4 境内にて(前編)
鄙びた神社の手水場にカナヘビが一匹。自然石を積んだ質素な手水鉢の縁で甲羅干しをしている。
志保は拝殿の階段に学生鞄を置くと、足音を忍ばせ、獲物を狙う猫さながらの身のこなしで間合いを詰めた。
新緑の木洩れ日を全身に浴び、カナヘビは気持ちよさそうにじっと目を閉じている。四肢を広げ、細長い尾を石の形に添わせた格好は、全身で石に抱き付いているふうにも見える。手水場に張り出した楓の枝が風にそよぎ、褐色の鱗に覆われた流線型の背の上で、幾何学模様の光と影がくるくると踊っていた。
志保は息を凝らし、そろそろと右手を伸ばした。指先が触れる刹那、手水鉢の水面で乱反射した光が目を射り、眩しさに一瞬、目をそばめた。
次の瞬間、視界に映ったのは、鉢の縁から放物線を描いていて跳ぶカナヘビの姿だった。
カナヘビは苔むした地面に音もなく着地すると、一度、辺りを窺うように首を巡らせ、志保と反対の草むらへ逃げ込んだ。志保は素早く脚を伸ばし、尾を踏んでそれを阻止した。玉シダの茂みに体半分滑り込ませた状態で尾を押さえられたカナヘビは、それでもなお前進しようと密集した茎の隙間でもがいていた。
志保はスカートの裾が汚れるのもかまわずその場にしゃがむと、カナヘビが自切して逃げてしまわないように尾の付け根を指でつまんで、茎にしがみ付いて必死に抵抗するのを力ずくで引っぱり出した。
「ふふ、……かわいい」
胴の側面部を三本の指で挟み、目の高さに持ち上げて形態を仔細に観察する。爬虫類には表情がないと言われるが、そののっぺりとした顔には今まさに恐怖の色がありありと浮かんでいた。
警戒を解くために優しく頭を撫でた。しかしそれはカナヘビにとって攻撃以外のなにものでもなかったらしく、撫でれば撫でるほど、拘束から逃れようと四肢をばたつかせ、尾を振り回した。そうして、上体をくの字に折り曲げたかと思うと、裂けんばかりに口を開け、胴体をつまんでいる指に噛み付いた。
カナヘビは指に食らい付いたまま、志保の顔を上目使いに見た。それはまるで反撃の効果を探っているかのごとき素振りだった。至近距離で見つめ返すと、カナヘビはガラス玉のような眼球を剥き出しにしてさらにきつく歯を立てた。
けれど、普段、クモや昆虫の類いを捕食している鋭い歯も、人間の肉を引き裂き骨を噛み砕くことはできないようだった。噛まれた指も、バネの緩んだ洗濯バサミで挟まれたくらいの痛さしか感じない。きっと皮膚にはかすり傷ひとつついていないだろう。
それでも死に物狂いで食らい付く様に、志保の胸は高鳴った。恐怖と絶望でカナヘビの真っ黒な瞳孔が開いてゆくのを見ていると、身体の芯が熱くなった。
志保は幼少の頃から、自分の手の中で怯え、抗うカナヘビの姿に、なぜだかどうしようもなく気持ちが昂るのだった。けっして恐怖や苦痛を味わわせたいわけではないのに、嫌がってもがく様子がたまらなく可愛くて執拗に弄んでしまう。全身全霊で抵抗されると愛しさが込み上げてきて、歯止めが利かなくなる。
この矛盾した、けれど抑えがたい衝動はいったいなにに起因しているのか、どういう心理的メカニズムにより引き起こされているのか、志保にはわからなかった。ただ、そういう得体の知れぬ欲望を満たすためにカナヘビを捕らえ、弄ぶことが褒められた行為でないことは十分理解していた。そして理解しているからこそ、自分はいけないことをしているという背徳感からいっそう興奮してしまうのも、また、事実だった。
志保は指を噛ませたまま、逆の人差し指で、鼻先から尾へと連なるゆるやかな曲線を撫でた。部位によって形状の異なる鱗は指の腹に様々な刺激を与えてくれる。頭から尾へと撫で下ろすのと、逆に撫で上げるのとではまた違った質感だった。
たっぷりと時間をかけて背面の感触を堪能していると、観念したのかカナヘビは口を離し、大人しくなった。仰向けにして腹部をさらす。腹面は、褐色の背面とは対照的に淡い黄白色をしていた。
志保はカナヘビの下顎のフォルムがとても好きだった。頂角の丸い二等辺三角形。下唇から喉へのライン。磁器のように滑らかな顎の裏に触れると、喉がびくんびくんと上下に震えた。顎から喉を伝い、胸へと指を這わせる。乾燥してざらりとした背面に比べ、腹面の皮膚は柔らかく、弾力があった。
患者を触診する医師のような手つきで、指先に全神経を集中して心臓の鼓動を探す。
「おねえちゃん、なにしてるの?」
唐突に頭上で少年の声がした。
ぶかぶかの制服に身を包み、真新しいランドセルを背負って立っていたのは、志保の家の斜向かいに住む子供だった。確か、名は睦月といったか。家が近所とはいえ高校生と小学生ではあまり接点がないので名前くらいしか知らない。
「なんでもないわよ」
楽しみを邪魔された腹立たしさと、秘め事を目撃されてしまった後ろめたさから、つい険のある物言いになる。
