02
ツァーリが温室で話していた砂漠化対策――基本的には砂漠化の原因解消と緑化計画が主だが、ツァーリが研究班を立ち上げて以降、加速度的に進展があった。
《子どもならではの柔軟で無邪気な発想》と半分以上揶揄される評価を受けたツァーリの策は、規定路線の斜め上だったらしい。
ロヴァ領南部地方の砂漠化は、過度な農業活動により土壌が痩せていった上に、河上の森林を無計画に伐採したために頻繁に起こるようになった洪水で、河下の表土がどんどん削られていったことが原因、とされていた。
そこへ、ツァーリは速やかに砂漠化を止め、かつ緑化する計画に《魔草》の利用を提言した。
《魔草》とは《魔物》に類する『動植物』であり、移動こそしないが、魔力を糧に増殖する。地下水の中に流れる僅かな魔力に反応し、貪欲に水ごと魔力を吸い上げる。
国立植物系研究所による《魔草》の研究で、植物の生育を阻害する塩害の土地でも容赦なく増えるとわかっていたことから、ツァーリは着想を得たらしい。
魔力の素である《魔素》が大気に満ちた地で、何らかの理由で発芽した《魔草》が、魔力豊富な地下水を吸い上げたことにより、旺盛すぎる繁殖力で農耕地を一面喰い尽くすだけではなく、酪農地において、乳牛すら喰ったという記録もある。
絡めとった有機物を分解して魔力を取り込んだらしい、とのことだが、《魔術》の展開時に、人間が発する《魔力》に反応して人を襲う《食人魔草》も数こそ少ないものの報告されている。
やはり《魔物》に類するだけあって、《魔草》が危険であることは間違いないと言える。
ツァーリはその《魔草》のうちの一つ『デュランハ』を選択し、危険性を下げる品種改良に着手した。
テスト植生で、検証区画の砂漠の土地の水分量は目に見えて向上した。
――この頃から、ツァーリは命を狙われるようになった。
《魔草》は国内にある一部の教会において、《魔物》と同様に『穢れ』として、取り扱いを禁忌としていた、らしい。
らしい、というのは、それらの教会が取り扱いを禁じていること自体を知らない者も少なくなかったし、エミーリアも知らなかった。
正直、今さら、というのが感想だった。
《魔草》は取り扱いを厳重にして煎じれば、毒にも薬にもなることは昔から知識として広く知られていたからだ。《草》の取り扱う薬物の中にも《魔草》はおなじみだ。農耕関係者以外の民間において、忌避感はほとんどないと言える。
そもそもが《魔物》と違い、《魔草》は住宅密集地で遭遇することがほぼゼロだ。
《魔物》は魔力以外に血に飢えて人里に降りてくるが、《魔草》は人間の発する魔力より、大自然の水中の魔力濃度のほうがずっと高いため、とされている。
しかし、何処かから聞きつけたツァーリの行動にそれらの教会は激しく反発し、アザーロヴァ家は猛抗議を受けた。
《魔草》を植え、《穢れ》を蔓延らせようとするなど。
このようなことを行うロヴァ領は、神の怒りを激しく買うことになる。
砂漠化は今後益々進行するだろうと。
ツァーリはそれに涼しい顔で答えた。
「貴殿方が昨今、市場に流通させている回復薬液の原料である維管束植物のほとんどの祖先が《魔草》のいずれかと遺伝子を同じくしていることをご存知か?」
これは国立植物系研究所内では、十数年前から既知の事実だった。しかし、教会の上層部に据わる老齢な人々に、お節介にも耳に入れる者は当然のようにいなかった。
「自分も最終的には《魔草》と呼べない段階まで品種を改良をして、砂漠を緑化するつもりです。やっていることは変わらない筈ですが」
十をいくらか過ぎた子ども――次期アザーロヴァ辺境伯が、抗議に怯まないどころか、教義を蔑ろにすることを宣言したと解釈した各教会の過激派は、容赦なくツァーリに命の贖罪を求めてきた。
「寛容と慈悲とが行方を晦ましているようだ。
まだ緑化を実現化させられるかわからない愚息に構わず、貴殿方には砂漠化がこれ以上進行しないよう、『本気で』神に祈りを捧げて欲しいのだが」
