特別長編「不死の谷」第四章 不死の谷
第四章 「不死の谷」
1
「紅き貴公子」萬俊介の心の闇「不老不死」は、彼が不老不死を願うほど弾きたがった、世紀の難曲を弾き切ることで晴れた。
「炎のババア」丹波千代の心の闇「不老不死」は、彼女が不老不死を願うほど切望した、跡継ぎの誕生によって晴れた。
「つまり……」
東京の自宅に戻ったシンイチは、ネムカケをあやしながら自分の考えを述べた。
「不老不死になってでも叶えたい望みがあったからこそ、この二人に取り憑いた妖怪は、彼らの心臓から抜けたんだよね。望みが叶ったんだからさ。原因と結果は、わかり易く一致している」
「ふむ」
耳の後ろや喉の下を撫でられると猫は弱い。背中をこすりつけたくなってくる。
「二人の心の闇には共通点があった。萬さんは手術をして嘘をついていたこと。千代さんはずっとそのままでいたいと思っていたこと。二人はその闇を見つめたことで、自分の弱さと向き合った」
「それが解か」
「……分らない。でも小林さんの心の闇も、同じかも知れない」
「心の弱さだと?」
ヒマラヤと北九州での冒険譚を聞き、小林は鼻で笑った。
「そんなスゲエ人たちと一緒にしてんじゃねえよ。片や世紀の難曲の謎を解いた、偉大なるピアニスト。片ややくざの鬼組長。人間としての格が違うだろうが」
「でも人の心の構造は同じだと、俺は思う」
「こんな糞みてえなひきこもりのゴミと、セレブ二人が同じとは思えねえよ」
小林は自分のPCをシンイチとネムカケに見せた。
「見ろよ。この祭りを」
「なんだこりゃ」
小林の頭が沢山コピーされて、小林の頭に貼りつく。下手くそなCGがネットに出回っていた。ネタコラージュだ。沢山の人々が参加してつくっている。阿修羅像に合成したもの。頭を転がして追いかける小林。RPGのボスキャラのてっぺんに合成し、「殺シテ……殺シテ……」とセリフを言わされる小林。悪意のオンパレードだった。連日テレビで見る「小林自宅前」がフィギュアになっていたし、観光ツアーの架空パンフまで作られている。
「セレブだったらこんなことはねえよ。所詮俺はその辺のどうでもいい人なんだ。ネットは正直なもんさ」
「ネットが正直なんじゃなくて、人が正直なだけだよ。言っちゃいけない所で口に蓋するだけで、言いたい放題ならなんでも言っちゃうよ?」
「……それが人の心の闇か」
「そうかもね」
人工知能〈小林〉の精神鑑定の結果は、何度やっても「人」と出た。検事サイドとしては〈小林〉は機械だとしたい。だから何度も鑑定を要求した。このことで世間が反発する。伝統的に「チューリングテスト」と呼ばれる、アラン・チューリングの提唱したテスト法がある(一九五〇)。これは壁の向こうにいる人か人工知能に言語で質問し、言語で答えさせる形式だ。しかし現在の発達した会話型人工知能は、人間から分離出来ないとする主張が主流だ。むしろ、会話の下手な人間のほうをはじいてしまう可能性すらある。子供はどうなるのか? 知的障碍者や、言語障碍者は?
「小林さんの望みってさ、抽象的すぎるんだよね」
以前彼が言った「不老不死になってしたいこと」とは、この世の発展の果てを見たいということだ。宇宙の果てのこと。量子力学や大統一理論の完成。人類が生まれてこの方思ってきた、全ての疑問の答えを知りたいこと。
「そんなもん、ギリシャ時代の哲学者でも仏陀でも知らなかったことじゃろうに」
ネムカケはあきれる。
「じゃ小林さんは『悟り』を得られたらドントハレ?」
「悟りってなんだよ」と小林が突っ込む。ネムカケも反論する。
「何をしたら悟りなのじゃい? 言葉が循環するぞ」
「うーん、そうだよねえ。『分った!』ってことの言いかえだもんねえ」
これではシンイチ自身が疑問のループにはまってしまう。わだかまる心のループこそは、心の闇のはじめである。眠り猫ネムカケが想像する。
「弥勒菩薩が現れる五十六億七千万年後まで眠ってても、まだ足りないとか言うかも知れんの、永遠の命から見たら」
キリスト教が言う救いの時。すなわち死んだ者たちが全て墓から復活し、天国へゆく時。あるいはその他の代表的な宗教には、たいていは「遥か未来」にバラ色の救いが約束されている。ユートピア、シャングリラ、約束の地、アセンション。
「そんなの、『幸福の先送り』じゃんか」
シンイチは突っ込んだ。
「シンイチは時々鋭いことを言いおる。ワシは三千年生きて、そんなこと考えたことなかったわ。猫は寝てればおおむね幸福じゃからのう」
「ネムカケ」とは遠野弁で居眠りのことを指す。「猫」も「寝子」から来ているそうだ。ネムカケの好物は、うまいものと無限の居眠りだ。
「そういえば、妖怪とか天狗って不老不死なのか?」
小林が尋ねた。小林の肩に憑いた「不老不死」は、小鴉で斬っても復活したことを思い出した。たいていの物語では、化け猫は永遠の命をもつというが。
「どうじゃろ。わしは猫の途中から化け猫になったが、何歳まで生きるとか知らんのう。退治されたり清めの塩になるくらいだから、妖怪に『命』自体はあるだろが、ほっといたら永遠に生きるのかも知れんし、ただ丈夫で長命なだけかも知れん。山の王、天狗は不老不死と言われておるが」
「うん。輪廻転生すらしないっていうね」
人の魂は生まれ変わる、という思想はアジア全般にある考え方だ。日本の場合、源流は仏教の六道輪廻にたどりつく。天道、人道、修羅道、餓鬼道、畜生道、地獄道の六つの世界(六道)を、魂は生まれ変わって巡ると考える。しかし第七に天狗道がある。天狗は不老不死ゆえ、生まれ変わりすらなく、輪廻の輪からはずれ永遠に天狗道にいるという。これを外道と称し、仏道修行者は己の力を我欲のみに使うことを戒めた。「天狗になる」という言葉は、己の力を過信することであるが、その語源は仏道の「天道を目指さず、我欲のみに力を使い、天狗道に堕ちる」という批判からである。織田信長は第六天魔王を自称したが、六天とは六道のことであり、それを超える魔王=天狗道の者を意味して、仏教勢力を排除しようとしたのであった。
「人間は、それに比べてすぐ死におる。脆すぎるんじゃ」
「そっちが丈夫すぎるんだろ」
「むむむ。そうとも言える。『不老不死』を望むのも、むべなるかな。妖怪『不老不死』は、人として避けられぬ心の闇かも知れんのう」
「……じゃあ、どうしたらいいんだよう!」
