0-1 あの時見た光
夏の夜気が、祭りの熱を吸い、日本海の潮の香りを乗せて生ぬるく肌を撫でる。
サンセットビーチを埋め尽くしていた何十万という人波が引いていく。
残されたのは、波の音、屋台から漂う砂糖や醤油の焦げる匂い、そして祭りの終わりを惜しむかのような、ざわめきの余韻。
その全てが溶け合った空気が、九歳の星野燈弥の瞼を、とろりと重くしていた。
「・・・お父さん、まだ?」
花火師たちのための立入禁止区域、砂浜の一角。
父・聡の大きな背中に全体重を預けながら、燈弥は尋ねた。昼間にはしゃぎすぎた体は、もうとうに限界だった。少しだけ大きい藍色の甚平の裾が、砂でじゃりじゃりになっている。
「もうすぐだ、燈弥。とっておきの、いいものを見せてやる」
聡の、低く、少しだけ掠れた声が頭上から降ってくる。その声には、普段の無口で不器用な父からは想像もつかない、静かな熱が宿っていた。
沖に浮かぶ打ち上げ台船と浜辺を繋ぐ、慌ただしい伝馬船のエンジン音の合間に、父の親友であり最大の好敵手、岩田源蔵の不満げな声が響く。
「ちっ、聡。去年は、うちの『八重芯菊花』の方が歓声は大きかっただろうが。なんで今年も、お前がトリなんだ」
「ああ、確かにお前の八重芯は見事だった。寸分の狂いもねえ、完璧な真円。まさに職人技だ」
「ふん、当たり前だ」
そう言って源蔵はまんざらでもなさそうに頬をポリポリとかいた。
「だがな、源蔵」
聡は、夜の闇に溶ける水平線を見据えたまま、続けた。
「俺たちが魅せるのは、空だけじゃねえ。この三国の海、そのものだ」
大人たちの会話の棘は、幼い燈弥には分からない。ただ、父の背中から伝わってくる、確かな高揚だけが、まるで自分の心臓の音かのように、燈弥の体にも響いていた。
その時だった。遠く沖合の台船から、最後の伝馬船が戻ってくる。それを合図に、聡が立ち上がった。
『ヒュルルルル・・・』
空気を切り裂く鋭い音ではない。海面を滑るような、低く、唸るような音。
聡が投下した花火玉が、夜の海に吸い込まれていく。
一瞬の静寂。波の音だけが、やけに大きく聞こえる。
次の瞬間、世界が揺れた。
『ゴゴゴゴゴッ!!!』
腹の底から内臓を直接揺さぶられるような、轟音。それは空で鳴る「ドン」という音とは全く違う、海そのものが叫び声を上げたかのような、重く、そして圧倒的な音圧だった。
それと同時に、海面が爆発し、巨大な真紅の半球が、夜の海に咲き誇る。
水中花火
光は海面を完璧な鏡として、寸分の狂いもない真円を完成させる。空に咲く花火とは比べ物にならないほど、粒子の一つ一つが濃く、力強い。
「――わぁ・・・」
誰かの感嘆の声が、魔法が解けた合図だった。次々と海面に叩きつけられる光の芸術。緑、青、そして錦。海をキャンバスにした壮大な光のショーに、幼い心は根こそぎ奪われていた。
「どうだ燈弥。俺たちの花火は」
父が、少しだけ得意げに言った。
「うん・・・すごい」
どれくらい時間が経っただろうか。ふと、燈弥は海から目を離し、隣にいる父の横顔を見上げた。
父は、笑ってはいなかった。
自らが海に放つ作品を、まるで我が子の晴れ舞台を見守るかのように、あるいは、祈りを捧げるかのように、厳かで、誇らしげな、真剣な眼差しで見つめていた。爆発的な閃光に照らし出されたその横顔は、燈弥の知らない、まるで魔法使いのような顔をしていた。
「・・・くるぞ」
父が、ぽつりと呟いた。プログラムの最後。本当の、たった一発。
沖の方から、ひときわ大きな花火が、空へと打ち上がる。
ドン!
と、空に咲いた。
そして、その花火は、それまでのどれとも違っていた。
赤みがかった、温かい金色の光の粒が、泣いているかのように、ゆっくり、ゆっくりと、地上に向かって降り注ぐ。それは完璧な円ではない。海からの風に煽られ、少しだけ形を崩しながら、それでも一本一本の光が、まるで意思を持っているかのように、燃え尽きる最後の瞬間まで、懸命に輝こうとしていた。
金色の枝垂れ柳
二度と同じものは見られない、たった一度きりの、儚くて、どうしようもなく美しい光の雨。
「・・・すげぇ」
燈弥は、父の節くれだった大きな手と、源蔵の岩のような腕の間で、硝煙と潮の匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。
その瞬間、燈弥はなんとなく理解した。
夜の海を揺るがす、あの圧倒的な花火の「力」。そして、夜空を優しく包み込む、この枝垂れ柳の「心」。その両方を生み出すこの人は、ただの職人じゃない。
この無口で、不器用で、うまく笑うことすらできない自分の父は、己の魂を燃やして、世界に『祈り』を打ち上げる男なのだと。
「・・・変なニオイ」
少し火薬臭くて、しょっぱい海の匂いが混じったその香りは、彼にとって、生涯忘れることのできない、父の匂いになった。