現実主義で効率主義者のアザーロヴァ辺境伯は、詰め寄る過激派を物理的に一蹴した。
辺境伯は領内の教会に多額の寄進をしているが、実際のところ札束で頬を張っているだけで、無神論者ではないかと、エミーリアは思った。その程度には綺麗にお引き取り頂いていた。
ただ、過激派はこのくらいで引き下がらないゆえに『過激』派と呼称されると、エミーリアはよくよく知ることになる。
――そしてこの少し後、ツァーリの命を狙う対象が増えた。
ツァーリが教会の過激派との溝を深くしつつある最中に行われた、広範囲のテスト植生。
その概要は、砂漠化したエリア内の十箇所をあらかじめ選定し、少しずつ条件下の違うそれらの地点に、『デュランハ』の苗を植え、三十分間経過を観察、結果を記録する。
三十分経過後は、すみやかに『デュランハ』を排除する。
『デュランハ』は別名『一夜草』と呼ばれるほどに成長が早い。《魔草》ならではの魔力への反応力と吸水力を残しつつ、《治癒魔術》や安価の回復薬液で枯れる別の植物と掛け合わせた品種改良中の『デュランハA』を植えていく作業に、エミーリアも立ち会っていた。
《治癒魔術》は他の魔術と比べ、展開時に体外へ発散される魔力がほとんどない。
そのため、魔力に反応して動物をも襲う別の《魔草》が、万が一テスト植生地点に生えていたとしても、無暗に刺激することなく、安全に『デュランハA』を枯らすことができるように選定されたと聞いた。
別の植物との掛け合わせは、奇跡的なスピードで成功を見て『デュランハA』は誕生した。ツァーリ自身が《治癒魔術》と魔力制御、その他諸々に長けていたためらしい。
前々日、幼馴染のみ集まった温室にて、二年弱でこのテスト植生にこぎ着けたツァーリが「自分の才能に惚れるわ」と言う横で、レヴは「よっ!天才!」と声掛けをしていた。
リリーユに「私たちも言うべきでしょうか?」と小首を傾げながら真顔で聞かれた。エミーリアは頷いて、ひとしきりツァーリを皆で褒めた。
そのレヴは今、アザーロヴァ辺境伯もテスト植生に参加しているため、不測の事態に備え、アザーロヴァ邸に待機している。
リリーユは攻撃手段が魔術のみであり、発する魔力量が極めて多いため、同行出来なかった。
ちなみに、今のエミーリアは、攻撃手段が剣と弓、《呪術》だった。《呪術》は体液を巡る魔力ではなく、別物の《生命力》を使用する。
具体的には髪などの体毛や爪のごく一部を供義にして、力を引き出す。戦況を左右する魔力切れの心配がないので便利なようでいて、力の調整を間違うと肉をもっていかれる。
また、魔術のように広範囲に影響を及ぼす術はない。対象の力を向上または低下させたり、変化あるいは消去させる方面の術が多い。《草》の間で代々口伝される術である。
今回、《魔草》の取り扱い上、原則、魔術の使用が禁じられているので、魔術なしでも自分の身を守れるとしてエミーリアは立ち会いを許された。
立ち会いを前に、あらかじめ確認した資料によると、『デュランハ』は花を咲かせる《魔草》らしい。
その花粉には毒性がある。人体への影響は少ないらしいが、『デュランハA』ではまだ無毒化されていないため、エミーリアたちベレス領やロヴァ領内の砂漠に程近い町村の代表、国から派遣された国立植物系研究所の所員などの見学者たちは、少し距離を置いて経過を見守ることとなった。
晴天に恵まれ、早朝からテスト植生は粛々と行われ、ある地点では、双葉の間から一葉伸びた。また別の地点では葉が増えないまま、やがて枯れた。
早送りのような成長スピード。
――どんな風に咲くのだろう。
エミーリアは、研究班の人員と護衛に周囲を囲まれ、時々垣間見える日焼けしたツァーリの横顔を見ていた。
そのテスト植生、九地点目で異変が起きた。
最初にエミーリアは、漠然とした違和感を感じた。
この九地点目は隣国との境界線に最も近く、関所が二キロ先にある。
――隣国の《草》がいる、というわけではなさそうだけど。
