1 給湯室にて(前編)
シンクの上のコーヒーメーカーがコポコポと音をたて、ガラスのサーバーに琥珀色の液体が満ちてゆく。深炒り豆の芳ばしい香りを含んだ蒸気に優しく鼻先を撫でられると、残業続きでくさくさしていた気持ちもゆるりとほぐれだす。
私は深呼吸をして心の換気をする。胸に溜まった苛立ちや疲労感をコーヒーの芳香で追い払う。
「うーん、いい香り。佐藤さん僕にもコーヒーお願い」
長時間のデスクワークですっかり強張った肩をぐるぐると回し、鈍痛のする眉間を揉みほぐしていると背後からバリトンの声が響いた。振り返ると、給湯室の入り口には同期の森の姿。
「砂糖いっぱい入れてうんと甘くしてくれると嬉しいな。あ、あと佐藤さんの愛情もたっぷり入ってるとなお嬉しいな」
そう言うと、森は元来柔和な目元をさらに緩ませたが、すぐに照れ臭くなったのか、なんちゃって、と軽くおどけて見せた。その態度がなぜだか無性に癪に障った。
「はぁ? これ別にあんたに飲ませるために淹れてるわけじゃないんだけど。コーヒーが飲みたければ自分で淹れて勝手に飲めば。それともなに、あんた私のこと召使いかなにかと勘違いしてる? やれコーヒー淹れろだの砂糖入れろだの偉そうに指図しちゃってさ。はっ、愛情たっぷり入れてってなにそれ、セクハラ? そういうのはメイド喫茶でやりなさいよ、気持ち悪い」
反射的にまくしたてた私は〇,五秒後、我に返り、全身の血液がスコールのように激しく音をたてて下降するのを聞いた。
森は、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして固まっている。無理もない。社内ではシャイで無口で大人しい人、という立ち位置を確立している女に突然、口汚く罵られたのだから。
私はそこらじゅうの壁に頭を打ち付けたい衝動に駆られながらも、この失態を払拭すべく脳をフル回転させた。まずは平常心。敵に動揺をさとられるな。そして早急に打開策を見いだすのだ。
一度口から出た言葉は元には戻せない。ならば森の頭を殴って記憶を消去するか。いや、素人には力加減が難しい。いやいや、それ以前にどう考えても非現実的だろう、漫画じゃあるまいし。
やはり現実的に考えれば口封じ以外ありえまい。では奴の口を封じるにはどうしたらよいか。泣き落としはどうだ、涙は女の武器だというし。いや、私の涙にそれほどの効果は期待できそうもない。女の武器繋がりで色仕掛けというのもあるが、これもフェロモン不足で厳しい。他にあるとすれば懐柔策だが、いかんせん餌になるものがない。
考えろ、考えろ、死ぬ気で考えろ。知恵を振り絞れ。当面の危機を回避できなければ、今後、社内での私の立場は危うくなる。
「あ……あの、なんだか色々とすみませんでした。僕も疲れが溜まっておかしくなってたみたいで……」
森が申し訳なさそうに頭を下げた。
どうやら敵は己の発言に後ろめたさを感じているようだ。これは好機。人の弱みに付け込むのはいささか気が咎めるが、今は綺麗事をいっていられる状況ではない。
「ううん、こっちこそごめんね。私も森君も疲れでおかしくなってたのかもね。お互い今の失言は忘れよう」
お互い、という単語をことさら強調し、双方に非があるのだから口外するなと暗にほのめかす。温厚で真面目な好青年と社内での評判もすこぶる良い森のこと、これで他人の失態を吹聴して回るようなまねはしないだろう。
ひとまず安堵の胸をなでおろしていると、森が耳を疑うようなことを言いだした。
「でもよかった。安心したよ、佐藤さんの毒舌が健在で」
「え?」
「四年ぶりに再会したら佐藤さんずいぶん変わってたから驚いた。昔はあんなに口が悪かったのに今じゃすっかり、シャイで無口で大人しい人、だからさ」