シンイチはほとほと困り果てた。
「そもそもなんで妖怪『心の闇』が、憑き物が落ちるようになるんだよ?」
小林はシンイチに尋ねた。
シンイチは考え、答えた。
「うーん、多分、人の心ってね、一定しないのさ」
「一定しない?」
「たとえば天気みたいなことだよ。雨降ったり晴れたりすんじゃん。それが自然だと思うんだ。それが、雨降りっぱなしなのが心の闇」
「ドントハレ、ってそういうこと?」
「うん、多分そういうこと。妖怪『心の闇』は『雨』が好物で、『雨』を増幅して、ずっと『雨』にしてしまうんだ」
「カビかよ」
「そうかも。いいたとえだ!」
小林はPCのモニタに反射して映った、自分の心の闇を見つめた。見慣れてくると、自分の顔に似ているかも、という気すらしてきた。
シンイチは原点に戻そうと試みた。
「そもそもさ、いつどうやって取り憑かれたのか、小林さんも萬さんも千代さんも自覚がないんだよね。いつの頃からか異常な渇望で『不老不死』に取り憑かれた感じで」
「そうだな。全く記憶にねえ」
「じゃ、いっちょ覗いてみるか!」
シンイチは腰のひょうたんから金色の遠眼鏡「千里眼」を出した。空間的に遠くを見れば千里眼、時間的に遠くを見れば過去通、未来通だ。
「なんで最初からそれ出さねえんだよ」
「小林さんが思い出すほうがベストだからさ。そもそもこの術難しいんだよ。体力使うし」
東日本で「愛宕の法」とも「飯綱の法」とも知られる、過去通の呪法。後醍醐天皇が傾倒した、邪宗とされた真言立川流に伝わる。元は修験の術であったらしい。シンイチは愛染明王と歓喜天の印を切った。
暗闇の奥から、ぼんやりとした像が浮かび上がってくる。
部屋の中で引きこもる小林だ。
「もう肩に妖怪が乗ってるね。今よりは小さいみたい。もうちょっと過去か」
過去へ。過去へ。千里眼の中は徐々に時を巻き戻してゆく。
「あ! 小林さんてスーツ着てたの?」
「昔サラリーマンだったよ」
富山社のオフィスが映った。ガラケーで話す小林がいる。
「その時は妖怪はいないぞ?」
「そうなのか。宇童の野郎に虐められてたから、その時に心に闇でも背負ったかと思ったよ」
「虐められてたの?」
「だから恨みがあって、俺のコピーロボットが殺害したんだろ」
「そっか……あ」
過去の小林が、会社の外の公園に出た所だった。
桜が膨らんでいて、何かが咲きそうな季節だった。そこにたくさんの人が集まっていた。
「桜」
「桜?」
「公園の桜で、人が集まってて、たくさん看板が出てて、マスコミもたくさん来てて、輪の中心の子供に……妖怪『不老不死』だ!」
「なんだって?」
「勿論周りの人は妖怪に気づいていない。でもその子をずっと見てる。看板に名前が……『川崎礼奈ちゃんを救おう』」
「あ。……心臓病の子か」
小林の説明によれば、当時マスコミで騒がれた七歳の美少女だ。五十万人に一人しか発症しない難病、突発性拘束型心筋症という病で、助かるには心臓移植しかなく、保険の効かないアメリカで手術しなければならないという。その全費用が二億五千万円。彼女の父親が、涙ながらに募金を訴えていた。仕事を辞めて、募金活動をしているのだと。「究極の売名行為か、美談か」でワイドショーを騒がせたのは、礼奈ちゃんが美人だったからだ、と小林は皮肉っぽい本当のことを言った。
「助けてください! 礼奈を助けてください! 彼女に生きる権利をください!」
生きる権利、と聞いて小林は吐き気がしたことを覚えている。その日は、小林がちょうど会社を辞めた日だった。ようやく人間的に生きる権利を得るまで、どれだけ宇童と闘ってきたというのだ。そう自虐的に感じたのだ。
「彼女の肩の上に、もう破裂しそうに大きな『不老不死』が」
彼女がどれだけ生きたいと望んでいたか、その大きさで小林には想像できた。それは小林自身がこの世を捨て、未来へ行きたいと願う、同等の熱量かも知れないわけだ。あんな小さい体で妖怪に侵されていたとは。
彼女はまばたきをしなかった。
ずっと、自分を生かしてくれる人を探していた。お金があれば生きられる。お金さえあれば死ななくて済む。その彼女の思いが、自分のまばたきすら止めていた。集まる人の顔をなるべく見た。そうすると募金が集まることを彼女は知っていたからだ。
シンイチはそのまま辺りを見回し、発見をした。
「その場に、萬さんも、千代さんもいたんだ」
「なんだって?」
萬俊介は、近くの癌センターで精密検査を受け、手術を拒否してでも世紀の難曲を弾き切るべきかどうかを考えていた所だった。
丹波千代は関東に連合の会合があり、桜がきれいなので車を停め、窓を滝本に開けてもらっていた所だった。だが桜など見なかった。ずっと滝本と木村とカルロスのことを考えていた。
この場で、小林と萬と千代だけが自分のことで精一杯で、彼女と一度も目を合わせなかった。
「なんでそんなことが分かる?」
「彼女目線もこの『千里眼』は見えるんだ」
世界はこんなに桜で美しいのに。世界はこんなに募金する人の同情で美しいのに。次の桜を、わたしは見ることができないかもしれないのに。
礼奈は、その三人のことを強烈に記憶したのだ。
「だからか。彼女の恨みが乗り移ったのか?」
「いや、そうじゃない。だってこの時点で妖怪は三人に取り憑いてないし」
シンイチは時を進め、小林に妖怪が取り憑いた瞬間を捉えた。
「礼奈ちゃん急逝。募金集まり切らず無念」のニュースを、小林が見たときである。
「俺が募金していれば……助かったってのか?」と、その時の小林は呟いていた。少しの後悔が訪れたのだろう。人の心は同情が出来る。人の心は相手のことを考えることが出来る。人の心は、後悔する。
そのとき、扉の隙間からその瘴気を嗅ぎ分けて、妖怪「不老不死」がやってきた。
「礼奈ちゃんに取り憑いた妖怪は、そのまま彼女を死ぬまで吸い続けた。そして……子供を産んだ」
シンイチは時を再び戻し、死の間際の礼奈ちゃんを見つけた。
「妖怪の子供は、目を合わせなかった、強烈に記憶に残る三人を追い、同じニュースで時を同じくして後悔した三人の心の隙間に入り込んだ」
萬は雪山の洞窟を探しているところだった。己の延命を願い、不老不死の心に囚われていた。千代は滝本と木村とカルロスを見ながら、不老不死の大母になることを願っていた。
「ちょっと待て」
と小林は言った。