着々とテスト植生の準備が進む中、エミーリアは眼だけを周囲に走らせる。
ベレス領から一緒に来ている護衛の《草》も何かを感じたようで、警戒している様子が見て取れた。
「お父様」
「何だ?」
エミーリアは隣に立つベレスレフ侯爵に声を低く話しかける。
「いつでも退避できるよう、ご準備を」
『デュランハA』が魔力に反応し、その結果が読めない以上、魔術を得意とするベレスレフ侯爵には控えてもらっているしかない。
「相手は?」
「わからないので不味いかと。呪術と抜刀の許可を」
「許す」
ベレスレフ侯爵は口数が少ないものの、瞳で雄弁に語るタイプだった。
エミーリアの菫色とは違う紺碧色の瞳が、警戒とエミーリアへの信頼を映している。
それを確認して、今日は潜まず自分たちの護衛として立つ《草》に口唇の動きで警戒を伝えた。
と、同時にエミーリアは気づく。
――まったくの無風なのに、南側の砂が動いている。
動いた砂地の上空がユラリと揺れた気がして、反射的に背中の短弓に手を伸ばした。
「お嬢!」
「私が射る!《破》を頼む!」
エミーリアは極めて速やかに矢をつがえ、一気に射る。
一番近くの《草》が、エミーリアの手から離れる寸前の矢に《破呪》を掛けた。
最大射程距離が二百メートルのところ、呪術をのせるともう少しだけ伸びる。
およそ二百五十メートル先の地点で、硝子の割れるような高音が聴こえた。
離れた場所で、テスト植生を行っていた面々も異変に気づく。
「非戦闘員の退避を開始!」
高音と同時にベレスレフ侯爵が指示を出す、その後ろで誰かの叫び声が聞こえた。
「砂蠍だ!」
叫び声が上がる数瞬前にエミーリアはそれを視認した。
砂蠍は体長三十センチくらいの《魔獣》で、攻撃的かつ強い毒を持つ蠍だった。
砂漠に生息することは知られているが、大量発生した例はない――
しかし、砂が動いたと最初に思ったそれは、すべて砂蠍の背であり、ゆうに数百を越えるように見て取れた。
「砂蠍の周囲に『視界阻害』の魔術が掛けられていたらしいな」
「――お父様もすぐに退避を。私の目が確かなら、さらに向こうに砂嵐が見えます」
砂蠍の群れは、数十キロ先に発生したと思われる巨大な砂嵐から逃げるような動きに見え、一斉にこちらに向かってきている。
「お前の目は正常だ。だが、私は退避しない。
砂嵐はともかく、あと一分半で砂蠍は到達する」
さて、と呟く父親の様子にエミーリアは眉をひそめる。
「私一人をお前の《跳呪》で蠍の群れの中心まで跳ばせ。その後、お前は皆を連れて全力で退避しろ」
「お父様!」
「この中では私が一番魔力量が多い。砂蠍に喰わせて時間を稼ぐ。『デュランハA』のほうは――」
振り返ると離れた場所でツァーリたちは植生した『デュランハA』を早々に廃棄したらしく赤旗が立っている。
砂地に足をとられながらも、ツァーリがアザーロヴァ辺境伯や護衛とこちらに向かってくるのが見えた。
ツァーリとは逆に、研究班の面々は護衛の誘導で、先に退避を開始していた参加者たちと共に、後方に走りはじめている。
拠点へと戻る転移陣までは百数十メートルほど。
全員が転移陣に乗り、術を発動させるまで、どれほど急いでも一分以上は掛かる。
「どの範囲魔術でも、正面からではあの数を一度に止められない。
やつらの中心で術を展開すれば、反射的に俺に喰いつくだろう。時間を稼ぐゆえ、跳ばせ」
参加者の半分は非戦闘員であり、せっかくこぎ着けたこのテスト植生で、そこから重傷者はおろか死者を出すわけにはいかない――
エミーリアはこんな形で自分の父親を死地に送る役目を担うことに、目の前がグラリと揺れた。
「やれ。命令だ」
エミーリアが歯を食いしばりながら、呪術を発動させようとしたその時――
エミーリアとベレスレフ侯爵の間に、長槍が飛翔して来、咄嗟に避ける。
「待て、マーヴィ!」
飛んで来た方向を見ると、アザーロヴァ辺境伯が叫び、投擲したとわかった。
「父上、『デュランハC』の使用許可を!」