この男はなにを言っているのだろう。意味がわからない。
「再会って、誰と誰が?」
「誰って、僕と佐藤さんが。僕たち同じ高校に通ってたじゃないか。ああ、やっぱり佐藤さん僕のことなんてもうとっくの昔に忘れてしまったんだね。入社式で顔を合わせた時に、初めまして、って挨拶されたから嫌な予感はしてたけど、それでもやっぱり本人の口からはっきり聞かされるとショックだな」
森は芝居がかった仕草で天を仰ぐと小さく溜息を吐いた。
「まあ、佐藤さん遠くの大学に進学したし、成人式にも同窓会にも顔を出さないから無理もないか。でも──」
足下がぐらりと揺れた。まるで床が液状化し、不規則にうねっているようだ。森の声が遠くなる。
私は高校生のころ男子生徒達から、大人しそうな顔して口が悪い、と言われていた。具体的になにを指して大人しそうな顔と言っていたのかは知らないが、口の悪さは自覚していた。そしてそれが私にとって悩みの種だった。
自分がされて嫌なことは相手にしてはいけない、そんなこと幼稚園児でも知っている。そんな常識を持ち出さずとも、他人に罵詈雑言を浴びせるのが卑劣な行為であることは百も承知だ。私だってわかっている。わかっているからこそ、その忌むべき行いを繰り返す自分に腹が立った。
けれども、悪態を吐くたびに自責の念に駆られ、次こそは汚い言葉を口にしないと心に誓うのに、どうしても男子生徒に話しかられると噛みついてしまう。もはや条件反射といってもいい。自分でもなぜだかわからないが、あのへらへらとしたにやけ面を見ると、苛立ちとも怒りともつかぬ感情が一瞬で沸点に達するのだ。そう、まるで瞬間湯沸かし器のように。そうなるともう自分自身の感情を制御することができない。
自責と自己嫌悪の日々。このままでは駄目だ。
私はこの悪循環を断ち切るべく一念発起した。故郷を遠く離れ同窓生のいない大学へ進学、就職した。この決断は功を奏した。
私の暴言が相手との会話量に比例していることは、すでにそれまでの人生で学習済みだった。多くの言葉を交わし気心が知れてくると、つい遠慮がなくなりぞんざいな態度をとってしまうのだろう。
それは裏を返せば、さほど親しくない相手に対しては暴言癖が発動しないということだ。現に見知らぬ人ばかりの新天地ではしばらくの間、暴言癖は鳴りを潜めていた。
私は慎重に、相手と良好な関係を保てる距離を模索した。幾度となくぼろを出しそうになりながらも、大学生活の四年をかけて自己改革を行った。そして晴れて社会人となり、この八ヶ月順調だった。自己嫌悪に苛まれることも少なくなった。
それなのに、それなのに──。
私ドSなの。そんな台詞が通用するのは合コンではしゃぐ男女か二次元くらいのもの。実社会、こと職場においては容認されない振る舞いだ。にもかかわらず疲れが溜まった程度で馬脚を現すとはなんという体たらく、たった二週間やそこら残業が続いただけではないか。
自分の脆弱さが恨めしい。不甲斐なさが腹立たしい。
「泣いてるの?」
靴の爪先を睨んで歯噛みする私の、驚くほど間近で声がした。顔を上げると微笑む森の姿。
「なに言ってんの、泣いてなんかないわよ。あんたの目、腐ってるんじゃない? 眼科行けば」
動転して咄嗟に口をついて出たのはやはり、他人を傷付ける酷い言葉。もう嫌だ。また同じ過ちを繰り返すのか。せっかくここまで上手くやってこられたのに。自分なりに精一杯頑張ってきたのに。
落胆から、私はふたたび俯く。目を伏せる瞬間、森のスーツの胸元から覗くネクタイが視界に入った。深い群青色のスーツに映える真紅のネクタイ。その色は私の目に、ひどく禍々しいものとして映った。