表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
てんぐ探偵  作者: 大岡俊彦
七章 探偵集結
95/116

第八十七話「鬼倒しの一撃」  妖怪「承認欲求」登場



     心の闇の奥底に さらに広がる闇がある

     集え天狗の弟子たちよ 若き炎で闇を焼け



    1


 誰かに認められたかった。

 ずっとそんな人生だったと思う。

 孤独だった。

 ずっとそんな人生だったと思う。


 どうして人は人をいじめたりするんだろう。どうして誰も助けてくれないんだろう。人はそういう生き物だからじゃないかと、野川(のがわ)はあきらめた。

 ただ、誰も自分を認め、大事にしてくれないことに、野川は耐えられなかった。そんな時、たまたまテレビでボクシングの試合を見た。

 鬼塚おにづか善次ぜんじという人が出ていて、彼はもといじめられっ子だったと知る。ボクシングを始めて、強くなったらいじめはやんだという。それどころか日本チャンピオンを狙える座になったあたりから、むしろ尊敬されはじめたという。

 ボクサーになれば、認められる。

 強くなれば、認められる。

 野川はそう思った。

 相手の必殺の右フックを、鬼塚は低く躱しながら踏み込んだ。左足に完全に体重を預け、そこを起点に螺旋のように体を右にねじる。低いボディフック。鬼塚の得意技(フェイバリット)「鬼フック」である。それに打ち抜かれたのは相手選手であったが、野川のハートでもあったのだ。

 地元に鬼塚選手の試合が来る。サインを貰える会があるため、野川はそこに出かけていった。「あなたの試合を見て勇気づけられました」と一言いいたかったからだ。だけど鬼塚のファンは多く、色紙を持った人たちがどっと押し寄せた。

 野川は突き飛ばされ、後続のファンたちに弾き飛ばされ、尻餅をついた。

「いたの?」

 と、誰かに言われた。

 俺は誰からも見えていない男らしい。俺は誰からも認められていない。

 和歌山県熊野(くまの)に引っ越した。

 鬼塚善次の所属する大仁田おおにたジム、通称「鬼ジム」に入門する為である。

 ボクシングなんてやったことがない。だが鬼塚は快く迎え入れてくれた。

 いつか憧れの鬼塚に認められる男になりたい。野川はそう誓った。


 だが野川は弱かった。

 練習しても練習しても負けた。

 プロデビューまでこぎつけても五戦五敗。こんなことじゃ鬼塚が認めてくれる筈もない。かつてのいじめっ子たちが認める筈もない。サイン会で突き飛ばした奴が、すいませんでしたと謝りに来る筈もない。


 ある日、野川のツイッターにはじめて「いいね」がついた。本名を明かさず、「鬼の弟子」と称して、毎日練習メニューを上げているだけのツイッターだった。だがその日は、「鬼にどやされた」と一言つけただけだ。それが「いいね」の原因では、と野川は思った。それからは常に鬼の観察日記となった。「いいね」はどんどん増えていく。自分の練習日記はもはやどうでも良く、架空の人格(ほんとうは実在の鬼塚なのだが、それは明かしていない)の鬼のほうが人気になってゆく。

 野川は嘘をついた。

 「鬼の弟子」として、ジャブやストレートの打ち方、フットワークなどを、フォロワーに教えることにしたのだ。これでいじめっ子を倒せる、と嘘をついたのだ。自分もやっていないことをさもできるようにだ。いつしか出来もしないボクシング理論を教える「鬼の弟子」のフォロワー数は一万を超えた。

 鬼の弟子として、顔を隠してユーチューブを始めた。高評価が沢山つき、人生相談が沢山寄せられた。「そんなもん鬼パンチや!」が「鬼の弟子」の決まり文句になり、それで皆は湧いた。


 いつからだろう。嘘にまみれた人生を生きたのは。

 いつからだろう。妖怪に取り憑かれたのは。


「妖怪……『承認欲求』?」

「そうだ」

 鬼塚は、鬼ジムの狭いリングの中で、グローブをバンと叩いた。

 嘘つきはやめよう。ボクサーを引退して、全敗という歴史を受け入れよう。だからジムを辞めます、と鬼塚に相談しにいったのだ。思いつめた表情の野川に対して、グローブをつけろと鬼塚は言った。オレが直接スパーすると。

