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1-2 完璧な光

 深夜の首都を切り裂き、新幹線が北へと走る。


 その最終便の指定席で、燈弥は車窓を流れる光の帯を、ただぼんやりと見つめていた。


 星は、見えない。


 視界を埋め尽くすのは、彼自身が作り上げてきた「魔法」の残光だ。どこまでも澄み渡り、夜空の深淵さえも鮮やかに塗り替えるその光が強ければ強いほど、光の届かない場所の闇は、より一層深く、濃く感じられる。


 列車が速度を上げるにつれて、光の密度は次第にまばらになり、やがて、本物の夜の闇が車窓を支配し始めた。その闇の中に、控えめに、しかし確かに瞬く、星々の光が見える。


(なぜ俺は泣いていないんだろう)


 悲しいはずだった。胸が張り裂けそうなほどの後悔と罪悪感があるはずだった。


 なのに、涙は一滴も出てこない。まるで、この10年間で、首都の乾いた空気が、涙腺まで干上がらせてしまったかのようだった。


『次は、福井・・・福井です』


 ドアが開いた瞬間、ひやりとした湿気と、懐かしい土の匂いを含んだ空気が、車内に流れ込んできた。


「雪は・・・降っていないか」


 都会の空調管理された空気とは全く違う、生命の手触りのあるその空気に、燈弥の心臓が、ドクン、と大きく脈打った。


 レンタカーを借り、深夜の国道を走らせる。


 街灯の少ない道を進むにつれ、闇は深淵を増していく。かつて日本有数の花火大会で栄えた港町も、今はただ、潮騒の中で眠っていた。祭りの熱狂は遠い昔。家々の窓は暗く、町全体がゆっくりと呼吸を止めていくかのようだった。


 全てが、少しずつ、死んでいく。自分が捨てたこの町も。


 闇の中に浮かび上がるように、その家は建っていた。


 まるで10年前のあの夏の日から、時が止まっているかのように。


 エンジンを切ると、虫の声だけが響く深い静寂が車内を包んだ。あの頃は当たり前だったこの静けさが、今はひどく心許ない。


「ふぅー」


 ひとつ深呼吸をする。10年ぶりの帰郷。あの喧嘩別れのまま、二度とくぐることはないと思っていた玄関。


 記憶の中では軽々と開けていたはずの扉が、今はとてつもなく重い障壁のように感じられた。


 意を決し、車を降りる。ゆっくりと扉に手をかけると、ひやりとした金属の感触が伝わってきた。


 そして鍵もかかっていない扉に懐かしさを覚えながら。


「ただいま」


 絞り出すような声に反応し、奥からパタパタと慌ただしいスリッパの音が聞こえてくる。現れたのは、記憶の中の姿より、ひと回りもふた回りも小さくなった母だった。


「・・・燈弥?」

「・・・久しぶり、母さん」


 母、星野 早紀さきは、息子の姿を認めるなり、その目にみるみる涙を浮かべた。無理もない。感情のままに家を飛び出した高校生の息子は、見違えるほど精悍な顔つきの青年になって帰ってきたのだ。


「燈弥!本当に燈弥なのね!ああ、よかった、無事で!!

ずいぶん痩せたじゃない、ちゃんと食べてるの!?」


 駆け寄ってきた母に強く抱きしめられ、燈弥はその小さな背中を不器用に撫でた。母の温もりに触れた瞬間、心の奥から、何かが込み上げてくるのを感じた。


「まあ、それなりにね。心配かけて、ごめん」


 早紀は燈弥を居間へと通した。部屋には、濃い線香の香りが満ちていた。


 仏壇の前に、白い布をかけられた布団が敷かれている。その枕元には、頑固な顔で腕を組む父・聡の遺影が、真新しく飾られていた。


「お父さん、燈弥が帰ってきたわよ」


 母が、眠る父に語りかける。そして、燈弥に向き直ると、そっと布団の上の白い布をめくった。


「・・・父さん」


 そこに、父がいた。


 血の気の失せた顔。深く刻まれた眉間の皺は、今はもうない。ただ、全ての重荷から解放されたかのように、静かに目を閉じていた。

 喧嘩別れした十年前の、あの怒りに満ちた顔ではない。


 けれど、もう二度と、その瞼が開くことはないのだという絶対的な事実が、音もなく燈弥にのしかかる。


 息が止まった。何も感じられない。空っぽのまま、ただ時間が凍りついていく。


 母に促されるまま、震える手で線香を一本立て、手を合わせた。


 父と息子の間に横たわる、十年という時間と、決して乗り越えることのできない、死という断絶。


 結局、あの日の言葉を謝ることすら、もう叶わない。


 気まずい沈黙の中、母は眠る夫の顔を見つめながら、それでも誇らしげに、そして嬉しそうに言った。


「テレビ、見てるわよ。玲司さんっていう人と一緒に出てるんでしょ?首都の記念祭とか、大きなイベントの光は、ほとんどあなたたちが作ってるって。すごいじゃない、『伝説のタッグ』だなんて。お父さんもきっと・・・ええ、本当に、自慢の息子よ」

「・・・ありがとう」


 母の純粋な賞賛が、分厚いガラスの向こう側から聞こえるように遠い。燈弥は自分の両手を見つめた。魔法プログラムを制御し、何百万もの光を自在に操る、誰もが羨むクリエイターの手。


