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SMの主張  作者: 名野創平
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2 離れにて(前編)

「もっときつく縛って」

 もどかしげにそう言うと、美紗みさ小夜子さよこの拳に自身の左手を重ねた。柔らかな指の腹が、催促するように輪郭を撫でる。

 畳にぺたりと腰を下ろし、向かい合った格好で、小夜子は美紗の差し出した右腕を着物の腰紐で緊縛した。衣擦れの音が、障子を閉め切った六畳間の、ひやりとした空気を震わせる。

「……もっと、ぎゅってしてよ」

 乞われるがまま腰紐を左右に引き締めると、美紗がもぞもぞと脚を動かした。互いの膝が触れ、小夜子が視線を上げると至近距離に美紗の細面があった。

 その頬は上気し、細められた切れ長の瞳はしっとりと潤んでいた。薄く開いた唇から荒い息遣いが漏れ聞こえてくる。断続的な呼吸に合わせ、犬歯の目立つ前歯の奥で、赤い舌が妖しくうごめくのが見えた。小夜子は目のやり場に困り、そそくさと視線を戻した。

 美紗の腕は掌を上向けた状態で真っ直ぐ前に伸ばされている。すらりとした前腕には薄紅色のモスリンが巻かれていた。滑りにくく締まりやすい特性を持つモスリンは、際限なく肉に食い込み、皮膚を歪に引きつらせた。絞った雑巾のようによじれ、無数に皺の寄った肌が痛々しくて、小夜子は思わず手を緩めた。

「誰がやめていいなんて言った?」

 先程までの、熱に浮かされたような上擦った声とは一変、怒気を含んだ冷たい声が耳に刺さる。小夜子は色を失い、

「ごめ……っ」

 謝罪の言葉を口にしたが、しかしそれは突如もたらされた痛みによって、無残に途切れた。

 美紗が小夜子の手の甲に爪を立て、手首から指の付け根までじりじりと引っ掻いてゆく。長めに切り揃えられた形の良い爪が表皮をえぐり、角質が削り取られる激痛に、小夜子は小さく悲鳴を上げた。

「あんたが悪いのよ、あたしの言うとおりにしないから」

 苦痛に耐える小夜子の耳元に、美紗が唇を寄せて囁く。熱い息が耳朶じだにかかり、小夜子は首をすくめた。その拍子に目頭から涙が一粒、畳の上に零れた。

「そんなに痛かった?」

 美紗がくすくすと笑いながら、い草に落ちた涙の粒を指で拭い、小夜子の手の甲になすり付ける。湿った指先で、皮が捲れて血の滲む傷口をなぶられ、小夜子は息を詰まらせた。

「……ほら、早く続けなさいよ」

 なおも執拗に蚯蚓腫みみずばれを弄りながら、美紗が命じた。ぴりぴりと焼け付くような痛みに苦悶しつつ、小夜子は美紗の腕を力の限り締め上げた。

 美紗の人差し指が、びくん、と跳ねる。弾力のある肉越しに硬い骨の感触。血流を遮断された前腕は末端まで赤黒く変色し、幾筋もの太い血管が露わになる。それは脂肪の少ない手首に顕著で、青や紫に浮き出た血管のいたる所に、行き場を失くした血液がぼこぼことこぶを作っていた。

 どのくらいの時間そうしていただろうか。やがて、椿の花がぽとりと落ちるように、美紗の手が力なく、小夜子の太腿の上に落ちてきた。

 放して、と切れ切れに呻く声で腰紐を解いた。紅潮し小刻みに震える掌からすうっと赤みが引いてゆく。美紗は下唇を噛んできつく目をつぶると、ぶるりと大きく身震いした。

 閉ざされた座敷は、奥深い森に水をたたえた沼に似ている。薄暗くえた臭いのこもる室内は、まるで透明度の低い水中のようで、ほの明るい障子に黒く浮かぶ格子模様は、陽光を遮る水草を連想させた。

 閉塞的な空間で繰り返される秘め事。美紗と膝を突き合わせていると、小夜子はいつも、沼底の厚く堆積したヘドロの中にずぶずぶと沈み込んでゆくような錯覚に襲われた。そうして、目も鼻も口も全身の毛穴一つ一つにいたるまでもが汚泥に侵食され、窒息してしまいそうな息苦しさおぼえた。

