『後章:Liebe im Schatten』
<土曜日 11/01> AM 10:00
意識が朦朧とする。何とか立ち上がろうと、足に力を入れても曲がってしまう。倒れそうになった俺を、良く見知った男が駆け付け、そのまま受け止めた。
「おい、大丈夫か…。」
「頭痛てぇ…ズキズキする。気持ち悪い。」
その言葉に心配するような表情を浮かべると、よろよろと自分で立ち上がった俺をキッチンまで連れて行き、彼が水を差しだしてきた。
「…俺、酒飲むなって言ったよな?」
「言った…。すまん。」
冷たい水を飲みつつ、突然動いたことで吐き気を抑えようとしたが。堪らず嘔吐いた所で、ラモンがビニール袋をあてがってくれた。
「お゛あ゛っ゛……死ぬ。」
「その位で死なねぇよ。大丈夫か?」
背中をさすられて、はぁっと息をつく。濡れたタオルで口元を拭かれ、罪悪感で彼を見上げたら。やれやれと言った形で笑われた。
「すまん…吐いたら落ち着いた。」
「まあまあ、一体どうしたらそんなになるんだ?昨日まで普通に仕事をして…まあ、具合が悪そうではあったか。」
「そんな記憶はない。」
「…相変わらずだな。平常運転で何より。」
いつの間にか床にしゃがみ込んでいた俺は、ラモンに支えられながら立ち上がると、そのままキッチンの椅子に座らされた。大量に呑んだ為、目元が熱く身体がぼんやりと渦を巻いている。
耐えきれずに息を吐いたら、追加で水を飲まされた。
「さすがに…もう要らん。」
口元に充てがわれた水分を押しのけ、くらくらと眩暈がする視界の中で、そっと俺の前髪を払う手に触れた。涙が溢れそうだが、何の感情が押し寄せているのかも分からない。ただ、漠然とした苦しさに殺されないよう、俺は彼の指先を握った。
「なんだ?…この酔いどれめ。」
少し笑いを含んだ声に、安堵する気持ちがある。このまま眠りに落ちてしまえば、きっと心地良い夢を見ることが出来る。そんな、都合がいい解釈を胸に、俺は静かに微笑みを浮かべた。
「きっと俺は、何か脳の芯まで焼けるような。そんな、出逢いを果たしたんだろうな。より高みへと昇り詰める為、こんなになるまで酒を飲む程…。」
懺悔をするようにするりと出た言葉に驚く。やはりまだ酔っているのだろうか?抜け切れていない甘い毒。心臓に蓄積されて身体中を脈打たせる、そんな媚薬染みた効力で、俺は思わず椅子にもたれかかった。
「バカな奴だな。幸せならそれで良いじゃないか。」
「違うんだ。」
言葉は更に紡がれる。明りが点滅して眩しい…やはりこのまま寝てしまおうか。頭を撫でている手が優しくて気持ちいい。俺は抗えない、睡魔に身を落としながら呟いたのだった。
「幻影を手に入れたって…寂しさが募るだけだろう?」
彼の返答は、もう俺には聞こえなかった…。
――数時間前――
「おい、大丈夫かよ?」
「あ゛…う゛…。」
死に掛けのボロ雑巾を拾った。といっても、外観は黒猫と見間違う程、しなやかで美しいし。何しろその性格が、なかなか良い。ぱさぱさと跳ね回っている、黒髪を撫でたら、彼は気持ちが悪そうに灰色に染まる瞳を歪めた。
「リヒテン…仕事モードのお前か?それとも休日モードか?」
「知゛ら…ん。何ぉ…ごと?」
「休日モードだな。ほら、さっさと帰るぞ。」
厄介な友人を持つと骨が折れる。俺は目が飛び出るほど高い会計を済ませ、少々小柄ではあるが十分に重い男を担ぎ上げて、溜息と共に家路を急いだのだった。
「ん…あ゛?」
「仰向けになるな、横を向け…水は飲めなそうか?」
