二章 後編
特に変化がないまま、次の日を迎えた。
本来ならばまだ合宿中の為、秋葉や夏乃が帰宅しないでも不審ではない。
しかし、今日中に元に戻らないようであれば、何か手を考えなくてはならない。
春樹が居間で二匹の猫を前にして頭を抱えていると、呼鈴が鳴った。
こんな時に誰だ、と不機嫌な顔で玄関前の映像を確認する。
そこには活発そうな顔立ちの少年が映し出されていた。
従兄弟の将だ。
家が徒歩で来れる距離なので、こうして時折遊びに来たりする。
いつも先に連絡くらいはしろ、と言っているのだが、今日もまた勝手に来ていた。
正直、今に関しては彼との遊びに付き合っているほど暇ではない。
早く秋葉と夏乃を猫から元の人間に戻さなければならないのだ。
しかし、と春樹は考え直す。
もしかすれば、将と遊ぶことが何か新たな刺激になるかも知れない。
そうして、少し悩んだ末に将を招き入れることにする。
「春樹兄ちゃん久しぶり」
「お前な、いつも言ってるけど先に連絡くらいしろよ」
「いいじゃんいいじゃん」
まだ小学校低学年の子どもにそこまで厳しく言うわけにもいかず、それ以上は言わなかった。
居間に入ったところで将は見覚えのない猫に注目する。
「あれ、新しい猫飼い始めた?」
「まあな」
「名前は?」
「名前か……次郎だ」
それを聞いた黒白柄の猫は「ふー」と声を上げる。
不服らしい。春樹は少し考えて、言い直す。
「秋乃だ」
秋葉と夏乃の名前を安易に合わせたものだったが、今度は文句なさそうだった。
「へぇ、秋乃っていうのか、お前」
将は秋乃を捕まえようとするが、ひょいとかわして逃げられる。
「太郎と違ってまだまだ警戒してるから、あまり触ろうとしないでくれ」
「はーい」
明るい返事。秋乃を諦めて太郎を抱きかかえた。
春樹は冷たい麦茶を用意してから、将に問いかける。
「それで、何しに来たんだ」
「何しに、って酷いなー。
遊びに来たんだよ」
「そうは言ってもな、うちに来ても遊び道具なんてないぞ」
「広い庭があるだけで羨ましい。
キャッチボールでもしようよ。確かあったでしょ」
「まあ、倉庫に入ってた気はするな」
麦茶を飲み終えた後、庭に出た春樹は倉庫から野球のボールを引っ張り出した。
ミットも一緒にあったので、それらを使ってキャッチボールをする。
「何だか投げ慣れてるな、将」
「最近、学校でよく野球してるんだ」
「そうなのか」
春樹は運動神経は並みといったところだ。野球の経験も遊びでやった程度である。
なので、残念ながらこうしてキャッチボールに付き合う程度しか出来ない。
しばらく続けた後、休憩する。
二人とも汗をかいていた。
「また何か飲み物いれてくる」
将は軒先に座って太郎と遊んでいた。
少し離れたところに秋乃もいる。
「にゃあああ!」
急に猫の荒々しい声が聞こえ、春樹は慌てて戻った。
すると、将が秋乃を捕まえて持ち上げていた。
「こいつオスかな、メスかな」
などと口にして辱しめようとする。その猫には二人の少女の意識があるとも知らずに。
「馬鹿野郎ッ!」
春樹は将に対して厳しい言葉を放つが、少しばかり遅かった。
怒った秋乃はその爪を将の顔目掛けて振るう。
その瞬間だった。春樹の脳裏に電撃のように一つの光景が瞬いた。
「——ッ!?」
それは僅か数瞬後に起きる未来。秋乃の体が指向性を持って飛ぶ。
投げられたのだ。
その先には庭に生えた木があった。もし激突すれば重傷は免れられない。
ましてや猫の小さな体躯だ。
春樹は予知た光景は変えられないと考え、その先を変える為の行動を取る。
「痛ッ! 何すんだ!」
引っ掛かれた将は衝動的に秋乃を持った手を振りかぶった。
今にも投げようとしている。
春樹は『間に合えッ……!』と内心で念じながら、庭の木の前に向けて、飛び込んだ。
予知通り将はその場所へと思いきり秋乃を投げてくる。
ちょうど手元に入ってきた秋乃。衝撃が少なくなるような形で柔らかく受け止めることに成功する。
その代償として、春樹は地面に転がり両手両足を擦りむくことになった。
「あっ、春樹兄ちゃん……」
将は気落ちした声を上げる。
自分が何をしてしまったのか、気づいたのだろう。
「大丈夫か?」
春樹は手元の秋乃へと声を掛ける。
すると、軽快な素振りで手元から抜け出し、「にゃん」と鳴いた。歩く姿にも変わった様子はなく、無事なようだった。
「おい、将」
春樹が厳しい口調で言うと、将はビクッと怯えた様子を見せた。
「何か言うことがあるんじゃないか」
「……ごめんなさい」
「俺に言ってどうするんだ。
それよりもきちんと目を見て言うべき相手がいるだろ」
春樹は秋乃を抱きかかえると、将の前に行く。
