第八十六話 「百面師の憂鬱」 妖怪「我」登場
心の闇の奥底に さらに広がる闇がある
集え天狗の弟子たちよ 若き炎で闇を焼け
1
闇に、金の扇が開いた。
扇の主は白い仮面を被り、仮面が故に無表情である。
だが所作や台詞、何より物語の文脈で、その白い仮面は泣いているようにも、怒っているようにも、笑っているようにも見える。
その白い仮面は金の扇を舞わせながら、摺り足から波足へと変えた。招き扇から月の扇へと変わり、物語はクライマックスを迎える。
舞の主は、霧谷才一。「百面師」と異名を取る、孤高の天才役者である。しかし殆どの人には知られていない。流浪の猿楽(能)一座、北斗座の役者だからである。ある所に現れては舞を披露し、たちまちその場からいなくなる。闇に扇、百面師の舞は、人の記憶にしか残らない。
何故、能は暗闇で行うのか。何故、能は仮面や道具だけで演じるのか。才一は分っている。それは、現実から「要素を取り出す」為だと。人の生きる世界はあまりにも複雑だから、そこから要素を取り出して、それらの組み合わせで世界を表現するのだと。能の面には名前がない。特定する役があるのではなく、文脈に応じて、翁、男、女、鬼、夜叉などと、適時を使い分けるだけだ。それは複雑なものを捨象して、「男の強い要素」「女の嫉妬する要素」「神の荒ぶる要素」などを単純化して闇の中に浮かび上がらせるのである。見た人が、その単純なものから様々なことを想像して、世界は豊かに彼らの中で再現される。
役を演じる間、役者は無になる。無になって肉体の箱に「役」を入れる。単純化されたひとつの情念に彼はなりきる。能の天才と言われる才一は、百の役を持ち役としている。ついた仇名は百面師。
闇に、金の扇が舞う。
まるで金の炎が闇を斬るようだ。
名前のない、見えない部分を、金の炎が照らしてゆくようである。
その天才役者、霧谷才一は、第四のてんぐ探偵である。
奈良公園でのテント公演が跳ねた。流れの集団、野良猿楽の北斗座は、次の旅へ向けて野外テントを片付ける。皆で作業中、ころあいを見て、袖の下から「すず」が才一に話しかけた。
「もうすぐ、来るわよ」
「すずがそういうなら、本当に今日会えるのか? ……てんぐ探偵に」
「アタイを誰だと思ってんのよ。愛宕の糞管狐なんかより信濃の管狐、飯綱の方が優秀なんだからね」
すずは口の悪い管狐である。管狐とは、管に入る程の小さな狐――白い体のイタチより小さなオコジョのことだと言われている――である。
東日本では飯綱とも言われる。気性が荒く、人に懐かないが、「遠見の法」をなす。修験道に「愛宕の法(飯綱の法)」があり、管狐を飼い慣らし、竹筒の中に入れて持ち運び、未来予測、予言をさせるという。しかし術者は九十日経つと魂ごと悪鬼に喰われてしまう、命と引き換えの邪法である。管狐を手放そうにも一度慣れたものは離れてくれないという。これを離す為に、別に「飯綱落とし」という邪法があるくらいだ。
すずは赤い目で笑った。向こうから走ってくる少年と女子高生、つまりシンイチとさくらに気づいたからである。
才一は、すずという管狐を使った飯綱使いではない。二人は友達なだけだ。才一はもともと捨て子で、流れの猿楽集団北斗座に拾われた。全国を旅する集団ゆえに、転校だらけで友達も出来ず、才一の友達は専ら山の動物たちであった。彼には、天狗に必要な才能のひとつ、「動物と話す能力」があったのだ。いや、本来人は動物と話す力をもって生まれるのだが、人の社会に馴染んでいくに連れて、その力を失うだけだ。才一は人の社会に馴染めず、その力を失わなかっただけである。
信州の山中で、すずと仲良しになった。ふと枝を見たら彼女がいて、自然に話がはじまった。すずに言わせれば、「遠見の力で、それは分かっていた」そうだ。「そこで才一に出会うことは既に知ってる。あとは運命に挨拶するだけ。『やあ』ってね」と。その後彼女は、突然「ボスに会わせる」と言って山の上へ連れて行った。その山とは飯綱山、出てきた「ボス」は、全国の飯綱使いの頂点、八大天狗の三、巨大な狐に乗る大天狗飯綱三郎であった。飯綱三郎は、新型妖怪「心の闇」の発生とその退治方法に悩んでいて、全国を旅する者たちに情報を集めたいと言ったのだ。かくして才一は飯綱三郎の弟子、てんぐ探偵として全国を巡回しながら、「心の闇」退治とその源を探る旅の者となった。
