1.ロー
この物語はフィクションです。実在する人物・団体とは一切関係ありません。
「あっぶな。」
ローは肘に着いたホコリを払いながら、息をひそめた。目のまえを、黒猫が通り過ぎる。
何度も来たことのある路地裏。もはやここが家ではないかと錯覚してしまうほど。商店街の一角の、「タカラ屋」と書かれた八百屋の裏の、路地裏。
ガサガサと物音がした。ローは恐る恐る振り向くと、人影が見えた。フードをかぶっているため性別の判断がつかない。黒パーカーにグリーンのスラックス、という何とも奇妙な組み合わせをするのは、ローの知り合いにたった一人しかいない。
「クルミさん、あの人、来てないっすよ。」
「知ってるよ。ローに会いたくなっただけ。ダメ?」
人影はローの隣に腰を下ろし、フードを脱いだ。ポニーテールに結ばれた金髪の下には、緑色の蝶のピアスが揺れ輝いていた。黒色のチョーカーネックレスは彼女の真っ白な肌を引き立てている。パーカーから少し覗く下着はいやらしくなく、かえって洒落て見えた。
「いっつも思いますけど、そのファッション、なんなんすか。黒と緑、ほんと好きっすよね。」
クルミはローをにらんだ。「黒と緑じゃない。グリーンブラックに、ウィローグリーン。いい加減、覚えてよね。」
「なんのこだわりですか。」
この会話のラリーは、ほとんど毎回と言っていいほどしていた。毎度毎度飽きないのか、とクルミはたまにローに聞くが、彼は何も言わない。この会話は、何回繰り返しても、ローにとって心地よかった。
少しばかり沈黙した。クルミは爪をいじり、ローは目の前の壁をぼうっと見ていた。
安らかな沈黙を破ったのはクルミ。
「てか、もう、深夜だよ。おとなしくお家帰ったらどうなの?」
「お家、なんてもう、ない。」
クルミはしばらくの間、ローのことを見つめた。
「え、ないの?」
クルミはローが説明するのを待っていたが、ローは黙るばかりだった。やがてクルミは諦めて、「また家族とトラブったのかよ。」と吐き捨てて立ち上がった。少し伸びをして、路地裏を出ていこうとした。
「クルミさん、もう行くんすか。」
「今回はがんばるから、ってあれだけ言ってたのに。約束までしてたのに。」クルミは足を止めたが、決してローと目を合わせなかった。「そんな簡単に、約束破る?」
「ご、ごめんなさい、クルミさん。」ローは慌てて追いかける。「お願い、クルミさん、俺を捨てないで。ごめん、ちゃんと訳があって。説明させて。」
「そのセリフも、もうウンザリだよ。」クルミは歩みを再開した。
「違うの、お願い、聞いて。クルミさん、ねえ、お願いだから。」
「あのさ。」クルミは声を荒げた。「私がわざわざあの人のこと諦めてまで?優先してやったのに?結局また失敗?」
「違います、違うの。ねぇ、お願い、聞いてよ。」
「もう、無理だわ。あのね、別に失敗するのが悪いとは言わないよ。ただ、君のその態度が気に食わないわけ。」
「ごめんなさい、直すから、お願いだから」
「はぁ、なんで動物の声が聞こえるなんて能力、望んじゃったのかなぁ。あんた、猫にでも食われとけよ。」
クルミは振り向きもせず出て行った。タカラ屋の裏に残ったのは、一匹の惨めなネズミだけだった。
「だからイったじゃん、ニンゲンなんかとカカわるな、って。」
「キエラ。ずっといたの?」
ゴミ箱の裏から出てきたキエラは、肩をすくめた。
「あんだけサケんでたら、キこえるよ。ほんと、ミジめだよ、『お願い、俺を捨てないで』って。」
「ニンゲン呼びやめてよ、お願いだから。クルミさんにはちゃんと名前があるの。クルミさん、本当はすごく良い人なんだよ。俺が怒らせちゃったのが悪いだけ。」
「ワタシなら、そんなオモいさせないのに。」キエラはローの隣に座りこんだ。「ねえ、そろそろアキラめない?私とケッコンしようよ。」
「何度も言ってるじゃん、俺は諦めないって。だいたい、クルミさんと関わって、何が悪いんだよ。」
「あのニンゲン、さっきなんてイってたかキいた?『猫にでも食われとけよ』だって。あんなこと、ジョウダンでもイうべきじゃない。」
「だから、クルミさんは、クルミさんだから仕方ないの。俺らだって、人間のこと、わかんないでしょ?」
キエラはため息をついた。好きだからって甘すぎるのよ、などとぶつぶつ文句を言いながら、ポケットからパンを取り出した。キエラはパンを一口サイズにちぎってから、ローに差し出した。
「ほら、はい、スコしタべなよ。またトウさんとケンカしたんでしょう?ナニもタべないようじゃ、タオれちゃうよ。」
ローは意地を張って受け取らないつもりだった。しかし、この出来事に完全に巻き込まれただけのキエラがここまで尽くしてくれていることに罪悪感が沸き、素直に受け取った。
「ありがとう。」
「ワタシのトウさん、どうしてローにこだわっているか、わかる?」
「どうせ、純粋な遺伝子だからとか、そんなところだろ。」
「それもあるけど、チガうの。」
「違うってなんだよ?他に理由こじつけたとしても、結局はソレだろ?」
「だからチガうのって。もう、ハナシをきいてよ。」
ローは言い返そうとしたが、キエラが泣き出してしまったため躊躇した。「わかった、わかったから、泣かないで。ごめん、話聞かせて?」
「ワタシがローをアイしているからよ。ワタシがローのこと、ダレよりもアイしていることをわかってくれてるから、ヒッシになってるの。」キエラの涙はいつのまにか消えていた。「だからおネガい、ケッコンしましょう?」
「まーたやられた。その涙も結局は罠かよ。隙あらば告白、また隙あらば告白。全く、キエラは本当に諦め悪いよね。」
「あなたがいえたことじゃないわ。」
「キエラのことをちゃんと愛せてない状態の俺と結婚したところで、キエラは幸せになれないよ。」
「そういうところよ、そういうヤサしいところが、スきなの。」