「超特例措置として許す!」
ツァーリ一人が走ってベレスレフ侯爵とエミーリアの間に立つと、一息に喋った。
「侯爵、身体を奴らに喰わす前に、血を提供してください!」
ベレスレフ侯爵は片方の眉を器用に上げるも、返答には間を置かなかった。
「わかった」
「エミーリアは父上の位置までさがって!行きます」
説明らしい説明もないまま、ツァーリは魔術の展開を始める。詠唱の触りを聞き、ベレスレフ侯爵は目の前の砂地に刺さっていたアザーロヴァ辺境伯の長槍を地面から抜くと、両刃を握り込んだ。
すぐに開かれた手は、真っ赤に血塗られていた。
「っとうさ、」
エミーリアは悲鳴を口の中で必死に殺し、ベレスレフ侯爵の顔を見上げると、その口元にはうっすらと笑みが浮かんでいた。
「面白いものが見られそうだな?」
詠唱中のツァーリは眼だけで苦笑して見せると、ベレスレフ侯爵の前に黒い粒らしき何かをのせた手を伸ばす。侯爵は血に濡れる手をそれに重ねた。
すぐに仄白い光が周囲に充ちる。
《魔術》は自分には適性がないと判断し、基礎のみ拾っただけのエミーリアには、ツァーリがどういう魔術を展開しようとしているのかまったくわからなかった。
しかし、砂蠍があと十五秒ほどで到達する位置に迫っているのは知覚していた。
砂地を駆けてアザーロヴァ辺境伯の位置まで下がる猶予はもうない。
ツァーリはベレスレフ侯爵の血で濡れた黒い粒を、地面にばら蒔く。
「『咲け、デュランハ!』」
ズ、ズヅァッ――――……
ツァーリの叫びに応えるように、細く赤黒い蔦が数十本、地面から一気に天を突く。同時に細い蔦の一本一本が、ミシミシと軋みつつ大樹の幹のように太く猛スピードで成長していく。
ツァーリの正面から左右に広がるように、次々と蔦は数を増やし、暫時、高さ三メートル前後、左右百メートルほどの蔦だったもの――ギシギシとお互いが押し合う樹々の壁ができあがった。
次の瞬間、砂蠍の群れが樹々の壁と激突した。
――ギ、ギギャアアァァ
ビシビシビシッと壁を砂蠍が絶え間なく押しているような音がする。
ジッ、ジュッジュウッ――……
そして、何かが焼かれるような、蒸発するような音も。
長いのか短いのか――、目の前の現実と心が解離した数秒間。
眼前の光景に、エミーリアは自分が知らず呆けてしまっていたことに気づく。
それを恥じながら気配を探るも、すぐに砂蠍が樹の壁を越えてくるようには感じられなかった。
様子を見ていたツァーリも同様に感じたのか、ひとつ息を吐くと、ベレスレフ侯爵とエミーリアを促し、共に樹の壁から後退する。
振り返れば、数メートル後ろにいたアザーロヴァ辺境伯と護衛たちはすでに退避を開始していたらしく、転移陣の方向に小さく見えた。
「侯爵、申し訳ありません。あれらが喰い合っている間は、治癒魔術はしばらく待ってください」
「問題ない。手入れのされた武器の傷だ。痛まん」
エミーリアは、腿のレッグホルダーから止血帯を取り出そうとした。
手元を見、そこで初めて、エミーリアは自分が震え、目の奥が燃えるように熱いことに気がついた。
――父親の紙一重の命を助けたのは、自分ではない。
「許せよ」
誰をとは言わず、ベレスレフ侯爵は一言だけ告げると、止血帯が巻かれ終わるのを待って、ツァーリに向いた。
「で、あれらはどうするつもりだ」
「……まずは転移陣の位置まで一度退きましょう。
二者が拮抗するであろう量に抑えました。様子を見るに一応は問題なさそうです。
ここらは地下水の魔力濃度も少ないですし、他にも理由はあって……『デュランハC』が一方的に繁殖し続ける可能性は限りなくゼロだと思います。
漏れた砂蠍が追い付いてきても、数は相当数減っているでしょうから、転移陣にいる護衛と我々だけで片付くかと」
「砂嵐が来ていますが」
エミーリアが急いで口を挟む。
「……砂嵐については恐らくだが国境を越えない。
では、行こう」
ベレスレフ侯爵が簡潔に答えると、先頭に立って進み始めた。