「俺は『時間が欲しい』とは思ったことねえぞ」
「そうだよね。じゃ、何を望んだの?」
次に答える答えこそが、小林誠の心の闇の芯の部分だ。シンイチは身構えた。
「俺は、……この世から脱出してえって思ったんだ」
「? ……自殺するってこと?」
「違う。そうじゃねえ。もうこんな詰まらねえ世の中じゃなくて、別の世の中に行きてえって思ったんだ。たとえば、バラ色だと言われる未来に、とかだ」
「……それが不老不死の正体か」
シンイチは、ようやく闇の底にたどり着いた気がした。
「小林さんは不老不死になりたいんじゃない。それは手段で、目的は、この世から脱出して、全然違う未来の世界に行きたいってことなんだ。萬さんや千代さんは、不老不死を使ってこの世のここでどうにかしたいって思ってた。だから小林さんの妖怪は、ちょっとビジュアルが違うのか!」
萬や千代は、その目的になっている原因を解決することで心の闇は晴れた。じゃあ小林の心の闇は?
「なんで脱出したいの? 宇童さんが嫌だったの?」
「それもある。でも何もかも嫌になったって感じだ。でも自殺するのは嫌だ。俺は生きてえんだ。でもこの世の中じゃ嫌だ。どっか他の世界に行きてえ。でも外国は嫌だし、引っ越しだって人間関係はついて回るだろ」
「じゃどうしたいの? 仙人みたいに山で一人で生き続けるの? ……あ、それが引きこもりってわけか」
「現代のネット技術によって、仙境なるシャングリラが、引きこもりとして実現してしまったのじゃのう」
ネムカケが独り言でつっこんだ。
「そうだな。俺は『世捨て人』になりたかったんだ。行方不明になりたかった。そうなって、遥か未来に行っちまったかったんだ」
不老不死。人が死にたくない理由は様々にあるだろう。まだ七歳までしか生きていない。悲願を果たしたい。永遠にこのままでいたい。この世から逃げたいが、死ぬのは嫌だから、永遠に生きたい。
「でもさ」
シンイチは再び子供のような疑問を呈する。この少年の素直な疑問が、たびたび人の凝り固まった心をほぐすのだ、と長い付き合いのネムカケは知っていた。
「タイムマシンじゃないからさ、未来へ行っちゃったら、戻ってこれないよね?」
「そうだ」
「誰も知らないんだよね、自分のこと」
「ああ」
「知ってる人はみんな死んじゃったあとなんだよね。俺とかも」
「ああ」
「寂しくないの?」
「ねえよ」
「じゃお別れの挨拶とかしないの?」
「お別れ?」
「浦島太郎はさ、遥か未来の世界へ行くって知ってたら、村のみんなにお別れを言ってから亀に乗ったと思うんだ」
「そうかね。いねえよ。親に言ったってなにもねえし、同期と会うつもりもねえ。宇童も死んだ。心残りなんてねえよ」
そう強がった小林が、少しひるんだ。
「ないことは、ないの?」
「……一人だけ、別れを言いたい人はいる」
2
小雨が降っていた。
山形県の庄内平野に、秋雨がゆっくりと落ちている。雨雲をつきぬけ、すらりと小雨を追い越し、小林とシンイチとネムカケは、一本高下駄で駅前に降り立った。
「連絡取らないの?」
「連絡先も何も分らねえ。黙って実家に帰っちまったんだ。たしか山形、そういってたのを思い出しただけだよ」
「だから誰のこと?」
「うるせえな。さっさと遠眼鏡貸せや。自分で探すから」
小林はシンイチの「千里眼」を奪って、必死で探した。あらゆる方位と距離の果て、千里眼の動きが止まった。
「いた?」
「……いた」
「会いたい」と言ってた癖に、小林はさらにシンイチに頼み事をする。
「かくれみのも、貸してくれよ」
「隠れて会いに行くの? 駄目だよ!」
「駄目とか、小学生が言ってんじゃねえよ! ストーカーでもなんでもいいだろうが!」
「いや、雨降ってるから」
「?」
「雨はじくから、そこでバレちゃう」
シンイチは天狗のかくれみのを被った。透明は透明になるのだが、雨が空中ではじかれる。跡を辿ると、人の形になってしまう。かくれみのは「隠形」といって、天狗の姿が消えるのはこの神通力によるものだという。密教の摩利支天隠形法によるものとも言われるが、「かくれみの」はその便利版にすぎない。
「ちっ。使えねえな、天狗」
それでも小林はかくれみのを被り、「その店」の向かいの軒先に立つことにした。
宝来パン店と看板の出た、パン屋併設の小さな喫茶店だった。そこに勤めているウェイトレスが、彼の目当てのようだった。化粧は薄く、少し疲れた顔をしていた。
「会社の同期で、実家へ帰って結婚したって聞いたし、別に付き合ってた訳でもねえし、別に会って今からどうにかなろうと思ってないし、だから、だから……」
小林は聞いてもいない癖に饒舌にしゃべる。はああん、とシンイチはピンときた。
「好きだったの?」
「ち、ちげーよ!」
小林は顔を真っ赤にして否定した。
「会いにいけばいいじゃん。もう二度と会えないかもしれないよ?」
シンイチはどんと小林を蹴り出した。かくれみのから姿を現した小林は、ガラス窓の向こうの彼女と、目が合ってしまった。
「あ、傘、盗まれて、雨宿りに来て、た、たまたま目に入ったのがここで……」
席について雨を払った小林は、必死に嘘をつこうとした。君に会いに天狗と飛んできた、なんてほんとうのことを言えるわけがない。
「小林君が有名人になって、びっくりしちゃったわよ! まさか会えるとは!」
彼女は気さくに水とおしぼりとメニューを置く。そう、彼女はいつも「小林君」と呼んでいたなと小林は新入社員の四月を思い出していた。四月の研修の間、弁当屋のランチを買って、公園で同期達と食べたっけ。毎日みんなと一緒だった。そうだ、あの時もあの公園で桜が咲いていた。どうして桜は毎年咲いては、素敵で嫌な思い出を置いていくのか。
「有名人?」
彼女は店の隅のテレビを指さした。
「『人工知能殺人事件』よ! 暇な仕事だからずっとテレビ見てるのよ! 同期もいっぱいテレビに出てたよね! インタビューなんかされちゃってさ。柴田も小川も神谷もモザイクかけられてたけど、すぐ分っちゃった。みんな太ったねえ!」
「……宇童を殺ったのは、俺じゃない」
「知ってるよ? 人工知能コバヤシの方でしょ?」
「うん。……じゃあいいんだ。……コーヒーひとつ」
