もう、嫌なんだ!
その客がタクシーに乗って来た瞬間、タクシードライバーの男はその客の様子に驚いて大きく目を見開いた。頬がこけていて目が血走っていて、元々眼球が大きいという事もあるのかもしれないが、目が浮き出ているかのように見える。つまり、とんでもなく不健康に思えたのだ。肉体的にも精神的にも疲弊し切っているようだ。
「――お客さん、大丈夫ですか?」
それで目的地を尋ねる前に、タクシードライバーは心配して思わずそう話しかけてしまった。
少し待ったが、何の返答もない。
それで彼はこう続けた。
「良かったら、アンパンを食べませんか? 貰ったんですがね、甘い物が苦手でどう処理しようか困っていたんですよ」
そうして、彼はカバンの中からアンパンを取り出した。それに乗客は微かに目を動かす。そして、それには応えず、「街のセンタータワーに向ってくれ」とそう告げた。
「センタータワー?」
それを聞いてタクシードライバーは不可解に感じた。
今、センタータワーと呼ばれる高い建物では火災が起こっている。行っても何にもできないし、この客はどう見ても野次馬には思えない。それに下手すれば辿り着けない可能性だってある。
「お客さん、今、センタータワーになんか行ってどうするんです?」
そう尋ねがら、車内のテレビを点けた。ニュース番組を選択する。すると、ちょうどセンタータワーの火災の様子が映っていた。はしご車が伸びているが、火災が起こっている階には届きそうにもない。
「早く行ってくれ。頼む」
それを見ると、乗客は慌てたようにそう訴えた。
タクシードライバーは不思議には思ったが、その彼の様子から何かただならぬ事情があるのだと察し、「分かりました」と言って車を発進させた。
車を走らせながら、タクシードライバーは再び乗客にアンパンを食べないかと勧めた。それに乗客は「僕に優しくしない方が良い」と何故かそんな事を言う。
「何ですそれ?」
と、思わずタクシードライバーが返すと、乗客は奇妙な事を言った。
「世界の人口は78億以上いるって言われいる」
「は?」と思わずタクシードライバーは声を上げてしまった。乗客は構わず続けた。
「なら、78億分の1の確率の運命なら起こっても不思議じゃないって事になる」
その奇妙な言葉を受け、タクシードライバーは少し考えるとこう尋ねた。
「つまり、お客さんはその“78億分の1の確率の運命”の持ち主ってことですか?」
それに乗客はゆっくりと頷く。
「ああ、そうとしか思えない。ただし、悪い運命だ」
その言葉にタクシードライバーは軽く肩を竦めた。
「一体、お客さんに何があったかは知りませんがね。そりゃ考え過ぎですよ。運命なんてのは気の迷いだって私は思いますがね」
しかし、乗客は彼のその言葉を無視するように口を開いた。
「子供の頃、筆箱を忘れてさ。隣の親切な子が筆記用具を貸してくれたんだ。そうしたら次の日、何故か、その子の筆記用具が間違ってゴミ箱に捨てられて燃えちまっていた。僕をいじめから庇ってくれた子は、次のクラス替えの後でいじめられるようになった。そんな事がそれからも何回も起こった。就職を世話してくれたおじさんが病気になったり、安いアパートを紹介してくれた人が事故に遭ったり。ずっと…… ずっとなんだぞ!?」
その悲壮とも言える口調で、タクシードライバーは彼の疲弊し切った様子の理由が分かった気がした。なんとか宥めようと試みる。
「いや、お客さん。気持ちは分かりますが、気にする必要はない。そりゃ、ただの偶然ですよ」
が、乗客はやはり無視するように言う。
「今の職場である程度働き続けると、皆は僕のそんな性質に気が付いていった。そして僕を避けるようになったんだ。仕方ないと僕は思った。僕が悪い訳じゃないけど、皆が悪い訳でもない。
でも、そんな中、彼女だけはそんな僕の味方をしてくれた。このままじゃ、あの人まで僕の“運命”の犠牲になってしまう」
血走った目でそう語る彼を観ながら、タクシードライバーはこう思う。
“……これは、相当に重症だな”
それから彼の視線がテレビのニュース番組に釘付けになっている事に気が付いた。何故か彼は「やっぱりだ」と呟く。
つられて目をやると、そこには煙に囲まれた女性の姿があった。
「今日、彼女がタワーに行くと聞いていたんだ。そのタワーで火災が起きたと聞いて直ぐに分かった。
また、僕の運命が彼女を呪おうとしているのだって」
タクシードライバーは驚いてこう問いかける。
「まさか、あの女の人が、そのあなたの味方をしてくれたっていう……」
その言葉を途中で遮って彼は言う。
「もう、嫌なんだ!
どうして僕に親切にしてくれた人達が次々と不幸になっていくんだ? 一体、僕の運命は何がしたいんだ?!
僕はもう、こんなのにはこれ以上耐え切れない!」
それから彼は懐から黒い何かを取り出した。驚いたことにそれは拳銃だった。彼は銃口を自分のこめかみに当てる。
「おい! あんた、何をやっているんだ? 馬鹿な真似はやめろ!」
そうタクシードライバーは叫んだが、もう既に遅かった。
「おい! 運命! 僕は今から死ぬぞ?! 彼女が僕を助けた所為で僕は死ぬんだ! つまり、彼女は僕を助けていない! 彼女の所為で僕は死ぬんだから!
だから彼女を呪うのはやめろぉぉ!」
そう叫ぶと、彼は引き金を引いた。
「待て!」
と、タクシードライバーが言った瞬間、脳漿が車内に飛び散った。その様子を、タクシードライバーは茫然と見つめる。
……そして、
その時、ちょうど、煙に囲まれた女性が決死の覚悟で飛び降り、無事に救急隊員に受け止められた映像をニュース番組は流していたのだった。