2 離れにて(後編)
日曜日の午後、小夜子が家を訪ねて来た。母親に促されて玄関へ行くと、彼女は半開きの引き戸の脇に立ち、思い詰めた表情で上がり框の辺りを凝視していた。
「あ、美紗ちゃん……」
美紗の気配に視線を上げると、小夜子は緊張した面持ちで微笑んだ。しかしそれは笑顔と呼ぶにはあまりに不自然で、ぎこちなく上げた口角が引きつるのを気にしてか、彼女はすぐにまた俯き加減になった。
美紗は無言のまま、たたきに下りて突っ掛けを履き、表へ出た。庭を右手に折れ、納屋の脇を通って母家裏の離れに向かう。振り返らなくても、後方から聞こえる遠慮がちに砂利を踏む音で、少し遅れて小夜子がついて来るのがわかった。
離れでの一件以来、小夜子とはもう一週間、口をきいていない。小夜子は見捨てられることを極端に恐れる性質だから、すぐにでも泣いて許しを請いにくるだろうと高をくくっていたのだが、予想に反して美紗と距離を置くようになった。
手の甲に爪を立てたせいか、縛らせてと迫ったせいか、理不尽な理由で怒鳴りつけたせいか、またはそれらすべてか。原因は特定できないが、小夜子が美紗を恐れていることだけは明白だった。小夜子は、美紗が側を通るだけで身を硬くし、誰かが美紗を呼ぶ声にすら、びくりと肩を震わせていた。
その怯えようが美紗の加虐心を煽った。
なにも美紗は、小夜子のことが嫌いだとか、憎いだとか思っているわけではない。むしろ好きだ。好きだからこそ自分の手で、彼女の繊細な心を掻き乱し、寂しげな面立ちを歪ませ、愁いを帯びた瞳を涙で濡らしたかった。
この感情が一体どういうものなのか、なにに起因しているのか、正直、美紗自身にもよくわからなかった。ただ、小夜子を一目見た瞬間、美紗の中になにやら後ろ暗い感情が頭をもたげたことだけは、鮮明に記憶している。
小夜子は親の都合で、生まれ育った都会から、知人もいないこの片田舎に越して来た。転校初日、教師に連れられ教壇に立った彼女は、美紗がこれまでに出会ったどの少女とも違っていた。
美紗の知る少女達は程度の差こそあれ皆、天真爛漫で健康的であったが、小夜子はどこか陰気で不健康な印象を与える少女だった。慣れない環境で不安なせいもあるのだろうが、それを差し引いてもなお、そこはかとなく漂う陰性な雰囲気は拭い去ることができなかった。
それでも小夜子は衆人環視の中、懸命に笑顔を作って自己紹介をしていた。その、無理に笑みの形にした小振りな唇を見ていたら、美紗は無性に残忍な気持ちになった。蜘蛛が獲物を糸で絡めて捕食するように、彼女をじわりじわりと籠絡し、退路を断って、思う存分苛めてみたい。そんな邪な願望が腹の底から湧き上がってしかたがなかった。
母家の裏手に位置する離れは、正面を除く三方をぐるりと藪椿に囲まれ、常に日当たりが悪かった。以前は祖母が寝起きしていたのだが、その祖母が他界して以来、物置代わりとなっている。
人が住まなくなった家は、まめに換気をしていてもやはり空気が澱む。玄関を開けると、室内に停滞していた空気が出口を求めて流れ出してきた。長年にわたり焚き染められた線香の匂い、湿気と黴の臭い、埃の臭い。生活臭とは異なる、主不在の建物特有の臭気が鼻を突く。
小夜子を伴っていつものように一番奥まった和室に入ると、美紗は部屋中の障子を閉め回した。黄ばんだ障子紙に遮られ、室内はいっそう採光が乏しくなる。ほの暗い座敷に、障子が敷居を滑る、堅く乾いた音だけが響く。
「で、なんの用?」
ぱしん、と一際大きな音を立てて最後の一枚を閉めると、美紗は小夜子に向き直った。
小夜子は物音に驚いたふうに目を瞠り、部屋の隅に縮こまっていた。視線が合うとなにか言おうと口を開き、けれどすぐには言葉が出ないようで、喘ぐように口をぱくぱくさせた。