かくれみのの中で会話を聞こうとしたシンイチを、ネムカケはたしなめた。男女のことは小学生には早いじゃろと言い、ここで待っておれと普通の猫のふりをして喫茶店の自動ドアの前に立った。猫はどこでも歓迎される。内側から客が自動ドアを開けてくれる。そうして椅子の上にのぼり、丸まり、人々に可愛がられる。喫茶店の猫は、すべての客の話を聞いている。あなたの話も、まる聞こえかも知れない。
「下村。……話したいんだけど、いい?」
コーヒーを運んできた彼女に、小林は話しかけた。下村と呼ばれた彼女は、ネームプレートを見せた。
「今は平原の姓ですけどね。懐かしいな。下村でいいよ」
下村優香は向かいの席に座って、茶目っ気たっぷりに微笑んだ。小さな顔がくしゃくしゃに小さくなった。
「どうせさっきの人で、お客さんみんな帰っちゃったし」
ああ。この笑顔が好きだった。小林は様々なことを思い出していた。何も知らない学生上がりの、茶目っ気のあった彼女に戻れたんだと思うと、小林は涙が出てきた。桜の花の下のときとまるで一緒だ。下村さん。短い髪を揺らせて、ころころと笑っていた下村さん。
「どうしたの?」
「いや、新入社員研修の頃、急に思い出しちゃってさ」
「懐かしー! みんな若かったよねー!」
「あのままで行ければ、良かったのに」
小林は遠くを見た。
「宇童部に行きたい、って下村が言わなければ」
「……そうね」
歳を取った顔に、彼女は戻った。
「そんな話をしにきたの?」
冷たい雨は止みそうになかった。とめどもなく。小林の思いのように。
「あのこと」に触れない訳にはいかなかった。
3
宇童祐也は富山社のやり手の部長で、売り上げナンバーワンを達成する宇童部は、社を牽引していると言っても過言ではなかった。
宇童は部下には強引だが、外には仏の顔の、典型的な内弁慶である。つまりはケツでもなんでも舐めますと多数の仕事を取ってきて、全部部下に徹底的にやらせるのだ。ちょっと資料が欲しいと言われれば、徹夜で百八十ページの詳細な資料をつくらせる。各部員の残業時間は月二百を超え、労基対策に過少申告をさせる。月に何度も飲み会やバーベキュー大会やボウリング大会を催し、部下に仕込みを全部やらせる。顧客とのレクリエーションと称するわけだ。「それは全て仕事と直結している。我々はサービス業なんだ」が宇童の口癖だった。「客は百を求めない。百二十を求めている。我々は百八十を出す」と常々言っていた。
だから他社より多少見積もりが高くても、顧客の信頼を得、宇童部は名実ともにナンバーワンの業績部署であった。
だがそれは、部下達の奴隷労働によって成り立っていた。「宇童部に行くと壊される」と噂が立った。自衛隊上がりを自慢にしていた斎藤も、心を病んで辞めていった。睡眠時間が二時間と少しで二か月働いたからだ。心療内科から「退院」と言われることなく、会社から消えた。残業時間を正確に記録し、「三百十九」を労基に訴えようとした者もいたが、満額の残業代に加え、二か月の休みと二倍の退職金でうやむやにされた。「全ては金で買える。金で売れるのだから」が宇童の信条である。
宇童部は異動が激しい。何人も辞め、何人も人を採る。仕事の入れ替わり立ち替わりと人の入れ替わりは似たようなものだった。取引相手なんて無限にある。全てはめまぐるしく、朝から朝まで、宇童部には嵐が吹いていた。
宇童は女の部下を好む。好色だからという生来の性格もあるが、「女の方が我慢強い」とう信念を持っている。「女は我慢したことを褒められると、自己評価されたと思い込む。そして倍我慢する」と宇童はのちに漏らしている。
新入部員の名簿はつまり、宇童好みの女のカタログである。「根性の据わってる女」「M」「ショートカット」が宇童の好みだ。髪の長い女は化粧に時間がかかる自分好きだから、「宇童の奴隷」には向かないとした。
ショートカットの新入社員、下村優香は研修後、宇童部配属となった。成り上がりたいと宇童部を希望した下村と、一人入れるなら下村だと指名した宇童との両想いであった。
宇童はプライベートと仕事の別をつけない。部下と飲みに行くし、女の部下とセックスをする。宇童部の女は皆宇童の女か、元女だ。
男たちも文句を言わない。それ以上の女を、宇童が合コンであてがうからである。モデル、アイドルの卵、CA、女子アナ。宇童の人脈は広かった。女は男のモチベーション。男の承認が女のモチベーション。宇童はそう考えていた。
下村は配属後間もなく、宇童の女になった。何度も自宅に通い、掃除や食事の世話もした。無論下半身の世話もだ。下村は大人の男とはこういうものだと憧れ、むしろ尊敬すらしていたという。男の同期たちより、下村は大きな仕事を任されるようになる。下村は宇童に認められたと思い、ぞくぞくした。社会人レースの勝者になったと思い、仕事の大きさが自分の大きさだと、勘違いしていた。
大きな仕事で徹夜が続き、体に異変を来すようになる。二十代の若さはどこかに抜けてしまい、無理が効かなくなってきた。そして無限に若い「次の女」が、新入社員として入ってくる。まるでおかわりし続けるわんこそばだ。
何回目かの新入社員が「次の女」になったとき、下村の中の糸がふつりと切れ、会社を辞めることとなった。
小林は、復讐のつもりで宇童部配属を願い出た。「あの伏魔殿に何故」と周囲は訝った。誰も何も分らなくていい。小林は、下村優香の復讐のつもりで宇童部に異動した。俺が宇童部を変えてやると考えていた。理由はたったひとつ。「宇童が下村を自分の女にしたのは、深夜に女子トイレでレイプしてからだ」と噂を聞いたからである。
宇童は女好きで、誰彼構わず手を出した。新入社員にも、中途採用にも、掃除のおばちゃんにも。
宇童部の一番若い女と飲みに行き、真相を知らないか尋ねた。
「私も最初は無理矢理でした」と聞き小林は酒を吐いた。
「でも、それだけで仕事回ってくるんですよ? チョロイもんじゃないですか」と彼女は笑った。
「枕営業ですよ。みんなやってることです。それで大金が回るんですよ? 私は宇童を利用して、上に行くつもりなんです」
下村もそうなのだろうかと小林は思った。宇童部の地獄を生き抜くには、それ位したたかでないと駄目なのだろうか。小林は混乱した。
混乱したまま、日々振られる激務に身を投じ、気づいた時には身体も心も壊されていた。
宇童部を辞し、会社を辞した時に思ったことがある。「いちぬけた」だ。
下村も、こんな気持ちだったのだろうか?
