#26 境界干渉 ― 世界が息を止める夜
#26 境界干渉 ― 世界が息を止める夜
井戸の底が、ゆっくりと“近づいてくる”。
そう感じた瞬間、良太は自分の呼吸が浅くなっていることに気づいた。
空気はある。夜風もある。
なのに、世界全体が一拍、息を止めている。
(……来る)
根拠はなかった。
だが、胸の奥で熱を帯びていたルミナ鉱石が、はっきりと“脈”を打っている。
視界の端が、わずかに歪んだ。
旧校舎の壁が揺れ、フェンスの直線が波打つ。
まるで水面越しに現実を見ているような感覚。
「……っ」
良太は膝に力を入れ、倒れそうになる身体を支えた。
そのとき――
井戸の闇の奥に、色が生まれた。
光でも影でもない。
どちらにも属さない、淡い白。
それは“点”だった。
だが次の瞬間、“奥行き”を持ちはじめる。
(……視界、だ)
声ではない。
振動でもない。
これは――見ている。
良太の視界に、ありえない光景が重なった。
地上の夜の上に、
もうひとつの“夜ではない世界”が、透けて見える。
光の管が空を走り、
白い結晶が街路を照らす都市。
アガルタ。
「……ニカ……」
名前を呼んだ瞬間、胸が焼けるように熱くなった。
――同時刻、アガルタ。
ニカは、走っていた。
セリアの手を引き、人気のない光導路を抜け、
都市の縁へ、縁へと。
だが、足が止まった。
視界が――揺れた。
世界が二重になる。
光の都市の向こうに、
“空”が見えた。
黒く、深く、星が散らばる空。
(……え?)
ニカは息を呑む。
見たことがないはずの景色。
なのに、知っている。
その空を、声で何度も聞いた。
――良太の世界。
「……まさか」
胸の奥が、強く共鳴する。
音ではない。
感情でもない。
存在そのものが、引き合っている。
ニカの視界の中心に、
“人影”が浮かび上がった。
ぼんやりとした輪郭。
光と闇の境界で、形になりきらない影。
でも――
「……良太?」
声が、震えた。
その瞬間。
――世界が、揺れた。
アガルタ全域で、光が一斉に脈動する。
アンリフィスが悲鳴のような共鳴音を発し、
光議会の観測装置が、次々に警告を吐き出した。
「境界干渉レベル、臨界値接近!」
「視界接続を確認! 未承認!」
レオンは中央塔の観測窓で、唇を噛みしめていた。
「……ついに、ここまで来たか」
視線の先。
光の層の向こうに、少年の影が見える。
声だけの存在だったはずの地上人。
それが今――
“見えている”。
「ニカ……」
レオンの声には、怒りも命令もなかった。
ただ、恐れだけがあった。
――これは、恋ではない。
――世界構造への、干渉だ。
一方、地上。
良太は、はっきりと“見ていた”。
光に満ちた都市。
そして、その中で立ち尽くす少女。
長い髪。
震える肩。
今にも泣き出しそうな目。
(……本当に……)
喉が詰まる。
「……ニカ」
今度は、はっきりと届いた。
声が、境界を越えた。
ニカの瞳が、大きく見開かれる。
「……良太……!」
名前を呼び合った瞬間、
二つの世界の“距離”が、決定的に縮んだ。
完全な接触まで、あと一歩。
だが――
その刹那、
第三の“視線”が、二人を捉えた。
冷たく、正確で、感情のない――
観測者の光。
世界は、もう元には戻らない。
それを、誰よりも強く理解していたのは――
恋をした二人自身だった。
#27へ続く