才一は緊張してきた。少年と女子高生が、自分を捉えたようだ。
「ナニ緊張してんのよアンタ」
「ほ……ほんとに……友達、出来るかな」
2
「ねえねえ、それ飯綱でしょ! さっき竹筒の中に引っ込んだの、オレ見たよ!」
シンイチの純粋な瞳は、人の警戒を解く力がある。才一は思わず答えた。
「あ……飯綱……分るのか?」
「勿論! 天狗の重要な眷属だからね!」
さくらは細身のイケメンを前に、急にもじもじし始めた。
「ちょっとさくらさん! さっきとテンション全然違うじゃん!」
「だってこんなカッコエエ人おらへんやん普通!」
さくらはこそこそ声で肘鉄をくらわす。しかし新しい恋になるかも知れないのだ。さくらは才一に向き直る。
「あの……えっと……うふふ、お友達になりません?」
「えっ」
「いや、やっぱ無理ですかね、いきなり」
「さっきから聞いてたら、何よアンタたち」
竹筒の中に一度は引っ込んだすずが、顔を出して怒った。
「あ! やっぱ飯綱だ!」
シンイチは才一の袖の中の竹筒を見た。
「ちっちゃーい!」
「指噛み千切られたくなかったら、手出すんじゃないわよ?」
「すげえーやっぱ話通じる動物は、オモシロイね!」
「オモシロイ? ……調子狂うわね! 主人の才一は人と喋るのが上手じゃないから私が喋るわ! とくにアンタひどいわよ! アンタ!」
すずは小さな手でさくらを指す。
「え? ウチ?」
「アンタ万里眼持ってて、私たちの事がなんにも分んないのかい?」
「万里眼のことも分んの? さすが飯綱」
「その第三の目は節穴かい!」
「?」
さくらは額に右手の中指を当て、ぽりぽりと掻いた。
「あ」
「やっと分ったのかい」
「何? 何なの?」
事情を読めないシンイチが尋ねる。
「シンイチ、こりゃ困ったで」
「何?」
「『心の闇』や。テントから出てくるで。3、2、1」
さくらはカウントして指さした。
畳まれたテントの中から、北斗座座長の北斗忍が出てきた。貫禄のある中年太りと黒ひげは、まるで山賊のような格好であった。その肩に、巨大な「心の闇」がのしかかっているのだ。
「妖怪……『我』?」
シンイチはその名を理解する。だがさくらは疑問に思う。
「何、さくらさん」
さくらは才一の腰のひょうたんに気づいたのだ。
「え、自分てんぐ探偵やろ? なんで自分とこの『心の闇』が退治でけへんの?」
「僕は……僕は、ずっと前から待ってたんだ」
才一はやかましいすずとさくらの会話の間に、ようやく割り込めた。
「僕じゃ退治できない妖怪を、退治してくれる天狗の弟子を」
3
シンイチとさくらと才一は、お互いに自己紹介をした。遠野早池峰薬師坊の弟子、高畑シンイチ。吉野皆杉小桜坊の弟子、蔵王〈万里眼〉さくら。信州飯綱三郎の弟子、霧谷〈百面師〉才一。これまでどういう活躍をしてきたか、心の闇の情報、大妖怪や青鬼の話もひと通り。
「で、才一さんはどうやって妖怪を退治するの?」
シンイチは興味津々に才一に尋ねた。
「……」
才一は説明しようとしたが、言葉で表現するのは難しいと悟ると、ぽんと金の扇を開いた。
「?」
「うわあ素敵や」
つ、と扇を水平に前に出し、才一はひと舞する。
幸若舞「敦盛」である。織田信長が好み、炎上する本能寺で舞ったとされるものだ。
「『敦盛』というお芝居は、平敦盛を討ち取った熊谷直家の話。十六歳で討ち死にした息子と敦盛が同い年と知り、刃を振り下ろすのをためらう」
「で?」
「意を決して敦盛の首を跳ねる。世の理不尽がテーマのストーリー」
「それがなんで妖怪退治に?」
「これで退治した『心の闇』は、妖怪『理不尽』だった」
「? 舞で妖怪退治が出来るの?」
「なるほど分かったぞい!」
人形浄瑠璃を愛する、芸能好きのネムカケが解説を挟んだ。
「芸というのは、ある種の昇華なのじゃ!」
「昇華?」