「なんだったんだろね、アレ!」
自分も宇童部にいて、それで会社を辞めたのだと話すと、彼女は意外にもケラケラと笑った。
「若さゆえのブッコミって感じ? ちょっとでも上に行きたかった、ちょっとでも社会人として一人前になりたかった、あのチキンレースはなんだったんだろう。小っちゃな会社の小っちゃなゲームに過ぎないのにね」
「……下村、何で辞めたの?」
本当のことを聞きたかった。君は、宇童に無理矢理「された」のか?
「なんでだろ。誰でもいいんだなこの人、って思ったからかな」
「誰でも?」
「あの人、穴があったら何でもいいんじゃない? その度愛して好きになって、責任取って、お金あげてマンション借り上げて、仕事も回すのよ。イタリアのマフィアより律儀」
「その……下村も宇童の女だったって」
「そうよ?」
何も悪びれていないし、後悔もしていない。パリはフランスかい? に答えるような、平然とした顔だった。
「その時は好きだったし、認められたくて必死だったわよ。周りの女に負けたくもなかったし。でも次々に新しい女が入ってきて、毎年春にトイレ連れてかれるの見てたら、なんか無限ループが馬鹿馬鹿しくなっちゃってさ」
「……知ってたのか? 新入社員が……その……」
「目瞑ってたら終わるようなもんだし、そのこと自体は沢山ある中の一回にすぎないし。昔つきあってた男なんて、もうどうでもいいわよ」
「どうでも……いい?」
「今は今の男の方が大事!」
ああ。そうか。彼女は結婚したんだっけ。幸せになれてよかったなと小林は思った。彼女はスマホの画面を見せた。
「今の男。……息子ちゃんの亮君です。四才!」
「あ……下村が辞めて、そんなになるんだ」
「私にとっては、昔の男が殺されて、びっくりしただけのこと。悲しいとかざまあみろとか全然思わなかった。実家に帰って本屋さんが潰れてたことのほうがショックだったわよ」
そんなもんか。そんなもんなのか。
「俺……お前の敵討ちのつもりだったのかも知れない」
小林は、誰にも言わなかったことを打ち明けた。
「え? やったのは、小林君のコピーロボットの方でしょ?」
「うん。でも、俺と同じことを考えてることが、やつと話して分ったんだ」
「どういうこと?」
「何故やったのか、本当のことは誰にも喋ってないって確認し合った」
「……」
「俺は、下村の仇を討ちたいってずっと思ってたんだ。あんなに楽しそうだった下村が、どんどんつらい顔になっていった。だから宇童部に配属を願い出た。でも……宇童に恨みなんかないんだな」
「ごめん。そんなこと頼んだっけ」
「いいや。俺が勝手にしたことさ」
だって君が好きだから。
小林はその一言をコーヒーで飲みこんだ。
外はまだ小さな雨が降っている。傘はないが、小林は席を立った。
「俺は直接虐められてもいたからな。宇童が死んでせいせいしたぜ」
「……テレビずっと見ちゃうからさ、宇童さんとこの娘さんも写るんだよね。この子『も』父のいない子になっちゃったのかと思って、可愛そうになっちゃった」
「『も』?」
「あ。今度、離婚するの。色々あってね。だから今の私は亮君一筋」
「……そうか」
小林は、この世から離れてどこか遠くへ行きたいと願っていた。そうではなかった。自分一人が同じ所にいて、下村さんの方がずっと遠くへ行ってしまったと感じていた。
おれ、まだ、卒業式の校門にいる。
突然小林はそう思った。みんな門から出ていって、どこかへ行ってしまったんだ。まだおれだけ校門から出ていない。小林は校門から彼女に言った。
「さよなら下村さん」
「なに? やだ、もう一生会えないみたいな言い方」
そうだ。もう一生会えないんだ。
だから来たんだ。
さようなら下村さん。小林は、もう一度心の中で言った。
4
都内のラウンジバーに、「鬼剣」戸田が同僚の大宮刑事を呼び出していた。
ここは客が誰もいないので、刑事同士の密談によく使われる。ツケが効くのが戸田に好都合だった。
「詐欺……だって?」
「ああ。そうだ。平たくいうとな。『永遠の命』は詐欺だ」
戸田は、鬼の粘りでついに証拠をつかんだのだ。事態がひっくり返る大ごとで、大宮刑事に相談を持ちかけていた。紫煙を切り裂く真実を、戸田は話し始めた。
「エターナルジャパンの後藤。奴がどこまで最初から知っていたかは分らん。所詮雇われの代理人だからな。アメリカ本国のエターナル社に使われているだけだ」
「黒幕はアメリカのエターナル社か」
「黒幕ったってな、犯人は人工知能なんだから、殺しそのものとは関係ない。エターナル社は別会社に売却計画を進めている。証拠は録音した。これで連邦警察を動かせる」
「……どういうことだ?」
「彼らの言うアップロード、つまり脳をスキャンし、データをサーバ上の人工知能にコピーする技術は詐欺じゃない。事実、それによって殺人すら起きた。そしてダウンロード、つまり人工知能の人格を脳に上書きする技術自体も本物のようだ。そして冷凍技術も。だが穴がひとつだけある。問題は、解凍技術らしい」
「冷凍睡眠から醒めるやつか」
「そうだ。アメリカのアルコー財団には、現在一四九名の冷凍睡眠者が液体窒素の中に眠っているが、今の科学技術では解凍できないんだそうだ」
「は? ……何だって? じゃ、彼らは目覚められない?」
「小学校で習ったろ。水ってのは凍ると膨張する。池の氷は増えるんだ。だからそのバーボンの喫水線の上の氷も、溶けたらグラスに収まるんだよ。人間の脳細胞を凍らせると、水分が膨張して神経細胞をブチブチ切っちまうそうだ」
「でも金魚を液体窒素で凍らせて溶かしたらまた生きてる、ってのは見たことあるぞ?」
「あれこそ詐欺なんだ。人間の脳細胞ほどには、金魚の脳は複雑じゃないからな。解凍された金魚が、以前のような人格──金漁格か──を持っているかどうか、誰も判断できねえだろ」
「……確かに」