「なんでですか?」

「俺には妖怪が見える。お前にはずっと妖怪が取り憑いていた。ボクシングをすれば大概妖怪は消えるものだが、お前に取り憑いた妖怪『承認欲求』は、消えるどころかどんどん膨れ上がった。合に負けるたびにな」

 野川はゆっくりとグローブをつける。突飛な妖怪話だが、言われていることは野川の人生と一致していた。「鬼の弟子」は鬼塚やジムの人は知らない。でもすべて見透かされているような思いだった。

「めったに人には言わないが、俺はてんぐ探偵という、妖怪退治をしている男なんだ」

「は?」

 鬼塚善次の言っていることは、野川にはよくわからなった。

「オレの妖怪退治の仕方はボクシングだ」

「?」

「ボクシングを辞めたいなら辞めればいい。だがこのスパーは違う。妖怪退治としてのスパーリングだ」

 天井のファンがくるくると回っている。野川の脳内の混乱のようだ。妖怪退治とスパーリングの関係が分らない。しかし鬼塚さんと直接スパーする経験なんてめったにない。引退試合にしては贅沢だと野川はむしろ喜んだ。

「なんだか分らないけど、やります」

「ゴングはねえ。倒れるまでやるぞ」

 二人の男がグローブをつけて、狭く汚いリングの上で向き合っている。

 皆ちょうど出払ってジムには誰もいない。鬼塚がそのチャンスを図ったか、あるいは人払いしたか。

 どんなに無様に負けても誰も見ていない。全力でいこう。「どんなに無様に負けても」? グローブをはめた以上は――

 野川は鬼塚を中心に左へ回転した。サークルステップ。ジャブを飛び込みざまに数発。

「む」

 これは鬼塚が得意とする入り方だった。

 自分の憧れてきたもの。自分の練習してきた全て。それを野川は出そうと思ったのだ。

 野川がジャブを出す。鬼塚も交錯してジャブを。それを見計らったタイミングで右を被せる。返して左フック。右を被せながらステップバック。

 まるで自分の鏡とボクシングをしているようだと鬼塚は思った。だが関係ない。突破口は自分で開く。それがリングのルールだ。

 数発のパンチが飛び交ったとき、倒れていたのは野川だった。

「まだ立てるだろ。浅かったぞ」

「……これで浅いんですか」

「これぐらいで鬼は倒れねえよ」

 ボクシングは、身を削りながら相手を倒すゲームである。被弾がゼロで終わるゲームなどない。ならばそれを前提に戦略を組み立てる。ダメージは賭け金だ。それを原資にチャンスを得て、相手により大きなダメージを返すのだ。

 だが野川にそんなゲームもギャンブルも、鬼塚はさせなかった。何発も鉄棒のようなパンチを突き刺し、野川は何度も倒れた。呼吸すら出来ず、野川は床を舐めて悶絶する。

「これまでか」

「まだ……出来ます!」

 野川は大振りの右を振る。

「あっ」

 それは鬼塚の得意パターンだ。低く躱して懐に潜る。左足を軸に、体をフルにねじる。

「鬼フック」

 野川がそう認識する1ミリ秒後に、野川の肝臓に鬼を倒す一撃がねじ込まれた。

「しまった。普通にボクシングしてしまった」

 鬼塚はバケツの水を、ダウンした野川に浴びせる。

 野川は意識を取り戻した。

「そんなやり方じゃ、妖怪退治する前にその人死んじゃうよ!」

 突然少年の声が響いた。

 いつの間に、誰もいないジムに入ってきたのか、少年と猫がリングサイドで叫んだのだ。


    2


「しかしビックリしたなあ! 鬼塚さんってテレビで見たことあるなって思ってたけど、まさかてんぐ探偵とは!」

 シンイチ少年は人懐こく笑って、鬼塚の肩をはたいた。

「いつから見てたんだ?」

「あの人が『辞めたいです』って言ったところから」

「全部じゃねえか」

 シンイチとともにやって来たさくらと才一も、互いに自己紹介する。

 鬼塚〈鬼倒し〉善次。那智大滝前鬼坊なちおおたきぜんきぼうの弟子、眷属は土蜘蛛のクロオ。

「前鬼坊って?」

「それより土蜘蛛のほうが突っ込みたくなるわ!」

 シンイチとさくらは既にコンビのようだ。光太郎と長く過ごしたことが、シンイチの関西弁のリズムを身に着けさせたのかもしれない。才一は少し離れたところで皆を見ている。ヘンテコな集団だ、と鬼塚は思った。