美紗が無表情に見据えると、小夜子は苦しげに声を絞り出す。
「この間はごめんなさい。突然だったから、その……驚いて。でも、もう大丈夫だから……」
尻すぼまりに小さくなる声。語尾はかすれて消えた。
「大丈夫って、なにが?」
美紗は訝しげに目を細めた。小夜子は言いにくそうに口籠もりながら、
「わたしのこと……縛っていいよ」
「はっ、あんたなに言ってんの」
突拍子もない申し出に、美紗は鼻で笑った。
相当な覚悟で発したであろう言葉を一笑に付され、小夜子は一瞬傷付いた顔をした。けれど美紗との仲違いがよほど応えているらしく、今までほとんど自己主張することのなかった彼女が、今回は珍しく食い下がってきた。
「美紗ちゃんの好きにしていいから。もう、嫌がったりしないから。だから許して」
「好きにしていいって……、あんた本気で言ってんの?」
美紗の問いに、小夜子が真剣な面持ちで頷いた。その姿に、美紗は半眼になる。
「ふぅん、そんなに許してほしいんだ」
「許してください」
小夜子のすがるような眼差しに、美紗は内心ほくそ笑んだ。許すも許さないも、美紗は端から小夜子との関係を絶つつもりなどなかった。ただ、自分のせいで彼女が心を痛め、憔悴してゆく様を見ていたかったにすぎない。
「どうしようかなぁ。あんたはあたししか友達がいないからそんなに必死なのかもしれないけど、あたしはあんたと違って友達がいっぱいいるからさぁ」
意地悪く言うと、小夜子の表情が遠目でもわかるくらい強張った。思わず口の端に加虐的な笑みが浮かぶ。それをさとられないよう、美紗は小夜子に背を向けて、部屋の隅に歩を進めた。
桐箪笥を開け、祖母の遺した着物の中から、小夜子の肌に映えそうな朱色の腰紐を選ぶ。
腰紐を持って座敷の中央に腰を下ろすと、美紗は、まるで迷子の子供みたいな顔をして立ち尽くしている小夜子を上目で見遣った。
「なにぼさっと突っ立ってんの、早くこっちに来なさいよ。縛らせてくれるんでしょ?」
呼ばれて、小夜子が覚束ない足取りでやって来た。フレアスカートの裾を押さえ、おずおずと美紗の向かいに正座する。そうして一度大きく深呼吸すると、自ら左腕の袖を捲くりはじめた。
この一週間で小夜子の心境がどう変化したのかは知らないが、本人が大丈夫と言うくらいに覚悟はできているらしい。
しかし紺色のセーターを、前腕の三分の一ほどたくし上げたところで、唐突にその手が止まった。美紗の目から隠すように、ぎくしゃくと手を胸元に引く。
「ごめんなさい。右腕に替えてもいい?」
そう承諾を求めておきながら、小夜子は返答を待たずに袖を戻しにかかった。明らかに動揺した態度。美紗はその左手首を掴むと、自分の方へ引き寄せ、袖をぐいと肘まで押し上げた。小夜子が声にならない悲鳴を上げて身をよじった。
白磁のように白く肌理の細かい肌には、幾筋もの痣や擦り傷がついていた。色や濃淡はまちまちで、傷の程度や経過時間は判然としないが、それが緊縛によってできたものだということはその形状から推測できた。
「これ、自分でやったの?」
手首を握ったまま訊ねると、小夜子は顔を真っ赤にした。返事はないが、耳まで真紅に染まったその反応がなによりの肯定だろう。
美紗はにやりと笑い、小夜子の耳元に口を寄せた。
「ねえ、やって見せてよ」
「えっ?」
「小夜子が自分の腕縛るところ見たい。これだけ何度もやってるんだからいいじゃない」
一つ一つ確認するように指で触れながら、美紗は傷の数を数えた。小夜子が愕然とわななく。
「え、でも、美紗ちゃんが縛るんじゃ……」