 美紗に緊縛を命じられるたび、小夜子は鬱屈した感情を抱く。けれど美紗は小夜子にとってただ一人の友達。逆らうことなどできなかった。

 小夜子が季節外れの転入でなかなか学校に馴染めなかったころ、気さくに声をかけてくれたのが美紗だった。慣れない土地で心細い時、傍らにいてくれたのも彼女だ。だから小夜子は、美紗の要求に唯々諾々と従った。拒絶して落胆させたくなかった。なにより小夜子自身、見捨てられるのが怖かった。

 ゆるゆると美紗の目が開く。小夜子は身動ぎひとつせず、従順な飼い犬さながら次の指示を待った。

「ねえ、小夜子のこと縛ってもいい?」

 小夜子の瞳を覗き込まんとばかりに、美紗が身を乗り出した。美紗の手が伸びて小夜子の手首を掴む。突然のことに喫驚し、小夜子は咄嗟にそれを払いのけた。

「なにするのよ、痛いじゃない」

 美紗が柳眉を逆立てる。

「ご……ごめんなさい」

「あんた、あたしに逆らうつもり?」

「違うの、そんなつもりじゃ……ただ、びっくりして……」

 美紗の剣幕に小夜子はたじろいだ。

「あーあ、なんか白けるわぁ。こんなのただのおふざけじゃない。あんたって、ほんとノリが悪いわよね。つまんないの」

「ごめんなさい」

「べつに謝らなくてもいいわよ。もう、あんたとは遊ばないから」

 突き放すように言って、美紗がツンとそっぽを向く。小夜子はその膝にすがり付いた。

「ごめんなさい、ごめんなさい、許して美紗ちゃん」

「うるさいわね、あたしに触らないでよ!」

 物凄い形相で怒鳴りながら美紗が小夜子を突き飛ばした。肩口を強く押され、小夜子は後方に体勢を崩した。仰向けに倒れる寸前で畳に肘をつき、片肘立ちのまま、愕然と目を見張る。その有様を冷ややかに眺めると、美紗は小夜子をおいて部屋から出て行った。


 帰宅した小夜子は自室に閉じこもり、声を殺して泣いた。心配して様子を見にきた母親を門前払いし、暗い部屋でただただ咽び泣いた。

 深夜、激しい頭痛に耐え切れず洗面所へ向かった。泣き腫らした瞼は重く、洗面台の照明が目に沁みた。乱れて頬に貼り付いた髪、充血した白目、真っ赤な鼻の頭。鏡に映った不細工な自分と対峙していると頭痛が増す気がして、冷たい水でばしゃばしゃと顔を洗った。

 壁のタオルに手を伸ばし、指が触れた瞬間、動きが止まった。顔から滴り落ちる水が胸元を濡らすのも構わず、花柄のタオルを凝視する。指先に触れる生地は厚手でごわごわしていて、美紗の腕を縛った腰紐とは明らかに別物の感触だった。モスリンはもっと、薄手で柔らかく、さらりとしている。

 それなのになぜ、離れでの一件が思い出されるのだろう。美紗の赤い舌が脳裏をよぎり、手の傷が疼いた。

 しばし逡巡した末、小夜子はタオルを掴むと左前腕に巻き付けた。自分で自分の腕を縛るのは困難を伴ったが、何度か繰り返しているうちに、ぐっときつく締まった。

 なぜ美紗は腕を縛るのだろう。なぜそれを自分にさせるのだろう。小夜子には、美紗の胸中も思惑も察することができない。

 タオルの片端を左手で固定し、もう一方を右手で引くと、ギチギチとパイル地のこすれる音が洗面所に響いた。皮膚が、肉が、生地に巻き込まれて痛んだ。

 ただただ痛みしか生まない行為。それなのになぜ美紗はあんな表情を見せるのだろう。上気した頬、潤んだ瞳。小夜子は瞼を閉じた。

 圧迫された血管がどくどくと脈打つ。普段は気にも留めない血管の位置が手に取るようにわかる。押し潰された管の中で血液が逆流するのがわかる。左腕に意識が集中する。頭の中が赤い液体で満たされてゆく。なにも考えられなくなる。もう、なにも……。