将は今にも泣き出しそうな顔で秋乃を見た。
「ごめんなさい、秋乃」
しかし、秋乃はプイッとそっぽを向いた。
まだ怒っている様子だ。当たり前だが。
「もう二度とこんなことするなよ。無理に触って怒らないわけがない」
「はい……」
これ以上、叱っても仕方がないので、春樹は普段の口調で声を掛ける。
「さ、将もリビングに戻って手当てするぞ。
顔、怪我したろ」
そうして、居間で将の顔の手当てをしていると、彼はポツリと呟いた。
「春樹兄ちゃんは触っても大丈夫なんだね」
「ん?」
「秋乃」
何の話かと思ったが、納得する。
言われてみればそうだ。
「まあ、飼い主だからな」
そう言うと、秋乃にペシンと叩かれた。秋葉か夏乃の意識が不満をぶつけてきたらしい。
しかし、その様は将には見えていなかった。
「そっか」
その後、夕暮れ時に将は帰宅した。
夜、春樹は水斗に今日あった出来事を一通り話し終えた。
些細なことでも大事な情報になる、と言われた為、事細かに伝えた。
「ふむ……戻る確証はないが、試してみる価値のある方法を一つ、思い付いた」
「本当か?」
「だが、それを試す勇気がお前にあるかどうか」
水斗はなぜだか言い淀んでいる様子だった。
「何だってやるさ。彼女達を元に戻せるっていうのならな」
「そうか。ならば、その方法を話すとしよう」
一度咳払いをした後、水斗は告げる。
「——今夜、あの猫と一緒に寝ろ」
それを聞いた春樹は少し間を空けて、「は?」と口にした。
「……冗談だよな」
「冗談ではない。本気だ。
これが彼女達の心中を良い方向へと傾ける可能性がある」
「俺が一緒に寝ることに一体全体、何の関係があるっていうんだっ」
「将が言ったことを思い出せ。確かにお前は触れることを拒絶されていない。
つまりは心を許している相手だということだ。信頼されているんだ、少なからず、な。
だからこそ、少しでも長い時間を共に過ごすことに意義が生じる」
それらしいことを言っているように思えるが、やはり抵抗がある。
秋乃の中には秋葉と夏乃の意識があるのだ。
そんな相手と共に寝るというのはお互いにとって決して良いことではない。
春樹の貞操観念としてはあり得ない行いだと言えた。
しかし、水斗は駄目押しするように言う。
「私を信じろ、春樹」
「むぅ……」
そう言われてしまえば、もはやどうしようもなかった。
春樹は渋々と頷いた。
「もし、明日までに変わりがないようであれば、二人の両親には私から話そう。
これ以上は黙っているわけにもいくまい」
「そうだな。
頼むよ、父さん」
水斗の部屋を後にした春樹は居間に向かった。秋乃を自室へと連れて行く為だ。
しかし、不思議と見当たらない。
「どこに行ったんだ……?」
家の中を一通り見回った後、まさかと最後に向かったのは、自室だ。
扉が開いていた。開けっ放しにしていたのかも知れない。
春樹は自分の部屋を恐る恐ると覗きこむ。
「まったく、どうなってるんだ」
ベッドの上で黒白柄の猫が寝ていた。秋乃だ。
これも水斗の考え通りなのか、はたまた単なる偶然なのか。
秋乃は枕元で寝ていたので、春樹は普通にベッドに入り眠ることにした。
仮に、この状況で秋葉と夏乃が元に戻った場合、どうなるかなんていうことは想像せずに。
春樹はやけに狭苦しく感じて、目を覚ました。
細く開けた目が、窓から僅かに差し込む光を捉え、朝であることを教えてくれた。
それにしても、妙に暑い。
柔らかい感触が身体のあちらこちらに纏わりついてくるような感覚があった。
一体何が、としっかり瞼を開いて周囲を見回す。
そこには驚きの光景が広がっていた。
ベッドの上で春樹を挟むようにして、秋葉と夏乃が共に寝ていたのだ。
身体に纏わりつくようであったのは、彼女達のたおやかな身体つきが触れる感覚だと理解する。
これはまずい、と思うも束の間。
既に幾度も身じろいでしまっていたのが運の尽きだ。
春樹の目覚めに連動するような形で、秋葉と夏乃も目を覚ました。
「にゅ?」
「ほへ?」
二人は寝ぼけ眼で春樹を見て、更に互いを見合わす。徐々にその目のピントが合っていく。
そして、それに比例するような形で赤くなっていく顔。
もはや春樹も心臓がバクバクと鳴っており、とても冷静ではいられなかった。
脳裏に無数の言葉が飛び交っている。
まるで既に着火された導火線が短くなっていくように、その時は訪れた。
沈黙の終焉だ。
「うわああああああっ!?」
「きゃあああああぁっ!?」
「何ぞおおおおぉぉッ!? あがっ」
三者三様に声を上げる。
夏乃は床側だった為、三人がそれぞれに身を離そうとしたばかりに、反動で地面に転がり落ちていた。
