#24 まだ名を呼べない距離
#24 まだ名を呼べない距離
― 残り48時間 ―
地上/良太
井戸の底を覗き込むたび、世界がわずかに“ずれる”。
昨日までの暗闇とは違う。 奥行きが、ある。
良太は息を殺し、動かないように立っていた。 余計な動きをすれば、この不安定な“扉”が壊れてしまいそうだった。
「……見えてる」
はっきりとは言えない。 でも――“誰か”が、そこにいる。
色は淡く、光に滲んでいる。 輪郭は揺らぎ、焦点が合わない。
だが、立ち方だけは分かる。
少し内側に重心を置く癖。 不安なとき、肩がわずかにすぼむ感じ。
(……ニカだ)
確信が、胸に落ちた。
声は出さなかった。 今、声を出したら―― この視界が壊れてしまう気がした。
代わりに、そっと手を伸ばす。
指先が、空気の“膜”に触れた。
「……っ」
ひやりとした感触。 水でも、風でもない。
境界そのもの。
その向こうで、輪郭が微かに揺れた。
アガルタ/ニカ
ニカは、瞬きを忘れていた。
目の前にある“それ”は、まだ人の形をしていない。 でも、確かに――“こちらを見ている”。
光の粒が集まって、崩れて、また集まる。その中心に、影のような濃淡。
(……背が、高い……)
祖母の記録にはなかった感覚。 声から想像していたより、ずっと――現実的。
ニカの胸が、痛いほど高鳴る。
「……近い……」
思わず、囁いていた。
声は、届かなかった。 けれど――
向こう側の“影”が、わずかに動いた。
反応した。
ニカは、震える手を胸に当てる。
(今、同じものを……見てる)
抑制具のない胸元で、ルミナブローチが淡く光る。 だが、暴走はしない。
不思議なほど、安定していた。
「……まだ、名前は呼ばない」
それは自分への言い聞かせだった。
ここで呼んでしまったら、 この距離が――一気に縮みすぎてしまう。
― 残り44時間 ―
地上/良太
時間が経つにつれ、視界は“定着”し始めていた。
昨日より、揺れが少ない。 今日は、奥行きがある。
まるで―― 薄いガラス越しに、別の部屋を覗いているみたいだ。
良太は、井戸の縁に腰を下ろした。
(……座った)
向こうの輪郭も、同じように低くなった気がした。
同時だ。
それだけで、喉が熱くなる。
「……すげぇな……」
声を、抑えきれずに漏らしてしまう。
その瞬間、視界が一瞬だけ揺らいだ。 だが――消えない。
耐えた。
良太は、はっと息を呑む。
(……大丈夫だ)
少しずつなら、いい。
アガルタ/ニカ
ニカは、地面に座り込んだ。
硬い床の感触。 冷たい空気。
それでも、視界の向こうにある“存在”の方が、 はるかに強く意識に残る。
(……同じ目線……)
偶然じゃない。 きっと、向こうも――座った。
ニカは、思わず笑いそうになった。 こんな状況なのに。
「……ふふ……」
声は、まだ届かない。 でも、気持ちは――届いている。
祖母の言葉が、ふと蘇る。
> 「境界は、急ぐと壊れる。 > でも、呼吸を合わせれば……道になる」
ニカは、ゆっくり呼吸を整えた。
向こう側と、同じ速さで。
― 残り40時間 ―
二人は、まだ互いの顔をはっきりとは見ていない。
目も、表情も、色も。まだ、分からない。
それでも――
**そこに“あなたがいる”**という事実だけは、 もう疑いようがなかった。
声の次に、視線。 視線の次に、輪郭。
そして、その次に来るものを、 二人とも――分かっている。
だからこそ、まだ名は呼ばない。
この距離を、壊さないために。 #25へ続く