 はっと我に返り、小夜子は慌ててタオルを解いた。塞き止められていた血液が一気に流れ出す。動脈に、静脈に、毛細血管に、熱い血液が巡る。縛られていた箇所から指先へと痺れが走ったのも束の間、前腕がすうっと軽くなった。浮遊感と同時に、脳内で白い火花が散り、小夜子の薄く開いた唇から熱い息が漏れた。

 心臓が早鐘を打つ。脳髄を突き上げるような得体の知れない衝撃に、小夜子は空恐ろしくなり、タオルを脱衣所の洗濯機にほうり込むと急いで蓋を閉めた。


 翌朝、いつも待ち合わせしているバス停に美紗は現れなかった。五分、十分と時間だけが無為に過ぎ去り、二十分待ったところで諦めて独り登校した。

 休み明けの中学校は活気に満ちている。生徒達はさんざめき、廊下や教室のそこここで四方山話よもやまばなしに花を咲かせたり、ふざけ合ったりしている。教壇の傍にたむろする一群の中に美紗の姿もあった。彼女は輪の中心で屈託なく笑っていた。

 小夜子が教室に入ると、美紗の隣で手を叩いて笑い転げていた女子生徒が横目を使った。つられて他の生徒達もちらちらと窺うような視線を投げかける。場に緊張が走った。

 集団の意識が小夜子に注がれる中、しかし、美紗だけは張り詰めた空気など意に介さず喋り続けていた。常に小夜子を見詰めていた切れ長の瞳は今、正面に立っているおさげ髪の女子生徒に向けられている。その空々しい態度に、かたくななまでにこちらを見ようとしない瞳に、胸が潰れそうになる。

 小夜子は居たたまれなくなって足早に自分の席へと向かった。着席して机の上にノートを広げると、絡み付く視線から逃れるようにこうべを垂れた。罫線の上にちまちまと並ぶ文字に全神経を集中して外界を遮断する。

 けれども、意識しないようにと思えば思うほど、感覚が研ぎ澄まされてゆく。喧騒の中にあって美紗の声だけが、いやにはっきりと聞こえてくる。

 まるで昨日のことが嘘みたいに楽しげな会話。本当は、すべて自分の被害妄想なのではないかと思えてくる。実際には美紗との間にはなにもなかったのではないか。そもそも、美紗と友達だったという事実すらないのではないか。互いの家を行き来する仲というのも自分の願望なのではないか。現実には、新しい学校に馴染めず、転入してからずっと独りぼっちだったのではないか。クラスで浮いた存在だから皆、遠巻きにしているのではないか。

 美紗の笑い声が鼓膜を震わせるたび、小夜子の脳内で負の連鎖が起こった。頭の中に濁った色のペンキをぶちまけられているような気分になる。どんどんどんどん、どす黒く粘り気のある液体で思考が塗り潰される。

 耳を塞いで机に突っ伏してしまいたかった。目頭が熱くなって視界が滲む。鼻の奥がツンとして、堪えていたはずの涙が零れた。

 小夜子は誰にも気付かれないようにそっと、ノートに落ちた涙を拭った。その手の甲に美紗のつけた爪痕を見付け、昨日の出来事が紛れもない事実なのだと再認識させられる。小夜子はたまらず、ぎゅっと目を瞑った。


 下校時刻になると、小夜子は真っ先に正門を抜けた。俯き加減で家路を急ぎ、もつれる手で玄関の鍵を開ける。そうして自室に駆け込むと、ベッドに顔をうずめ、せきを切ったように号泣した。しゃくり上げる自分の声が呼び水となって、とめどもなく涙が溢れる。

 シーツに額を擦り付けた時、頬に冷たいものが触れた。手を伸ばして目の前に引っ張り出して見ると、それはセーラー服のスカーフだった。ポリエステルの生地は皺くちゃになり、涙に濡れていた。

 小夜子は制服の襟元からスカーフを抜き取ると、左前腕に巻き付けた。片方の布端を膝で押さえて固定し、もう片方を力一杯引っ張る。

 もう嫌だ。もう、なにも考えたくない──。

 ぎりぎりと腕が締め付けられる。意識が腕に集中する。赤い液体が脳内を満たし、思考が麻痺する。

 これでいい。これでもう、なにも考えずにすむ──。

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