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SMの主張  作者: 名野創平
8/9

おまけ 『SM二元論の主張』パロディ(前編)

『SM二元論の主張』http://ncode.syosetu.com/n5746j/(作者:りきてっくすさん)のパロディです。

「SMプレイ中にハッスルしすぎて窒息死、成仏できずに下界をさまよう若い女性の幽霊」という設定をお借りしました。

「――あんたさぁ、ドMになっちゃいなさいよ」

 鼻にかかる甘ったるい声。女のぽってりとした肉感的な唇が妖しくうごめくたび、厚く塗られたグロスがてらてらと外灯の明かりを反射する。

 昼間の熱気がこもる公園は夕涼みに適さないからか、園内には淑子よしこと女以外、人影はなかった。二人は、敷地隅の木陰に設置されたベンチに、人一人分の間隔をあけて座っていた。

「すみません。おっしゃっている意味がよくわかりません」

 女の発する言葉は紛れもなく日本語なのに、まるで外国語のように理解不能で、淑子は軽い眩暈を覚えた。

 買い物帰りに公園のベンチで休憩。偶然隣り合わせた見知らぬ他人とのちょっとした世間話が、身の上話を経て人生相談に発展するのはままあることだ。だが、嫁姑問題で悩んでいる人間に対する回答が「ドMになれ」というのはそうそう聞いたことがない。

「いやだわぁ、かまととぶっちゃって。ドMっていったら虐められて興奮する最上級のマゾヒストのことじゃないのよ」

「いえ、あの、単語の意味じゃなくて……」

 女は自分の提案に絶対の自信を持っているらしく、淑子がそれを遠回しに拒否しているとは微塵も思っていないふうだった。

「じゃあ、なにがわかんないの? あんたがわかんないことがわかんない」

 心底不思議そうに尋ねられ、淑子は返事に窮した。古代エジプト人ばりに濃いアイメイクの双眸に凝視され、全身の毛穴からねっとりとした脂汗がにじみ出る。膝の裏に溜まった汗が一筋、また一筋とふくらはぎを伝い落ちる感触が不快で思考がうまくまとまらない。淑子は深く考えるのをやめ、膝に乗せた両手に視線を落とした。

 しばしの沈黙の後、女がじりじりとにじり寄る気配がした。ベンチに腰掛けたまま器用に尻だけを動かして迫り来るのが不気味で、淑子もベンチに腰掛けたまま逆方向へと逃げる。が、傍らに置いておいた買い物袋に阻まれ、すぐに退路を断たれてしまった。

 女はぴったりと太腿を密着させると、腰をひねり、淑子の左手に両手を重ねた。その掌は氷のように冷たかった。それもそのはず、女は幽霊なのだから……。

 水仕事とは無縁そうな、綺麗にマニキュアの施された手を透かして、淑子の所帯じみた手が見える。女の触れている薬指の指輪が痛いくらいに冷え、女が生身の人間でないことをいやおうなしに突き付けられる。

 硬直する淑子の耳元で女が囁いた。

「だってあんた、姑にいびられて辛いんでしょう? でも旦那は姑との別居を認めないし、あんたはあんたで旦那と離婚するつもりはない。現状が変えられないならあんたが変わるしかないじゃない。ああ、姑を改心させようったってムダよ。歳食ってるぶん頑固だし、そもそも相手にしてみりゃ、あんたは可愛い息子を寝取った泥棒猫なんだから」

「寝取るだなんて、そんな」

 淑子はぎょっとして横目で女を見た。女がにぃ、と口角を吊り上げる。

「あら、母親にとって息子は恋人みたいなものらしいわよ。だから嫉妬して嫁いびりするんでしょう。――それにしても泥棒猫って素敵な響きよね。『この泥棒猫!』とか『このメス豚!』とかそういう台詞が飛び交う修羅場、生きてる間に一度は経験しておきたかったわ。それでね、取っ組み合いの喧嘩するの。キャットファイトよん。ああんっ、想像するだけで興奮しちゃう」

 そう叫んで女は、両腕で自身のスレンダーな体をかき抱くと、なにやら奇声を発して身悶えはじめた。

 半透明な上半身が右へ左へくねくね動く様は、あたかも壊れた映写機の映し出す映像のようで、淑子は女に相談したことを激しく後悔した。もっとも、淑子が相談を持ちかけたわけではなく、女に敏腕刑事顔負けの尋問を受けた結果の不可抗力なのだが。

 身をくねらせる女の肩越しに公園の時計が見えた。

「あの、盛り上がっているところすみません。私そろそろ帰らないと」

 針の示す時刻を目にして、淑子は慌てて腰を上げた。女が不満気に口を尖らせる。

「なによぅ、まだ話はすんでないわよ」

「本当にすみません。でも、夕飯の支度の途中で買い物に抜けたので、あまり遅くなると姑に叱られてしまいますから」

 淑子がぺこぺこと頭を下げると、女はすうっと目を細めた。

「あんた、そうやって一生、姑の奴隷やってくつもり?」

 見下すように言われ、淑子は買い物袋の取っ手をきつく握り締めた。

「だって、しかたないじゃないですか! 姑に逆らえば家を追い出されるのは目に見えています。当然、夫とも離婚することになるでしょう。そうなったら私、どうすればいいんですか? 実家に出戻ることなんてできないし、一人暮らししようにも先立つものがない。働けばいいって思われるでしょうけど、私みたいに短大を出てすぐに家庭に入ったような、世間知らずで職歴のない人間を雇ってくれるところなんてないんです。……だから、いやでも我慢してるんじゃないですか。好きで奴隷やってるわけじゃありません!」

