#30 恋と世界が触れ合った音
#30 恋と世界が触れ合った音
最初に崩れたのは、音だった。
井戸の底で、何かが“割れる”ような低い響きがした。 水面でも、岩でもない。 空間そのものが軋む音。
良太の足元が、わずかに浮いた。
「……っ!」
身体が前へ引かれる。 井戸に落ちる感覚とは違う。 重力が、下ではなく――向こう側に引き直される感覚。
視界が白く滲んだ。
夜の校舎。 星空。 フェンス。
それらが、薄い膜を隔てた向こう側に“重なって”見え始める。
(――見えてる……?)
それは幻ではなかった。 輪郭があり、奥行きがあり、そして――温度があった。
光の世界。
淡い白光に満ちた通路。 螺旋状に走るアンリフィス。 その中心に――
少女がいた。
短く息を吸った瞬間、胸が痛くなる。
「……ニカ……?」
声が、届いた。
今度は、井戸を介してではない。 距離も、反響もない。
“同じ空間”で発した声だった。
ニカは、立ち尽くしていた。
アンリフィスの制御階層。 本来なら光の技師以外立ち入れない場所。
そこに、彼がいる。
光越しではない。 共鳴でもない。 声の重なりでもない。
――視界。
世界を隔てていたはずの少年が、 確かな存在感を伴って、そこに立っていた。
「……良太……」
名前を呼んだ瞬間、 胸の奥で、何かが決定的に“繋がった”。
同時に、アガルタ全域の光が一段、落ちる。
警報が鳴り響いた。
《境界干渉レベル3》 《位相差崩壊を確認》 《緊急遮断を――》
遅い。
もう、遅すぎる。
ニカは分かっていた。 これは“会ってしまった”という段階じゃない。
世界が、互いを認識してしまった。
「……ごめんね……」
震える声で、ニカは言った。
「私たち……やりすぎたね……」
良太は、ゆっくりと首を振った。
「違う」
一歩、近づく。 空間が軋むが、それでも進める。
「選んだんだ」
ニカの前に立ち、視線を合わせる。
初めて、完全に。
「声だけでもいいって思ってた。 でも……お前が消されるなら、それは違う」
ニカの瞳が揺れた。
「良太……」
そのとき。
空が、割れた。
地上側の夜空。 雲のないはずの空間に、直線状の光が走る。
地上の通信塔。 軍事観測施設。 そして――人類の“監視網”。
異常値が、一斉に跳ね上がった。
《未確認エネルギー干渉》 《地下からの位相反転反応》 《対象地点:旧校舎地下》
人類は、“見てしまった”。
アガルタは、“知られてしまった”。
そして光議会は、即座に判断を下す。
《最終封鎖コード発動》 《地上側干渉を排除せよ》
レオンの声が、制御階層に響いた。
「ニカ…離れろ!」
彼の背後で、遮断装置が起動する。 世界を切り離すための、最後の起動。
ニカは、良太の手を握った。
離さなかった。
「……もう、離れない」
良太も、強く握り返す。
「一緒にいる」
光が、爆発的に広がった。
境界が、完全に崩れる。
それは侵略でも、救済でもない。
ただ――世界が、恋を観測した瞬間だった。
次の瞬間、 二人の視界は、再び白に包まれる。
どちらの世界に落ちるのか。 それとも、どちらでもない場所か。
答えは、まだない。
だが一つだけ、確かなことがあった。
――もう、戻れる世界は存在しない。
#31へ続く