「ある思いがその舞台に凝縮されておる。客はそれを見て、『人の複雑な心とは、こういうことなのだ』と理解する。そして『私にも似た思いがある』と気づくわけじゃな。それが劇の中で昇華されると、自分の心の中の似た思いも昇華される。つまり心のモヤモヤが成仏するのじゃ。劇を見て涙することは、そうした心の浄化作用があるのじゃ」
「そうだ……」
才一はうなづきながら言う。
「優れた芸術は、心のモヤモヤを晴らす力がある。僕は百の役が出来る。心の闇に応じて、百の台本の中から、百の浄化する舞を選ぶ」
「かっこええわあああ」
さくらはすでに目がハートになっている。
「才一くんは何歳なん? 彼女いる? 好きな食べ物なに?」
「えっと……二十一、いない、ていうか、すずしか友達がいなくて」
「え、じゃあオレたち友達になろうぜ! てんぐ探偵同士だし、やかましい光太郎も今度紹介するぜ!」
シンイチは才一の手を取って勝手に握手する。さくらは出遅れてちょっとむかついている。
「出立するぞ!」
座長が声をかけた。北斗座は次の公演の地、和歌山県の天河神社へ向けて出発しようとしていた。彼の肩に巨大な「我」を載せて。
「よし、ここからは旅についてきながら、話そうよ!」
シンイチは言った。
「才一さんじゃ退治できない妖怪、ってどういうことさ?」
シンイチがまず妖怪「我」に関する自分の考えを述べる。
「妖怪『我』ってことはさ、つまり我が強くなるって心の闇だと思うんだよね。我が強く、抑えきれなくなり、ガンガン前に出て引っ込まなくなる感じ?」
「北斗座の座長……忍は、劇作家でもあり、演出家でもある。ウチの演目は全て彼が書く。我が強くなければ、やってられない……」
「その度が過ぎて、ってところか」
「でもさっきの優雅な舞で退治できるんちゃうの?」
さくらの問いに、才一はためらいながら答える。
「僕は……日本中の能を演じることができる。百の役をこなし、百の仮面を使い分けられる。だが……」
「だが?」
「それゆえ、僕には『自分』というものがない」
才一は暗い表情をする。その横顔すら美しいとさくらは思う。
「……」
腰のひょうたんから、才一は手持ちの面を出して見せた。
翁、男、女、夜叉、鬼、天狗、猿、山の神。
「僕は座長に拾われた捨て子だ。それから芸を仕込まれ、現存する能の全ての台本、役が出来るようになった。新作の演劇もミュージカルもやってきた。神楽も舞える。全ての役をだ。ついた仇名は、『百面師』」
「スゲエ! 天才役者じゃん!」
シンイチは素直に感心した。さくらは逆に暗い顔をした。
「成程な」
「? どういうこと? さくらさん」
「どんな役でも演じられるってことは、『自分』がないから出来るってことやね?」
才一は寂しい顔でうなづく。
「僕は僕が誰だか分らない。捨て子で、流浪の一座で、家や定場所もなく、故郷も友達もいない。話し相手はすずだけだ。僕は空っぽの器なのさ。空っぽだから、『役が入る』ことが出来る。その器に、霧谷才一と書いてあるに過ぎない」
誰でもない男。空っぽの「我」の無い男。だから、「我」が理解できない、と才一は言った。
「……成程」
シンイチは腕を組んで考えた。
「よし、とりあえず座長さんに話を聞きに行こう!」
シンイチはいつも原則から始める。心の闇を真正面から見つめる為に。
「何故『我』に取り憑かれたかって?」
まるでサーカス団長、猛獣使いのような猛々しい座長は、シンイチに凄んだ。
「そりゃオリジナリティが必要だからだろ、お芝居はよう」
「それは分るけどさ」
「分る? ほんとうに分るのか小僧」
座長はシンイチをぎろりと睨む。
「能の台本はいくつあるか知ってるか?」
「えっ? ……百本? 千本?」
「能は『本』じゃなくて『番』と数えるが……二千番だ。俺はその台本がすべて頭に入っている」
「スゲエ! 百面師どころじゃないじゃん!」
「だが新作を書くとなったら? この二千番と被るわけにはいかないだろ。だから俺は俺なりの解釈の人生観が必要なのだ」
座長は立ち上がり、演説に熱が入り始めた。肩の妖怪「我」はそれを見て同様に興奮する。新鮮な「我」の心を吸えるからである。