 鬼塚はクイ、と少し顎を上げ、窓の外を見るように言った。

 手のひら大の黒い蜘蛛が、ジムのガラスに貼りついていた。

「ひいいい! 蜘蛛やあああああ!」

 さくらはちゃっかりと才一の腕に抱きついた。

「夜露死苦」

 土蜘蛛のクロオはぺこりと挨拶して、藪の中に消える。自分が嫌われ者と知っているらしい。

「オレが聞きたいことを聞いていい?」

 とシンイチはクロオに手を振りながら聞いた。

「前鬼坊って鬼なの? てんぐ探偵って天狗の弟子でしょ? 鬼塚さんは鬼の弟子?」

「……鬼は長生きすると天狗になる。天狗の弟子といってもいいし、鬼の弟子といってもいい。てんぐ探偵でも、鬼探偵でも、どっちでもオレは構わん」

 鬼塚はベンチをちらりと見た。

 ノックアウトされ、まだ立ち上がれない野川が横たわっている。しばらくは休憩か、と鬼塚は思った。肩の上の妖怪「承認欲求」はまだ何も変わっていない。話を聞くのは、野川が立てるようになってからだろう、とシンイチは理解する。

「そもそもさ、なんでボクシングで妖怪退治できるの? できるの?」

「大体はできる。ていうか、ボクシングさせなくても、砂浜を走らせればできる」

「??? 体育会系妖怪退治?」

「一理あるぞえ」

 物知りのネムカケが横から入ってきた。

「鬱をはじめとする心の病気は、心の問題というよりも、むしろ脳の病気なのではないか、ということが最近分って来たのじゃ。特定の脳の部位の血流が阻害されると、ストレス性鬱になるなどが分って来たのじゃな。それが原因なのか結果なのかはまだ研究中じゃが、脳に血流を復活させることで心の病気の治療を始めようというアプローチも最近出てきたぞい」

 鬼塚の妖怪退治は、ボクサーらしくストイックでシンプルな方法だ。

 まず砂浜を走らせる。鬼ジムは海が近いので、すぐそこに出れば良い。へとへとになるまで走らせる。そうするとたっぷり眠れ、体の新陳代謝が回り、生きようと体が思い出すのだという。「心の闇」は心の問題だと思われがちだが、心はそもそも体と繋がっている。体が生きようとしていないのに、心が生きようと炎を燃やす筈がない。そう鬼塚は考えている。

 へばるまで走らせるだけで、妖怪は大抵外れやすくなる。それでも駄目ならグローブを付けさせ、リングに上げ、ボクシングをさせる。ボコボコに殴り、しかし立ち上がれるギリギリまでしか殴らない。追い込むことが目的だからだ。人は「死ぬ」と思ったら、驚異的な力を出すことがある。それが心の闇を追い祓う。その死が生に反転する瞬間まで追い込むのが、鬼塚流の妖怪退治である。

「戸塚ヨットスクールみたいや!」とさくらは反応し、「いや、鬼塚ボクシングスクールか!」と言い直す。鬼塚のぎろりと睨む目は、鬼のように怖い。だが自虐的に鬼塚は笑った。

「さっき言われた『体育会系妖怪退治』ってのは間違ってはいないな。ただ妖怪退治のつもりが……普通にボクシングしてしまったのは、反省している」

 鬼塚は得意の鬼フックを放った左拳を叩く。

 それを喰らった野川は、横になったまま動けない。

「他の妖怪退治のやり方があるって?」

「あるよ! みんなそれぞれにさ!」

 さくらは自分に妖怪を取り憑かせる。心の闇を理解し、取り込み、溶解するまで待つ。

 才一は能の舞。心の闇にぴったりな演目を選び、その物語で心を浄化する。

 今西日本のどこかに出張中の光太郎は、ちゃっちゃと切ってまた生えてきたら切って、を繰り返し、本人の自覚の中で少しずつ小さくしていく。

「シンイチは?」

「うまく言えへんけど、この子は独特のやり方やねん」とさくらがフォローする。

「独特?」

「なんかこう……考えんねんこの子は。何で妖怪に取り憑かれたのかとか、どうやったら心の闇から脱出できんのかとか……カウンセラーみたいに一から考えだすんや。な?」

「うん。まあそれしかオレは出来ないんだけど……」

「そんで、なんか思いついた? 妖怪『承認欲求』の倒し方」

「まだ」

「じゃあ、ウチらのやり方でやってみる? ウチ、才一くんの舞が見たい! ちょうど患者さんも休んではるし、能を見るくらいが限界やろ?」

「ふむ……」

 これまで優しく笑っていただけの男、才一がすくりと立った。その瞬間にジムの空気が変わった。所作のひとつひとつに「華」というべきものがあった。これが芸能というものである。