ソファへ転がすと何かを求めるように仰向けになって、俺へと手を伸ばすので横に寝かせた。もし吐いた時、喉へ詰まらせてしまわないよう、体勢を整える。虚ろに震える瞳を隠す、やや長めの前髪を払って、唐突に溢れ出した彼の涙を見つめた。
何があったのかも分からない。俺の知らない所で、彼が誰と出会い、何を想って、絶望したのか。一瞬の喜びが潰え、自らを壊そうと、非難されるべき道を選ぶのか。
「今回も教えてくれないのか?」
「っ…?う゛?」
少なくともこの状態では、無理か。血色の悪い頬を伝った涙に触れ、その指先で赤みの少ない唇を掠める。
「信用されてないのか…何なのか。分からないな…。」
呟いた言葉が余りに寂しさを含んでいたので驚く。俺は頭を振ると、経口補水液か何か冷蔵庫に入ってないかを、確認するため、彼から離れてキッチンへと向かったのだった。
――更に数日前――
<月曜日 10/27> AM 06:00
眠気と共に起き上がる。酷い気分に吐き気がしたが、都合の悪いことに。目覚まし時計の音で起きてしまったらしい。
「なんだ…此処は。」
シンプルでグレーを基調とした部屋。あまりに整理整頓が行き届いていて、頭痛がしてきそうだ。小難しそうな書籍が、ずらりと本棚へ並べてあり。ピシッとしたスーツが鞄と共に、椅子へ置かれていた。
「…俺は一体誰の部屋に泊ったんだよ。随分と神経質そうな…。」
取り合えず二度寝をしようとベッドに向かいかけたが、そんな気分でもない。さっぱりとした気分になろうかと、シャワールームへ行き先を変えた。
「昨日どうしたんだっけ…ラモンの飯を食って。でもデザートを食べてないような…?」
首を傾げたが、答えはない。俺は溜息を付くと、ぐしゃぐしゃと髪を掻き毟った。
「取りあえずシャワーを浴びて、それから考えよう。」
そう、良いんだよ。誰も答えは知らない。まとわりつく影が、ただずっと俺を閉じ込めようと蠢いている。ぐらついた身体を支えてくれる人は…きっともう二度と現れない。
「ごめんな…。」
弱々しい声は、誰にも聞こえることなく。冷たい水を浴びせるシャワーの音にかき消されて、涙と共に流されてしまった。
<火曜日 10/28> PM 17:00
ショーウィンドーに映った姿に少々の嫌悪感を覚えるが、僕は目の前の男を小突くように笑った。クシャっとした黒髪、ややぼやけた表情で、特徴を持たない顔。濁った灰色の瞳は、まるで冷徹さを強調するようで好きじゃない。
「知らない男みたいだ。」
小柄な体躯には似合わない、スーツにコートを重ねて。まるで、自分の権力や地位を誇示するように、黒く硬い鞄を持っている。この姿で、大輪の薔薇でも持ってみろ。
「お笑い草だ。誰がお前を好きになる。」
誰もが見惚れる夕焼けを硝子に、封じ込めてしまえたら。僕はまるで怪物のように吠え、喜ぶのだろう。自分で自分を愛することが、どれほどの快感を伴うか知ることになるだろう。
「俺だけがお前を好きになる…。」
ショーウィンドウの向こう側には、可憐な女性によく似合いそうな、薄い生地のワンピースが飾られていた。
<水曜日 10/29> PM 12:30
「なんだか、良くない夢を見たんだ。」
僕はポツリと呟いた。頭の中は彼女でいっぱいで、だけどそれ以上に昨日の悪夢がぐるぐると胸の内で回っていた。
「どんな夢だ?」
「そもそもリヒテンって、どういう夢を見るの?想像がつかない。」
同期の男が、やけに真剣な顔で尋ねてくる。コーヒーを飲みながら、決裁書を読み込んでいた女性…ルイーゼも、顔を此方に向けると。僕に美しい眉を上げて、問い掛けてきた。
「いや、なんか...。」
