●第1章:『数式は密やかに囁く』
夕暮れの図書室に、一筋の光が差し込んでいた。埃っぽい空気の中、その光は古い数学書の上で輝きを放っている。
「これで……完璧ね」
アイリス・フォン・ローゼンクライスは、満足げに微笑んだ。彼女の前には、びっしりと数式の書き込まれた羊皮紙が広げられていた。
赤みを帯びた夕陽が、彼女の銀灰色の髪を優しく照らしている。儚げな少女の姿は、まるで絵画の中の人物のようだった。しかし、その瞳の奥には鋭い光が宿っていた。
「お嬢様、そろそろお茶の時間ですよ」
老執事のヴァルターが、静かにドアをノックした。
「ありがとう、ヴァルター。今行くわ」
アイリス は羊皮紙を丁寧に巻き、引き出しにしまい込んだ。
廊下を歩きながら、窓の外を見やる。かつては広大な庭園が美しく整備され、季節の花々が咲き誇っていたという。今は雑草が生い茂り、噴水も止まったままだ。
ローゼンクライス家。この地方では由緒正しい辺境伯家として、数百年にわたって栄華を誇ってきた。しかし今や、その威光は失われ、この古い館に残されたのは、アイリスと老執事のヴァルター、そして料理人のマーサの三人だけだった。
十年前、アイリスの父は謎の失踪を遂げた。母は彼女が幼い頃に病で他界している。親類縁者は、没落の一途を辿る当家から離れていった。
それでも、アイリスは決して孤独ではなかった。彼女には忠実な二人の老使用人がいる。そして何より、この館に残された膨大な蔵書の数々が、彼女の良き友であり師であった。
特に数学の書物は、幼い頃から彼女を魅了してやまなかった。整然と並ぶ数式の中に、彼女は不思議な安らぎを覚えた。論理的な思考は、混沌とした世界に秩序をもたらしてくれる。
「お嬢様、今日はレモンティーをご用意いたしました」
応接間では、マーサが温かい紅茶を注いでくれた。その香りは、いつも彼女の心を和ませた。
「ありがとう、マーサ。とても良い香りね」
窓の外では、夕陽が徐々に沈んでいく。しかし、アイリスは知らなかった。この穏やかな日常が、今まさに大きく揺らごうとしているということを。
その夜、アイリスは不思議な音で目を覚ました。
「……なにかしら?」
就寝中だったアイリスは、耳を澄ませる。かすかに聞こえてくる馬の蹄の音。この時間に馬? しかも複数の……。
不安を感じた彼女は、そっとベッドから抜け出し、窓辺に向かった。月明かりの下、館の周囲に複数の人影が忍び寄るのが見えた。
「まさか……」
アイリスの背筋が凍る。山賊たちだ。この地方で最近、その勢力を増していると噂される者たち。なぜ彼らがここに?
考える間もなく、突然の物音が館内に響き渡った。ガラスの割れる音。どこかの窓を破って、侵入を始めたのだ。
アイリスは即座に行動を開始した。まず、寝室の扉に鍵をかけ、暖炉の前にある絨毯をめくる。そこには小さな地下室への入り口があった。
しかし、地下室に逃げ込む前に、彼女は書斎に向かわなければならなかった。大切な物を取りに行く必要があったのだ。
「お嬢様!」
廊下で、ヴァルターと出くわした。
「無事でよかった。早く、地下室へ」
「ええ、でも、その前に……」
アイリスは書斎の方向を指さした。ヴァルターは一瞬躊躇したが、すぐに理解を示した。
「分かりました。私が見張りを」
二人は素早く、しかし静かに書斎へと向かった。館の中では、山賊たちの荒々しい足音が響いている。彼らは何か探し物をしているようだった。
書斎に着くと、アイリスは即座に父の古い机の引き出しを開けた。そこから、一枚の古い羊皮紙を取り出す。先ほど完成させた数式の書き込まれた物だ。
「見つけたぞ! こっちだ!」
突然、廊下に声が響く。見つかってしまったのだ。
「お嬢様、急いで!」
ヴァルターの声に促され、アイリスは羊皮紙を胸に抱きしめ、書斎を飛び出した。二人は急いで寝室へと戻り、地下室への入り口から滑り込むように中へ入った。
地下では既に、マーサが松明を灯して待っていた。
「良かった……お二人とも」
三人は静かに息を潜めた。頭上では、山賊たちの荒々しい足音が行き交っている。
「探せ! どこかに隠しているはずだ!」
怒号が響く。彼らは明らかに、何かを探していた。でも、何を? アイリスは胸に抱えた羊皮紙を強く握りしめた。