「心の闇……承認欲求か。……『小袖曽我こそでそが』を、ひと舞献ずる」

 金の扇ひとつで、才一は小袖曽我の物語を舞ってみせた。兄弟が仇討ちに立とうとするが、母は勘当を解かない。仇討ちの大義を説明し、ようやく勘当が解かれるお話。

 しかし野川はこれを見て、舞いそのものには魅了されるものの、何年も居座った妖怪はびくともしなかった。

「むむ。『母に認められる』クライマックスは、心に響かなかったか」

「母親に認められたいのが目的じゃないしね」

 とシンイチは言う。

「ん? じゃあ……」

「何?」

「誰に、認められたいってことなのかも?」

「どういうことなん?」

「分らない。でもなんかヒントかも」

「ほなまだ考えや。ウチのやり方で行けるかもしれへんし」

 さくらはコホンと咳払いして、印を切った。額の金色の万里眼が開く。それだけで野川の「承認欲求」は縮こまってしまったようだ。

 さくらはクイッと指を動かす。

ィ」

 するりと妖怪は野川の肩から抜け、さくらに取り憑いた。その瞬間斬れるのでは、とシンイチは小鴉に手を掛けたが、妖怪の根は野川にもさくらにも張っている。ただ斬っても野川の心の闇は晴れない。

「うー! うー!」

 さくらは突然取り憑かれた人のように呻き声を上げた。

「暗いー! 寒いー! ここはどこやー! 暗いー! 寒いー! そして私は……認めて欲しいーーーー!」

 まるでイタコのようである。心の闇と直接しゃべっているようだ。その妖怪に向ってシンイチは尋ねた。

「認められたいって誰に? 母親じゃないよね? じゃあ誰? 不特定多数の人?」

「知らんわ! 『みんな』や! とにかく私の気が済むまでや!」

 さくらは次第に震えだし、地団駄を踏み始めた。

「ちくしょう! ちくしょう! 私認められたい! 認められたいんや!」

 地面に転がり、駄々っ子のように手足をじたばせた。

「才一くんに認められたい! 好きって言われたい! 恋の勝利者になりたい! 私は承認して欲しいんや! 『君が好きやで』って! うー! うー!」

 芋虫のように転がり、ただ自分の欲求をののしる様は、滑稽ですらあった。

「もお!」

 さくらは時々我に返る。

「人前でこんなん最悪や!」

 花も恥じらう女子高生が、好きな男の前ですることではなかった。

「無理か。いったん戻そう。さくらさんが取り殺されちゃう」


    3


 シンイチはネムカケに尋ねた。

「ネムカケ、鬼が天狗になるの? そもそも鬼って何?」

「熊野のこの地は、不思議な土地でのう」

 ネムカケはこの地のことを語り始めた。

「天孫降臨といって、現在の皇族が日本に現れたのは、この熊野の地じゃ。三本足の八咫烏やたがらすが先導して大和やまと(奈良盆地)にたどり着いたと伝説ではなっておるが、この八咫烏は鳥ではなく、先住民族と考えられる」

