1-1 完璧な光
首都・東京の夜景を一望する、巨大企業「ソーサリー・ライツ」の司令室。
ガラスと金属で構成されたミニマルな空間に、無数のモニターが放つ青白い光だけが、現実感なく漂っている。
床には塵一つなく、空気は高性能なフィルターを通して、最適な空気で満たされている。
故郷の、あの潮と土の匂いとは無縁の世界。
「――フェーズ3へ移行。全ユニット、同期率99.998%。誤差は許容範囲内。完璧だ、燈弥」
隣のコマンドシートに座る男――結城玲司が、ヘッドセットに鋭く指示を飛ばしながら、満足げに口角を上げた。
燈弥がコンソールに指を触れた瞬間、
東京の夜空という「空間そのもの」が書き換えられた。
そこには、「間」も、「予兆」もない。
ただの0と1の信号が、大気中のマナを瞬時に励起させ、地上数百メートルから成層圏付近に至るまでの広大な空間に、全長数キロメートルに及ぶ「光の女神」を0.1秒で顕現させた。
それは、かつて人類が空に見出したどんな光よりも巨大で、高精細だった。
女神の瞳の虹彩、翻るドレスの糸一本一本の質感までが、4Kモニターを至近距離で見るよりも鮮明に、夜の闇を塗りつぶしていく。
何十万という光の粒子は、1マイクロメートルの誤差もなく指定の座標に固定され、激しい冬の木枯らしにさらされても、1ピクセルたりとも揺らがない。
それは「光」というよりは、空に突如として現れた「実体なき巨大な彫刻」だった。
壮大なオーケストラのBGMが、都市の全方位から完璧な位相で鳴り響く。音の立ち上がりに合わせ、女神が空を舞い、その指先から数万の花弁が降り注ぐ。
その一つ一つが独立した光源でありながら、全体として一つの完璧な映像を形作っている。
だが、これほどまでの光量がありながら、司令室の温度は1度たりとも上がらない。
窓のすぐ外を埋め尽くす光の奔流に手を伸ばしても、そこには熱も、風圧も、焦げた匂いも存在しない。
ただ、網膜をハッキングするかのような、暴力的なまでの「視覚情報」だけがそこにある。
「・・・あぁそうだな」
そんな光景を、その中央のディレクターズ・チェアに座る男、星野燈弥は、ただ静かに見つめていた。
かつて父の背中越しに見た、風に揺らぐ不器用な光に心を奪われた少年。
その面影は、今の彼にはない。怜悧な表情でデータを分析し、的確な指示を出す彼は、この魔法エンタテイメント業界で、相棒の玲司と共に「伝説のタッグ」と呼ばれる、最高のクリエイターだった。
成功も、名声も、富も手に入れた。
しかし、作り出す光が完璧であればあるほど、彼の心は、色のない灰のように、静かに冷めていくのを自覚していた。
「どうした、燈弥?」
玲司が、いちはやく燈弥の異変を察知してモニターから顔を上げた。長年の相棒だからこそ分かる、僅かな視線の揺らぎ。
「いや、少し考え事をしていた」
「珍しいな。だが感傷に浸るのは、ショーが終わってからにしろ」
玲司の言葉は、職人気質で孤高だった彼が、唯一心を開いた燈弥にだけ見せる、絶対的な信頼の証だった。二人で安アパートの一室に篭り、夢だけを語り合ったあの日から、それは変わらないはずだった。
「ああ。そうだな。玲司の言う通りだ」
燈弥が前を向き、再び完璧な調和へと意識を戻そうとした、その時だった。
ポロン、と。
ポケットの中で場違いな通知音が鳴った。
燈弥は無意識に眉をひそめる。普段なら、ショーの最中に私用端末をチェックすることなどあり得ない。
だが、その一度きりの震えが、なぜか彼の心臓を冷たく掴んだ。
吸い寄せられるように、端末を取り出す。
最高精細の「女神」が夜空を優雅に舞うその影で、手元の小さな画面が、無機質な光を放った。
母からの短いメッセージだった。
『父が、亡くなりました』
たった九文字。
それが、成層圏まで届く数兆ピクセルの女神よりも重く、燈弥の視界を真っ白に焼き切った。
思考が停止する。玲司の訝しげな視線も、耳を打つ壮大な旋律も、すべてが遠い星の出来事のように霧散していく。
ただ、指先に伝わるスマートフォンの熱だけが、ひどく現実味を帯びていた。
――父が、死んだ。
その事実が引き金となり、彼がこの輝かしい世界に足を踏み入れるきっかけとなった、あの日の情景が、濁流となって蘇った。
ーーーーーーーーーー
それは、燈弥がまだ「火の粉」の熱さを誇りに思っていた、高校生のある夏の日だった。
父・聡の工房は、かつての活気が嘘のように、重苦しい静寂と火薬の匂いに沈んでいた。
三国の花火といえば、かつては全国にその名を轟かせた一大ブランドだった。
だが、今のこの場所は、時代の荒波に取り残された「火薬の墓場」に過ぎない。
すべてを終わらせたのは、あの日――首都記念祭で起きた、『空の涙事件』だった。
それまでも、事故がなかったわけではない。だが人々は、その美しさの代償として、微かな危険を黙認していた。火薬は熱く、時に人を傷つける。
だが、その危うささえもが、花火の持つ「刹那の美」の一部だと信じられていたのだ。
あの日、一瞬の突風が完璧なプログラムを引き裂き、乾燥した大気が牙を剥いた時、その「黙認」は完全に崩壊した。