「そう! 俺は天上天下唯一独尊! 世界に俺だけがいて、俺が世界を作る。すなわちお前らは全て俺に従い、俺の世界に反する奴は鞭で打ち、正座させて夜中テントの外に放り出すのだ! 俺こそが世界! 世界が俺! 逆らう奴はブチ殺す!」
興奮した座長の心の闇を、妖怪「我」は存分に味わう。そうして少し大きくなる。
「末期的じゃの。潰れる劇団一歩手前ではないか」
ネムカケはため息をついてあきれる。
「でも、このままほっといたら、座長さんは死ぬよ」
シンイチは鏡を見せ、座長の肩の上の巨大な「我」を見せる。
「じゃあどうすればいいんだ!」
獰猛に座長は吠えた。
「うーん……無我の境地になればいいんじゃない?」
シンイチは笑った。
「は? 滝で修行でもして悟りでも開けってのか」
「違うよ! このあと神社に奉納舞台をするんだよね! 能の代わりに、盆踊りを奉納するのはどう?」
「んんん?」
4
深山に囲まれた、奈良と和歌山の県境。そこに天河神社はある。芸能の神弁財天を祀り、様々な芸能関係者がお忍びで詣でに来るという。その神楽舞台を借りて、北斗座の能を納めるはずだったが……
「盆踊りだって? 今季節がいつか分かってんのか?」
座長はすでに紅葉を終え、寒林となった山々を指した。
「真冬の盆踊りも乙じゃん?」
シンイチは神楽舞台と周囲の空間を眺める。
「流石神社。全然盆踊りできそう!」
「……だが何のために盆踊りを?」
「みんなが踊って、『無我の境地』になりやすいかなと思って」
先の夏、大吉と盆踊りに行ったことを思い出す。大吉は妖怪「完璧主義」に取り憑かれていて、盆踊りの輪に入ることをためらった。その気持ちはシンイチには分る。誰だって最初は盆踊りの輪に入るのを怖がる。うまく踊れなかったらどうしようと思う。しかし踊っているうちにそんなのどうでも良くなってくることも、シンイチは知っている。その楽しさのことを、無我の楽しさというのではないだろうか? それを座長に伝えたいと思ったのだ。
音楽を奏でる太鼓も笛も揃っている。一座の面々で輪もできる。突然「訓練の為に盆踊りを始める」と座長が宣言したので、みんな付き合うことにした。祭囃子が聞こえてくれば、なんだかんだでお祭りみたいで楽しいねとみんな言い出した。
「レッツ盆踊り!」
東京音頭。炭坑節。北海盆歌。定番の踊りを踊っているうちに、みんなの体も心もほぐれてきた。
才一の踊りはその中でも群を抜く。もともとの舞の基礎のうえに、百の役を使い分ける身体操作能力。曲に合わせて、言葉に合わせて、様々な舞いに千変万化する。たかが盆踊りが、ここまで華麗なる幽玄になるとは誰も思わなかった。
「こんなん、惚れるしかないやん!」
さくらは踊りの指先から足先まで、心が奪われっぱなしだ。
「ちくしょう。浴衣持ってくるんやったわ! あ、天狗のかくれみので変身したろ!」
浴衣姿で悩殺しようとするも、真冬に浴衣姿は「さっぶ!」と失敗で元に戻す。
「火を焚こう。薪能だ」
才一はねじる力で薪を集め、櫓を組んで火をつけた。
踊りの輪はわっと湧いてそれを囲んだ。火を囲んでぐるぐる回る、それだけで何故こんなにも楽しくなってくるのか。それは人の本能なのか。その前にちっぽけな我を張ってもしょうがないんじゃないか。そう思ってシンイチが座長を見ると、なんと妖怪が落ちるどころか、倍の大きさに成長しているではないか。
「なんでだよ! 無我だよ無我!」
「だから、そんなものになれるわけないだろうが!」
「これは演劇じゃなくて、ただの盆踊り! 芸風とか作風とか関係ないんだよ!」
「俺は酒も薬もやらん。何故だかわかるか」
「?」
「我を失うことが怖いからだ。全てを制御したい。自分も、作品もだ」
「……だから盆踊りでも無我夢中になれないの?」
「そうだ」
シンイチは考える。自分の芝居。自分の作品。
「え、じゃあ、他人のお芝居は?」
「?」
「自分の、じゃなくて、他の人の芝居や、映画や、音楽は?」
「分析してしまうな。どうやったらこれが作れるか、分解して味わう」
