#34 恋の観測の更新
#34 恋の観測の更新
白い靄が、ゆっくりと引いていく。
だが――
そこに現れたのは、地上でも、アガルタでもなかった。
良太は最初、音がないことに気づいた。
風の音も、機械音も、心臓の鼓動さえ遠い。
それでも――
温度はあった。
ニカの手のぬくもりだけが、はっきりと存在していた。
「……ここ……どこ……?」
ニカの声は、空間に吸われず、確かに良太の耳へ届く。
反響もしない。歪みもない。
ただ、そこに“在る”。
周囲は、薄い光の層が幾重にも重なったような場所だった。
壁も、天井も、床も曖昧で、
遠くには――**無数の“像”**が漂っている。
それは人影だった。
「……人……?」
次の瞬間、理解が追いついた。
――記録だ。
過去の地上。
井戸を覗き込む子ども。
声に耳を澄ませる若者。
光に手を伸ばし、怯え、祈り、拒まれた者たち。
「ここは……」
観測者だった存在が、ゆっくりと歩み出る。
その輪郭は、以前よりも人に近くなっていた。
「最初に“恋”を観測した場所だ」
良太は息を呑む。
「……失敗した人たち……?」
「違う」
静かな否定。
「選ばれなかった者たちだ」
ニカの胸が、ぎゅっと締めつけられる。
「……選ばれる、って……」
観測者は、少し言葉を探すように間を置いた。
「世界は、すべてを越える“接続”を恐れる。
だが同時に、それを――必要としている」
周囲の像が、微かに揺れる。
声だけで終わった恋。
会う前に断ち切られた繫がり。
記録に残る前に、消された想い。
「彼らは、世界を越えようとした。
だが“最後の一歩”を踏み出せなかった」
良太は、無意識にニカの手を握り直した。
「……俺たちは?」
観測者は、まっすぐに二人を見る。
「踏み越えた」
その言葉と同時に、
空間の奥で――ひび割れるような音が走った。
――地上。
旧校舎裏。
井戸の周囲には、立ち入り禁止のテープが何重にも張られ、
黒い車両が静かに並んでいた。
通信塔のモニターに、異常な数値が踊る。
《位相境界:未定義》
《空間座標:固定不能》
《対象:消失》
「……消えた?」
スーツ姿の男が、低く呟く。
「いえ……“いない”んじゃない。
“どこにも属していない”」
その言葉に、室内が凍りつく。
「観測不能……か」
人類は、初めて理解した。
――越えてはいけないものが、越えられた。
――アガルタ。
光議会の中央制御層。
アンリフィスの光が、不規則に脈動していた。
「遮断は!?」
「無効です!
境界が……境界そのものが、存在していません!」
レオンは、画面を睨みつける。
そこには、観測者の座標――
いや、“観測者だったもの”の消失ログ。
「……彼は……外側から外れた……」
誰かが、震える声で言った。
それはつまり。
――世界を守る最後の“緩衝材”が、失われたということ。
◇
再び、白い空間。
ニカは、観測者――いや、良一の片割れを見つめていた。
「……あなたは……これから……?」
観測者は、少しだけ微笑んだ。
それは、記録には残らなかった表情。
「私は、もう“外側”ではない」
光の像が、ゆっくりと溶け始める。
「最初に恋を観測した者として、
最後まで、見届けよう」
良太が、静かに言った。
「……俺たちは、戻れるのか?」
観測者は、首を振る。
「戻る場所は、もう“以前の形”では存在しない」
だが――
「進む場所は、これから生まれる」
空間が、再び動き出す。
これは逃避ではない。
隔離でもない。
世界が、二人を中心に再定義され始めた瞬間だった。
ニカは、良太を見上げる。
怖さは、ある。
けれど――
「……一緒なら……」
良太は、答えるように頷いた。
「うん」
光が、静かに収束していく。
最初に恋を観た者たちの記録は、
いま――更新されようとしていた。
これは、
世界にとっての終わりか、始まりか。
まだ誰にも分からない。
ただ一つだけ確かなことがある。
――恋は、もう“観測対象”ではない。
世界改変の更新になった。
#35へ続く