「えっ? 三本足の妖怪じゃないの?」

「妖怪か人間かは、『見る人が決める』節があるぞい。アイツは鬼のようなやつだ、アイツはバケモノだ、なんて言うじゃろ。『他人が妖怪にしか見えない心の闇』もおったな」

「妖怪『妖怪』」

「うむ。そしてこの熊野の地には、土蜘蛛と呼ばれる『妖怪』がいたと言われておる。他に九州には『熊襲くまそ』という妖怪、東北には『蝦夷えみし』という妖怪……」

「それって人だったかも、ってこと?」

「そうじゃ。『まつろわぬ民(従わぬ民)』と呼ばれておるぞ。『鬼畜米英』など、ごく最近まで『鬼』はいたではないか」

「オレの師匠は、正真正銘の鬼だがな」

 鬼塚は笑って話に入った。

「角が生えて、全身赤くて、虎のパンツ履いてるぜ」

「マジで!」

 ネムカケが解説を続ける。

「前鬼坊はもともと奈良時代、生駒山いこまやま(大阪と奈良の境の山)を根城に様々な所を荒らした、山賊の鬼じゃった。妻を後鬼ごきといって、夫婦の鬼として恐れられた。しかし役行者えんのぎょうじゃに調伏され、以後役行者の両腕になったという。修験道開祖の両腕とは出世ものじゃな。後鬼の子孫は今でも熊野におり、山の案内人として後鬼家が存在するぞい」

「へえええ!」

「役行者が遷化する際、前鬼は天狗と化してこの一帯を守るヌシとなったのじゃ。天狗とは言え元鬼じゃからの。暴れん坊と聞くが」

「まさに。荒っぽい修行だったぜ」

 鬼塚は苦笑いする。

「もともと俺はいじめられっ子だった。それでボクシングを始めてな」

「えっ! そんな武骨で人を今すぐ殴りそうな怖い顔の鬼塚さんが?」

「ほっとけ」

 鬼塚は苦笑する。

「この骸骨みたいな顔は生まれつきだ。顔でいじめられることもあったさ。だから殴り返してやろうと思ってボクシングを始めた。でも始めたら面白くなって、いじめとかどうでもいいや、って思ってな。『いつでも殴れる』って思ったら、余裕が出来て、いじめなんてどっか行ってた。で、もっと強くなろうと思って、高校生の頃山籠もりして修行しようと思ったんだな。そこで鬼に遭った」

「鬼って、マジで角生えてて……」

 鬼塚はうなづく。

「鬼の正体は知らん。天狗や妖怪と同じ、単なる先住民族かも知れん。で、鬼は相撲好きなんだ。俺はボクサーだというと、じゃあボクシングやろうぜって言ってきてな」

「鬼とボクシングしたんかいな!」

 さくらが目を剥く。

「勝ったり負けたりしているうちに俺も段々強くなっていって、最後に出てきたのが、那智大滝に住む、前鬼坊というボスだった」

「勝ったの?」

「負けまくりだよ。でも強くなる為に山に籠ったんだ。鬼たちに稽古つけてもらって、最終的には倒した」

 鬼塚は得意の、沈んでからのボディへの左フックの真似をした。

「その時のパンチがこれ」

 鬼フックのフォームは、こうして完成したのだ。

「『ねじる力』なんて知らないじゃんオレ。でもこれは全身をねじる。足をねじり、腰をねじり、肩、肘、手首をねじる。まさかそれが天狗の『ねじる力』の修行になってたとはよ、鬼も嘘つきだぜ」

「?」

「オレを強くすれば遊び相手が増えるだろ? 前鬼坊はわざと鬼フックでダウンしていたんだ」

「えええ?」

「俺も知らずに『鬼フックは鬼を倒したぜ』って思いこんでな。調子に乗って鬼たちを倒しまくっていたら、いつの間にか『ねじる力』が出せるように。それでてんぐ探偵として認められた」

「へえええ……。ん?」

 シンイチは、ふと考え込んだ。

「どうした?」

「それ、使えない?」

「?」

「さくらさんが『心の闇』を明らかにした。……誰に、認められたいのか、ってことだよ!」


    4


 再び鬼塚と野川はボクシンググローブを嵌め、ヘッドギアなしでマウスピースだけ付ける。互いに体を動かし、暖めて戦闘状態にもってゆく。

「プロの試合って何ラウンドやるの?」

 シンイチは尋ねる。

「野川なら八回戦クラス」

「じゃあそれまでやろう。マジ試合」

「なんでだよ」

 野川は反発した。

「何の為に?」

「妖怪退治もあるけどさ」

 シンイチは言葉を少し選んだ。

「気が済むまでボクシングやってから辞めてもいいのかなって」

「……確かに。さっきは大振りすぎた。マジでやらせて下さい」

 野川は吹っ切れたようだ。

 才一がゴングを鳴らした。

 第一ラウンド。鬼塚のジャブが的確に野川にヒット。鬼塚の目は鋭く、当て勘は抜群だ。野川の動きは縦から横へ変化する。しかし野川は攻めあぐねる。鬼塚のジャブは速く、隙間がない。

