#1 井戸の底から、はじめまして。
#1 井戸の底から、はじめまして
「……彼女、欲しい。」
言葉にしてみると、驚くほど軽かった。
でも、その一言を口にするために、どれほど迷い、どれほど自分の情けなさと戦ってきたことか。
六月の夜は湿っていた。
空気は重く、肌にまとわりつく。梅雨時の校庭は独特の匂いがする。湿った土と、伸び放題の草と、誰も近づかない旧校舎のカビの匂い。
その中に、ぽっかりと口を開けている古井戸があった。
俺――千間良太17歳。
彼女いない歴=年齢。
告白経験ゼロ。
好きな人に話しかけることも難しい小心者だ。
だからこそ、こうなる。
満月がやけに明るい夜だった。
まるで、舞台のスポットライトのように井戸だけを照らしている。
その井戸には、妙な噂があった。
「夜中に“彼女が欲しい”って叫ぶと、恋が叶う」
そんなバカみたいな噂。
信じるやつはいない。
けど俺は――信じたいと思ってしまった。
「よし……やるぞ、千間良太。後悔すんなよ」
自分で自分を鼓舞しながら、井戸の前に立つ。
喉が震える。
手も震える。
心臓はさっきからずっとドラムみたいに叩いている。
……でも、言わなければ何も変わらない。
俺は息を吸い込み、目を閉じ、叫んだ。
「おれに、彼女をくださーーーい!!」
声が闇に吸い込まれていく。
カエルの声が止む。
風さえも動きを止めたように感じた。
「……はは。やっぱ、くだらねぇよな」
俺が踵を返そうとしたその瞬間――
「――えっ? なに、今の? 誰?」
女の子の声が、井戸の奥から聞こえた。
「うおおおおぉぉぉぉっ!?!?」
俺は尻もちをついた。腰が砕けた。
冷たい石畳が尻に直撃し、全身が震える。
「な、な、なんだ今の!? 女の声……だよな!?」
心臓はもう壊れそうだ。
鼓動が早すぎて息がうまくできない。
「ちょっと! そっちの人、いきなり大声出さないでよ! めちゃくちゃびっくりしたんだけど!」
「い、いや! 今の叫びの後に声が返ってくる方がびっくりだわ!!」
声は、くぐもっている。
でも反響ではない。
確かに、そこに“井戸の先”に人がいる声だ。
「だ、誰だ……?」
震える声で聞き返す。
「誰って……そっちが誰なの? あなたこそ、どこにいるの?」
「俺は……学校の裏の、古井戸の前……」
言いながら、改めてバカな状況だと思う。
井戸に向かって自己紹介する17歳。
深夜の学校。
完全に学校の怪談だ。
「……学校? アカデミアのこと?。この声、すっごい遠くからしてる。どこかで繋がってるのはわかるけど……」
「繋がってる……?」
言われて、ふと思った。
表面の反響ではない。
距離が“ある”のに、なぜかクリアだ。
「お前、井戸の中にいるのか?」
「ううん。もっと下。……っていうか、地上じゃないよ。こっちは《アガルタ》」
「アガルタ……?」
どこかで聞いたことのある単語のようで、現実味がまるでない。
「地底世界とか言わねぇよな?」
「そう! まさにそれ! ここ、地底都市アガルタ!」
「マジかよ……!」
頭がおかしくなる。
いや、俺の頭がおかしいのか。
そう思っていたら――
「証拠、見せるね。ちょっと待ってて」
井戸の底が――ふわっと光った。
「……え?」
青白い光が、ゆっくりと上へ広がってくる。
蛍光灯とは違う。
自然の光でもない。
淡く、呼吸しているみたいな光だ。
「ほら。これがルミナ鉱石。アガルタの光源」
「ルミ……ナ……?」
口は開いたまま、何も言えなかった。
見たことのない光だった。
CGじゃない。
ホタルでもない。
もっと神秘的で、存在そのものが“別世界”を告げていた。
「ね? 本当に地底なんだよ」
その声は、からかっているようで、でもどこか寂しげだった。
「え、えっと……君、名前は?」
「私? 私はニカ。アガルタの……まあ、普通の女子かな。」
「……普通、ねぇ……」
誰も信じないような世界の住人なのに、声は本当に普通の女の子だった。
透明感があって、鈴みたいに響く声。
よく笑いそうな声。
人の名前を呼ぶのが得意そうな声。
「俺は、千間良太。……良太でいいよ」
「リョータか。うん、覚えた」
「覚えた」の一言が、なぜか心をあたたかくした。
「なんで……君の声が井戸に?」
「わかんない! でも、うちにも同じ噂があるの。“井戸に向かって恋を叫ぶと、誰かと繋がる”って」
「同じ……噂?」
「うん。私も叫んだの。“彼氏がほしい”って」
脳内で派手な爆発音がした。
恋愛成就の井戸が、地底と地上をつないだ?