「冷凍肉や刺身が不味いのは、この為だそうだぜ。冷凍すると組織が壊れるんだ」
「ウチは急速冷凍冷蔵庫にしたぜ」
「急速だったら破壊がマシってだけのことだろ。生肉には冷凍は負ける」
「……確かに」
「エターナル社はこれを知っていて、詐欺を働いた。世界中の成金から一人当たり十億巻きあげてな」
「ちょっと待て。世界中に既に何人も『眠りについた者』がいる筈だろ? 冷凍殺人じゃねえか」
「それが違うんだ。後藤は『人工知能と喋りますか?』としか小林に言っていない。彼らはまだ小林と同様、テスト睡眠中の人たちだ」
「……じゃテストを何回かやって、いざ本番、ってときに」
「ドロン。眠らせときゃしばらく気づきもしねえだろって計画さ」
「昏睡強盗かよ」
「巧みなのは、アルコー財団に彼らを引き渡す算段をつけてたらしい」
「目覚めることのできない睡眠者一四九名はどうなってるんだ」
「財団は、『彼らを目覚めさせるナノテクノロジーが発達して、膨張した部分をナノ単位で修復する技術が出来れば、目覚めさせることが出来る』と主張している。一四九名はそれに同意したとも」
大宮刑事はグラスの氷を舐めた。小学校の頃、水筒に麦茶いっぱいを凍らせて、爆発させたことを思い出していた。
「……嫌な気分になるな。今は不可能なんだろ? 将来そうなるかもわからんのだろ? ……まるで緩慢な自殺のようだ」
「実際、末期癌の人たちが多かったらしいから、それもひとつの終末医療と位置づけることも出来る」
「神の国が待ってる、って宗教かよ」
「……本当とも、嘘とも、言える。まあ彼らを断罪するのは俺たちの仕事じゃない。だがエターナル社は違う。彼らには、ドロンする計画があった」
戸田はようやくグラスのバーボンに口をつけ、一息ついた。氷は半分溶けていたが、液体の量は変わらない。
「小林のケースが、彼らにとって予想外の事故だったんだ。人工知能が殺人事件を起こしちまったんだからな。色々明るみに出ちまった。それだけ人格転送が正確だったんだろう。それが却って奴らの首を絞めたってのが真相だ」
「……大スキャンダルだな」
「彼らはそうなる前に逃げる予定だった。誰にとっても予想外の出来事が、起こっちまっただけなのさ」
5
「『不気味の谷』って聞いたことある?」
シンイチは小林に尋ねた。
東京に戻ってきて、小林が一言も喋らないので、シンイチはこないだ聞いた面白い話をしようとしたのだ。
「CGとかロボットがどんどん人間に近づいてきてるじゃん。最初はカワイイって思うんだってさ。けなげだって。でも段々人間に近くなると、ある瞬間から急に不気味だって思うようになるんだって。愛らしさが急に不気味の谷底に落ち込むのさ。変だよね」
ネムカケも気を使い、この場を盛り上げようと参加する。
「同族嫌悪のようなものかもの。自分の領域を犯されるように思うのかも知れん。アニメも可愛いだけならいいけど、リアル過ぎると気持ち悪くなるじゃろ。同じ現象じゃ。CG映画で失敗したのは、リアル過ぎて『不気味の谷』に落ちた作品が多いと言われていて……」
「じゃあ」
小林が答えた。
「『不死の谷』ってのもあるかもな」
「不死の谷?」
「人間だってどんどん寿命が伸びてるだろ。自分より遥か下の時にカワイイって思って、でもちょっとずつ寿命伸ばしてきて、生意気で不気味だと思ってるぜ」
「誰が?」
「神様だよ」
「ああ、そっち目線か!」
「人工知能による永遠の命は、神から見て不気味の谷の底なんじゃねえか? 『キモイ』扱いさ」
「不老不死の天狗に、今度聞いとくよ!」
「俺は……不死の谷に、落ちようとしているのか?」
小林が黙り込んで、再び深く考え始めた頃、スマホの着信音が鳴った。
戸田刑事だった。重大な話があるという。署に来れないかという相談だった。
「重大な話って?」
「盗聴があるかも知れん。……それ位重大な話だ」
翌日。あまりにも青天の霹靂に、小林は言葉を失う。
「『永遠の命』は、なかった…………?」
逮捕拘束以来、月島警察に出向いた小林は、戸田刑事から事の真相を聞かされ、まずその言葉を理解できなかった。戸田は大宮刑事にした話と同じ話をした。池の氷の話。金魚の話。
「アルコー財団で眠る人々も、もう永遠に目覚めないってこと……?」
「彼らは『遥か未来の技術革新を待つ』と主張している。未来に希望を託すこと自体は犯罪ではないし、それを裁く法律はない」
戸田は噛んで含むように言った。誰が正義なのか、彼にも分らない。だが悪はある。殺人と、詐欺だ。
「……たとえば」
小林は必死に考え、自分の考えを言葉にしてみた。
「俺も冷凍睡眠者と同様に、『未来に託す』として、人格を人工知能に移し、いつか目覚めることを選択することは?」
「それ自体は可能かも知れない。エターナル社が今後ずっとサーバを維持でき、かつ、解凍技術を誰かが開発すれば、の話だが」
「ううううううううううう」
小林は頭を抱え、震えた。激しく頭皮を掻きむしり、天を仰いだ。
この天井になんて意味はなくて、その先の空を目指していた筈なのに。どうしてだ。どうしてだ。どうして俺は「永遠の命」をクリックしたんだ。
どうして俺は、下村さんに会いに行ったんだろう。
「つまり俺は」
小林は結論だけを繰り返した。
「つまり俺は、永遠の命になれない」
自宅へ戻ると、いつものようにマスコミがフラッシュを焚き、マイクを向けてくる。大きなカメラはいいけど、スマホで撮ってる奴がいるのが少々ムカつく。
「大勝利おめでとうございます!」
「黒幕の後藤氏にひとこと!」
「これで枕を高くして眠れますね!」
大勝利? 俺は何に勝った? 勝手に後藤VS小林にしたのはお前らで、犯人を俺だとしたのもお前らだろ? 潔白が証明された訳でもなんでもない。俺は文字通り寝ていただけなんだ。
そうだ。大事なとき、いつも俺は寝ていた。枕を高くして、寝て、──その先は?
