人ならざるもの
名前もないようなありふれた小さな花を嬉し気に眺めて、佳香は機嫌よく簀子で日に当たっていた。とても考えられない暴挙である。
「大したものはできませんけど」
六郎は川で捕って来た川魚を木の枝に刺して焼いた物を恐る恐る出した。
「まあ、美味しそう。さあ、食べましょう。
ほら。あなたも」
「は、はい」
六郎の方が恐縮しながら、魚に手を伸ばす。
「美味しい!」
お姫様もかぶりつくんだなあ、と六郎はぼんやりと思った。
佳香は佳香で、鬼なら行儀とか構わないだろうし、どうせ喰われるんならその前くらいのびのびとしてやろうと開き直ったら、楽しくなってしまったのだ。それにこの六郎は、石山寺で梅の花を切ってくれた優しい下男で、鬼になってもやっぱり優しかったので、怖いと思わなくなったのだ。
「でも、人が鬼になるのね」
「はあ。自分でもどういう事かよくわからないんですが・・・」
六郎がそっと頭に手をやると、そこには角が生えていた。
「でも、それ以外は人と同じでしょう?これまで通りにしていたら、わからないんじゃないかしら」
「そう・・・でしょうか。ううむ」
「突然鬼になったんなら、突然人に戻るかも知れないし」
「ああ、成程。
でも、人に見られてしまいましたし・・・」
肩を落とす六郎に、佳香は笑いかける。
「じゃあ、どこか遠い所に住めばいいわ。
私も行ってみたいわ。海を見てみたいし、海の向こうへも行ってみたい」
「恐ろしくて危険だと聞きますよ」
六郎は震えあがった。
「何とかなるわよ」
そう言われるとそんな気がしてくる。
「そうですね。
姫様は、随分とお転--いや、頼もしくいらっしゃる」
「お転婆でいいわよ。
本当は、牛車に乗るより馬に乗りたいし、じっとしているよりこうしてお日様に当たって歩いたりしたいの。だめねえ」
苦笑する佳香に、六郎は力一杯首を振った。
「そんな事ありません!お姫様は、優しくて、きれいで、生き生きとして、とても・・・とても・・・ええっと、素晴らしいです!」
語彙不足が恥ずかしくなって、六郎は下を向いた。
佳香はにっこりと笑って、言う。
「ありがとう、六郎」
風に、暖かなものが混ざり始めた。
「ああ。気持ちいいわねエ」
「はい!」
2人はどちらからともなく顔を見合わせ、笑い出した。
帝の嘆きと怒りは、かなりのものだった。自分で救い出しに行きかねないのを何とか押しとどめ、必ず救い出して来るからと、周囲がどうにか説得したのである。
救出部隊に志願したのは、佳香の兄和久と、雅行。滝口の武士を引き連れて、目撃情報を頼りに逃げ込んだと思しき山中に分け入ったところだった。
「怖い思いをしているだろうな、佳香」
お転婆だなんだと言いながらも、兄だ。
「鬼め。許さん」
先を越された、自分にはできそうもない事をやりやがった、という思いがどこかにあった。
もう喰われていたらどうしよう。部下にはそんな事を考える者もいたが、そんな事、とても口にできるものではない。
「急ぎましょう。姫が心細い思いをなさっているはずですから」
せいぜいそう言って、先を急ぐだけだった。
六郎は、枝で地面に文字を書いていた。佳香に教わっているのだ。
「六郎。これが、佳香」
「そうよ。これが、桜」
「六、郎。佳、香。桜」
「上手よ!」
嬉しくなって来る。そしてこの姫が、愛しい。喰いたい。喰いたい。喰いたい。喰って、一つに・・・。
「六郎?どうしたの?」
様子のおかしくなった六郎を、佳香が覗き込む。
六郎は、ハッとして跳び退った。
「六郎?」
「佳香様・・・お、俺・・・」
何か、喋り難い。そして、苦しい。
六郎は口元に何気なく手をやって、血の気が引いた。牙が生えている。
「どうしたの?」
「来るな!あ、いえ、その、来ないで下さい!」
「一体何が・・・?」
佳香は戸惑いながら、ケガでもしたのかと、心配になった。
「見せて、六郎。ケガでもしたの?虫歯が痛いの?」
「違う、そうじゃない、俺はーー!
部屋に入りましょう。白湯でもお持ちします」
六郎はその場から逃げるように背を向け、佳香はわからないながらも、それに従って部屋に上がった。
その時だった。
「いたぞ!!」
「無事か、佳香!!」
「あら」
救助隊が、あばら家に辿り着いたのは。
六郎はハッとしたようにそちらを見、佳香を見、和久達へ向かって叫ぶ。
「帰れ!」
それで帰るわけなど勿論ない。雅行達は各々武器を構え、隙無く六郎を取り囲んだ。
「待って」
「姫様、さあ、こちらへ。御無礼いたします」
佳香は武士に手を引かれて、離される。それを見た六郎は、頭に血が上るままに咆哮を上げた。
「渡さん!!姫は、俺が喰う!!」
角はハッキリと大きくなり、牙も伸び、爪も長く鋭くなる。そして、優しい六郎の面影が消えて行く。
「六ーー!」
「鬼を討て!!」
乱戦が始まった。
単純な力では、鬼と成った六郎に分がある。しかし、人数でも武器でも戦いの経験でも、和久達に適うものでは無い。次第に六郎は傷つき、動きが悪くなり、苦悶の声を上げ始める。
「ああ・・・」
もう、見ていられない。佳香は武士の一人に引き離されたところに留められるまま、目を覆った。
「これで最後だ!」
その声に顔を上げるのと、六郎の体に太刀が吸い込まれるのは同時だった。
「グッ・・・」
口からドッと赤黒い血を噴出させ、六郎が膝をつき、どうと倒れる。
「やったぞ!」
佳香は、真っすぐにそこへ走り、六郎の傍らに膝をついた。
「ああ・・・」
六郎は佳香の姿を視界に入れた。そしてそれが誰であるか気付くと、表情が和らぎ、爪と牙と角が短くなった。
「おお・・・!流石は帝の中宮様・・・!」
感嘆のどよめきが起こる。
しかしそんなものは、佳香の耳にも、六郎の耳にも入っていない。
「姫、様・・・佳香、様・・・」
六郎は最後の力を振り絞ったが、それ以上は、声にならない。
ただ、「笑って下さい。どうか、お幸せに」と、口が声なき言葉を綴ったのみだった。
短編連作ライトホラー『体質が変わったので』、劇中劇です。宜しければそちらもご覧ください。御感想など頂けたら幸いです。