二人の勢いに僕は思わず言い淀んだが、グリーンの瞳でじっと僕を見つめる同期の彼を見て、言葉を選びながらも、話し始めた。
「大した夢じゃない…ただ、ぐるぐると廻っている夕焼けで、自分が話す言葉だけ、ぼんやりと聞いているんだ。それがいつか、星に成って宇宙は傾き、手で掻き分けたら、特製の不味いジュースが出来た。」
数多の惑星を掴んだと思ったら、そのどれもが僕のモノじゃなかった。双子座と乙女座が愛し合う姿を見せつけられ、いつの間にか僕は目覚めていた。
「抽象的ね。まあ、夢だもの仕様がないわ。」
「その夢を見て、お前はどう思ったんだ?俺達に話したいと思う程、自分に訴えかける何かを感じたとか?」
そう言われると分からない。けれど、僕はポツリと呟いていた。
「ううん…。でも、僕は良いなって…羨ましいなって思った。誰よりも愛されて、いつしか綺麗な花が咲く。宇宙の中核で、白銀の鴉に生まれ変わった。僕と言う、夢の中の存在を。」
ずっと美しい形に成りたかった。でも、僕には無理なんだ…。
「今の話にそんなシーンあったかしら…?」
「…なかったよ。」
「すべてを言葉では語り尽くせないさ。そうだろう?」
そっと頬を撫でられる。でも、僕の瞳には、現実を見つめて誰より美しく輝く、ルイーゼの姿だけが映し出されてた。
「うん…。」
昼過ぎのランチタイムに、少しの静寂と悲しみが降る。僕は、辛さに目を閉じて、深いため息と共に涙を押し殺したのだった。
<木曜日 10/30> AM 3:00
『ん?もう起きたのか?』
「ああ…。」
ぼやける視界に俺はぼそりと答えた。やけに、明瞭な頭の中とは異なって、彼方此方から声が聞こえてくる。その一つに応答を返したら、生々しく身体を抱かれる感触があった。
「…放してくれないか?不快だ。」
『…嫌だね。』
嘲笑う声が耳元で、甘く唸っている。良くない時間帯に起きてしまった事を、後悔するがもう遅い。誰にも悟られぬまま、俺は闇に体が溺れていくのを、じっと耐えるしかなかった…。
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携帯を眺めると、既に午前5:00を過ぎた所だった。
「はぁ…。」
シャワーを浴びる為、身体を起こして少し汗ばんだ髪を振る。ふと、背後から優しい声がしたのを感じて、俺は思わず微笑んだ。
『大丈夫?疲れている様子だけれど…。』
「なんて事はない。」
奇麗な髪を撫でると妖精のように軽やかな身体が、ふわりと風に揺れる。金褐色の瞳に、俺の姿が映っていることが、少し悩ましく。でも、嬉しかった。
「シェイン…まだ眠ってていいぞ。お日様も顔を出してないからな。」
『そう…貴方は…?』
「俺は風呂入ってから、もうひと眠りする。」
『…分かったわ。』
額にキスをすると目を閉じて、彼女は眠りに落ちた。今日も日々は続いていく。終わらない地獄と、連星が呼び込んだ幻想だけを愛して…。
「おやすみ…。」
俺は誰も居ない部屋で、布団をのけると。手で顔を覆ったまま、深い溜息を付いたのだった。
<金曜日 10/31> PM 17:00
「おい。リヒテン、何処へ行くんだ!」
「別に…仕事は終わったんだ。何処へ行こうと勝手だ。」
夕焼けを背景にして、僕は襲いかかってくる、吐き気をぐっと堪えていた。黒い鞄を震える手で掴み、眩暈から来る頭痛に目を瞑る。肩を掴まれたので、無意識に手を叩いてしまった。
「待てよ。明日から休日なんだから一緒に…。」
「あら、リヒテンにラモンじゃない。二人とも何してるの?」
