4 境内にて(後編)
木製の鳥居は長い歳月雨風にさらされて白茶けていた。しめ縄から千切れ飛んだであろう紙垂の切れ端が数枚、柱の中ほどにへばり付いた状態で干乾びている。
志保は鳥居をくぐり、拝殿目指してベビーカーを押した。振動で赤ん坊が目を覚ましてしまわないよう注意しながら、木洩れ日の射す参道を行く。神社の境内はそう広くはなかったが、地面のそこここに生えた苔が車輪の進みを悪くして、拝殿に辿り着くのに時間を要した。
切妻造の拝殿は造営からどのくらい経っているのか。所々に修繕の跡は見られるものの老朽化が激しく、全体的にすすけた印象がする。天井の梁から下がる鈴に張ったクモの巣や、賽銭箱の梯子状の蓋に引っ掛かった落ち葉が、参拝する者がめったにいないことを如実に物語っていた。
志保はベビーカーを拝殿の階段前に止めると、幌を上げて中を覗いた。さっきまでぐずっていた赤ん坊は、目尻に涙の粒を付けたまま、すやすやと寝息をたてている。ガーゼのハンカチで顔の汗と涙を拭いてやってから、志保は階段に腰掛けた。
自分も額の汗を拭い、ハンカチを扇子代わりに首元に風を送る。庇ごしに仰ぎ見る初夏の空は抜けるように青く、寝不足の目にしみた。
志保は強い眩暈を覚え、瞼を閉じた。視界が遮断されると意識のすべてが身体の内へと向かい、それまで気力で押さえ込んできた眠気や疲労がいっきに噴き出した。
こめかみが脈打つように痛み、吐き気がする。瞼の裏で赤や白の閃光が飛ぶ。ふうっと意識が遠のきかけた瞬間、
「お姉さん、大丈夫?」
気遣わしげな声がそれを引き戻した。
目を開けて見れば、ベビーカーの脇に青年が一人、立っていた。彼は涼しげな短髪にひょろりとした体躯で、志保の母校の制服を着ていた。
「ええ、大丈夫」
答えて、脂汗で額に張り付いた前髪をかき上げた。
「そう? 顔色が悪いけど」
「本当に大丈夫、少し寝不足なだけだから。──それにしてもあなた、見ず知らずの相手を心配するだなんてずいぶん親切なのね」
疑うような青年の視線が気まずくて志保は話を逸らした。すると青年はわずかに目を丸くして、
「いやだなぁ、見ず知らずなんかじゃないよ。僕だよ、睦月。家、近所じゃないか」
「睦月……君?」
志保は朦朧とした頭で、記憶の抽斗から睦月に関するデータを探した。記憶の中の睦月は幼く、眼前の青年との類似点といえば短髪で細身であることくらいだった。
「ああ、ごめんなさい。すっかり変わってるものだから誰だかわからなかったわ」
「まあ、成長期だからね。でもお姉さんはあんまり変わってないね」
声変わりして低くなった声で言う。もっとも子供の頃、そう親しくしていたわけではないから、どれだけ変化しているのかなどわかりもしないのだが。
「そんなことないわよ。子供を産んで体形も崩れてしまったし」
「そう?」
「そうよ」
「そうなんだ……。ところでお姉さん、今でもカナヘビ捕まえたりしてるの?」
「え?」
全身に冷水を浴びせられたような気がした。脈絡なく発せられた問いだったが、睦月の言わんとしていることは察しがつく。
十年前、志保は過ちを犯した。ここで睦月の首を絞めた。魔が差した、としか言いようがない。志保自身、自分の行為に愕然とした。そして睦月に謝罪するどころか、避けて、逃げて、この地を離れてすべてをなかったことにしようとした。
志保が睦月という存在から目を背けていた間、彼はきっと志保を恨み続けていたにちがいない。再会を果たした今、積年の恨みをもって志保を糾弾しようとしているのだ……。
「昔、ここで捕まえてたじゃないか」
「……そうだったかしら?」
絞り出した声はかすれ、自分の耳にも白々しく聞こえた。しらを切ったところで、核心に触れられるのが数秒もしくは数十秒遅れるだけだとわかっていて、それでも無駄なあがきをした。
「そうだよ。爬虫類相手に欲情してた」
「なっ、なに言ってるの。べつに欲情なんてしてないわよ」
「なんだ、ちゃんと憶えてるじゃないか」
睦月が楽しそうに声をたてて笑う。
「じゃあさ、僕にしたことも憶えてるよね。僕、あの時のことを今でもよく夢に見るんだ。お姉さんが僕の首を絞める夢」
首筋を、ねっとりとした嫌な汗が流れ落ちてゆく。志保を見据える睦月の双眸はガラス玉のように冷ややかで背筋が凍った。
「ごめんなさい。謝ってすむことじゃないけど、本当にごめんなさい。あの時、……私、どうかしてたんだわ」
