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SMの主張  作者: 名野創平
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3 窓口にて

 月曜日の官公署は混んでいた。待合所の長椅子は満席で、部屋を二つに区切る細長いカウンターの向こうでは、職員達がせわしなく働いている。

 白州万里江しらすまりえはカウンターの前に立つと、一度、『申請受付』と刻印されたプレートを確認してから、手のいていそうな職員に声をかけた。

「すみません。不動産登記の申請をしたいのですが」

 呼びかけに一人の職員が反応した。椅子に腰掛けてぼうっとしていた男性は、いぶかしげな表情で万里江を一瞥すると、そのまま視線を水平移動させて辺りを見渡した。万里江もつられて同じ方向へ首を巡らせる。

 他の職員は皆一様に仕事に忙殺されている。現時点で応対が可能なのはその男性くらいなものだ。彼自身、周囲の状況を見てそれをさとったのか、遠目にもわかるくらい肩で大きく溜息をくと、のっそりと腰を上げた。

 不承不承といったていでカウンターへやって来た職員は、舌打ちこそしなかったものの露骨なまでの仏頂面だった。赤ん坊を連想させるちまちました目鼻立ちに、神様の悪戯としか思えない無駄な餅肌で、不貞腐れた子供のように口を尖らせている。その年不相応な表情に万里江はカチンときた。

 一体何様のつもりなのだろうか、この男。突き出た唇を渾身の力で抓り上げてやりたい。

 さりとてそれを実行に移せるはずもなく、万里江は内心毒づきつつも表面上はにっこりと愛想笑いを浮かべ、持参した茶封筒から書類の束を取り出した。

「お忙しいところすみません。所有権移転が三件なんですけど」

「はぁ」

「内一件は名義人の住所が変わっているので、まずは住所変更の申請を──」

 手短に説明しながら、申請書や添付書類をカウンターに並べていると、

「ちょっとあなたねぇ、ここに勝手に書類を広げないでいただけますか」

 職員が語気荒く言った。突然のことに面食らい、万里江は目をしばたたかせた。相手がなにを言っているのかとっさに理解できず、脳内で男の言葉を反芻する。

 早く片付けろ、と言わんばかりに職員が書類を顎でしゃくった。隣りでやり取りをしていた職員と客とが、ちらちらとこちらの様子を窺うのが視界の端に映った。

 その瞬間、カーっと頭に血が上った。職員の横柄な態度とさらし者にされた恥ずかしさで頬が上気する。鏡などで確認しなくても、自分の顔が真っ赤になっているのがわかった。

「すみません、すぐに片付けます」

 万里江は紅潮した顔を見られないよう俯き加減になって、急いで書類をかき集めた。職員が聞こえよがしに溜息を吐く。

「あぁ、あぁ。そんな適当に重ねたらどれがどれだかわからなくなるでしょう」

 幼子に言って聞かせるような、小馬鹿にした物言いが追い討ちをかける。あからさまに見下され、万里江は悔しくて奥歯を噛み締めた。

 本来、登記は書面審査なので申請書や添付書類に不備がなければ登記簿に記載される。申請人や代理人の人柄などは考慮されない。聖人君子を絵に描いたような申請人であっても書面に不備があれば却下されるし、見るからに胡散臭い申請人であっても書面に問題がなければ申請は通る。

 だから仮に今、万里江が職員に食ってかかったとしても申請にはなんら影響しない。しかし原則そうであったとしても、実際に窓口を努めるのは生身の人間。相手の機嫌を損ねようものなら、なにかしら不利益をこうむるのではないかと懸念し、どうしても下手に出てしまう。