その後、三人が落ち着きを取り戻すまでには少しの時間が掛かった。
エスパー病の発作が再発するようなことがなかったのは、不幸中の幸いだったと言えよう。
放課後、春樹達は社会教室へと集まっていた。
当然、この二日間についての話をする為だ。
今朝、秋葉と夏乃は荷物を持って一度家に帰った。
学校があるので、話は部活でしようということに決まったのだ。
そうして、現在。
第一声を放ったのは、夏乃だった。
彼女は頭を下げて言う。
「二人共、ごめん! 私のエスパー病のせいで……」
彼女にしては珍しく真摯な態度だった。
どうやら本気で悔やんでいる様子だ。
それをわざわざ咎めようなどという意思は、春樹にも秋葉にもない。
「気にしないで、夏乃ちゃん」
「俺達はエスパー病の抗えなさも辛さもその身で十分に理解している」
「え、ハル君も?」
「ああ。
黙ってて悪かったな。俺もエスパー病だ。
これまでに発症したことは少ないがな」
「そっか……そうだったんだ」
夏乃は一人何かを納得したようだった。
そうして、ポツリポツリと自分のことを語り始める。
「小学生の時だったかな、初めて発作が起きたのは。
仲の良かった子と一つになっちゃって、しばらくしたら元に戻ったんだけど、気味悪がられちゃって」
春樹はその様子が容易に想像できた。
人は自分と異なる存在を忌み嫌う。それはいつの時代も変わりはしない。
エスパー病は一般に認知こそされているものの、身近に患者がいることはほとんどなく、それゆえにいざその存在と出会った場合、多くの人は恐れ、拒絶し、排斥する。
そんな話は昔から水斗にいくつも聞いてきた。その為、春樹は自然に他者と距離を取ってしまう。
彼らは自分とは違う存在、だから。
「それから人と仲良くすることが怖くなったよ。どこか壁を作るようになった。
私はクラスの皆と仲良くしてるように見えるかも知れないけど、本当に仲が良い相手なんてのは、いないんだよ。
必死で取り繕ってただけ」
春樹は夏乃のことをクラスの人気者だと思っていた。自分とは別世界の住人のように思っていた。
けれど、それは違ったのだ。
そこには彼女の悲愴なまでの道化があっただけ。全ては作りものだった。
「でもさ、二人とこうして一緒に過ごすようになって、これまでとは何か違うように思えたんだ。
だからかな、調子に乗っちゃった。もしかしたら、もう発作が起きることもないのかも、って」
彼女は期待していた。
けれど、裏切られた。
その心の痛みは一体どれほどのものだろうか。
「私、もう誰かと仲良くなることが出来ないのかな……」
絞り出すように放たれたその言葉は、途方もない哀しみを帯びていた。
春樹にはその悲しみを放っておくことが出来なかった。
秋葉と目が合う。彼女は、こちらに任せる、と言ってくれているように思えた。
「なあ、南條」
春樹は自分の想いを素直に伝えようと思った。
それがきっと、夏乃の救いになると信じて。
「父さんが言ってたよ。親密になるということも心に不安定をもたらす、って。
だけどな、それはずっとじゃない。本当の意味で仲良くなった時、そんなことはなくなる。必ずな」
彼女に必要なことは何かと考える。
心を揺らすな、というのは言うは易く行うは難しだ。
エスパー病の発作は避けようと思って避けられるものでは決してない。
だからこそ、真に必要なのはきっと、彼女を受け入れられる存在。
その病も含めて。
「これから先、どれだけ発作が起きようが、俺達はお前を拒絶しない。排斥しない。
だから、俺達を信じろ」
そうして、春樹は夏乃に手を差し出した。
「俺達はお前の仲間だ」
秋葉も同様に手を伸ばす。
「そうだよ、夏乃ちゃん」
夏乃は伸ばされた二つの手を掴むことを躊躇っていた。
きっと怖いのだろう。信じ切れないのだろう。
本当に自分を受け入れてくれるのか、と。
春樹達に出来るのは待つことだけだ。
夏乃が自分達を信じてくれることを信じるだけだ。
そして、ほんの数秒にも数時間にも思える時間の果てに。
夏乃の手は、春樹と秋葉の手を掴んだ。
「二人とも……ありがとう」
目を潤ませた彼女はこれまでで一番だと思えるような笑顔を浮かべた。
後日談。
咄嗟に秋乃と名付けた黒白柄の猫は春樹の家でそのまま飼われることになったが、名前の由来となった秋葉と夏乃の前でその名を呼ぶことはとても気恥ずかしく思えた。いっそ名前を変えようかとすら考えた。
しかし、二人はどう思っているのやら、たまに春樹の家にやって来て太郎や秋乃と遊んで帰るようになった。それも彼女達も秋乃と呼ぶのだから、変えるに変えられない。
それは春樹の目下の悩みだと言えた。