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SMの主張  作者: 名野創平
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1 給湯室にて(後編)

「なあ、森。おまえチョコいくつ貰った?」

 北風吹きすさぶ校舎裏。焼却炉へ向かう道すがら隣を歩く友人が訊ねる。僕は無言で首を振った。

「俺も。義理チョコすら貰えねぇ。──あ、佐藤」

 そう不満げに口を尖らせた友人は、裏庭に見知った顔を見付けると進路を右に変えた。二人で一つのゴミ箱を運んでいたために、僕は自然と引きずられる格好になる。

「佐藤、チョコくれよ。今日バレンタインだろ」

 友人の声に、黙々と落ち葉を掃き集めていた女子生徒が顔を上げた。おかっぱの黒髪に縁どられた小作りな目鼻立ち。伏し目がちな表情と控えめな所作はまさに大人しいという形容がぴったりだ。

 友人の不躾な要求に面食らったのか、佐藤の手がぴたりと止まった。わずかに見開いた目が困惑気味に数度またたく。いかにも奥手そうな彼女にとって、傍観者のいる中でこの催促はたまらないだろう。見ているこちらも居たたまれない気分になる。

 そうして僕の心に同情の念が起こった刹那、

「はぁ? なんで私が。チョコが欲しければ進駐軍の所へでも行けば」

 佐藤が低く冷淡な口調で吐き捨てた。なだらかな曲線を描く凹凸の少ない眉間には深い皺が刻まれている。

 僕は度肝を抜かれ、思わずその顔を凝視した。

 佐藤とは高校入学以来一度も同じクラスになったことはなかったが顔と名前は知っていた。これまで小動物のような雰囲気から内向的で大人しい人物を想像していたのだが、この瞬間、彼女に対する認識が一変した。人は外見では判断できないというが、それをこうも見事に体現しているのも珍しい。

「進駐軍って……、なにが悲しくてムキムキマッチョな軍人さんにチョコおねだりしなくちゃならないんだよ。バレンタインなんだから女子から貰わなきゃ意味ないだろ。なあ、チョコくれよ」

 佐藤の外見と言動のギャップに愕然としている僕とは対照的に、要求を一蹴された友人は平然としていた。驚くでも気分を害するでもなく、むしろ嬉々として会話を続けている。

「はっ、あんたにやるくらいならドブに捨てたほうがまし」

 佐藤が鼻で笑う。彼女のつんけんした態度が羞恥心からくるものでないことは、その疎ましそうに細められた双眸から窺い知れた。邪険にされてもなお、にやにやと笑いながらからんでくる男を心底鬱陶しく思っているのだろう。

 そんな彼等のやりとりを目の当たりに、僕は言い知れぬ激情に駆られていた。

 佐藤が眉根を寄せ毒づくたびに、尾てい骨から脳天へと痺れが走った。まるで電気を流されているような痛痒さが背骨を刺激する。だがそれは苦痛でも不快でもない、甘い疼き。下半身に生まれた熱が背筋を這い登ってくる感触に、僕は自分の両腕を強くかき抱き、激しく身震いしたくなった。

 この日から僕の秘め事は始まった。

 二人が一緒にいる場面に遭遇すると何食わぬ顔で近付いて輪に加わった。とはいっても佐藤と直接言葉を交わすことはしない。ただ、友人に罵詈雑言を浴びせる彼女の冷ややかな声を鼓膜に記憶させ、不愉快そうに顰められた顔を網膜に焼き付けた。

 誰にもさとられぬよう平静を装いながら、独り脳内で快楽に酔いしれる。正直、自分でも悪趣味だと思う。この行為が露顕すれば顰蹙ひんしゅくを買うのは間違いない。

 だが、ばれないようにと細心の注意を払う一方で、秘密が暴かれて佐藤に蔑まれたいという甘美な誘惑が頭をもたげることもあった。僕のやましい気持ちを知ったら彼女はどんな顔をするだろう。軽蔑して、汚物を見るような目で僕を見たりするのだろうか。妄想するだけで身悶えしてしまう。

 しかし幸か不幸か僕の秘め事が発覚することはなかった。佐藤は僕など眼中にないようで、僕に一瞥を与えることすらなかったからだ。

 結局、僕の秘め事は卒業の時を迎えるまで続き、なんら形を成さぬまま幕を閉じた。

 それから四年と八ヶ月の月日が流れ、佐藤はあの日と変わらぬ冷淡な口調で、

「──そういうのはメイド喫茶でやりなさいよ、気持ち悪い」

 そう吐き捨てた。過去には一度として向けられたことのない侮蔑の眼差しが僕を射る。

 つう、と脊椎を直に撫で上げられるような感触に全身の毛が逆立った。思春期の一過性だと結論付けて封印した感情が蘇る。

 僕は給湯室に足を踏み入れた。佐藤との距離は三歩半。

 学生時代の話題を振ると佐藤は目に見えて動揺した。彼女の変貌ぶりから察するに、あの頃は彼女にとって人生の汚点なのだろう。触れて欲しくないことくらい顔色を見ればわかる。

 だが僕は喋り続けた。苦々しげに顔を歪める様がたまらなかったから。

「──ああ、やっぱり佐藤さん僕のことなんてもうとっくの昔に忘れてしまったんだね──」

 佐藤は僕のことを忘れたわけではない、端から僕という存在を認識していなかったにすぎない。そんなこと学生時代から知っていた。それでも僕は、さも彼女が薄情であるかのように恨みがましい物言いをした。

 別に本気で彼女を責めるつもりなどさらさらなかった。ただこう言えば彼女が困るだろうと踏んだからだ。案の定、彼女は渋面を作り視線を逸らした。

 佐藤の眉間の皺が増すたびに僕の神経は昂った。僕の言葉によって彼女の心が揺さぶられているのだと想像すると胸がきゅう、と締め付けられた。もっと間近で彼女を感じたい。逸らされた瞳を正面から覗き込み、白い肌に刻まれた深い皺に指を這わせられるくらい近くで。

 もっと、もっと──。

 僕は押さえがたい衝動に突き動かされ、一歩また一歩と歩を進めた。まるで小動物を追い詰める獰猛な肉食動物になった気分で、ふっと笑みが漏れた。

 俯いた佐藤の華奢な肩がかすかに震えている。

「泣いてるの?」

 問いかけた僕の声に佐藤が弾かれたように顔を上げた。ねめつける双眸の下のふっくらとした頬に赤みがさす。

「なに言ってんの、泣いてなんかないわよ。あんたの目、腐ってるんじゃない? 眼科行けば」

 反抗的な態度。嫌悪感を剥き出しにした表情。ああ、ゾクゾクする。

 僕のすべてを拒絶するようにふたたび面を伏せた佐藤の黒髪が流れ、隠れていた両耳が露わになった。小さな耳は真紅に染まっている。

 それを目にしたとたん僕は無性に、その熱を帯びた薄い耳の縁にむしゃぶりつき、彼女が泣いて嫌がる姿を見たくてしかたがなくなった。

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