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てんぐ探偵  作者: 大岡俊彦
特別長編「不死の谷」
91/116

特別長編「不死の谷」第三章 魔王

第三章 「魔王」



    1


 「炎のババア」の話をしよう。

 いや、この言い方は彼女にとって失礼かも知れない。しかしシンイチがそう名づけ、本人も気に入ったのだから悪くない呼び方だ。しかしそう名づけられる前、彼女は「黒薔薇」と恐れられる、やくざの女組長だった。修羅の国、北九州には大手の組が五つあるが、そこより下った十六番手に位置する、山鹿組さんがぐみの組長が「黒薔薇」である。

 背中に真黒な薔薇の刺青が咲くというもっぱらの噂だが、見ることができるのは夫となる者だけという。代わりに彼女はいつも黒い長衣コートを着込んでいる。黒い艶糸の、黒い薔薇たちが渦を巻く。

 黒薔薇。華やかで不幸な花。彼女に睨まれたら生きて帰れない、それは死神の花である。


「『黒薔薇』はいるかァ!」

 峡谷会きょうこくかい合田ごうだ金城きんじょうが、扉を蹴破って派手に入ってきた。

 緊張が走った。ここは山鹿組の事務所本部だ。なんということか、峡谷会が殴り込みだと? その場にいた者は全員、懐の得物に手をかけた。

「お止し」

 窓際のサボテンに水をやっていた、黒いコートの背中から、声の矢が放たれた。

 細かく、大きく縫い込まれた背中の黒い薔薇が、その声に反応して舞うように見えた。

「あんたたち、このコートが見えての狼藉かい」

 「黒薔薇」は振り返った。鋭い目の光に一同は気圧される。還暦も近い、たかが一人の婆アに、こうも押される筈がない。しかし黒薔薇が一歩進むと、一歩後退したくなってしまう。「黒薔薇」は白い総髪を揺らせ、三歩前に進んだ。

「組長……スンマセン……組長……スンマセン……」

 合田と金城に両脇を挟まれた、浅黒い肌の男が涙を流して謝っている。何度殴られたのだろう、ぐちゃぐちゃの顔面は、浅黒い肌なのか、真赤な血なのか、あざの色なのか、それらがすべて混ざってしまった油絵のようになっている。

滝本たきもと。何をやってんだい。お客人にお茶を」

 黒薔薇は、合田と金城から目を離さぬまま指示を出した。

「うちのカルロスが、何かやらかしたんですか?」

 両手を出し、虎の革張りのソファーを彼らに勧める。

 彼女は、カルロスの左腕が明後日の方向に曲がっていることに気づいた。

「カルロス、それは自分でうっかり折ってしまったのかい?」

「……そうだな」

 カルロスを脇に抱えたまま、みしりとソファーに座った合田が言った。

「折ったのは我々だが、元はといえばこいつのうっかりから始まってんだ。結局はこいつのうっかりだと言える」

「そうかい」

 滝本と呼ばれた眼鏡の男が、熱い茶を出す。眼鏡の奥に縮こまった目と、小さく震える手を見て、黒薔薇は何も言わず茶を勧めた。

「山鹿組十八代目、『黒薔薇』こと、丹波たんば千代ちよがお話を伺いましょう」


 事の発端は、カルロスの情婦初美(はつみ)の浮気であった。自分より若い、半グレの須田すだと通じてしまった。それを知ったカルロスは激怒して初美を殴りに行った。

 ここまではただの痴話喧嘩だ。問題は、その場が峡谷会のチンピラと半グレグループの、喧嘩の場であったことだ。

 カルロスは怒ると周りが見えない癖がある。まず初美を殴り倒し、次に須田を殴ろうとした。だが誰が須田なのか顔を知らない。収まりがつかないカルロスは「須田ー!」と叫びながら立て続けに三人を殴り倒した。その三人が、喧嘩をはじめようとしていた両陣営の人間であったから話がややこしくなった。しかもまだ須田は殴られていない。

 大乱闘になった。須田は逃げようとしたが、峡谷会のチンピラに殴り倒された。

 ここまででもただの痴話喧嘩だ。規模が大きくややこしいだけで、裏社会が介入するほどのことでもない。痴話喧嘩をしていればよい。問題は、須田が誰か分からないことで、錯乱したカルロスが叫んだ言葉である。

