●第2章:『暗闇に輝く理知の灯』
夜が明けても、事態は好転しなかった。山賊たちは立ち去るどころか、館を完全に占拠してしまったのだ。
地下室で一夜を明かしたアイリス達は、状況を把握しようと努めていた。上からは、家具を倒す音や、怒鳴り声が時折聞こえてくる。
「お嬢様、これからどうされます?」
ヴァルターが静かに尋ねた。
アイリスは羊皮紙に目を落とす。これは、父が残した最後の謎解きだった。数式に隠された暗号。そして、それは何かへの道標なのかもしれない。
「まず、彼らが何を探しているのか、知る必要があるわ」
アイリスは冷静に状況を分析し始めた。
「この館には、まだ私たちの知らない秘密が隠されていると思うの。父は、その場所を示す手がかりを、この数式の中に残したのよ」
ヴァルターとマーサは、驚きの表情を浮かべた。
「では、あの山賊たちも、その秘密を?」
「ええ、でも彼らは、この数式の意味は理解できないわ。だからこそ、こうして荒っぽい捜索をしているのね」
アイリスは立ち上がると、地下室の壁に掛けられた古い地図を見つめた。これは館の見取り図だ。父は時々、この地図を眺めながら何かを考えこんでいたという。
「ヴァルター、マーサ。私には策がある。でも、少し危険かもしれない」
二人の老使用人は、固い決意の表情で頷いた。
「お嬢様のために、私どもはどんなことでも」
アイリスは感謝の笑みを浮かべた。この二人がいれば、きっと道は開けるはず。そう信じられた。
まず、アイリスは地下室の隅にある古い箱から、いくつかの道具を取り出した。ロウソク、火打石、そして古い鍵束。これらは、館の様々な場所を調べる際に必要になるだろう。
「上の様子を、そっと確認しましょう」
地下室の入り口近くまで移動し、耳を澄ませる。足音は、館の東側に集中しているようだった。
「図書室を重点的に探しているようね。でも、それは違う。秘密は、別の場所にある」
松明の揺らめく光の中、アイリスは静かに羊皮紙を広げた。インクの焦げ茶色が、黄ばんだ羊皮紙の上で独特の陰影を作っている。彼女の指先が、一行一行の数式を丁寧になぞっていく。
「この数列、何かおかしいわ……」
アイリスは眉を寄せた。父の残した数式は一見、単なる代数方程式の連なりに見える。しかし、よく観察すると、その中にある種の規則性が隠されていた。
「ここの項を見て」
彼女は指先で、特定の式の一部を指し示した。そこには、二次方程式の解の公式が書かれている。しかし、その係数が通常では使わないような複雑な数値になっている。
「4.85, 12.73, 27.14……。普通の数学的な計算なら、もっと整数か、きれいな数値を使うはず」
アイリスは地図と数値を見比べる。そして、ふと気付いた。
「まさか……これ、距離?」
彼女は羊皮紙の端に、小さな計算を書き始めた。もし、これらの数値が館の中の距離を表しているとしたら……。
「玄関から4.85歩進んで、そこから西に12.73歩、そして……」
数値を順番に追っていくと、それは確かに館の中のある場所を指し示す座標になっていた。しかも、一つの数式の解だけでなく、複数の解が組み合わさって、特定の位置を示している。
「これは単なる数学の問題じゃない。父は、この数式の中に地図を隠したのよ」
アイリスの瞳が輝きを増す。それぞれの項は、館の中の特定の場所までの距離や角度を示している。そして、それらが重なり合う場所にこそ、重要な何かが隠されているはずだ。
「でも、なぜこんな複雑な方法を? 普通の地図や暗号ではいけなかったの?」
その答えは、すぐに分かった。この数式は、数学の知識がなければ読み解けない。たとえ羊皮紙を手に入れたとしても、数学を理解していなければ、ただの難解な計算式にしか見えないのだ。
「さすが、父様……」
アイリスの口元に、小さな笑みが浮かぶ。これは父からの挑戦状であり、同時に信頼の証でもあった。父は、娘の数学的才能を信じてこの謎を残したのだ。
彼女は再び数式に向き合う。一つ一つの項が、今や違った表情を見せ始めていた。それは冷たい数字の羅列ではなく、父が残した暗号文のように思えた。
「この数列……何かのパターンを示しているわ」
彼女は地図と数式を見比べながら、深く考え込んだ。そして、ふと気づいた。
「まさか……西の塔?」
館の西側には、使われなくなって久しい塔があった。子供の頃、そこで遊ぶことは禁じられていた。
「お嬢様、西の塔は危険です。もう床が腐っているかもしれません」
ヴァルターが心配そうに進言する。
「分かってるわ。でも、この数式が示しているのは、間違いなくあそこよ」
アイリスは決意を固めた。しかし、山賊たちが館内を徘徊している今、塔に向かうのは容易ではない。
「地下の通路を使えば……」
マーサが小声で提案した。そう、館には地下を走る古い通路があった。使用人たちが、悪天候の日でも物資を運べるように作られたものだ。
「それは良いアイデアね、マーサ」
アイリスは地図の上で、地下通路のルートを確認した。西の塔の近くまで、地下を通って行けるはずだ。
しかし、その時、上から大きな物音が響いた。
「ここも空っぽか? どこだ? どこに隠してやがる!」
山賊たちの苛立ちが、怒号となって響いてくる。時間の猶予は、そう多くはなさそうだった。
「行きましょう」
アイリスは松明を手に取り、地下通路への入り口に向かった。ヴァルターとマーサも、必要な道具を持って彼女に続く。
地下通路は、何年も使われていなかった。蜘蛛の巣が張り、湿った土の匂いが漂う。しかし、通路自体は驚くほど堅固に造られていた。
松明の灯りを頼りに、三人は慎重に前進した。時折、頭上から物音が聞こえてくる。山賊たちの捜索は、まだ続いているようだった。
「あと少しで、西の塔の下よ」
アイリスの声は、緊張に満ちていた。この先に、父の残した秘密があるのか。そして、それは山賊たちが探し求めているものなのか。
そのとき、通路の先から、かすかな風が吹いてきた。