「よくよく考えたらさぁ、なんであたしがあんたの言うこときかなくちゃなんないわけ? それにあんたさっき、あたしの好きにしていいって言ったじゃない。あれ、嘘なの」
「嘘じゃないけど……」
小夜子の目が潤み、凪いだ湖面のような瞳の表面がゆらゆらと波立った。
「じゃあ、早くやって見せてよ」
「でも……」
美紗は舌打ちした。
「ああもうイライラするわね。やるの、やらないの、どっち? あたしはどっちでもいいのよ。あんたと仲直りしなくたって痛くも痒くもないんだから」
「やる。やるけど……美紗ちゃんに見られるの、……恥ずかしい」
「は? なんで恥ずかしいの。べつに、いやらしいことするわけでもないのに──」
言って、美紗は、ははあんと独り合点する。
「ひょっとしてあんた、自分で自分のこと縛っていやらしい気持ちになってるんじゃないでしょうねぇ。知ってる? そういうのマゾって言うのよ」
くくっ、と喉を鳴らすと、美紗は真新しい鬱血を指で強く押した。
「ねえ、これ気持ちいい?」
小夜子の顔が苦痛に歪み、食いしばった歯の間から、声とも呼気ともつかぬくぐもった音が漏れる。
「念のために言っとくけど、あたしはマゾじゃないから。あんたに縛らせてたのは、あんたにお手本を見せてあげるためだから。最初から縛らせてなんて言ったら小夜子、怖がって逃げたでしょ」
小夜子が、がくがくと首を縦に振った。質問に対する肯定なのか、痛みゆえなのかわからない。
美紗は手を離すと、腰紐を小夜子の膝の上にほうった。小夜子はすっかり観念したらしく、無言でそれを掴むと、慣れた手つきで自分自身の左前腕を縛った。一方の紐端を膝で固定し、残りを右手でぐいっと引っ張る。
朱色の腰紐は想像どおり、いやそれ以上に、小夜子の白い肌によく映えた。美紗は自分の見立てに満足しながら、うっとりと、腰紐と肉との段差を撫で回した。紐を食い込ませた柔肌の感触に、体の芯が熱を持ち、疼きだす。
ぎりぎりと、なおも腰紐は締まり続ける。小夜子が苦しげに、眉根を寄せ下唇を噛み締めた。その表情を目にしたとたん、美紗は下腹部の奥をぎゅっと鷲掴みにされたような感覚に襲われた。子宮の辺りを中心にじんじんとした痛痒さが下半身全体に拡がり、思わず腰をよじりそうになる。
「ねえ、痛い? もっと痛くして、もっと痛がってる顔見せてよ」
美紗が興奮気味に言うと、小夜子は羞恥のためか、逃れるように面を伏せた。
けれど小夜子は、俯きながらもその手を緩めなかった。前腕が変色し、青や紫の血管が浮き上がる。時折、呻き声が聞こえる。美紗が太い血管を爪で押すと、小夜子はいやいやをするように首を振り、そのたびに、二つに束ねた栗色の髪が肩に当たって弾んだ。
しばらくして美紗は、小夜子の表情が見えないことに不満を覚え、彼女の頬を両手で挟むとその顔を上向かせた。
「えっ……」
手中にある顔を見て、美紗は絶句した。
小夜子が淫靡な笑みを浮かべている。だらしなく緩んだ口元からは絶えず甘い吐息が漏れ、閉じた瞼がぴくぴくと痙攣するたびに、濡れそぼった睫毛から丸い滴が落ちた。顔ばかりか首まで紅潮させ、掌の下の頬は、焼けるように熱かった。
違う、違う。自分が渇望していたのは、こんな──、こんな、快感に溺れる姿ではない。痛みに苦悶する姿なのに。
美紗は激しく落胆し、裏切られた気分で、小夜子の顔から手を離した。
急速に気持ちが萎える。これまで小夜子に対して抱いていた加虐心や支配欲も、彼女の悶え苦しむ姿に感じた昂りや疼きも、なにもかも潮が引くように消えてゆく。
そして、貪欲に快楽を貪り、恍惚の表情で絶頂に達しようとしている小夜子とは反対に、美紗の心はどうしようもなく冷めていった。