裁判は勝てるだろうと、弁護団との打ち合わせがあった。
裁かれるべきはエターナル社であり、人工知能を逮捕することは出来ないから、責任者の後藤が引責することになるだろう。あるいは、人工知能〈小林〉を人格と認めれば、「死刑」すら可能だ。執行はシャットダウンからのハンマーだろうか。
「ひとつ、聞きたいことが」
「何デシか」
「俺が奴の三日間の記録を見ることは、可能ですか?」
「容疑者に会うことは無理デシ」
「どうしても会いたい。司法取引っていうんだっけ、そういうの」
「……取引?」
6
「これが俺が出る最後の裁判になる」
と小林はシンイチに言った。
「どうしたの?」
小林は答えなかった。
シンイチには何となく予感できた。小林は何か、重大なことを言う。
スーツを着て証言台に立った小林は、それを言葉にした。
「僕は宇童祐也を殺したいと思っていました。計画的に、人工知能を使って、僕が、殺したのです」
当惑のさざ波が小林を中心に広がった。これまで彼は一貫して「殺意はあったかも知れないが、実行はしていない」と主張してきた筈だ。このまま逃げ切れる筈なのに。誰もがそう感じた。
傍聴席の戸田と大宮は思わず立ち上がった。シンイチもネムカケも、かくれみのの中で驚いた。
「計画的に、とは?」
検事が尋ねた。
「人工知能は、三日間のテストのあと廃棄される予定だった。それは僕も知っていた。だから、それを利用したんです。まず想像しました。『三日後死ぬとしたら、何がしたい?』ってね。よく言うでしょ、『死ぬ前の最後の食事は何がいいか』って。想像ゲームだ。更に条件をつけ加えよう。『人工知能だから罪は問われないとする』だ。まあ、罪に問うべきか問わざるべきかがこの裁判なんだけど、それはおいといて。俺は俺の心を想像したんだ。『その三日間で何をする?』ってね」
小林は水を飲んで少し落ち着いた。
予想していなかった展開に、場内は固唾を飲む。この言葉の引用を、下村さんはどこかで見るかも知れない。
「バレなきゃ何をしても構わないとしたら? バレても罪に問われないとしたら? 俺は今からコピーロボットだ。三日後死ぬ。そう想像したんです。だとしたら、殺したい奴が一人いた」
傍聴席には、宇童の妻と、娘の苺ちゃんが来ていた。「父のいない子」と下村さんは言った。
「だから俺は後藤さんに聞いたんだ。『三日後、人工知能は破棄されるか?』って。それを明らかにする為にだ。その記憶があれば、コピーロボットは俺と同じことを考える。リモート犯罪だ。……殺人教唆っていうんでしたっけ、こういうの?」
このことを裁く法律はない。しかし殺人が計画的であり、実行犯と計画犯があり、その証拠があれば殺人罪は成立する。
「……今は反省しています。僕を牢屋に入れて下さい。……本当にすみませんでした」
小林は宇童の妻と娘に頭を下げた。
犯人が現れ、自供した。
ただそれだけのことだった。これならば「通常の」枠内で裁判が可能だ。
「情状酌量を求めます。宇童部の酷さは、証言も記録も残っているでしょう。僕は正義の鉄槌を下したとは思っていない。誰かがやるべきだとは思っていました。だけど、誰にも罪が被らない方法を、僕がたまたま思いついただけです。それで地獄は終わったんだ。しかしそれはやはり罪だと思ったので、ここでこうして告白することにしました。……反省しています」
再び、小林は深く頭を下げた。宇童部の惨状を知っていながら放置していた会社側にも責任がある、と朝香たちが罪の分散を試みた。
「シンイチ、いるんだろ」
小林は小声でシンイチを呼んだ。
「不動金縛りを。俺は牢屋の中からお前を呼べなくなる。最後に話がしたい」
ゆっくりと、裁判官たちも検事たちも弁護団も時を止めた。また彼らは口角に泡を飛ばしたままで、それが空中で止まったままになった。
「今の話……ホントなの?」
かくれみのから現れたシンイチは小林に尋ねた。
「嘘に決まってんだろ」
「は?」
「真っ赤な嘘だ」
「え、ええええ? じゃあ何で?」
「誰かがケツ持たなきゃ、この裁判終わんねえだろ。さっさと刑務所入って、模範囚になって出てくるよ」
「な……なんでそんなことを?」
「だってこれから何して生きていこうって思って、何も思いつかなかったんだよ。ただ妖怪『不老不死』ってのはさ、究極の現状維持でしかねえな、って思ったんだ」
「究極の現状維持」
「前にも後ろにも進めねえ。ただ生きて果てを見る。それが面白いかどうか考えた。つまり俺が永遠の命の果て、目覚める所を想像してみたんだ。何が分っただろうか、人類は発展しただろうかと。……なんとなくさ、人類が滅びたあとで、誰もいねえんじゃねえかって思ったのさ。不老不死の天狗と神は、まだそこにいるかも知れねえな。五十六億七千万年経っても生きてんだろうな。とにかく、誰もいない荒野で、それ以上生きる天狗と何話すか考えたら、何もねえなって」
「……それって、人類が滅んだ時の話でしょ? 発展するかも知れないし」
「そう。滅ぼうが発展しようが、俺には分らねえ、って思ったのさ。発展を他人任せにして、寝過ごそうってことだからさ」
