#44 名を呼ばれる前に
#44 名を呼ばれる前に
最初に変わったのは、夢の質だった。
それまで彼女の夢は、断片だった....音だけ。色だけ。理由のない感情の残り香。
けれど――
今は、場面がある。
白い空間。 輪郭を持たない光。 そして、いつも少し離れた場所に立つ二人。
少年と、少女。
(……またなの?……)
少女――まだ名を持たない彼女は、夢の中で立ち尽くす。
近づいてはいけない気がした。 でも、離れられない。
胸の奥が、強く引かれる。
(……これ……“恋”……?)
違う。 でも、近い。
自分のものじゃないのに、自分の心を通ってしまった感情。
良太は、気づいていた。
この視線は、観測者のものとは違う。
「……来てるな」
ニカも、小さく息を吸った。
「……うん。でも……まだ、触れてない」
それが、唯一の救いだった。
夢の中で、少女は一歩、踏み出す。
その瞬間―― 空間が、わずかに軋んだ。
〈警告未満〉〈位相揺動・低出力〉
誰にも聞こえないアラートが、世界の裏側で灯る。
(……あ)
少女は、理解してしまった。
自分が動くと、世界が反応する。
怖かった。 でも――
(……それでも……)
彼女は、顔を上げる。
「……ねえ……」
声は、出なかった。 だが――
感情だけが、流れた。
――あなたたちは、誰? ――どうして、そんなに悲しいの? ――どうして、離れないの?
ニカは、胸を押さえた。
「……だめ……」
良太が、彼女を見る。
「……来てる?」
「……強い……。でも……優しい……」
ニカは、少女の“輪郭”を見る。
はっきりしない。 でも――
そこに確かに、 意思がある。
ニカは、静かに言った。
「……このままだと……」
良太は、続きを察した。
「……観測される」
ニカは、頷く。
「それも……完全に」
夢の空間が、少しずつ“固定”されていく。
少女は、息が苦しくなるのを感じた。
(……閉じてる……)
世界が、自分を囲い始めている。
地上・観測センター。
《感情位相:定常化》 《夢領域:共有兆候》 《対象:未命名》
「……名が、必要ですね」
解析官が言う。
「未定義は、管理できない」
誰かが、低く笑った。
「……名を与えた瞬間、“個体”になる」
「それは、保護か?」
「……いいや。固定だ」
夢の中。
少女は、限界を感じていた。
このままでは、 “選ばされる”。
だから――
「……待って……」
今度は、かすかに“音”になった。
ニカの目が、見開かれる。
「……聞こえた……」
良太も、息を呑む。
少女は、必死に伝える。
――私は、まだ…… ――何者でもない…… ――決めないで……
ニカは、一歩、前に出た。
それは―― 初めての介入だった。
「……大丈夫……」
声は、直接届かない。でも――
感情は、はっきりと触れた。
「……名前は……」
ニカは、少し迷ってから続ける。
「……自分で、選ぶもの」
良太も、静かに言う。
「……俺たちも、そうだった」
少女の胸に、 初めて“余白”が生まれる。
(……選べる……)
夢が、ゆっくりと薄れていく。
目覚め。
少女は、ベッドの上で息を吸う。
涙が、頬を伝っていた。
「……まだ……決めない……」
小さな声。 だが、はっきりした意思。
その瞬間――
《観測失敗》 《対象、定義拒否》
観測センターで、アラートが途切れる。
「……逃げた?」
「……いいえ……」
解析官は、画面を見つめたまま言う。
「……選んだんです」
境界層。
ニカは、そっと息を吐いた。
「……今は……これでいい……」
良太は、空を見上げる。
「……でも……」
「……うん……」
二人は、同じ結論に辿り着いていた。
――次に会うとき、 彼女はもう、“ただの共鳴”ではいられない。
名を持つか。 立場を持つか。 それとも――
世界の外側に立つか。
その選択は、もう時間の問題だった。
夜の空のどこかで、 まだ小さな共鳴が、 静かに脈打っている。
#45へ続く