 淑子は髪を振り乱してまくしたてた。一度不安を口にすると、日々押さえ込んできた感情がせきを切ったようにあふれ出した。

 鼻の奥がツンとして視界がにじむ。唇を引き結び、涙がこぼれそうになるのを耐えていると、女が手を引いてベンチに座らせた。

「だからぁ、あんたがドMになりさえすれば万事解決するって言ってるでしょう。うだうだ言ってないでさっさとドMになっちゃいなさいよ」

 ぞんざいな物言いとは裏腹に、淑子の背中をさする女の手は優しかった。幼子をあやす手つきで撫でられていると、出会って間もない相手に真情を吐露してしまったことが急に気恥ずかしくなって、淑子は苦笑した。鼻を啜り、気持ちを落ち着けてから尋ねる。

「やっぱり、あなたの言うことは意味がわかりません。それでなにがどう解決するっていうんですか?」

 ぴんと立てた人差し指を淑子の鼻先に突き付け、女は教師然として答える。

「いい、マゾヒストってのはね、肉体的精神的苦痛によって性的快感を得るものなの。言い換えれば、普通の人間が苦になることが苦にならない。つまり、現時点であんたには被虐趣味がないから姑の虐めが苦痛にしか感じられないけど、あんたに被虐趣味があれば姑の虐めも苦にならないってわけ。おわかり?」

「確かに、人によってはその理屈も成り立つかもしれませんけど、私には無理です。だいたい、そういう性癖は持って生まれたものじゃないんですか。なろうと思って簡単になれるものではないでしょう」

 女はちっちっ、と舌を鳴らしながら、立てた指を左右に振った。

「そういう決め付けはよくないわよぉ。自分で自分の可能性を閉ざしちゃダメ。あたしもね、死ぬまでは自他ともに認める生粋のドMだったんだけど、っていうか実際それでハッスルしすぎて死んじゃったんだけど――」

 けらけらと笑って女は、自身の性癖や死の経緯を事細かに話して聞かせた。緊縛プレイの最中に窒息死し、腐乱死体で発見されたくだりで淑子は具合が悪くなり、話しを遮った。興奮気味に語っていた女は話の腰を折られ、一瞬、憮然とした面持ちになったものの、すぐに話題を変えた。

「――まあ、そんなこんなでドMとして短い生涯を閉じたわけだけど、成仏できずにこうやって下界をさまよってるうちに、ひょんなことからドSとして開眼しちゃったのよん。人生どう転ぶかわかんないものね。あんたも、『でも』とか『だって』とか否定的なことばっか言ってないでトライしてみなさいよ。っていうか、あんたのその自虐的で自己犠牲な性格、マゾヒストの素質十分だから」

「……かいかぶらないでください。私こう見えて、痛いのも熱いのも苦手なんです」

「いやべつに、姑とSMプレイしろなんて言ってないから……」

「ああ、そうですよね、すみません。なんだか頭が混乱して」

 淑子は額を押さえた。女の強烈な体験談を聞いた後では、自分がマゾヒストになるなどとうてい無理なことに思えた。女のように本能のまま快楽を求めることは、理性に凝り固まった淑子には難しい。そう正直に告げると、

「あんたってば、頭でっかちすぎぃ。そうやってぐちゃぐちゃ考えるから気苦労が絶えないのよぅ」

「はあ。でもこれが私の性分ですから」

「んー、めんどくさい女ねぇ。――あっ、そうだ、結婚は永久就職だっていうじゃない。会社で生き残るためにはスキルアップも必要よね。あれこれ難しく考えずに、まずは通信講座でも受講するくらいの軽い気持ちでチャレンジしてみたら?」

「そんなアブノーマルな通信講座、聞いたことがありません」

「んもうっ、あー言えばこー言う! 人がせっかくあんたのレベルに合わせて話してやってるっていうのにぃ! しょうがないわねぇ、こうなったら奥の手を使うしかないわね」

 そう言って女は淑子の顔を両手で挟むと、勢いよく頭を九十度横向かせた。突如、至近距離に女の派手な顔が現れ、淑子は目のやり場に困って視線を泳がせた。顔を背けようにも、女のものとは思えない強い力で固定され、微動だにしない。

 女の顔が近付く。あんまり気乗りしないけど、と言いながもその口元には笑みが浮かんでいた。

「なにふるんれすか、やめてくらはい……」

 淑子は抵抗を試みたが、頬を押さえられて呂律が回らない。さらに接近して、女の放つ甘酸っぱい香りが鼻腔をくすぐる。

「大丈夫、大丈夫、睡眠学習みたいなもんだから。あんたの代わりに、あたしがあんたを立派なドMに開発してあ・げ・る」

 ついに女との距離はゼロになり、淑子の唇に女の唇が重なった。

「んんー」

 淑子は悲鳴を上げた。それは、接吻などという生易しいものではなかった。女は淑子の口にヒルのように吸い付いたかと思うと、その肉厚な舌で固く閉じた歯列を強引にこじ開け、口腔内に侵入してきた。そしてナメクジのようにぬめぬめと這い回り、やがて、女自身が熱い塊となって淑子の中に入って来たのだった。

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