そんな漫画みたいなことが――
「いや、いやいやいや……そんな……」
「変だよね。でも、繋がったものはしょうがないよ? それに――」
その声は少し照れていた。
「あなたの声、思ったより優しかったから」
「やめくれ!! 照れるだろ!!」
「アガルタの言葉で言うなら、リョータは“光の調べみたい”」
「意味わかんねぇ!」
笑われるのは恥ずかしい。
でも、不思議と嫌じゃない。
地上で女子に笑われる時の感じとはまるで違う。
ニカの声は、笑いながらも、俺を傷つける気配がない。
初対面なのに、安心して話せる。
そこから、しばらく俺たちは話し続けた。
アガルタの文化。 ルミナ鉱石で照らされた街並み。
地底なのに豊かな水脈が広がっていること。 地上からの“電波の残響”を拾って、音を再現する「エコーシアター」が流行していること、ニカはこの“地上ドラマ”の恋愛シーンにハマり、恋に憧れを持つようになった。
「光議会」という組織が街を統治していること。
地上は“危険でまぶしすぎる国”だと教わっていること。
俺は地上の学校や身近なことを話をした。
体育祭、文化祭、コンビニ、梅雨、満員電車。
どの話に対しても、ニカは驚きながら、笑いながら、どんどん質問をしてきた。
「満員電車って何するところ?」
「体育って、なんで走るの?」
「コンビニってなに!? 便利な店!?」
「便利な店は便利な店だよ!」
「意味わかんない!!」
二人で笑う。
声だけで、顔も知らないのに。
だけど確かに息遣いがあって、
彼女の気配が、井戸の向こうの“その先”にある。
何メートル下なのか。
何百メートルなのか。
それとも何キロなのか。
見当もつかない距離だが――
声は、すぐそばにあった。
夜風が少し冷たくなる。
空が少し明るくなる。
気づけば、もう夜明け前。
「……そろそろ帰らないと。こっち、巡回が来る時間…」
「また話せるか?」
「うん。絶対。また来る」
「じゃあ、明日も」
「うん――またね、リョータ」
声が遠ざかる。
ルミナイト鉱石の光も、ゆっくり淡く消える。
夜の静寂が戻った。
俺は井戸の縁に座り込んだまま、しばらく動けなかった。
「……マジで、繋がったのか……」
夢ではない。
幻聴でもない。
確かに、あの声は存在していた。
地底の少女、ニカ。
顔も知らない。
手も届かない。
会えもしない。
だけど――
声だけは、
世界の深い深いどこかで、俺にまっすぐ届いた。
胸が熱くなった。
鼓動がゆっくりと落ち着く。
代わりに、静かな確信が芽生えてくる。
「……もしかして俺――」
自分の口からそれを言うのは恥ずかしくて、途中で止めた。
でも、はっきりと感じていた。
たった一晩で、自分の世界が変わった。
これはただの噂なんかじゃない。
奇跡でもない。
偶然でも、気の迷いでもない。
これは――
俺と地底人の少女との、本当の出会いの物語だ。 #2へ続く。