砂嵐についての発言にツァーリとエミーリアは一瞬顔を見合わせるも、ベレスレフ侯爵に従い、後を追う。
小走りの中、エミーリアはツァーリを見上げた。
「ツァーリ兄様。『デュランハC』とは」
「ナンバリングこそ同列にしてるけど、品種改良中の想定外の産物」
いや、遊び心の副産物というか、とツァーリはモゴモゴしている。
「『咲け、デュランハ!』は古代言葉では?」
「え、お前、《古代魔術》わかるの!?」
ツァーリは上ずった声を上げた。
「いえ、魔術はサッパリ。しかし、《古代語》は呪術で少しですが出てくることもあるので、《草》から習っています。
ということは、『デュランハC』は《古代魔術》で成育させたのですか」
《古代魔術》は《古代語》の詠唱で展開させる、現在ほぼ廃れたかなりマニアックな魔術を指す。血を媒介にして起動し、血に含まれる魔力量の濃度で起動スピードも変わる。実戦でかなり使いづらく、現代では誰も使わない、古典のような存在だ。
種子の悪用防止には確かに向いているかもしれない、とエミーリアは一人合点がいき、頷いた。
「《古代語》なら万が一聞かれても、問題ないと思っていたのに……!《草》には全部聴かれてるってことか……!?」
一方、隣でツァーリは青くなったり赤くなったりしている。
「まぁ、《草》いわく、《古代語》を扱うウチとロヴァ領は、少し特殊らしいですよ。王都から離れている分、一時そちらから孤立して互換性を持たない呪術が発展した時代があったそうで……って、それはともかく。
咲け、と言っていましたが、花は見えませんでしたね」
「ぎゃ、わーっ!そこに触れるな、いや、触れないでください!」
先ほどまで、冷静に場に対応していたツァーリは、見る影もなかった。エミーリアが小首を傾げていると、前方からゴホンゴホン、とベレスレフ侯爵の咳払いが聞こえた。
「――取り急ぎ、些事は捨て置き、ツァーリを国の保護下に置かねばならんだろう。急げよ」
「国の?」
ツァーリとエミーリアは再び顔を見合わせた。
転移陣の設置場所に戻ると、アザーロヴァ辺境伯と二人の護衛のみが立っていた。三人を残し、他の参加者は拠点に帰還していた。
「よく戻った」
手を広げて迎えたアザーロヴァ辺境伯に、軽く血振るいした長槍を返しながらベレスレフ侯爵が答える。
「まあな。……しかし、良かったとは言えんぞ」
「お前の命が繋がった以上、一緒に頑張ってもらうさ」
アザーロヴァ辺境伯はツァーリと同じ黒銀色の、一筋落ちた前髪をかき上げると、ツァーリに向いた。
「報告を」
「砂蠍推定三百と『デュランハC』の種子三十程度の魔力拮抗を予測し、ベレスレフ侯爵の血で『成育』の起動を引きました。私より1.2倍魔力量の多い侯爵で通常より成育スピードの上昇を確認。増殖数と範囲には影響がありませんでしたが、魔力の吸収力……補食力の微増が見てとれました」
「うむ」
「今から十分後に再度確認に向かいますが、テストケース同様、『デュランハC』は急激に成長を促された反動で魔力不足になり、自己補食を始めるものと思われます。今頃、最初の発芽分が消滅し始めたかと」
「遠目に見ても、『デュランハC』の壁が広がってはいまい。――まったく、奴らが最高の御披露目にしてくれたな」
アザーロヴァ辺境伯の精悍な顔立ちが、皮肉気に歪むと凄みがぐっと増す。
こういう時のアザーロヴァ辺境伯は非常に怒り心頭であると経験上、エミーリアは知っていた。
『奴ら』とは、とエミーリアが疑問を挟む空気ではなく、ツァーリをちらりと見るが、ツァーリも同様にわからないらしい。しかし、彼は彼で何かを考えている風でもあった。
「……植物系研究所のほうはどうした?」
ベレスレフ侯爵が問う。
「ツヴァイ主席研究員殿に、『お土産』を渡して速やかに王都にご帰還頂いたさ」
フン、とアザーロヴァ辺境伯が鼻を鳴らす。
「あれだけ明確に国境でウロウロする砂嵐を見せられたら、馬鹿でも焦ろうよ。
