結婚してから一度も手をだしてこない年下の夫のために「愛人を作ってもいい」と言ったら
アリア・トリクトルは窓辺のイスに座って、膝の上で開いた流行の恋愛小説をぼんやり見つめている。
結婚してからもう半年。
──けれど、その間に夫と肌を重ねたことは一度もない。
政略結婚だった。それはわかっていた。
トリクトル家とアリアの生家であるエアズライン家。双方の利益のための縁談に恋愛感情など必要ない。
だから──彼に愛されないことは最初から覚悟していた。
……それでも。
夫婦として暮らしていながら、彼の指先は未だ自分にふれてこないという冷えきった関係は思っていた以上にアリアの胸をしめつける。
「……やっぱり、私に魅力がないのかしら」
シュード・トリクトル。十九歳。
彼の髪は新月の夜のように黒く、青い瞳は氷のように冷たい。無口で、なにをしていても表情はほとんど変わらない。
冷たいひと、とささやく者たちがいることは知っている。けれど彼は冷血漢ではない。
パーティのときはアリアを完璧にエスコートしてくれるし、トリクトル家の使用人たちが年上の妻に敬意をはらえるよう抜かりなく申しつけている。
彼はアリアを妻として認めてくれている。そのはずだ。
なのに……夜のことだけは、まるで存在しないかのように避けられている。
──こんな甘い恋なんて、
小説の中ではヒロインがヒーローに激しく抱きしめられている。
貴族の家に生まれた以上、恋愛結婚なんて望むべくもない。でも、ほんとうはだれかに強く愛されてみたかった。恋愛小説のヒロインのように。
アリアは溜め息を落とし、本を畳んで棚にもどした。きょうは実家に顔をだす日だ。
父や母に心配をかけたくない。ましてや夫婦生活のことでなんて。
でも……妹のセレになら、弱いところを見せてもいいかもしれない。
トリクトル家に勝るとも劣らないエアズライン家の屋敷。その客間で、妹のセレはアリアを見るなり目を輝かせた。
「お姉さま、相変わらずおきれいね! まるで女王陛下みたいよ」
「からかわないで、セレ」
「からかってなんかないわ。ほんとよ?」
セレは十九歳。流行の巻き方をした栗色の髪に、いたずらっぽく光る緑色の瞳。
ふたりの髪と目は同じ色だ。けれど性格は正反対で、セレは言いたいことをなんでも言ってしまう。
彼女は昔からよく異性に求愛されていた。
セレならなにか助言をくれるだろうと、アリアは胸の内をぽつりぽつりと打ちあけることにする。
「シュードさまとは、今月で結婚して半年になるの」
「まあ、もうそんなに経つのね! そろそろ嬉しい報せも聞けるのかしら。ねえ、赤ちゃんを最初に抱っこするのは私よ?」
アリアはぐっと次の言葉に詰まる。セレが無邪気に放ったそれは、まさに核心を突くセリフだったから。
アリアは自分の膝の上に置いた手をぎゅっとにぎりしめた。
「それは……わからないわ」
「?」
「もう半年。もう半年経つのに、シュードさまとは……その……夫婦らしいことを、まだ一度もしていないの」
「あら、そうなの?」
「私、あのひとにきらわれているのかもしれないわ」
アリアの声はかすかに震えた。
妻失格。そう思われても仕方ない。
セレはなにか閃いたように瞳を輝かせた。
「わかったわ。それ、お姉さまが年上だからじゃない?」
「え?」
「だって、お姉さまは二十四歳でしょ? シュードさまは十九歳。五歳もちがうじゃない。男のひとって若い女の子のほうが好きって言うでしょ?」
それは胸に棘のように突きささった。
政略結婚だと割りきっていたつもりなのに──「若い女の子のほうが好き」なんて言われると、彼より年上の自分がどうしようもなく惨めになる。
セレはにこにこ笑いながら言った。
「うん、きっとそうよ! シュードさまはお姉さまに女としての魅力を感じてないんだと思う。きっと年下の子が好きなのよ」
「…………」
「シュードさまにはもっとふさわしい女性がいると思うわ」
その「ふさわしい女性」という言葉にアリアの胸が痛む。
ふさわしい女性。若くて、明るくて、いつでも笑っているような……たとえば、セレのような女性。
──もしそういうひとがシュードのそばにいれば、彼は幸せになれるのかもしれない。
アリアは手つかずのカップを見つめ、そこに映る自分を消すようにまぶたを閉じた。
実家からの帰り道、馬車に揺られながらアリアはずっと考えていた。
シュードのために自分ができること。
──それは、彼がほんとうに望む女性をそばに置けるようにすることではないか。
その夜の夕食は銀の燭台が照らす食卓でおこなわれた。
間には白いクロスと大輪の赤いバラ。使用人たちは壁際でひかえている。
シュードはいつもと同じように黙々とナイフとフォークを動かしていた。
「……ご実家はいかがでしたか」
不意に低い声がした。シュードが食事中に口を開くなんてめずらしい。
アリアはちょっとどきりとする。
「え、ええ。みんな元気そうでしたわ」
