仕事ができない女の子
「使えないゴミ」
憎悪のこもった言葉が後ろから私を刺した。
私は周りにバレない程度にギュッと手を握りしめた。
心臓が飛び出しそうな動悸。肌着が湿ってしまうほどの冷や汗。
気を抜くと過呼吸になってしまいそうなところをグッと堪える。
もうこれ以上弱いところを見せられない。
次にどんなことを言われるか分かったものじゃない。
視界が左右にブレて焦点が定らない中、目の前のパソコン作業に集中する。
文字が何重にも重なってしまいなかなか読み進められない。
気づけば指先が細かく震えていた。
頭が回らない。
帰りたい。しかし帰ったところで私にお金のあてはない。
けたたましい着信音が鳴った。机の角に置かれた電話が光っている。
ただでさえ電話対応が苦手なのに、この精神状態だ。まともに応答出来る自信がない。
コールが一回鳴り終わる。誰か代わりにとってくれないかと一瞬受話器をあげるのを躊躇してしまう。その瞬間を私の先輩社員は見逃さなかった。
「早くでろよ」
体が大きく飛び上がった。ストレスが限界を超えているので、少しのことで過剰に反応してしまう。そんな私の様子を見て先輩社員は聞こえるように舌打ちをした。
私は受話器を耳元に手繰り寄せつつ、作り笑いをしながら会釈をした。
脳がまともに動いていない。
「……会社の……という者ですが……田中部長様はいらっしゃいますか」
うまく聞き取れない。私の電話対応を監視するように先輩社員は耳を立てている。誰かに見られながら仕事をすると焦ってミスをしてしまう私は余計にテンパってしまう。
「申し訳ございません。もう一度お名前をお伺いしてもよろしいでしょうか」
「はい。……会社の……です」
聞き取れなかった。それに相手がイラついているのが受話器越しに伝わってきた。もう訊ねられない。
「かしこまりました。少々お待ちください」
私は保留ボタンを押し、内線で田中部長に連絡する。
「すみません。田中部長にお電話です。外線一番です」
「誰から」
「……えっと、その」
「誰からって聞いてんだよ」
聴力が鈍くなり声が聞き取りにくくなる。
心臓が飛び出しそうだった。この間も先輩社員は私のことを見ていた。
「すみません……聞き取れませんでした……」
「なんなのお前? 電話もでれないの? あとでオレんとこまでこいボケ」
「……はい」
切断音がして、電話が切り替わったのだと気づいた。
受話器を置きたくなかった。受話器を置いたらまた先輩社員に叱られてしまう。
私は自分自身を切り離すことにした。斜め上から自己を見るように意識する。
こうすることで叱られているのは私ではなく私の体になる。
そうしないと精神が崩れて泣きわめいてしまいそうだった。
「なんで相手の名前をちゃんと聞き取らないの?」
「……すみません」
「すみませんじゃなくてさ、私の質問の意味わかる?」
「……はい」
「じゃあ、すみませんじゃなくて答えろよ」
周りの音が静かになる。これは気まずい雰囲気になっているわけではない。みんなが私が叱られているのを見ているのだ。ヒソヒソと陰口が聞こえる。
おそらくこの先輩社員の耳にも届いているはずだ。それがますます先輩社員を高揚させていく。
自分は正しいことをしている。間違っているのはコイツだ。みんなそう思っている。だからコイツには少しキツめな言葉を使うことも許される、とばかりに。
恐怖で声が震える私を見て、先輩社員は優越感に浸っていた。
「……聞き取れませんでした」
「言い訳はいいから」
「でも……本当なんです……」
「あー、そういう態度とっちゃうんだ。じゃあなんでみんなはちゃんと電話応対出来てると思う?」
「……わかりません」
「やる気の問題なんだよ! やる気がないなら明日から来なくていいから!」
「……すみません」
「すみませんじゃねぇってんだよ」
先輩社員は勢いよく私が座っている椅子を蹴りつけた。衝撃に耐えきれず私は転倒してしまう。周りからの憐れみの視線が痛かった。
私が残り少ない体力でなんとか立ち上がり席に戻った。そのとき内線が鳴った。田中部長からだった。
「お前なんで電話応対ちゃんとしねぇの?」
田中部長はドスの効いた声で詰問する。
「……すみません」
「すみませんで許されると思ってんのか!」
怒鳴り声とともに田中部長は大袈裟な動作でデスクを叩いた。
その音でフロアが静まりかえる。
「お前まじで会社にいらねぇわ。辞めてくれよ。給料もらって仕事しないどころか損害与えてる自覚ある? 存在するだけで迷惑なんだよ。なぁ?」