 だが今、その手は父の冷たくなった手に触れることすらできず、ただ行き場をなくして震えていた。


 意を決して、燈弥は顔を上げた。それは、眠る父と、母と、そして自分自身への、心の奥底からの問いだった。


「母さんは、俺と玲司が作る光、好きか?」


 その問いを口にした瞬間、燈弥は後悔した。


 答えを聞くのが怖かったわけではない。むしろ、自分がずっと自分に突きつけてきた疑念の答えを、母の口から聞かされることが分かっていたからだ。


「もちろん、綺麗よ。燈弥」


 母、早紀は、祈るような手つきで茶托を握り直した。


「テレビで見るたびに、すごいって、いつも思ってる。緻密で、壮大で、夢みたいに美しいもの。お母さん、あなたがそんな光を作れるなんて、本当に自慢よ」


 だが、早紀がふっと視線をそらし、位牌の影に落ちる暗がりに目を向けたとき、空気が変わった。


「でもね。『好き』かどうかで聞かれたら・・・ごめんね。母さん、やっぱり・・・」


 ――言うな、と心が叫ぶ。

 ――言ってくれ、と魂が渇望する。


「お父さんの、不器用で、うるさくて、火薬臭い花火の方が、好きなんだ」


 その言葉が、耳の奥で「カチリ」と音を立てて嵌まった。

 パズルの最後のピースが埋まったような、冷徹なまでの完成。


 この十年間、どれほど名声を得ても、どれほど完璧な数式で夜空を支配しても、拭い去れなかった「違和感」の正体。


 (やっぱりか)


 驚きはなかった。あるのは、胃の底に鉛を流し込まれたような、重苦しい納得だけだ。


 自分の光には、匂いがない。

 自分の光には、熱がない。

 自分の光には、音がない。


 それを誰よりも理解していたのは、デジタルを極めた自分自身だった。母はただ、燈弥が目を背け続けてきた真実を、慈しみという名のナイフで、そっと白日の下に晒しただけなのだ。


「ごめんね。変なことを言っちゃったわね」


 早紀は、慌てて付け加えるように、優しく言った。


「あなたの作る光も、お父さんの花火も、どっちも、お母さんにとっては宝物よ。比べようなんて、なかったんだけど・・・」

「いや、いいんだ。教えてくれてありがとう」


 燈弥は、そう言って無理に笑おうとしたが、うまく笑えなかった。


「・・・工房、見ていくといいわ。あの人が亡くなる直前まで、使ってたそのままにしてあるから」 


 彼女は息子の肩に一度だけ優しく手を置くと、何も言わずに居間から出て行った。


 残されたのは、父の遺影と、気まずい静寂だけ。


 その沈黙が、頑固な父の最後の拒絶のように感じられて、燈弥はたまらず席を立った。


 彼は縁側へと続くガラス戸を開け放つ。


 途端に、ひやりとした夜気と、濃い土の匂いが流れ込んできた。虫の声が、鼓膜を震わせる。魔法の光が照らし尽くす首都の夜とは違う、生命の気配に満ちた、本当の夜の闇。


 縁側に腰を下ろし、空を見上げる。


 そこには、故郷の、寸分も変わらない星空が広がっていた。彼が作る光とは比べ物にならないほど、無秩序で、不揃いで、けれど、途方もなく美しい光。


「・・・なあ、親父」


 誰もいない空間に、掠れた声が落ちる。


「俺さ、成功したんだぜ。あの『魔法』の世界で、トップになった。俺と玲司が作る光は、この国の誰もが見上げる光だ。すごいだろ?」


 返事はない。ただ、遠くから寄せては返す、単調な波の音だけが聞こえてくる。


「母さん、あんたの花火の方が好きだってさ。ひでえよな、10年だぞ。

 俺がこの10年、死ぬ気で積み上げてきたものは、あんたの不器用な一発に、勝てなかったらしい」


 自嘲の笑みが、唇から漏れた。込み上げてくる感情に、奥歯を強く噛みしめる。遺影の前では流せなかった涙が、今になって視界を滲ませた。


「なんでだよ。なんで、あんたはそんなに不器用だったんだよ。

 なんで、もっとうまくやれなかったんだ!!

 時代が変わっていくのを、ただ指を咥えて見てるだけで。あんたの背中を見てるのが、苦しかったんだよ、俺は・・・!」


 叫びにも似た声が、静かな夜に響いては、吸い込まれて消えていく。


「俺は、あんたみたいになりたくなかった!貧しくて、時代遅れで、誰にも理解されないまま、孤独に消えていくなんて、絶対に嫌だったんだ!」


 だから、逃げた。だから、捨てた。

 父の生き方そのものを否定し、最も輝かしい世界へと飛び込んだ。


「・・・ごめん」


 ぽつりと、本音がこぼれた。


「最後にあんな酷いこと言って、ごめん、親父。あんたが苦しんでたのも、本当は分かってたんだ」


 言葉が続かない。後悔だけが、鉛のように重く、胸に沈んでいく。


「なあ、親父・・・?俺は、間違ってたのか・・・?


 あんたが守ろうとしてたものってのは、そんなにすごいものだったのかよ。


 俺が捨ててきたものは、俺が今、喉から手が出るほど欲しいものだったのか?」


 答えを求めるように、燈弥は母屋の裏手にある、小さな工房に目を向けた。

 父が生きた証。父が戦った戦場。そして、父が最後に夢を見た場所。


「教えてくれよ、親父。あんたは、あの場所で・・・たった一人で、一体、何と戦ってたんだよ・・・」


 その声は、夜の闇に吸い込まれていった。

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