「セレさまのお風邪は?」
「もうすっかり。お見舞いの果物をありがとうございましたと言っておりました」
アリアは微笑もうとしたが、心はざわついている。
セレが風邪をひいたのは一ヵ月も前のことだ。それを気にしてくれているなんて、このひとはほんとうに優しい。
……だからこそ言わなければ。
彼を幸せにするための言葉を。
食後、珈琲の香りがテーブルに広がる。
火傷しそうなほど熱いそれを一口飲んだあと、アリアは心を固めた。
「シュードさま。突然なにを言いだすのかとお思いになるでしょうが、」
「はい」
「……愛人を、作ってもいいのですよ」
カップを口に運ぼうとしていた彼の手がぴたりと止まった。
青い瞳がゆっくりとこちらを見つめる。
「……なんですって?」
「あなたには、もっと……もっとふさわしい女性がいると思うのです」
視線は上げられなかった。それでも、必死に言葉を紡ぐ。
「たとえば、年がつりあうような。たとえば、明るくて周りも笑顔にできるような。たとえば、あなたをもっと幸せにできるような……そんなひとが。
だからどうか……私のことは気にせず、愛人を作ってください」
食卓に沈黙が落ちる。
アリアの耳の奥で自分の鼓動がうるさいほど響いていた。
イスが静かに引かれる音がした。シュードは立ちあがり、アリアを見下ろす。
「アリア。ふたりきりで話をしましょう」
アリアはうなずき、先に廊下にでた彼の後を追う。
背中越しに見える黒髪は蝋燭の光に照らされて赤く輝いていた。
シュードの部屋は彼らしい整然とした空間だった。
壁際には本棚、机の上には乱れのない書類の山。カーテンはきっちりと引かれ、ランプの明かりがやわらかく部屋を照らしている。
「座ってください」
彼の指示に従い、アリアは部屋の中央に置かれたソファに腰を下ろした。
膝の上で両手を握りしめると──これはアリアの小さいときからの癖だ──自分の指がみるみるうちに白くなっていく。力が入りすぎているせいだ。
シュードは机の脇に立ったまま、しばはく口を開かなかった。
静寂の中でランプの炎が生きもののように小さく揺れている。
やがて、低く、押しころしたような声が聞こえてきた。
「あなたは、私があなたを望んでいないと。そう思っているのですか」
「……ちがうのですか?」
アリアは思わず問いかえした。
シュードは彼女をまっすぐに見つめる。
「十年前。覚えていませんか」
「十年前……?」
アリアは記憶を探る。だが、思いあたることがなくて首を傾げた。
「私がまだ九歳のときです。私は父に連れられて貴族たちの夜会に出席しました。あなたは……淡い青のドレスを着て、バルコニーで月光に照らされていた」
アリアの胸の奥がかすかに揺れた。
その夜会のことははっきり覚えている。
なぜなら、そのお気に入りだった青いドレスはセレにねだられて彼女のものになってしまったから。それがあのドレスを着た最後の夜会だったからだ。
──あの夜はたくさんのひとがいた。だから、そこにシュードがいたかどうかは覚えていないけれど。
シュードの声が続く。
「そのとき、俺は……あなたに恋をしました」
アリアはぽかんとする。
「え……?」
──恋? いま、彼は私に恋をしたと言ったの?
「一目惚れでした。俺はそれからずっとあなたのことだけを考えて生きてきました。ほかの女性なんて目に入らないくらいに。
だから、あなたとの縁談がきたときどれほど嬉しかったか。それを表にださないよう、どれだけの努力が必要だったか。あなたは知らないでしょう」
「……っ、そんな……」
「そして……。この強すぎる想いをあなたにぶつけたとき、あなたを壊してしまわないか、俺がどれだけ不安になっているのかも」
青い瞳にふっと影が差す。
「……でも、まさかそんなふうにあなたを悩ませてしまっているとは思っていなかった。辛かったでしょう。申しわけない」
アリアの喉が詰まる。
この半年、彼が自分を拒んでいるとばかり思っていた。
けれどほんとうは──彼はアリアを大切にしてくれていただけだったのだ。
大切に、大切に。
ふれたら壊れてしまうかよわい花のように。
「……アリア」
彼の声がする。
恋愛小説のヒーローのように、自分を呼ぶ彼の声が。
「あなたさえよければ。
今夜こそ、俺の妻になってほしい」
アリアの胸に熱いものが込みあげる。
自分は彼を幸せにできないと思っていた。
でも、いま彼が求めているのは──いや、彼がずっと求めていたのはほかでもないアリアだった。
まるで、小説の中のヒロインのように。
「……はい、あなた」
シュードの二の腕に抱きしめられた瞬間、アリアの目から涙があふれた。
それでもアリアは笑っている。初めて知る、年下の夫のたくましい腕の中で。
「愛しています、アリア。もう二度と離さない」
彼は痛いくらいにアリアを抱きしめてくる。
その力がこれまでの半年間をまるごと抱きしめてくれているようだった。
窓の外では小鳥が朝を歌っている。
