企みはほどほどに
酷く大人びてしまったものだと思う。
肩甲骨程までだった髪は既に腰まで伸びていた。
黒色は変わらずに、大きく波打つような癖も変わらないのに、時間の経過を表す長い髪だ。
白い肌は相変わらず不健康なくらい白かった。
コロコロとしていた目は、いつの間にか見据えるようなものに変わっている。
身長は大して伸びていないが、肉付きは平均よりも下回るが良くなっていた。
どうしたって不健康なのはご愛敬と言うべきか。
胸や尻に肉がいくだけまだマシである。
何処と無く地に足の付いていなかった雰囲気が抜け、今では思考回路が普通とは別の次元にあるだけの大人だ。
作家という仕事柄、ということにしておく。
どちらにせよ、落ち着いたものだ。
「お終いっと」
無言でひたすらにノートパソコンのキーボードを叩いていたソイツは、短い息と共にそう言ってタタンッとエンターキーを二回押す。
エンターキーだけ、やけに力強く押すのは、もうずっと昔からの癖だった。
「終わった?」
「うーん。お陰様で」
ギィッ、と回転椅子の金具が軋む音。
椅子を反転させて振り向いたソイツは、掛けていた眼鏡を外して瞬きをする。
幼馴染みのソイツとは、もう長い付き合いだ。
恐らくこれから先の死ぬまでも、それはそれは長い付き合いになることだろう。
「締切よりも前だから、手直しも入るかもだけど、取り敢えず装丁お願いします」
深々と下げられる頭に、手を上げながら、おう、と短く答える。
幼馴染みのソイツが作家で、俺が装丁家。
仕事面でも、付き合いは長い。
顔を上げたソイツは、デフォルトである無表情を僅かに崩し、眉を寄せる。
きゅうっ、と細くなった目が見つめるのは俺の手元の煙草だ。
「オミくん、吸ってたっけ?」
椅子から降りることなく問い掛けるソイツに、曖昧に頷いていた。
「まぁ、一応な」と言葉を濁すが、伝わっているだろうと思う。
初めて手にしたのは学生の頃だったが、まぁ、一度だけだ、若気の至りにしておけばいい。
ソイツは、一切煙草を吸わず、吸いたいとも思わないタイプなので、自分の家――仕事場で吸われるのは嫌なのだろう。
吸わない癖に常備してあった灰皿に煙草を押し付ける。
未だ長かったそれを灰皿に捨てれば、やっとソイツが動き出す。
「別に吸う分には良いよ。どの道、実家では身内揃って喫煙者だったし」
欠伸混じりに、髪を掻き上げながらの言葉。
随分寛容だな、と笑ったが、今度はソイツが曖昧に頷く。
「ただ、それ。それさ、普通のコンビニとかではなかなか見掛けないでしょ。両切りだし」
テーブルの上に置きっ放しだった箱を手に取ったソイツは、しげしげと箱を眺めた。
鼻を近付けて匂いを嗅ぐが、直ぐに顔を引っ込める。
中身も取り出して、眺めているが、満足すれば箱の中に戻す。
「両切りって直接吸うの、コツいるんだってね。吸ったことないから、知らんけど」
はい、と手渡された箱を上着のポケットに突っ込む。
実際コンビニでは見掛けないものだし、両切りを直接吸うのにはコツがいる。
しかし、どの道毎日のように吸うわけでも、特別ニコチン中毒を患っているわけでもない。
ただ、必要に駆られるから吸うだけだ。
ピタリと俺の目の前で足を止めたソイツ。
一度外に出たのか、部屋着ではない黒いシャツに白いスキニーパンツだ。
それすらも、また、酷く大人びた、という印象を与える。
「ね、美味しい?」
締りのない、へらりとした笑みが浮かぶ。
それは本当に親しい人間にしか見せないような、警戒心の欠片もないものだ。
昔と変わらない小首の傾げ方に笑いが漏れる。
「別に」
「へぇ」
短い言葉がやり取りされ、ソイツの笑顔が消えて、小首を傾けた状態で顔が近付く。
ソファーに座っている俺と、中腰のソイツ。
薬用リップしか塗られていない、僅かにぬらりとした唇の感触に口を開く。
中途半端な体勢を整えるためか、俺の太ももにソイツの手が置かれたタイミングで、開いた唇に舌を入れてくる。
薬用リップよりも、余程ぬらり、としていた。
僅かにカカオの匂いがして、甘ったるいそれが俺の舌で感じ取れる。
コイツ、チョコレート食ってたな。
ちゅる、ちゅ、と僅かな水音と共に、俺の舌を絡めるソイツが眉を寄せるのが分かった。
太ももに置かれた手も、握り拳になっている。
舌を吸うように唾液を吸ったソイツが離れれば、いつになく歪んだ顔に吹き出してしまう。
「あのさ、オミくん」
「ふはっ、ふっ。んだよ」
唇が濡れているので拭えば、ムッと眉間に皺が生まれるので、大人らしさなんて消え失せる。
こういう時、ソイツはどうしようもなく子供になるのだ。
懐かしい、昔の姿に変わる。
「来る度に物珍しい煙草を持って、これ見よがしに吸うのは、まぁ、良いよ。知的好奇心で気にするボクも悪いから」
未だてらてらと光る唇を気にもせずに、言葉を紡ぐソイツは、子供の顔だ。
そのアンバランスさが、危ういくらいに愛おしい。
「でもさ、態とらしく苦い、キツイのばかりって嫌がらせだと思わない?もっと煙からして、甘いのが欲しいよ」
女性用の煙草にはそういうのも多いが、生憎俺はそんな甘ったるい煙草を手にしたことはない。
メンソールなら、まだしも。
ソイツが言っているのは、バニラとか、その手の類の煙草だ。
それを分かっていて、俺はそうしない。
ポケットに戻したばかりの煙草を取り出し、一本抜き取る。
テーブルに煙草を打ち付け、隙間の出来た巻紙を折り曲げて、やっと火を付けた。
実に手間だ。
シガレットホルダーは、いちいち買うのが面倒なので、結局直吸いだが。
そうして、答えを勿体ぶるように、吸い込み、煙をソイツの顔目掛けて吹き付ける。
ふぅ、という息と共に、ソイツの目の前が白く濁り、小さく噎せる声が響いた。
生理的な涙が滲んでいるのを見届けて、待たせた答えを返してやる。
「こういうのじゃなきゃ、お前は大人のままだろう?」
不可思議そうに瞬きするソイツの目尻から、僅かに涙が落ちるのを眺めて、俺は満足するのだ。