 第二ラウンド、第三ラウンド。拳が交錯し始める。コンビネーションは当たらない。

 第五ラウンド。出会い頭に鬼塚のショートアッパーが野川の顎を掠め、ダウンを奪う。

 第六、第七ラウンド。野川は良く持った方だ。すでに何回かダウンを取られ、鬼塚のパンチは簡単に野川の真芯を捕らえた。しかし野川は根性で立つ。何の為に? それが分らないから立つのかも知れない。

 最終第八ラウンド。鬼塚は頃合いだと悟る。野川の肉体は死にかかってる。ここが死から生に反転する分水嶺だ。野川はカウンターを狙うが、そもそもスピードが違い過ぎてタイミングが狂う。右を大振りした際、鬼塚がタイミング良く脇腹へ潜り込んだ。

「来た! 鬼フック!」

 しかし野川はからくも体を左にひねり、右のグローブで直撃を避けた。

「ちぃ」

 鬼塚はロープ際まで追い込み、体制の崩れた野川に右を見舞う。ロープの反動で、野川は下に躱した。左脚を雷鳴とともに踏み込み、全体重を預け、それを右にねじる。肩、肘、手首。左拳が遅れてやって来る。

「鬼フックだ! 野川さんが鬼フック!」

 鬼塚の背中をずっと追ってきた。鬼フックに憧れた。ずっと一人で練習してきたのだ。今躱せたのも、タイミングを知っていたからだ。鬼塚の、内臓を全部持ち上げる威力の鬼フック。自分の得意技を喰らうとは、鬼塚もやられたという顔をした。たまらずダウンした。

「うおおおおおお!」

 野川は吠えた。だが鬼塚は立ち上がる。

「これじゃまだ鬼は倒れん。人間すらもだ」

 もう一発。もう一発当てたい。もう少し。その瞬間、終了のゴングが鳴った。

 息の上がった二人はグローブを外し、握手を交わした。

 息も絶え絶えに、だが野川の言葉は止まらなかった。

「いい角度だと思ったんですよ。さっきの俺の鬼フック。でもまだ全体重を乗せきれなかった」

「そうか」

「タイミングですかね? 筋トレがまず必要ですかね?」

「柔軟も足りてねえな」

「そっか、柔らかい力もいる」

 野川はぶつぶつ言いながら、素振りを始めた。

「さっきのタイミング、会心だったと思うんです。もう一回、あれが出来たら」

「なんだよ、引退するんじゃなかったのかよ」

「目が覚めました。オレ、初心を思い出したんで」

「何」

「鬼塚さんに認められたい、オレを見下した奴に認められたい。それそれが叶わなかったから、ネットで色んな人に認められつづけたくなったのかも知れない……でも、ホントはそうじゃないな、って分った」

「?」

「オレがオレを認められるようになるまで、やりたいです」

 かくして、野川の心の根深く刺さった妖怪「承認欲求」の根は抜けた。


「不動金縛りの術!」

 シンイチたちはジムの中の時を止めた。

 鬼塚は腰のひょうたんから天狗面を出した。

 深紅の鬼の顔をした面であった。朱の鉄甲を左拳に嵌めると、炎が燃え上がった。

「こんでちょっきりひと昔!」

 紀州に伝わる昔話の結句で、鬼塚は妖怪退治を締める。

 炎に包まれた極限のねじる力、鬼フックで、妖怪「承認欲求」は、粉々の塩へと浄火された。



 海辺にランニングに出かけた野川の背中を、てんぐ探偵たちは見送った。

 白い砂浜に、太平洋の青が光っている。

「野川さんの鬼フックで倒れたのは嘘だって、しばらく黙ってるの?」

「そりゃそうだろ。今はまだ調子に乗ってる段階だからな。ここから強くなってから言うよ」

「そんときショックだろうなあ」

「そうかねえ」

 と鬼塚は笑う。

「鬼に嘘つかれたと分ったときの、オレと同じだと思うぜ」

「?」

「笑うだけだよ」

 鬼塚は青い海を眺めた。穏やかな波が、まるで二人の心のようであった。



     てんぐ探偵只今参上

     次は何処の暗闇か






挿絵(By みてみん)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