窓とカーテンの隙間からこぼれる光が昨夜のできごとを優しくなでていくようで、アリアはくすぐったい気持ちになった。
──昨夜。シュードの告白。
そして、ためらいがちな──それなのに熱っぽい──口づけから始まった、初めての夜。
昨夜は十年分の想いをぶつけられた。思いだすだけで頬が熱くなる。
……彼がこんなに私のことを愛してくれていたなんて。
隣には静かな寝息を立てる夫がいた。
いままで乱れたところなど見たことが黒い髪が乱れ、彼の額にかかっている。
その寝顔はいつもより幼く見えて、十九歳という年齢をふと意識させられた。
アリアが彼の胸に頬を寄せると、ゆっくりと彼のまぶたが開く。
「……おはようございます、アリア」
「おはようございます、あなた」
自然と笑みがこぼれる。
こんな気持ちになったこと、いままでなかった。
「眠れましたか」
「……ええ、おかげさまで」
だんだん恥ずかしくなってきて視線を逸らす。そこをシュードに抱きしめられた。
彼はアリアを見つめ、子供のような声音で言う。
「もう愛人を作れだなんて二度と言わないでください。俺にはあなただけです」
「……はい」
「もし次言ったら──」
「言ったら……?」
シュードはふっと微笑む。
『もう二度と離さない』。昨夜の言葉がアリアの頭をよぎった。
「……あなたを閉じこめてしまうかもしれませんね。俺が、あなたをどれだけ欲しているかわかるまで」
後日。姉の夫をセレは「ふたりだけで話がしたい」と屋敷に呼びだした。
「シュードさま。ご無沙汰してます」と人懐っこい笑みを浮かべたセレはさっそく客間から人払いをする。
そして、ソファに座ったシュードの隣へと腰かけた。
「……セレさま、どうかいたしましたか?」
「大切なお話ですの。このまえお姉さまがここへ相談にいらしたのですが──」
シュードの眉がぴくりと動く。
──馬鹿正直なとこしか取り柄がない姉だ。あのあと、きっとシュードには離れて暮らしたいだの愛人を作ってもいいだの言っただろう。
そう言われて彼がまっさきに思いうかべたのは私のはず。
いつだってそうだ。身近な異性はみんな、陰気でどんくさい姉よりも私を選んだのだから──。
そう。シュードさまにふさわしいのは、お姉さまではなく私だ。
「もうお姉さまからお話はありまして? 愛人を作ってほしいというような……」
「…………」
「ええ、シュードさまは真面目な方ですもの。抵抗があるのはわかります。でも実際問題、跡継ぎは残さなければならないでしょう?
でしたら私を選んでください。私ならお姉さまのこともよく知っていますし、お姉さまも下手な女が家に入りこむよりよっぽど安心できるはずですわ。それに、お姉さまよりも若い私でしたら必ずシュードさまをご満足させられると──」
はあ、とシュードが溜め息をついた。
それがどういう意味かわからず、「シュードさま?」とセレは首を傾げる。
「……あなただったのですね。アリアに妙なことを吹きこんだのは」
「まあ。お姉さまのためを思ってアドバイスをしただけですわ」
「愛人を作れと?」
「シュードさまにはもっとふさわしい女性がいますもの」
セレはシュードに体を寄せる。
姉にすこしでも気がある男はこうやって自分のとりこにしてきた。男なんて単純だ。ちょっと上目づかいで見てちょっと体をふれさせるだけで簡単に落ちる。
シュードだって例外では──
「失礼」
セレを《《紳士的に》》押しのけるとシュードは立ちあがった。
それを照れてるだけだと解釈したセレは「恥ずかしがらないで?」と彼の手をにぎろうとする。
今度は、はっきりと拒絶された。
セレはぽかんとする。
「しゅ、シュードさま……?」
──なに。なにが起こっているの?
「そういう話なら私は帰らせていただきます。時間の無駄だ」
「ま、待ってください。姉とは上手くいっていないのでしょう?」
「それは過去の話です。私はもう──自分の気持ちにふたをすることをやめました。私が愛するのは生涯でただひとり、アリアだけです」
──なにかがおかしい。
セレの誘惑に抗った男なんてこれまでひとりもいなかった。姉といい雰囲気になっていた男だってそう。
姉の男なんて、私が誘えば一瞬で落ちるはずなのに。
「本日はお招きいただきありがとうございました。私がここをひとりで訪問するのはこれが最後になるでしょうが」
「ま、待って……! もうちょっとだけふたりでお話を、」
「失礼ですが、それだけの価値がご自身にあるとでも?」
「……っ!」
「もちろん価値観は人それぞれですが──姉の夫とふたりきりになって馴れ馴れしくしてくるあなたよりも、一歩引いて私を支えてくれるアリアのほうが私にとって好ましいのです。私のことで悩みすぎてしまう不器用さもふくめて」
シュードはセレを見下ろす。
燃えるような怒りを込めた瞳で。
姉を見るときとは比べものにならないであろう冷たい瞳で。
「──二度とアリアを傷つけるな。わかったな」