「俺を誰だと思ってるんだ! 山鹿組のカルロスだぞ!」

 山鹿の名前を出されては、峡谷会も引き下がれなくなる。峡谷会は応援を呼び、カルロスは更に暴れまわることとなった。


「で、我々が事を収めてきたというわけですわ」

「いやあ、いい腕っぷしだ。ウチのチンピラじゃ歯が立たない。腕でも折らにゃならんほど、手がつけられなくてね」

「……成程」

 黒薔薇の千代は茶を啜り、カルロスを見た。

「カルロス、今のお話に、間違いはないかい?」

「……ひとつだけ、抜けています」

 とカルロスは息も絶え絶えに言った。

「なにがだい?」

「須田に『初美に手を出せ』と言ったのは、峡谷会の人間だと聞きました」

 合田も金城も初耳だ、というような顔をした。

「ほんとうの事ですか」

 と千代は落ち着いて聞く。

「初耳だ」

 答えた合田に、カルロスは叫んだ。

「初美をヤク中にしたのは峡谷会なんだろ! 須田はその売人だって話じゃねえか!」

 眉をしかめて、千代は合田と金城に尋ねる。

「峡谷会の方々は、まだ薬などを市中に流してらっしゃるのかしら?」

「知らぬ」

「存ぜぬ」

 合田と金城は合言葉のように言う。千代は言った。

「薬は人を壊す。治しゃしない。だから我々は任侠の徒として、やっちゃいかんと考えています。これは先代からの考えです。峡谷会の皆さんはどうお考えですか?」

「……」

 合田と金城は立ち上がった。

「二度と組の名前で喧嘩しないで欲しい。その我々の要望を伝えに来ただけだ」

 二人は礼儀正しく頭を下げた。千代も立ち上がって同じく返す。

 金城は帰り際、扉についた自分の靴跡を、丁寧に袖で拭いていった。


「自分より自分を大きく見せる為に、看板を使うな」

 千代はカルロスに厳しく言った。

「滝本、熱い茶を」

 滝本は急須から熱い茶を注ぐ。

 千代は急須の方を奪い、カルロスの傷だらけの顔面に熱湯を注いだ。彼の叫び声より通る声で、黒薔薇は言う。

「いい消毒になるだろ」


「全く……。いつになったら十九代目は育つのかねえ……」

 サボテンの水やりを続けながら、千代はひとりごちた。

 若頭の筆頭の滝本(まさる)は、リスクばかり考えて攻めに出ない。頭はいいが、眼鏡の奥に隠れてやがる。今の所茶出し係がいいところだ。手が震えて、やくざの茶汲みがつとまるかい。二番手の木村修治(しゅうじ)は頭が足りない。さっき日本刀を抜いたはいいが、振りかぶったら天井に当たることまで気づいていなかった。三番手のカルロス・ヂ・モラエス(リオ訛りでは、deをヂと発音するのだそうだ)は、明後日の方向に飛んで行く鉄砲玉だ。

 三人とも目をかけてきたつもりだ。誰か手柄を立てようとはしないのか。私は彼らの尻を拭ってばかりだ。

 誰もいなくなった事務所で、千代は大きなため息をついた。

 時間が欲しい。この三人を育てる時間が。

「ため息をつくと、妖怪が成長してしまうぜ」

 窓の外にあかい顔が現れて言った。

「ため息は『心の闇』の栄養分だからね!」

「は? ……何だ?」

 千代は思わず後ずさる。朱い顔。吊り上がった眉。長い鼻に金の目。逆立った髭。

 天狗だ。……天狗?

「ここはビルの五階だよ!」

「天狗の『飛翔』」

 その小天狗は胡坐を組み、尻の下で葉団扇を煽いで飛んでいた。膝の上には太った虎猫が乗っていて、大あくびをしている。

「な、……なんだい……天狗だって?」

「あなた、妖怪に取り憑かれていますよ」

「なんの話だよ!」

「その妖怪の名は、『不老不死』」


    2


「まさか窓から天狗が入ってくるとは。……長生きはするもんだ」

 千代は見せられた鏡で、しげしげと自分の肩の上の妖怪を眺めて、感心するやら落胆するやらであった。

「私は妖怪に取り憑かれちまってるとは」

「そう!」

 天狗の面を外し、ひと通り妖怪「心の闇」について説明し終えたシンイチは言った。

 いくつもの顔がくっついたような肉達磨。紫を中心とした毒々しい肌の色。そして大型の獣のような匂い。足のようなものがそこから伸びていて、黒薔薇の刺繍の下に潜り、体内──心臓に達している。