「……はい」
「自覚あんのかって聞いてんだよ!」
「……はい」
「じゃあ、何を自覚してるか今ここでみんなの前で言ってみろ」
「え……」
「自分のことだろ? 今ここでみんなに詫びろ」
体が震える。目に涙が溜まって零れ落ちそうだった。
「わ……わた……」
声がうまく出せなかった。喉に何か詰まっているみたいだった。
「おーい、みんなちょっと聞いてくれ! このゴミが伝えたいことがあるんだとよ」
フロアの社員全員の視線が私に集まる。
「ほら、早く言えや」
「あ……あの……いつも……仕事が……出来なくて……ミスばかりして申し訳ございません……」
「違うだろ!」
フロア全体に響き渡る田中部長の怒鳴り声に反射的に体が跳ねた。
膝が踊ってうまく立てない。頭がぼんやりする。息ができない。
「俺、さっきお前になんつったっけ? 上司との会話も忘れたのか?」
「え……あの……」
「辞めろって言ったんだよ。辞めるって言え」
逆らうという考えさえもできなかった。
「辞め……ます……」
「よーし、みんなちゃんと聞いたか? こいつは自分で辞めますって言ったよな? つまり自主退職だ。そういうことでよろしく」
そこから先はもうほとんど覚えていなかった。
気づけば私は会社で使っていた自分の全ての荷物を抱えて駅のホームにいた。
本来ならば最短でも辞表を出してから二週間は会社にいないといけないはずだが、今日付けで実質の解雇となった。誰も私に声をかけてくれる人はいなかった。
学生から社会人にあって半年。毎日毎日トイレで吐いていた。長いと感じていたけど、こうして振り返ってみるとあっという間だった。
私は駅のホームに座って、何本も電車を見送っていた。立ち上がる元気さえなかった。涙の一つもでなかった。
スマホを取り出した。しかし、誰にもこんな話なんてできなかった。
そのときになってようやく、私は誰からも必要とされない存在なんだと気づいた。だったら、もしこんな私が転職できたとしてもきっとまた迷惑をかけてしまう。
生きているだけで害悪だった。
そういえば学生の頃からクラスに馴染めなかった。
そんな人間が社会にでて人と一緒に仕事なんてできるはずがなかった。
冷静に考えるとすぐにわかることだった。
私は必要ない存在なんだ。
こんな私が空気を吸ってしまってごめんなさい。
こんな私がご飯を食べてしまってごめんなさい。
こんな私が生きててごめんなさい。
もう死にますから、どうか許してください。
誰が許してくれるのだろう。
誰に許してもらいたいのだろう。
誰もいない。
わたしには誰もいない。
……ごめんなさい。
生まれてしまってごめんなさい。
死ぬことをどうか許してください。
ちょうど電車がホームに入ってくる頃合いだった。
私はホームの端っこギリギリに立つ。
つま先がはみ出ていた。
駅員さんの怒鳴り声が聞こえたけど、なんて言っているのか私の脳ではもう理解できなくなっていた。
また私、怒られてる。
もう疲れてしまった。
電車の眩しい光に照られる。クラクションが鳴る。
悲鳴が聞こえた気がした。
うるさいな。
まぁ、いいか。
死ぬ。
そのときだった。
誰かが私の腕を引っ張った。
私はホームの内側に転んだ。
動き出す元気もない私は、そのままホームの天井を眺めていた。
こんな風になってたんだ。
「お姉さん、前にですぎ」
高校生の男の子にそんなことを言われた。
私の腕を引っ張ったのはおそらく彼だろう。
「死ななくてもいいよ。なにがあったのかは知らないけど」
私は何を言っていいのかわからなくなった。
その代わり、涙がボロボロ音をたてて溢れ出した。
子供のように声をあげて泣いた。
言葉にならない声で泣いた。
人目も憚らず泣いていたのに、男の子はずっとそばにいてくれた。
「死ななくてもいいよ」と彼はもう一度優しく言った。
「でも生きる理由がない」と私はバカなことを言った。
すると彼は少し考えて
「じゃあ、とりあえず明日もこの時間にここにきてよ。それを生きる理由にしてよ。待ってるからさ」
と言った。
あぁ、もう今はそれだけでいいか。
生きる理由を勝手に作られてしまった。
死ぬ理由をとりあげられてしまった。
でも名前の知らない彼との約束は、私の心に温度を与えてくれた。
その温かさだけで確かに明日くらいまでは生きられそうだった。
死ぬのは今日じゃなくてもいつでも死ねるから。
明日生きてからまた考えよう。