「それじゃあシェフが他人の料理を心から楽しめないって言ってんのとおなじじゃん!」
「うむ。その通りだ」
「じゃあ何で演出家になったの?」
「?」
「お芝居嫌いなの?」
「好きだよ。好きだからこの道に入ったんだ」
「その時は夢中じゃなかったの?」
座長は言葉に詰まった。初めて見た能。初めて見た芝居。初めて見た舞。それに心を奪われたからこそ、その道を目指したのではなかったか。
「どういうこと? 過去無我夢中になった芝居があるのに、今は無我でいられないってこと?」
「……そうだ」
北斗は重い口を開いた。
「俺は、自分の芝居にも、他人の芝居にも無我夢中になれない」
「あ! そっか! 駄目出ししなきゃいけないもんね!」
「演出家とは、因果な商売じゃのう」
とネムカケも嘆息する。
シンイチは、これまで芝居や映画が「誰かの手によって作られたもの」だなんて考えたこともなかった。確かに自分のものに無我夢中になってたら、より良いものを作れなくなってしまう。
「なんでそこまで厳しいの? 作品をつくる完璧主義?」
「違う」
座長は顔を上げた。たぶん、これが彼の心の底だった。
「皆を食わす為だ」
皆の踊りがぴたりと止まり、音楽の出し手も楽器の手を止めた。
座長は泣いていた。
「皆を食わすには、面白い作品を作るしかないじゃないか。それには、俺という作風がなければならないじゃないか。俺がこういう作家だから、俺にこういうオリジナリティがあるから、客にそれを見せられる」
「違うよそれ」
シンイチは、子供の心のように素直に反発した。
「おはなしを見るのは、オリジナリティがあるからじゃないよ?」
「はあ?」
「面白いからだよ?」
「う……」
身もふたもないことをシンイチは言う。その面白さのオリジナリティが出ないから、血が出る思いで苦しんでるんだろうが、と座長は言いたかった。しかし何も言葉が出ない。話はループする。
「その、初めて見た舞台って何?」
「謡曲『鞍馬天狗』」
「それって誰が作ったの?」
「作者不詳」
「なのに感動したの?」
「うむ」
「なんでさ?」
「そりゃ牛若丸と鞍馬天狗の別れや積もる思いを……」
シンイチはさらに考える。
「才一さん、できる? 鞍馬天狗役」
「無論。この一座で上演可能だぞ」
「そっか。じゃやってみよう!」
「何を?」
「『鞍馬天狗』さ! ただし、演出家抜きで」
「は?」
「オレは、お芝居は演出家のものだけじゃないと思うんだ」
「?」
「むしろ、問いたいのさ。お芝居は誰のもの?ってね」
5
謡曲鞍馬天狗。鞍馬天狗と牛若丸の出会いと別れを描いた、最も古い能のひとつである。先ほどの薪を利用した、薪能となった。
すっかり夜になっている。火を囲み、闇が訪れていた。こんなところに、妖怪が能ををひょっこり見に来ていても分らないだろう。
ぱちん。薪が跳ね、同時に才一の演じる鞍馬天狗が跳ねた。
シンイチは実際に鞍馬山で天狗本人に会っていて、現在はおじいちゃんだと知ってはいるが、若い頃はこうだったのかもと思える、実に軽やかな動きだった。
不可思議なことに、演出家がいないのに、演者たちも楽団も、一糸乱れず動いていた。
「一座は家族同様で、互いに呼吸を読んでいるからか?」
座長は唸った。しかしそれは最初のうちだけだった。天狗が牛若丸との別れを惜しむラストに至っては、座長は夢中になって千年前の心に一体化していた。
才一は舞う。だがもはや才一ではない。鞍馬天狗である。そしてそれは舞ではない。舞の形で表現された、哀惜という感情が形を取ったものである。
才一は舞という器である。そこに鞍馬天狗を入れるのみだ。牛若丸と心を通じさせる。二人で感情という呼吸を読めば、自然に体が舞の型を取る。
座長は立ち上がり、拍手を惜しまなかった。
「ブラボー! 素晴らしい! お前らがこんなにやるとは思わなかった。才一、いやお前は今の今まで鞍馬天狗だった」
「多分、それなんだと思うのさ」
シンイチが脇から言った。
「お芝居は誰のもの? 鞍馬天狗は才一さんのもの?」
「いや」
「演出家のもの?」
「……いや」
座長は息を深く吸い、考えた。