連射されるはずの花火玉が地上で誘爆し、祝祭の夜空は一転、制御を失った「暴力の壁」へと変貌した。泣き叫ぶ観客、逃げ惑う人々。生中継されていたその地獄絵図は、数千万人の脳裏に、残酷な真実を突きつけた。
薄々感じていた不安が、逃げようのない事実として確定した瞬間だった。
花火は、美しく着飾っただけの「爆弾」であり、いつ牙を剥くか分からない原始的な脅威である――。
と。
そして、その恐怖という空白を待っていましたと言わんばかりに、人類史を塗り替える「世紀の発明」が夜空を支配した。
――『魔法』である。
ファンタジーになぞらえて名付けられたその現象は、人類が数千年にわたって依存してきた「燃焼」という物理現象からの決別だった。
大気中に偏在する未知のエネルギー、マナ。その存在の証明と、特殊なデバイスによって光へと変換するマナ・エミッション技術の確立は、まさにエジソンの電球以来の、あるいはそれ以上の革命だった。
そこには、火薬がもたらす熱も、視界を遮る煙も、焦げた匂いも一切存在しない。1ピクセルの狂いもなく空間に「彫刻」を刻むことが可能であり、どんな突風が吹こうとも、顕現した光は一ミリも揺らがない。物理法則という檻から解放され、リスクをゼロに書き換えたその光は、まさに人類が手に入れた「神の筆」そのものだった。
魔法によって作り出した新しいエンターテイメントは、時代のニーズに完璧に応え、瞬く間に花火から主役の座を奪っていった。
魔法を目の当たりにしたとき、燈弥は直感した。どれほど火薬を練り上げようと、どれほど「一瞬の美」を追求しようと、この圧倒的な魔法に花火が勝てる日は二度と来ない。
そう確信したのは魔法が誕生して3年後だった。
高校3年生の燈弥は、その工房で、一枚のパンフレットを父の前に突きつけた。首都にある、魔法技術専門学校の入学案内だった。
「父さん。俺、ここへ行く。花火師には、ならない」
聡は、黙って火薬を混ぜる手を止め、息子を見つめた。
「・・・魔法、か」
「当たり前だろ!もう魔法の時代なんだよ!」
燈弥の声が、工房に荒々しく響く。若さゆえの、そして事実ゆえの、残酷な正論だった。
「そうか」
肯定とも否定ともつかない、その温度のない返答。それが燈弥の焦燥に火をつけた。埃の舞う古い作業台を、拳で力任せに叩きつける。
「そうだよ!!あんたが頑固に伝統を守ってる間に、母さんは苦労して!!
俺はもう嫌なんだよ!あんたみたいに、時代のせいにして、ただ古いものにすがりついて生きていくのは!」
「古い・・・だと?」
聡の目が、一瞬だけ鋭く燈弥を射抜いた。その瞳の奥に宿る「職人の火」に、燈弥は一瞬たじろぎ、反射的に生唾を飲み込んだ。だが、ありったけの拒絶を言葉に乗せる。
「そうだよ!!あんたの作るニオイも光も全てが古いんだよ!もう終わったんだよ!!」
それが、決定的な一言だった。
聡の顔から、人間らしい表情がすべて消えた。
父はふいと息子から目をそらすと、そこに燈弥など存在しないかのように、再び作業台へと向かった。
ゴリゴリ、ゴリゴリ。
乳鉢の中で火薬の原料を砕く、重く、鈍い音が工房に響き始める。
それは、どんな怒声よりも雄弁で、冷酷な拒絶だった。
「俺は行く!あんたが捨てた『時代』の中で、俺は生きていく!」
明確な決別の言葉を叩きつけ、燈弥は工房を飛び出した。
背中に浴びたのは、夏の湿った風と、最後まで肌にまとわりつく、古い火薬の匂いだけだった。
ーーーーーーーーーー
「・・・燈弥!おい、燈弥!」
玲司の声で、燈弥は灰色の過去から、灰色の成功の現実へと引き戻される。いつの間にか、ショーはグランドフィナーレを迎えていた。
夜空に、設計図通り、一寸の狂いもなく描かれた巨大な光の翼が広がっていく。
「本当に大丈夫か?なんだったら、今日は休んだほうが?」
「いやすまない。問題ない。続けよう」
燈弥は、感情を押し殺した声で答えた。視線は、モニターに映る「完璧な光の翼」に固定されている。
父が死んだ。
あの日の言葉を、謝ることも、訂正することも、もう永遠にできなくなった。
唇を強く噛みしめ、目の前の光景に集中する。
モニターの中で、完璧な魔法の光が、何事もなかったかのようにクライマックスを飾り、街全体が白い光に包まれる。
直後、司令室のモニターが爆発するように明滅した。
賞賛のコメント、目標を大幅に上回るインプレッション数、そしてクライアントからの絶賛メッセージ。そのデジタルな熱狂が、洪水のように流れ込んできた。
「やったな、燈弥!また伝説を作っちまった!」
玲司が、興奮を隠せない様子で燈弥の肩を叩く。その掌の熱ささえ、今の燈弥にはどこか現実味を欠いていた。
「クライアントも大満足だ。来年の記念祭のコンペは、もう俺たちのものだな!」
大成功だ。誰もが賞賛する、完璧な大成功。
しかし、その熱狂の中心で、燈弥は、ただ一人、どうしようもないほどの静寂と孤独を感じていた。
ポケットの中のスマートフォンが、まるで鉛のように、重い。