――とはいえ、すぐに《草》を関所に飛ばしたが……証拠を抑えるには間に合わんだろうな」
「奴らにのらりくらりかわされるのはいつものことだ。国がようやく腰を上げてくれるのなら御の字だろう」
父親同士の話を横に聞きつつ、エミーリアはその砂嵐がどうなったのか振り返れば、その姿が影も形もなかった。
「砂嵐が消えた……!」
エミーリアの驚きの声にベレスレフ侯爵が目をやる。
「『視界阻害』をお前が破った時点で、気づかれたことに気づいて、慌てて消したんだろうがな」
あの規模だけに、ようやく消えたか、と砂嵐があった方角を見やる。
「……エミーリアに告げるには早くはないのか」
「ハッ、お前は存外ウチの娘たちに過保護だ。
『視界阻害』はエミーリアが破った。すでに当事者だ。想定よりは早いが、誤差の範囲だ」
「お前は安定の親馬鹿だな」
アザーロヴァ辺境伯とベレスレフ侯爵の会話で、過保護に親馬鹿という耳慣れない言葉に疑問を抱くよりも、エミーリアはあれだけ巨大な砂嵐が突如消失したということが示す事実に驚いていた。
父親があちらこちらで告げていた言葉の欠片で様々なことに思い至る。
「お父様。……内紛で忙しく、砂漠の魔獣の掃討が追いつかないからといって、わざわざ『視界阻害』をしてまで、隣国はこっちに魔獣を追い込んでいると?
――急激に砂漠化が進んで、魔獣も増えているのは砂嵐の流砂や飛砂……隣国の所業だというのですか」
隣国とは数十年のつばぜり合いの末、現在は国交自体断絶されている。
口にしながら、荒唐無稽なことを言う、といっそ笑って欲しかった。
しかし、ベレスレフ侯爵がエミーリアをあごでしゃくると、アザーロヴァ辺境伯が息をつく。
それを聞いて、考え込んでいたツァーリが顔を上げる。
「父上。あの砂嵐は魔力光が発生しているように見えました。それに、砂蠍も砂嵐に追われたといえ、あそこまで群れるのは記録にありません」
砂蠍の特性では共食いが起こってもおかしくはない数でした、とツァーリが口に手の甲を当てる。
「あれだけの巨大な砂嵐は、……人柱を使って起こし、……魔獣を軍事利用しているのですか」
ツァーリもエミーリア同様、微かに震えていた。エミーリアは、咄嗟にツァーリの手を握る。
ツァーリも黙って手を握り返し、二人で父親たちに向き直った。
ベレスレフ侯爵とアザーロヴァ辺境伯は、目を合わせ、アザーロヴァ辺境伯が頷いた。
「……お前たちにも、共有しておこう。
隣国は、この数十年、王権争いで自滅するだろうと周辺諸国から捨て置かれている間に、他国への侵略で活路を見出だそうとする輩が出てきたようだ。
軍は疲弊して使えないので、軍需兵器の開発が斜め上に活況らしい」
資金不足と人材不足で順調ではないらしいがな、とアザーロヴァ辺境伯が顎を撫でる。
「今見た砂嵐も砂蠍も開発途上の実験だろう。この数年、それらが流れてきているのを数度確認している。
しかし、砂嵐など砂漠では当然なくはない。魔獣も当たり前のように居る。作為を感じても証拠が出にくい。
埒があかないので、国の調査と牽制を願い出たが、状況証拠だけでは、国は防衛に動かん」
アザーロヴァ辺境伯の言葉を、ベレスレフ侯爵が継ぐ。
「出来れば関わりたくない国だからな。
《魔獣》は今まで周辺諸国でも軍事利用できないか研究されてきた。しかし、未知なことが多すぎて手に余るということで、上手くいった試しがない。
なおさら、自滅待ちの放置の方向だったが、砂嵐を利用し、誘導する方法は砂漠にのみ、一定の効果がある。
今回、王都から派遣されたツヴァイ主席研究員――彼の父上は侯爵位で古参の枢密顧問だ。眼前でこのようなことが起こり、それなりの危機感をもって報告されるだろうよ」
色々な意味でな。
ベレスレフ侯爵は肩を竦めた。
エミーリアは話を聞いていて、先ほど父親が言ってた言葉の意味がわかってきて、顔をしかめる。
「ツァーリの『デュランハC』がなければ、領主を含め全滅していたかもしれませんが?