「客の心の中に芽生えた劇の中の世界は、誰にも邪魔されない。芝居は、客の心の中にある。作家がつくり、役者が演じ、演出家が整え、それを客が受け取る」
「じゃあもう一回聞くよ? 芝居は誰のもの?」
「誰のものでもない。あえていうなら、みんなのものだ。つまり……」
「つまり?」
「我などない。無我でもない。おそらく……」
シンイチは身構えた。次に来る言葉こそが、座長の心の真実だ。
「皆の我がひとつになり、皆がそれぞれ我を持ち帰り解散する。それが芝居だ。俺は……俺の見方でしか芝居を見ていなかったのか」
座長は黙った。そして笑い始める。
「……ふふふ」
「?」
「お前、そんな無我夢中になる新作を、俺に書けとムチャぶりしてんだぞ」
「出来ないの?」
「……ふふふ」
座長はもう一度笑ってみせた。
「無我夢中で書いてやるさ」
シンイチの「やり方」は、心の闇の奥底までたどり着き、そして本人が心に火を灯すまで潜ることである。その人の話に、闇の中までつきあい、原因を探り、ある時は奇想天外なやり方で、ある時は正道のやり方で、心の闇の奥底に浸り、火が付くまで付き合うやり方である。
才一は、座長の心に火の灯る音を聞いた。
同時に、妖怪「我」は、北斗の肩から落ちた。
「臨!」
シンイチは独鈷印を組む。続けてさくらと才一も、大金剛輪印、外獅子印、内獅子印、外縛印、内縛印、智拳印、日輪印、隠形印を組む。
「兵! 闘! 者! 皆! 陣! 烈! 在! 前!」
「不動金縛りの術!」
幽玄なる薪能は時を止め、妖怪「我」がその中で浮遊した。
才一は腰のひょうたんから金の扇を出し、鈴の音をしゃんと鳴らした。
暗闇の中から白い霧が漂い、谷を満たしてゆく。
「霧谷」は、才一の初舞台であった。その「才一」という役が彼の初役。霧谷才一は捨て子である。名前がなかったから、霧谷の才一と名付けられただけだ。
白い谷で金の扇子が舞う。闇の中から才一の顔が現れる。いや、才一の顔ではない。能面――女面を才一はつけていた。だがその白い面はただの女ではなく、鼻の長い女――すなわち天狗の面であった。
霧谷才一は、能面天狗の面を被ると天狗の力が増幅する、てんぐ探偵である。
金の扇から炎が燃える。
扇の描く炎の軌跡は、そのまま妖怪「我」に向かい、貫いた。
「それッ切り」
長野の結句で才一は事を結んだ。
「ずるい! ウチもやる!」
さくらは蔵王三目天狗面を被り、くるりと回って法螺を吹いた。シンイチも朱の天狗面を被り、火の剣を振るった。
「こんでおしまいや!」
「ドントハレ!」
妖怪「我」は浄火で清めの塩となった。
「才一はんの素敵な踊り、ウチの法螺貝と組み合わせたら強力な舞になると思うんやけど、どう思う?」
さくらはグイグイ才一にアピールする。才一は困惑ぎみだ。
「いや……でも法螺貝は演目にないからさ……」
「ほんなら座長はんに新作書いてもろたらええやん? あ、でも北斗座の公演でなくてもええで? 才一はんが扇で舞い、ウチが法螺貝で援護する、妖怪と戦うベストコンビになるいう手もあるやんか?」
才一の袖の竹筒から、すずが顔を出して威嚇する。
「まったくアンタたちうるさいわよ。才一はこれまで静かに生きて来たんだから、戸惑ってるじゃないの!」
すずはさくらを睨み、さくらはすずを睨む。キャラ被りを互いに心配しているのだ。
「まあ、でも友達ってそんなもんだよ! いつもうるさいし!」
シンイチは笑った。
「友達?」
才一が問う。
「やあ、ってなったら、あとはワイワイさ!」
シンイチは屈託なく笑い、才一もつられて笑った。なんだか安心する空間だ、と才一は思った。
「別に才一さんが自我がないとは思えないよ?」
シンイチは言う。
「あの踊りの中に、才一さんはいたと思う」
運命に「やあ」という。すずはシンプルにものを見ている。それでいい、と才一は思った。
てんぐ探偵只今参上
次は何処の暗闇か
北斗座の次の目的地を聞き、シンイチもさくらも同行することにした。次の目的地は和歌山の熊野。烏天狗の発祥の地、八咫烏伝説の地である。そこに「鬼を倒したてんぐ探偵がいる」とさくらが予言したのだ。