「私は時間が欲しい。そう急き立てられるような焦燥感があるのは、この妖怪の所為だっていうんだね?」

「そう」

「いつから?」

「それを聞きたいんだ。最初に不老不死を願った、小さな『芽』がある筈なんだよ。それが徐々に大きくなって、いつからか消えないわだかまりとなり、ループに成長し、その考え方から脱出できなくなった。妖怪『心の闇』はそれを好物にするんだ。取り憑いて、闇を吸い、しかもその闇をどんどん増幅する」

「大きくなってくのかい」

 シンイチはうなづいた。

「そして宿主が死ぬまで吸って、破裂する」

「中から子供がうじゃうじゃと湧いて来るのじゃよ。虫のようにの」

 鹿の剥製をしげしげと見ていたネムカケが付け加えた。山に跳ぶ鹿は、山鹿組のシンボルである。

「寄生虫だな」

 千代は苦々しく言った。

「あるいは癌か」

「たしかに。『心の闇』は、心の癌かも知れないね」

「で?」

「『不老不死』を願わなくなれば、妖怪は外れる」

「……どういうことだい?」

「それが正直難問なんだ。妖怪『不老不死』はオレが今まで解決してきたケースで、最高の難易度だよ! 妖怪『あとまわし』は何もかもあとまわしにするまで待てば、することがなくなって終了、妖怪『なかまはずれ』は仲間外れの仲間外れ……を繰り返したら、仲間がいなくなって一人になって終了。でも『不老不死』を求める心は、どうやったら晴れるのか、やり方が分らないんだよ」

 シンイチは同様に妖怪「不老不死」に取り憑かれた、小林(現在継続中)と、萬(解決済み)の話をした。

「萬俊介……って、あの『紅き貴公子』?」

「そう。やっぱ有名人なんだね! 『悪魔と眠る歌』を弾く為に、時間が欲しいと思って『不老不死』に取り憑かれた」

「どうやって退治したんだい?」

「『悪魔と眠る歌』を弾き切って、目標を達成できたからね。『憑き物が落ちた』のさ」

「……成程」

「でも『人工知能裁判』の小林さんは、そもそも彼が永遠の命を求めている所から、妖怪に取り憑かれてるし」

「それはまだ退治できていないと」

「見る?」

 シンイチは腰のひょうたんから金色の遠眼鏡「千里眼」を取り出し、東京の方向に向けた。部屋にいる小林の妖怪「不老不死」は、裁判の停滞にイライラしているのか、それともネットで自分の記事を見た不安か、成長を始めているように見えた。

「人工知能で、私と同様、不老不死を強く願っている……」

 千代は納得した。

「『時間がない』って思うことが、萬さんと千代さんの共通点だ。小林さんの不老不死を倒すヒントになるかも、と思ってここまで来たんだ!」

「ヒマラヤから東京に帰る時に、ふいと九州を見たら、居ての」

 ネムカケが空を飛ぶ真似をし、下を見て発見したゼスチャーをした。

「……で。千代さんの『時間が欲しい』ってのは、生きたいってことじゃなくて、次の代の後継者が育って欲しい、って意味だよね?」

「そうだね」

「じゃ次の後継者が決まれば、死んでもいい?」

「これ、何ちゅうこと聞くんじゃ」

 ネムカケはシンイチをたしなめた。

「ははは。はっきりしてんのはいいことだよ」

 千代は笑った。こういうまっすぐな男は好きだ。

「返事はイエスだ。先代に引けを取らない、山鹿組を背負って立つ次の代が出てくれば、私はどうなっても構わないよ」

 神棚に飾られた、先代十七代目の写真を千代は見た。ずいぶん古ぼけていた。しかしそこに写るのは、若く凛々しい男の写真だ。この世の全てを喰らい尽くそうとする、ぎらぎらした覇気が写っていた。その年に死んだのだろうか。やくざの組長というよりは、暴走族のリーダーくらいにシンイチには見えた。