「それにねぇ、そんなあれこれ一遍に言われてもこっちは把握しきれませんよ。一件ずつ処理していきますから、まあ、落ち着いて」

 語尾に嘲笑を滲ませ、職員が言った。人の神経を逆撫でする喋り方は故意なのか。そうだとしたら相当陰湿だ。苛立ちを募らせながらも、万里江は黙って手を動かした。

「ここではなんですので移動しましょうか。こちらへどうぞ」

 万里江が書類を回収し終えると、職員がカウンターの内側から出て来た。案内されたのは部屋の奥、折り畳み式の長机とパイプ椅子がいくつも並ぶ一画だった。そのうちの一つに、二人は向かい合って座った。

「では、拝見しましょうか」

 職員が、団子鼻の上に乗った銀縁眼鏡をぐいと持ち上げた。レンズの奥の冷たい瞳は爬虫類を彷彿とさせる。

 万里江は書類を申請ごとに仕分けると、まずは一件分だけ職員に手渡した。職員はその束を捲りながら、独り言とも問いかけともつかぬ音量で、

「登記の目的は所有権移転、原因は売買、と。添付書類は──ああ、揃ってますね」

「はい。でもそれ、名義人の住所が変わっているので併せて住所変更を」

 これなんですけど、と万里江は別の書類を差し出した。途端、職員の眉間に深い縦皺が寄った。

「だったらそっちを先に出してくださいよ。こういう場合、住所変更が先、所有権移転が後。これくらい常識でしょう」

 出す順番が前後しただけでその言い草はないだろう、と万里江は内心憤りを感じた。だが実際に口から出たのは、

「すみません……」

 と、力ない謝罪の言葉だった。万里江はしおらしく頭を垂れるふりをして、職員の手元を睨み付けた。

 こんな無様な姿を晒すはめになるとは、なんという屈辱。それもこれも全部この男のせいだ。初っ端の動揺が尾を引いて、すっかり調子が狂ってしまった。血圧は上昇しっぱなしで頬の熱も引かないし、最悪だ。

 のぼせて軽い目眩に襲われる万里江をよそに、職員は申請書の文字列を鉛筆でなぞり、要所要所で片仮名の『レ』に似たチェックマークをつけてゆく。男は人並み外れて筆圧が高いのか、それは紙に穴が開きそうな勢いだった。

 不意に職員の手が止まった。

「ここ、間違ってますね。どうしてこういう書き方をしたんですか」

 言って、問題の箇所をカツカツと鉛筆で突いた。砕けた芯が四散して、書面が汚される。自分の作成した申請書がぞんざいに扱われるのを、万里江は忌々しい思いで、けれど抗議することもできずにただ見つめた。

「そういうふうに記入するものだと思っていたものですから」

「どうしてですか?」

 どうしてもこうしても、それが正しい記入方法だと思ったからそうしたまでだ。他意はない。今そう説明したではないか。これ以上どう返答しろと言うのか。

「勘違いしていました」

「どうしてですか?」

「どうしてって……」

 問い詰められて、万里江は閉口した。確かに自分はミスを犯した。だが正直そこまで重大な誤りではない。それなのになぜこうも執拗に追及するのか。

 もしかしてこの職員、ミスを誘発する原因を究明し、未然に防ぐ対策を講じるべくこうして聞き取り調査をしているのか。いや、どう贔屓目に見てもそこまで仕事熱心には思えない。

「ねえ、どうしてですか?」

 職員にじとっとした目で見据えられ、万里江は蛇に睨まれた蛙の気分になった。背筋がゾクゾクする。動悸が激しくなり、全身の毛穴が開いて脂汗が滲んだ。

 動揺をさとられまいと、万里江は早口で答えた。

「勉強不足です、すみません」

「ふぅん、まあいいでしょう。次からは気を付けてくださいよ。正しくはこう記入します」

 職員は間違えている箇所に二本線を引くと、相変わらず力強い筆致で訂正文を書き込んだ。その間、沈黙が訪れる。

 静かになると、なぜだか急に、職員との一連のやり取りが脳裏に再現された。その一つ一つを振り返り、万里江は妙な違和感を覚えた。

 これまで自分の身体に起こった諸々の生理反応は、確かに職員に対する憤りや緊張などからくるものであった。だがそれとは別種の感情により、しかし同種の生理反応が起きている気がするのだ。

