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1-4 完璧な光

 ギィ、と錆びた蝶番が悲鳴を上げて、引き戸が開く。


 途端に、凝縮された時間が匂いとなって燈弥の体を包み込んだ。

 懐かしい、しかし鋭い硝煙の香り。黒色火薬の主成分である硫黄と木炭、そして硝酸カリウムが混じり合った、甘くも危険な香り。そして父自身の汗の匂いが染み付いている。


「ゴホッゴホッ・・・」


 十年間、都会の無味無臭の空気に慣れきった肺には、あまりにも情報量が多すぎた。

 それは、星野聡という花火師の人生そのものを発酵させたような、濃密な香りだった。


 月明かりが、埃をまとった窓ガラスを通して、工房の中をぼんやりと照らし出す。


「えっと・・・確かここら辺に」


 パチリ、と古いスイッチを入れる。裸電球の心許ない光が、父の聖域を暴き出した。


 壁には、「錦冠菊」「時差式発光星」などと掠れた墨で書かれた配合表。乳鉢と乳棒、星を丸めるための古い造粒盆、持ち主の手の形に深く馴染んだ木槌の数々。作業台の上には、ごくありふれた花火の設計図と、数年前の日付で止まっている町の祭りの発注書が、静かに埃をかぶっていた。


 そこにあるのは、緩やかに終わりへと向かう、伝統工芸のありふれた姿だった。


(・・・結局、何も変われなかったのか、親父)


 胸に広がるのは、憐憫と、そしてどうしようもない失望感。そしてわずかな安堵感だった。


「しかし、危ないな。明日にも手配して処分してもらわないとな」


 燈弥はプロの技術者としての顔に戻り、手袋をはめ直した。

 これだけの火薬を放置しておくわけにはいかない。明日には業者を呼び、この場所を更地に戻す。それが、今の自分にできる最後の後始末だと思えた。


 彼は足元に散らばった資材を整理し始め、工房の隅、影になった場所に押し込まれていた木箱に手をかけた。


 それは、投げ捨てられた失敗作が積み重なった、文字通りのゴミ箱のような箱だった。


「・・・うん?」


 木箱の底に、一台だけ、他とは明らかに異質な花火玉が紛れていることに気づいた。


 それは、三号玉ほどの、小さな花火だった。


 木箱の中にある他の失敗作は、和紙が歪んでいたり、糊がはみ出したりしている、見るからに出来の悪いものばかり。


 しかし、その一玉だけは違った。


 恐ろしく丁寧に、完璧に仕上げられている。貼り重ねられた和紙は、通常のものよりきめ細かく、まるで磁器のような滑らかさを持っている。燈弥が知る、どんな花火よりも、それは美しかった。


「なんだ・・・これ?」


 まるで、この工房の空気とは不釣り合いな、未来から来た工芸品のようだった。


 印ひとつない、無銘の作品。


 燈弥は、それに吸い寄せられるように、その小さな花火玉を、そっと両手で包み込むように持ち上げた。ざらりとした和紙の感触。見た目よりも、ずしりと重い。その重さは、ただの火薬の重さではない。


 理屈を越えた直感が、彼の魂に強く訴えかけていた。


 ――これだ。


 この掌に伝わる確かな重みこそが、自分が全く知らなかった、そして知ろうともしなかった父の「最後の執念」そのものなのだと。


 ーーーーーーーーーー


 砂浜を踏みしめる足音が、波の音に消される。


 深夜の海岸は、吸い込まれるような漆黒の海と、どこまでも続く星空の境界線だった。

 潮風が肌を刺し、微かな砂の粒子が顔を打つ。燈弥は、かつて父に連れられて歩いたこの砂浜に、一人立っていた。


 (――本当に、これを打ち上げていいのか?)


 恐怖が胸をよぎる。これは、父の遺言そのものかもしれない。それを、十年間火薬に触れてこなかった自分が、失敗させるかもしれない。その資格が、自分にあるのか。


 (・・・だが、知りたい)


 恐怖を、焦がれるほどの渇望が上回った。


 この不可解な花火の正体を。

 全てを諦めたように見えたあの場所で、父が誰にも見せずに作り上げた「魂」とは、一体何なのかを。




 燈弥は波打ち際から少し離れた場所で、砂浜に膝をついた。


 抱えてきた打ち上げ筒を砂の中に据え、周りを固めていく。指先に伝わる、湿った砂の重みと冷たさ。


 ふと、視界の端にかつての自分の幻影が過った。


 作業場の隅で、父の無骨な背中をじっと見つめていた幼い日の自分だ。父は何も教えなかったし、燈弥も教えを請うたことはない。


 ただ、火薬を練る手の動き、筒を据える角度、導火線を扱う慎重な指先――そのすべてを、燈弥は好きで、ただ好きで、飽きることなく眺め続けていたのだ。


 10年の空白など、なかったかのように指が動く。


 あの頃、憧れとともに目に焼き付けていた父の所作が、今、燈弥の身体を通して完璧に再現されていく。


 鉄の筒は夜の冷気を吸ってずしりと重く、無機質だ。その中に、あの磁器のように美しい花火玉を、壊れ物を扱うように慎重に滑り込ませる。


「・・・ふぅ」


 一度立ち上がり、夜の海を見つめた。


 都会の眩い光の下、数式とマナで「魔法」を制御していた自分。しかし今、目の前にあるのは、一発きりの不確かな火薬と、静かに寄せては返す漆黒の海だけだ。燈弥の心はかつての純粋な緊張感に支配されていく。