「そうすれば、私はようやくこの人の元へ逝ける」

 その表情に、ただならぬ思いをシンイチは感じた。ただならぬ思いは、心の拘りとなることがある。

「恋人だったの?」

「夫、といいたい所だけど、式が間に合わなくて、籍を入れる前に死なれちまったよ。未亡人になり損ねた。ずっとそれからこの組を守ってきたんだ。……もう孫くらいの歳になっちまったかねえ」

「萬さんはね、人の弱さに向き合ったとき、妖怪が心から落ちたんだよ」

「どういうこと? 望みを叶えたから、不老不死はどうでもよくなったってんだろ?」

「うん。でも事は単純じゃない。永遠に残る芸術とは、人の心の弱さを認める芸術だったって」

「?」

「オラー、ドーン!ってやればいいってことじゃないんだ。人は人の心の弱さを知る必要がある。『心の闇』退治ってのは、自分の弱さを見つめることかも知れない」

「子供の癖に深いことを言うね」

「シンイチはこれまで、色んな闘いを経てきておるのじゃ」

 ネムカケが感慨深く言った。

「でもさ、やくざの組長が弱いわけないよね!」

 小林の心は、弱いのだろうか。一見完璧な貴公子に見えた萬俊介も、心の奥に嘘を抱えていた。この最強の女組長が、どんな闇を抱えているというのか。


 二時間後、事態は急転する。

 カルロスが病院から消えた。

 山鹿組のバッジを、置き去りにして。


    3


「一体どういうことだい!」

 千代は組の者たちを叱責する。木村は怯えながらいう。

「すいません組長。ちょっと目を離した隙に……」

「謝罪はどうでもいい。武器はなくなっていないだろうね?」

「銃と、弾と、手榴弾が一つ」

「馬鹿野郎!」

 天狗のかくれみので話を聞いたシンイチは、一本高下駄で天空高く飛び上がった。

「どこにいると思う? カルロス!」

「おおかた復讐じゃろ。峡谷会に殴り込みじゃろな。今はまだ潜伏して機を伺うか……」

「とりあえずどっかに登って、『千里眼』で探さなきゃ!」

 周りを見渡すと、八幡製鉄の製鉄塔が炎を噴き出していた。

「あれか! ちょっと熱そうだけど!」

 シンイチは腰のひょうたんから金色の遠眼鏡「千里眼」を出し、火を吹く製鉄塔の鉄骨に座り、カルロスを探した。

「ちくしょう! 初めての街じゃどこが峡谷会かも分かんないよ! あとやっぱアチい!」

 一方山鹿組事務所では、滝本が怯えながら言い訳を考えていた。

「しかし組長、カルロスはバッジを置いていったんですよ?」

「それがどうした?」

「カルロスは組の名前で行動しない、という宣言に思えます」

「立派な男じゃあないか」

「つまり、山鹿組は関係がない。自己責任です」

「馬鹿野郎!」

 千代は滝本の頬をはたいた。

「たとえカルロスが我々を見限っても、我々はカルロスを見限りゃしねえよ!」

「……」

「カルロスを一人にさせちゃいけねえ! カルロスを一人で死なせるな! いいか、任侠ってのは、誰も一人にさせちゃなんねえんだ!」

 どん。

 爆発音に、皆が振り返った。


「爆発だ!」

 シンイチは天狗の面を被り、一本高下駄で煙の上がった方向に跳ぶ。

 繁華街の雑居ビル、一階から白煙が上がる。迷路のように奥まったその先。峡谷会の事務所である。

 片手運転の原付で逃げる男。追う車。

「カルロスだ!」

 車から身を乗り出した峡谷会の面々が、次々に銃を構えた。

「天狗(かぜ)!」

 シンイチは腰のひょうたんから天狗の葉団扇を出し、ひと煽ぎした。

 天狗の得物として最も有名なのは、葉団扇であろう。ひとつ煽げば風が吹き、ふたつ煽げば石つぶて、みっつ煽げば火が燃えるという。山の中では、梢も揺れずに予告なく突風が吹くことがある。これを天狗風といい、天狗が葉団扇で起こすという。自然の起こす風は徐々に起こるが、天狗の起こす風は予兆なく最大に吹く。

