #45 名前に触れる夜


 その夜、彼女は眠れなかった。


 夢は来なかった。白い空間も、光も、二人の影もない。

 代わりに――

 静かすぎる現実だけがあった。


 天井。薄暗い部屋。エアコンの送風音。

 それらが、やけに“重い”。


 (……戻らない……)


 少女――まだ名を持たない彼女は、  布団の中で指を握りしめる。


 胸の奥が、空洞のように冷たい。


 (……あれは……夢じゃなかった……)


 説明はできない。でも、確信だけが残っている。


 誰かが、確かに“待っていた”。


 そのとき。


 ――きし。


 家鳴り。古い建物では、よくある音。

 でも。


 (……違う……)


 音の“向き”が、おかしい。


 少女は、ゆっくりと身体を起こした。


 ドアの向こう。廊下の暗がり。


 そこに――

 気配がある。


 怖くはなかった。


 それが、一番怖い。


「……誰……?」


 声は、かすれていた。


 返事は、ない。


 だが――


 胸の奥で、あの“引力”が、静かに動いた。


 (……来た……)


 ドアノブに、手をかける。


 その瞬間。


 〈感情位相、再点灯〉 〈夢領域、非同期接続〉


 世界の裏側で、誰にも聞こえない警告が、再び灯る。


 ドアが、開く。


 廊下には、誰もいない。


 ……はずなのに。


 空気が、少しだけ“厚い”。


 まるで、  誰かが立っていた痕跡だけが残っているみたいに。


「……」


 少女は、無意識に一歩踏み出した。


 その瞬間。


 ――見えた。


 廊下の先。 現実と重なった、淡い光の輪郭。


 そこに――

 二人の影。


「……っ」


 息を呑む。


 少年と、少女。


 (……あの人たち……)


 声を、かけてはいけない。 分かっている。

 でも。


「……ねえ……」


 呼びかけは、 もう止められなかった。


 その瞬間――


 境界層。


 ニカが、はっと顔を上げる。


「……今……」


 良太も、同時に感じ取る。


「……現実側だ……」


 “夢”ではない。  “呼び声”だ。


 ニカは、唇を噛む。


「……早すぎるよ……」


 良太は、迷わなかった。


「……でも……一人にするわけには……」


 二人の視線が、重なる。


 選択は、もう済んでいた。


 少女の世界。


 廊下の光は、揺れている。


「……来ないで……」


 そう言いながら、  本心では違うことを願っている。


 (……でも……来て……)


 その矛盾が、  空間を歪ませる。


 床が、きしむ。


 光が、一段、濃くなる。


 そして――


「……聞こえてる?」


 声。


 夢よりも、ずっと近い。


 少女は、震える。


「……っ……」


 姿は、まだ見えない。 でも――


 “いる”。


 ニカの声だった。


「……大丈夫……。驚かせて、ごめんね……」


 少女は、涙をこぼした。


「……どうして……」


「……どうして……私が……」


 言葉が、続かない。


 良太の声が、少し遅れて重なる。


「……君は……間違ってない……」


 その一言で、何かが、決壊した。


「……名前……」


 少女は、嗚咽混じりに言う。


「……名前を……決めなきゃ……消える気がする……」


 ニカは、即座に否定した。


「消えない。……でも……縛られる」


 少女は、顔を上げる。


「……どっちなの……?」


 良太が、答える。


「……名前は……守ることも、縛ることもある……」


 沈黙。


 廊下の時計が、秒を刻む。


 少女は、深く息を吸った。


「……じゃあ……」


 胸に手を当てる。


「……“呼ばれない名前”が、欲しい……」


 その瞬間――


 〈定義矛盾〉〈命名条件、逸脱〉


 観測網が、ざわめく。


「……何だ……この回答……」


「……名前を……拒否しているのか……?」


 境界層で、ニカは微笑んだ。


「……賢いね……」


 良太も、静かに息を吐く。


「……俺たちより……」


 少女は、目を閉じた。


「……だから……今は……」


 小さく、はっきりと。


「……“まだ”で、いたい……」


 光が、ゆっくりと引いていく。


 廊下は、ただの廊下に戻る。


 少女は、その場に座り込んだ。


 胸の奥に、  不思議な温かさだけを残して。


 境界層。


 ニカは、遠くを見る。


「……もう……後戻りできないね……」


 良太は、頷いた。


「……ああ……」


「……次は……」


 二人は、同じ未来を思い描く。


 ――彼女が、  自分で“名を選ぶ”瞬間。


 それは、  世界にとっての第二の臨界点だった。


 夜のどこかで、  名を持たない存在が、  静かに息をしている。


 そして世界は、それを―― もう、見逃さない。

 #46へ続く

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