「・・・やるぞ」


 彼は、工房から持ち出した長い線香を取り出した。ライターの火を近づけると、小さな炎が夜風に揺れ、やがて線香の先端にちりちりと赤い点が灯る。


 立ち上る細い煙。それは魔法の洗練された光とは無縁の、煤けた、しかし意志を持つ「火」の匂いだ。


 深呼吸を一つ。


 肺の奥まで入ってくる潮騒。


 ドクン、ドクンと、耳の奥まで心臓の鼓動が響いてくる。


 父が愛し、自分もかつて愛したこの火薬の匂い。


 燈弥は赤い火種を握り、その導火線の先端へと、ゆっくりと近づけていった。


 ―――ジュッ。


 小さな音と共に、導火線が火花を散らした。


 燈弥は、弾かれたように数歩後ずさる。導火線が、まるで生きている蛇のように、シューッという音を立てながら、確かな速度で筒の中へと燃え進んでいく。


 短い、しかし永遠のように長い時間。


 次の瞬間。


 ドン!!


 音というより、衝撃だった。地面が、空気が、そして燈弥の体の芯が、深く、重く震えた。


 それと同時に、一筋のオレンジ色の光が、鋭い飛翔音を夜空に刻みつけながら、天頂へと昇っていく。


 速い。あまりにも。まるで、空に焦がれる魂そのものが、闇を突き破っていくかのようだ。


 燈弥は、息をするのも忘れ、その一点の光だけを、食い入るように見つめた。


 光は、昇って、昇って、そして


 ―――ふっと、消えた。


 音が、止まる。

 光が、消える。

 世界が、一瞬の完全な静寂と闇に包まれる。


 燈弥の心臓が、大きく跳ねた。

 その、さまざま感情が混じり合った、永遠のような一瞬の後。


 パァンッ!!!


 空の最も高い場所で、音が弾けた。遅れて、轟音が地上に届く。


 夜空に、巨大な金色の菊花火が、定規で引いたような完璧な真円を描いて咲き誇った。海原が黄金色に染まり、波頭の一つ一つが鏡のようにその輝きを反射する。


 それは、あまりにも完璧な、あまりにも伝統的な「父の花火」だった。


 「・・・なんだ、やっぱり普通の・・・」


 燈弥は、強張っていた肩の力をふっと抜いた。


 燈弥がそう呟き、安堵と、わずかな失望が入り混じった息を吐き出そうとした、その時だった。



 奇跡が、起こる。



 消えゆく光の残像を網膜が追い、終わりを受け入れようとした、まさにその刹那。


 時間が、止まった。


 漆黒の闇に放り出されたはずの、数千、数万の金色の燃えカス。それらが重力という絶対の理をあざ笑うかのように、空中でぴたりと、その場に縫い止められたのだ。


 「……っ!?」


 息が止まり、思考が白濁する。


 落ちない? なぜだ。点滅花火の残光効果か? それとも、上昇気流を利用した現象?


 燈弥の脳が、瞬時にありとあらゆる可能性を計算し、そしてそのすべてを「不可能」だと切り捨て、一つの結論を導きだした。


 これは物理法則を完全に無視している。


 静止した光の粒子は、やがて意志を持つ生き物のように蠢き始める。一つ一つの星が、目に見えない糸で操られているかのように一点へと集い、複雑に、有機的に絡み合っていく。


 絶句する燈弥の目の前で、光は新たな命を作った。


 ――翼を広げた、一羽の鳥のシルエット。


 それはただの形ではなかった。完成した光の鳥は、あろうことか夜空という深淵を蹴り、ふわりと羽ばたいてみせたのだ。

 

 さらに、その羽ばたきに呼応するように。


 父の象徴であった重厚な金色は、内側から染み出すようにして、夜明けの空を思わせる澄み切った青へと、鮮やかにその色を転向させていく。


「・・・・・・」


 燈弥は、その場に膝から崩れ落ちた。


 完璧ではない。


 少し歪で、不器用な光。


 しかし、そこには物語があった。命があった。自分が会社で作り出す何万回の完璧な光よりも、父がたった一発に込めたその不器用な光に、心を、魂を、根こそぎ奪われた。


 最後に、青い鳥はその姿を解き、無数の小さな星屑となって夜空全体にキラキラと広がった。その星屑はすぐには消えず、まるで祝福のように、燈弥の頭上に長く、長く瞬いていた。


 ―――これか。親父が、本当に作りたかったものは。

 ―――これなのか?俺が、心の底から求めていた光は。


 どうやって?

 なぜ、光が落ちない?

 どうすれば、燃焼の途中で、あんな風に色と形を変えられる?

 なぜ、親父は、こんなものを・・・?


 問いだけが、次から次へと頭の中に生まれては、答えのないまま渦を巻く。


 夜空の闇に、父が遺した最後の光の残像が、そして、あまりにも巨大な謎が、いつまでも焼き付いて離れない夜だった。

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