ひくりと胸の内が震えて、僕は口を手で覆った。そんな様子に、彼女が驚いた表情を向ける。
「大丈夫…?」
「ルイーゼ…君が心配する必要はない。大丈夫だから、気にするな。」
「顔色が悪すぎる…。病院へ…。」
僕の状態を見て、慌てたように介抱しようとする男…何かを悟ったように僕を見つめるルイーゼの瞳が、更にグサグサと心を突き刺す。
「良いから…。二人ともまだ仕事が在るんだろ?」
「でも…。」
僕は逃げるように、彼等の制止を振り切って職場を後にし、大通りまで駆け足で行くと。吐き気を訴える胃袋を無視して、安いバーへと向かったのだった。
―同日夜(PM 21:00)―
「はぁ...。」
さすがに飲み過ぎで足がふらつく。痛みを訴え出した頭を抑えて、よろよろと僕は道を歩いていた。余りある綺麗さを誇る月、絶好の死に場所を見て、僕は歓喜する。
「どうして、人は愛さずにはいられないんだろう。Eveを愛してしまう宿命を、Adamは拒めないように。誰かにベールを被せたい欲求を、止められない。」
骸骨が響かせた、オーケストラで罪を嬲る。青く染まった恋心は熟れて、毒を満たすだけだ。冷めきれない熱病は、此処で終わり。シャドーミラー。
「終わりだ…。」
ぼそっと呟いた声の低さに驚いたその時だった。
「此処に居たのね…。」
はっとして、僕は後ろを振り返った。美しい姿、思わず腰に手を添えると、嫌がる様子もなく少女はそれを受け入れた。
「口付けても…?」
「ううん。怒られちゃうから、ダメよ。」
彼女が愛らしく、微笑んで言うものだから、嫉妬心だって失くしてしまう。折れてしまいそうな程、細い素足に気付いて、僕は膝の上に少女を乗せた。
「少しだけだ…。なあ、良いだろ?」
「ううん…お月様が泣いちゃうわ。だからダメなの。」
物語の主人公が、ふわりと笑って僕の唇を指で押さえる。その仕草を見て、彼女にキスを赦される人物なんて、この世に一人も存在しないだろうと思った。
「そっか。じゃあ仕方ないや。」
ぎゅっと抱きしめると、懐かしい感覚があった。首元へ顔を近づけたら、良く知った香水の匂いがした…。でも、それ以上にシェインが漂わせる、幼さの中の蠱惑的な優美さに、僕はバラバラの音を奏でて震える心臓を奪われていた。
「大好きよ…。」
「僕もだ…。」
だけど何かが引っかかっている。辛そうに瞳を歪ませる、彼女の顔を僕はよく知っている。瞳の色は違うけれど…。それは、誰でもない…。
「君を知ってる気がする。」
「そうね…。」
彼女の悲しみが、触れるだけで伝わってくる。まるで想い出の映画を見ているように、無邪気な表情と……壊れたテープを巻き戻す、グレースケールでは全ては判らない。
「ごめんなさい…。」
「君は…。」
そう、僕は頬に手を添えて、林檎を楽園で砕くように。罪深くも彼女に触れようとした。内に秘めた熱の在処を探ろうと。その瞬間だった。
"Bitte, jemand liebt mich. Auch wenn ich bin ein Schatten."
(誰か僕を愛して。影であるこの僕を。)
「貴方…誰に話しかけているの?」
通行人の女性が、少し怯えたように僕を見ていた。
「…え?」
目の前にあるウィンドウに、注ぎ込まれる一筋の月光。トルソーに降り立った花嫁は、真っ白なドレスを煌めかせ、僕と向かい合うように佇んでいる。
「…。そっか…。」
頬を一片の涙が伝う。心を硝子の破片が貫く。僕は、白銀の蝶が飛び立つ宵闇へ、手を伸ばしてバラバラに砕け堕ちる理想郷へ、別れを告げたのだった。
次の章で最後です。