「ねぇねぇ、それ、トカゲ?」
邪険にされて立ち去るかと思ったが、睦月は意に介するふうでもなく、ランドセルをカタカタ鳴らして志保の正面にしゃがみ込んだ。揃えた両の膝頭にちょこんと手を乗せ、つぶらな瞳を爛々と輝かせている。
「トカゲじゃないわよ、カナヘビ」
「えっ、ヘビ?」
「いや、名前にヘビってついてるけどトカゲの一種」
「イッシュッ、ってなに?」
睦月が小首を傾げた。
「仲間ってこと」
「ん? おねえちゃん、さっきトカゲじゃないっていった」
「そうよ、厳密にはカナヘビはトカゲじゃないわよ。ニホンカナヘビはトカゲ亜目カナヘビ科でニホントカゲはトカゲ亜目スキンク科だもの。そもそも見た目が違うじゃない。カナヘビは鱗が岩みたいにゴツゴツしてて、トカゲはツルツル。尻尾だってカナヘビのほうが長いし……って言ってもわかんないか。まあいいわ、家に帰って図鑑で調べなさいよ」
志保は説明するのが面倒になって、話を途中で切り上げた。睦月は説明の半分も理解できていないふうだったが、それでも、うん、と力強く頷いて満面に笑みを浮かべた。
沈黙が訪れ、志保は気詰まりになった。睦月はカナヘビに興味津々で一向に帰る気配がない。身を乗り出し、志保の手の中を食い入るように見つめる少年の短く刈った黒髪から日向の匂いがする。それがまた志保を落ち着かなくさせた。
幼い指が躊躇いがちにカナヘビの頬をつつく。手中のカナヘビは身をよじり、釣り針型に曲げた尾で志保の手の甲を叩いた。
「すごい! キョウリュウみたい」
睦月が興奮して叫ぶ。
「ねえ、ボクにももたせて」
「えっ」
「いいでしょ? すこしだけ、ねっ、ねっ」
前腕にまつわり付く睦月の生温かい手が鬱陶しくて、
「……少しだけだからね」
志保は渋々承諾した。カナヘビを手渡すさい、絶対に逃がさないでよ、とあらかじめ釘を刺しておく。
「わあ、ザラザラしてる」
「ちょっと! そんなに強く握ったら潰れちゃうでしょ」
無遠慮に握り締められてカナヘビは、目を剥き、苦しげに口をぱくぱくさせている。
「……ごめんなさい」
睦月は申し訳なさそうに首をすくめて見せたが、頭の中はカナヘビでいっぱいらしく、すぐに手の中のカナヘビに夢中になった。鱗を撫でたり、尾をつまんだり。注意されたこともあって始めのうちこそ慎重に扱っていたが、しばらくするとまた扱いが乱暴になった。幼い睦月には力加減が難しいのだろうか。志保は気が気でなかった。
「もういいでしょ、返して」
そう声をかけたが睦月の耳には届かなかったらしく、少年は高く掲げたカナヘビを下から覗き込んではきゃっきゃっと無邪気な歓声を上げていた。
「いいかげんに返しなさいよ」
再三の催促にも従わないことに痺れを切らし、志保はカナヘビを腕ずくで奪い取ろうとした。睦月はいやいやと頭を振り、それを拒んだ。
「わあっ!」
揉み合う拍子にカナヘビが睦月の指に噛み付いた。睦月はパニックを起こしてカナヘビを振り払った。振り落とされたカナヘビは無残に地面に叩き付けられ、二度、三度、と弾み、遠くまで転がった。
「なんてことするの! 死んだらどうするのよ!」
志保は声を荒げ、睦月の肩を突き飛ばした。もともと腰を浮かせた不安定な体勢だった睦月は、実に呆気なく後方に倒れた。
睦月はランドセルを支点にして、仰向けにひっくり返った亀のように手足をばたつかせてもがいていた。さすがにやり過ぎたかと反省し、
「大丈夫?」
助け起こそうと傍らに寄った。
半袖の開襟シャツの中で小さな体が泳いでいた。反らした喉は健康的に日焼けして、真っ白なシャツと褐色の肌のコントラストが目に眩しい。顎の裏はカナヘビよりも頂角の大きな二等辺三角形だった。
視界の端を褐色の物体が横切った。視線を向ける。茂みの陰に、カナヘビの長い尾が吸い込まれるように消えた。
「あーあ、逃げちゃった……」
ぽつりと呟いて、志保はやおら睦月の上に跨った。睦月の双眸が驚愕に見開かれる。志保は、何者かに操られるように緩慢な動作で睦月の喉元に腕を伸ばした。
睦月の細い首は両手にすっぽり納まった。柔らかく滑らかな皮膚、掌を押し返す肉の弾力、首筋ににじむ汗、体温、それらすべてがカナヘビのそれとは違う。抵抗する力の強さも段違いだった。
「……くるし……い」
志保の下で睦月が暴れる。靴の踵が湿った土をえぐる音。むせ返るような草いきれに混じる汗の匂い。服の中にこもった熱気が襟元から這い出して、志保の手首をぞろりと撫ぜた。
「痛っ」
前腕を引っ掻かれ、志保は我に返った。手を離し、睦月の半身を起こしてやる。睦月は気管の圧迫を解かれて激しく咳き込んだ。目尻に涙を溜め、肩で息をしている。
志保はランドセルにこびり付いた泥や苔をハンカチで払いながら、睦月の耳元に口を寄せて囁いた。
「このことは誰にも言っちゃだめよ。二人だけの秘密」
わかった? と念を押すと、少年は黙って頷いた。