……もしや対抗するのに上手くやりすぎたと?」
隣でツァーリが、エミーリアの手をぐっと握りしめた。そのツァーリが口を開く。
「結果的に、隣国のみならず国からも、ロヴァ領が《魔草》を軍事利用しようと研究していたのでは、と誤解を招く恐れがあるのですね」
ベレスレフ侯爵は頷く。
「王都の人間は痛くもない腹を探るのが趣味だからな。砂漠緑化こそが目的のはずが、良い建前だと言われるほどには、ツァーリは順調に進めていると思う。
今まで《魔獣》は上手く操作できなかったゆえ、類する《魔草》を戦力として活かす案は出なかったのだろう。我々とて同じだ。
そもそも《魔草》は薬草学の分野では研究が進んでいるから、薬化の前提がある分、着想が得づらかったと思う。
それをツァーリは此度の実戦を含め、二年で《魔草》の可能性を拓いた。
国から叛意ありと妄言……誤解を受けないよう、速やかにツァーリの研究結果の報告と保護を申請するべきだ」
エミーリアはアザーロヴァ辺境伯に叫んだ。
「保護とは……、こうなることがわかっていて、なぜツァーリの研究を許可されたのですか!っツァーリは」
エミーリアは、自分自身が何に憤りを感じているのかはわからなかったが、声を上げずにいられなかった。
アザーロヴァ辺境伯は形の良い眉を器用に片方だけ上げた。
「ツァーリが《魔草》に着目した時点では可能性はなくはない、というてい。
我々は国の防衛壁として、中央より独自の裁可を赦されている。その分、あらぬ誤解を受けやすい。
そして、今回の件、遅かれ早かれ隣国にも知れる。二重の意味で『保護』だ。
ただ一切の思惑は関係なく、砂漠化の進行は極めて深刻であるし、解決の糸口は《魔草》を使うというぐらい斬新な発想がないと掴めないと判断し、ツァーリには出来うる限りの裁量を持たせた。私はツァーリを信じている」
「……」
「『デュランハC』は緑化と同時に魔獣から農作物を保護できないか盛り込んだ延長で出来たと聞いているが?」
「……大体、その通りです」
エミーリアは唇を噛み締める。
アザーロヴァ辺境伯の冷静な声を聞き、エミーリアは自分がかなり動転していることを自覚する。
やつ当たりに近い。
父親を失いかけたすぐ後に、幼馴染の自由が失われようとしていることに自分は何もできない。
手を伸ばしても届かないところに。
――足りないことが、ただただ苦しい。
「……保護下にあって、研究は続けられるでしょうか」
ツァーリが静かに問うた。
「勿論。私はお前が成した二年とこの先を護る」
アザーロヴァ辺境伯はツァーリの肩に手を載せた。
「お前たちは、情報をある程度与えておかねば、枠組みを壊して何をしでかすか……いや、それも含めて、私たちの期待以上に成長している。
だから、黙って行かせることもできたが、この話をしたのだ。
忘れているかもしれんが、幸い、お前たちはまだ未成年ゆえ、今時分ならこうなった時の行き先は決めていた。
むしろ堂々と開発できて好都合かもしれん」
十三歳と十二歳は、今日何度目かで、顔を見合わせた。
繋いだ手の、お互いの温度が、これから先の不明さに対する不安を少しだけ慰めた。