断章1
西野秋葉には気になる相手がいた。
それはいわゆる恋だとか愛だとかそういったものではない、と思う。
彼の名前は東郷春樹と言った。クラスの中では目立たない立ち位置だろう。
秋葉同様、軽く話す程度の相手はいても、友達と言える友達は特にいないように思えた。
では、彼の何が気になるのか。一言で言えば、雰囲気だ。
周囲と自分を別の次元に置いている。それも卑下する形で。
そんな風に見えた。
まるでハリネズミのジレンマだ。近づくと傷つけてしまうし、傷つけられてしまう。
だから、他者と距離を置こうとする。近づけないように壁を作る。
似ている。
そう、彼は自分と似ている。
だからこそ、こんなにも気になってしまうのかも知れない。
そんな風に思っていた。
あの時までは。
とある休日、秋葉は繁華街の方へと遊びに出かけていた。新しい本を買ったり、猫カフェを訪れたり、と目的は色々だ。
当然、一人で。
町には一つ、大きな川が流れている。
そこで遊んでいる子供も少なくはない。暑い時期は人気のスポットだ。
繁華街からの帰り道はいつもその川の傍を通る必要がある。
日が暮れかかっている時間、秋葉は河川敷の上側を歩いていた。
その時だ。突然、女性の悲鳴が聞こえて来た。
ギョッとしてそちらを見ると、川岸で一人の女性がいた。
その目線の先には、流されていく子供。
男の子だ。
気が動転しており、今にも溺れそうに見えた。
秋葉はすぐに助けを呼ぼうとする。しかし、今からどこかに電話したところで到底間に合わないだろう。
ならば、傍に誰かいないかと見回すも、日暮れ時であることもあって、人気はほとんどなかった。
咄嗟に見当たらず、秋葉も動揺する。
泳ぎは並程度なら出来る。なので、自分が行けば助けられるのではないだろうか。
しかし、秋葉はその足を踏み出すことは出来なかった。ただ震えるだけだった。
怖いのだ。もしかすれば、自分が命を落としてしまうかも知れない。
他人より自分の方が大切。そんなことは当たり前の話だ。
見も知らぬ誰かの為に身を投げ出せるはずもない。
それも、他者と繋がりを持つこともままならない秋葉にとって、その優先度というのは著しく低いものなのだから。
秋葉が立ち尽くしてしまったその時、風のように駆け抜ける誰かが現れた。
彼は一切の迷いを見せず川に飛び込むと、決して得意ではない様子の泳ぎで子供のもとへと辿り着いた。
子供を安心させながら、母親のいる川岸まで泳いでいく。
私服姿だが、見覚えのある顔だった。
春樹だ。紛れもなく彼だった。
春樹は無事な様子の子供に何か声を掛け、その頭を軽く撫でると、立ち去って行った。
名乗りすらしていないように見えた。
秋葉は思わず彼に見つからないように隠れていた。
自分が恥ずかしくなったのだ。
大きな勘違いをしていた。
彼は自分と似てなどいない。
彼は必要とあれば、他者と関わることを辞さない。
こんな自分だけが大切なちっぽけな人間とは違って、誰かの為に頑張ることが出来る立派な人間だった。
それ以来、秋葉は春樹のことが前よりも気になるようになった。しかし、その意味合いは少し変化したように思う。
自分も変われるだろうか。
あんな風になれるだろうか。
眩しかった。憧れを抱いた。
そんな時のことだ。春樹が学校を休んだのは。
秋葉はその日、ちょうど日直だった。
日直は欠席者へその日のプリントを届けるようになっている。
しかし、それを律儀に守っている者などいない。秋葉も普段は守ってなどいなかった。
そう、欠席者が春樹だったからこそ、秋葉は日直の役目を律儀に守ることにしたのだ。
少しでもいい。
彼と話してみたいと思ったから。
これまで他者を避けてきた秋葉だったが、こんなにも誰かと関わってみたいと感じたのは初めてだった。
そうして、日直を名目とした春樹の家を訪れた秋葉。
「…………っ」
暫しの長考の後、震える指先でその呼鈴を鳴らしたのであった。