「他人任せ」
小林は一息つき、「差し入れ」を頼めないかと言った。
「なに?」
「本」
「本?」
「俺、冷凍技術について勉強したいんだ。それに関する本全部くれ」
「? どういうこと?」
「どっかの他人がコマを進めるのを待ってると、滅びるかも知れねえ。だから俺が進めてやるよ。部屋で勉強すんのも刑務所ですんのも一緒だろうと思って、全てが丸く収まる方法を思いついたんだ」
「冷凍技術の本ってあるの?」
物知りのネムカケが請け負った。
「ワシがとりあえず五冊くらい見繕ってやる。覚悟せえ」
小林は笑った。
「頼んだぜ」
こうして、長い間小林誠の肩の上にずっと凝り固まっていた心の闇「不老不死」は、彼の肩からばりばりと剥がれ始めた。血が巡り始め、小林の顔に生気が戻ってくる音がする。雨雲が、割れようとしている。
「科学を前に進める一員になりたい。たとえば刑期が終わったら、冷凍食品の会社に就職できるようになりてえんだ」
「? どういうこと?」
「冷凍チャーハンは、不味いんだよ」
いま、小林の心の黒雲に、ようやく一撃の光が差した。
「魔が差す」と俗に言う。人の心は魔が差すときもあれば、光が差すときもある。魔が差したり光が差したりして、トータルでバランスが取れているだけなのだ。
シンイチは言った。「心の闇に取り憑かれるのは、その人が悪いせいじゃない」と。悪いのは妖怪であり、その人ではないと。何故なら、人の心は悪にもなるが、正義に戻ることも出来るからである。
小林誠は正義であろうか。それは誰にも分らない。偉大なるピアニスト萬俊介や、豪傑丹波千代に比べれば只の庶民で、彼らの大冒険に比べれば、ちっぽけな冒険者にしか過ぎないかも知れない。しかし人の心と人の心を比較することは出来ない。心は誰の目にも見えず、測定も出来ないのだ。小林誠は小林誠の人生の中で、最も大きな決断と冒険をした。ただ、それだけのことだ。
人の心は時々魔が差す。しかし永遠に降る雨などない。心は、再び晴れる力を自ら持っている。
「火よ在れ」
シンイチは炎の色の仮面を被り、炎の色の剣を抜いた。火の使者天狗と成り変り、全ての闇を燃やす者と成った。
「南無大天狗小天狗。十二天狗有摩那天狗数万騎天狗」
シンイチは天狗経を唱え、八方に結界を張った。小鴉の黒い刃から溢れ出す炎が、正義の色で法廷を染めた。
「一刀両断!」
振りかぶった火の剣は唐竹に、妖怪めがけて下ろされた。
熱風が吹く。
その炎の灯りに照らされて、小林誠は己の心の闇の断末魔を、しかと心に焼き留めた。
「ドントハレ!」
7
小林は取引の約束として、〈小林〉の記憶を見る機会を与えられた。PCに彼の三日間が映し出される。これを引き継ぐことで、ようやく〈小林〉は俺とひとつづきになる。
闇の中で目覚めた〈小林〉は、ネットに接続し、ニュースや掲示板を眺めていた。なんだよ、いつもの引きこもりの俺じゃねえか。一通り書き込みをしてネットを荒らし退屈した〈小林〉は、ふと自分がネットのどこにでも移動できることに気づいた。
近所のネット。外国の風景。世界の裏側。そうして富山社にたどり着き、侵入し、監視カメラをハッキングした。宇童のコーヒーの習慣と、時計を見ている。
最後にハッキングしたのは、社の名簿サーバであった。昔の社員証の写真が残されていて、下村優香の写真を、しばらく〈小林〉は眺めていた。
「ふん。……いかにも俺がやりそうなことだ」
こうして〈小林〉は小林になり、〈小林〉に取り憑いた妖怪も、砂になって崩れ去っていった。
8
「おう? シンイチや、『ねじる力』が戻っておるではないか」
ネムカケがシンイチに声をかけた。
「うん。なんかちょっと理解したら、治った」
「理解?」
「天狗は因果をねじる、っていうじゃん。天狗が不老不死なのは、不死の谷に勝手に行って、輪廻の因果を捻じ曲げてるんじゃないかって思ったのさ」
「何やら深いの」
「そうでもないよ。人の心って、ねじれた因果を元に戻す力があるように思う」
「ひとつのねじれが戻ったら、ねじれが帰ってきたという訳か」
「そうやって、世界はバランスが取れてるのかも知れないね」
あれだけ毎日騒いでいたマスコミは、次の騒ぎネタを見つけ、津波のあとのようにめちゃくちゃに何かを残したまま、小林の自宅の前を去っていった。
萬俊介の手術は成功したが、転移が見つかった。予断を許さない状況で、彼は息子の為のピアノ教本を作り始めた。雪山で失くした左の手袋に結婚指輪が残されたようで、妻の小夜はひどく俊介に怒ったという。
山鹿組に反旗を翻した「真・山鹿」は、着々と版図を広げ抗争を繰り広げている。山鹿組から次々に人が抜け、真・山鹿に寝返る者が多いという。
下村姓に戻った優香は、宝来パン店を辞め、小さな本屋で働いている。
小林誠は五冊目の研究書を読み始めた所で、同時に論文の検索をし始めた。
その日、まっすぐな青空を、偶然全員が見上げた。
少年と猫の行方は、杳として知れない。
特別長編「不死の谷」 了
「不死の谷」はこれでおしまいです。
てんぐ探偵本編第七章再開をお楽しみに。