 職員に見下され、責め立てられ、蛇のような目で睨まれると、胸が高鳴り、顔が火照ほてる。頭の芯がぼうっとして思考が麻痺する。これではまるで──まるで、被虐されて興奮するマゾヒストのようではないか。

「大丈夫ですか、理解できましたか」

「は、はいっ。大丈夫です。問題ありません」

 沈黙を破る低い声に心臓が大きく跳ねた。

 万里江は、おぞましい結論に達した自分自身に愕然とし、すぐさま否定した。自分がそんな変態であるはずがない。飛躍しすぎだ。

 そうだ、これはきっと吊橋効果に違いない。吊橋を渡る恐怖によるドキドキと恋愛のドキドキとを錯覚してしまうというあれだ。現状もそれと同様の心理が働いているのだろう。動揺、羞恥、怒り、緊張などによる興奮と被虐による興奮とを混同しているにすぎない。

「えーと、白州さん。ここなんですけどね」

 万里江が冷静になるのを見計らったように、職員が書面の中央辺りを指差した。万里江はその指先を覗き込んだ。

「ああ、そこ、お尋ねしようと思っていたんです。端数の処理につい」

「あのねえ、白州さん。今、私が話してるでしょう。だからちょっと黙っててくれませんか。あなたの質問は後で受け付けますから、それまでは私が尋ねたことにだけ答えてください。いいですね」

 万里江の言葉を遮り、職員がきつい口調でぴしゃりと言い放った。

 平静を取り戻しかけたやさきに、ふたたび、心臓が痛いほど脈打つ。眼鏡越しの蔑むような視線に、快感に似た感覚を覚え、万里江は心の中で激しくかぶりを振った。これはきっと不整脈。体調不良に違いない。

 思えば、動悸、火照り、のぼせ、目眩などといった身体の変調は更年期障害の典型的な症状と合致するではないか。最近、若い女性の間で増加している若年性更年期障害は、ストレスが誘因になるとも聞いている。そうだ、ストレスのせいで馬鹿げた考えに捕らわれているに違いない。

 とはいうものの、一度芽生えた疑念はそう簡単に払拭できるものでもなく、むしろかたくなに否定すればするほどその考えが頭から離れなくなってしまった。

 おかげで、その後一時間に及ぶ添削と指導の間ずっと、万里江は突如降って湧いた己のマゾ疑惑と闘い続けるはめになったのだった。


 明くる日、万里江はふたたび官公署を訪ねた。職員に補正を命じられた箇所を直し、再度、申請するためだ。カウンターの前に立つと昨日の男性がやって来た。

「どうですか、できましたか」

「はい。おかげさまで」

 万里江は会釈して書類の束を手渡した。職員はそれをぱらぱらと確認すると、

「やればできるじゃないですか」

 にっ、と白い歯を見せた。前日とは打って変わって友好的な態度。一体どういう心境の変化なのだろうか。正直、不気味だ。思わず、なにか裏があるのではないかと勘繰ってしまう。

 ともあれ、改めて職員と対峙してみて、自分の中に芽生えたマゾ疑惑は晴れた。こうして男性と話していても、毛の先ほども気持ちがたかぶらないのだ。やはりあれは錯覚だったのだ。自分は紛うことなき真人間だ。

「ありがとうございます。で、次はこれなんですけど」

 すっかり安堵した万里江は、鞄から茶封筒を引っ張り出し、てきぱきとカウンターに書類を並べた。間髪を入れずに職員が声を荒げる。

「だから、ここに書類を広げるなって言ったでしょう」

 万里江はびくっと首をすくめた。職員の顔から笑みが消え、冷ややかな双眸がねめつける。

 ──ああ、まずい。ドキドキする。

 万里江は小さく身震いした。

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