志保は祈るような格好で、握り締めた拳に額を擦り付けた。
「いや、そうじゃないんだ。確かに首を絞められて苦しかったし、怖かった。でも、あの時感じたのはそれだけじゃなかったんだ」
衣擦れと、硬い靴底が土を踏む音。睦月が近付く気配がする。
「お姉さん、僕、首を絞められる夢を見て夢精するんだ」
思いもよらぬ告白に、志保は我が耳を疑った。これならまだ、恨み辛みや罵詈雑言を浴びせられたほうがましだと思った。睦月は続ける。
「ねえ、知ってる? 幼児期の性的体験は人格形成に影響するんだってさ」
「性的って……、私、そんなつもりじゃ……」
志保は弾かれたように面を上げた。睦月はにやにやと笑っていた。
「お姉さんがどういうつもりで僕の首を絞めたかなんてどうでもいいんだ。現に僕が首を絞められて、性的快感を覚えたことが重要なんだよ」
睦月は階段下のたたきに跪くと、志保の両手首を掴み、掴んだ手を自分の首に押し当てた。
「お姉さん、あの時みたいに僕の首を絞めてよ。学校の女どもは、普段、大人ぶってるくせにいざとなったら怖気づくんだ。気味悪がって、誰も僕の首を絞めてくれないんだ。だから、ねえ、お願い」
「いやっ、やめて!」
「どうして? お姉さんはサドなんでしょ。僕、知ってるよ。カナヘビいじってた時も、僕の首を絞めてた時も、お姉さん笑ってた」
睦月が喋るのに合わせて上下する喉仏の動きが、握り拳の指の背に直に伝わる。その生々しい感触に志保の総身は粟立った。
身の危険を感じて必死に抵抗するが、睦月は微動だにしない。圧倒的な腕力差。今目の前にいるのは、あの日、志保が組み敷いた小さな少年ではないのだと、否応なしに実感させられる。ただただ恐ろしかった。
「放して!」
金切り声を上げ、志保は靴の爪先で睦月の太腿をめいっぱい蹴り上げた。睦月が低く呻いて前屈みになる。手首の拘束が緩んだ隙をつき、志保は睦月の手を振りほどいて脱兎のごとく逃げ出した。
鳥居をくぐり、未舗装の薄暗い杉木立を抜け、脇目も振らずに走った。振り返れば追い付かれそうな気がして前だけを見た。ベビーカーの骨組みにしたたか脛を打ち付け、何度も転びそうになる。激しい振動に赤ん坊が目を覚まし泣き叫んだが、しゃにむに足を動かした。
走りに走って、気づけば町外れの停留所に志保はいた。真っ直ぐに延びる一本道に人影はなく、車も通らない。民家もまばらで、道路沿いには竹林が広がっていた。
足を止め、ベビーカーにもたれて息を整える。口腔内が乾燥してうまく呼吸ができない。乾いた喉の粘膜は空気が通過するたび、針で刺すようにぴりぴりと痛んだ。
「……もう……大丈夫……よ」
荒い息を吐きながら、志保はもつれる足でベビーカーの前に回り込んだ。赤ん坊は顔を真っ赤にして、火がついたように泣いていた。
抱き上げようと手を差し伸べる。涙と汗で後頭部やうなじはおろか、シートもぐっしょり濡れていた。首筋の皺に溜まった汗を指で拭う。湿った肌はつきたての餅のように柔らかく、母乳の甘い匂いがした。
志保は、尻の下に差し込んでいた左手を抜くと、両手で赤ん坊の首を撫でた。ふっくらとした肌触りは、睦月のそれとは違う。厚い脂肪に覆われて筋や骨には触れないし、発達した喉仏もない。手に残る睦月の感触を消したくて、志保は赤ん坊の首をさすり続けた。
なかなか抱いてもらえず、赤ん坊はむずがって手足をばたつかせた。暴れて振り回す小さな拳が志保の腕を叩く。安堵と、愛おしさが込み上げてきて目頭が熱くなった。
「……なぁーんだ。お姉さん、抵抗されないと興奮しないんだ。だから僕の首を絞めてくれなかったんだね」
「ひっ」
突然、背後から耳朶に生温い息がかかり、志保は飛び上がりそうになった。心臓が早鐘を打つ。早く逃げなければ、と気は急くが、頭のてっぺんから足の爪先まで金縛りにあったようにぴくりともしない。
背中ごしに睦月の手が伸びて、志保の手に重なった。
「……やめて」
膝がわなないて立っていることすらままならない。睦月が志保の手ごと赤ん坊の首を絞めた。赤ん坊は泣いて身をよじり、激しくベビーカーを揺らした。志保は悲鳴を上げた。
「やめて! あなたの言うとおりにするから、……だからお願い、……子供には手を出さないで」
睦月の手が放れ、唇が耳に触れる。低い声が囁く。
「このことは誰にも言っちゃだめだよ。二人だけの秘密」
わかった? と念を押され、志保は黙って頷いた。