 その天狗風は追手の四発の銃弾を曲げ、カルロスの背中から辛くも逸らした。ラーメン屋、宝石商、靴屋、革ジャン屋のショウウィンドウが砕け散った。

 もう一台、追手の車が現れた。カルロスはバックミラーでそれを知り、アクセルを吹かす。大通りを信号無視で突っ切り、一台はトラックと衝突してスピンした。

「ムチャすんなよ!」

 シンイチは葉団扇をふた煽ぎし、石つぶてでもう一台の車の下に砂利を敷き、スピンさせて止めた。

 その刹那、片手運転の原付は歩道に乗り上げ横転、投げ出されたカルロスは後続の車に跳ねられた。

 不動金縛りの術は間に合わなかった。シンイチは早九字はやくじの刀印訣を四縦五横しじゅうごおうの六字まで切っていたが、展開の速さには及ばなかった。

 カルロスは頭を打ち、動かなかった。


「暴力団同士の抗争のニュースです。山鹿組の若頭三番手、カルロス・デ・モラエスが銃撃戦と街中のカーチェイスの果てに死亡、また峡谷会の構成員、合田(ゆずる)、金城(りょう)が手榴弾で死亡。多数の重傷者を出す大立ち回りとなりました。両会は抗争に入ると見て、県警は警戒を強めています。今回の犯行に使われた炸薬式の手榴弾は……」

 テレビのニュースが今回の顛末をまとめていた。

「馬鹿野郎。『デ』はリオ訛りじゃ『ヂ』と発音するんだよ。勉強不足め」

 事務所の机の上には、ありったけの銃火器や、日本刀や、ロケットランチャーが並べられていた。こちらから仕掛けるつもりはない。しかし死んだ数は向こうが倍だ。峡谷会は報復に来るだろう。カルロスが仕掛けたことだ。向こうには復讐の御旗がある。

 ややこしいことになってしまった。山鹿組の後継者どころではなく、ましてや妖怪のことを考えてもいられなくなった。千代はテレビを消し、皆に言った。

「私は山鹿組の後継者に、三人の候補者を考えていた」

 組員たちは静かに組長の言葉を聞いた。

「滝本、木村、そしてカルロスだ」

 滝本と木村は目を伏せたままだった。

「三人とも孤児だった。親が死んだか生きてるかは分らない。滝本と木村は、別々の孤児院で引き取った。カルロスは博多でチンピラをやっていて、拾った。三人は捨て犬だった。三人が三人とも、捨て犬の目をしていた」

 千代は強いウィスキーをあおった。少し自分をいじめたいらしい。

「家族のいない者たちに、私はここを家族だと思って欲しくて接してきたつもりだった。そのやり方は、間違っていたのだろうか? 私は女だ。だから母親のように接したのかも知れない。私には子供がいないから、子供の育て方は分らない。だが私は母親としては、少々息子たちを甘やかしすぎたのかも知れない」

 千代は窓際のサボテンを見た。その隣には、いくつもの鉢植の植物が、色とりどりの花を咲かせている。

「カルロスは私の代わりに水やりを良くしてくれていた。こんなに花が咲くまで、丹念にだ。昔私は死んだ先代に、鉢植えをプレゼントしたことがあってね。サボテンなら枯れないだろうと思ってサボテンにしたのさ。ところが先代はあっさり枯らしちまった。『水をやらないと死ぬとは思わなかった』っていうのさ。『男なら、与えられるまで待ってないで自分で取りに行くだろ』ってね。植物にそんなことが出来るわけないのにさ。……男ってのは、そんな生き物なのかも知れない。花に水やり出来るような輩は、男じゃないかも知れないね」

「つまりそれは……、日常が終わって、戦争に入るってことですか」

 木村は恐る恐る尋ねた。

「そうだね。母の乳を吸ってる時間は終わったってことだね」

 黒薔薇のコートを翻し、千代は組員に告げた。

「いいかい。こちらからは仕掛けるな。正当防衛は構わんが、峡谷会の挑発に乗ってはいけない。今戦争したら向こうが物量で勝つのは明白だ。つまり私の言いたいことは、『このまま大人しく水やりをしてろ』ってことだ」

「そ、それでいいんですか!」

 跳ねっ返りの木村が反発した。

「カルロスの弔い合戦でしょう!」

「男はすぐそうやって山の鹿みたいに跳ねっ返って、そのまま帰って来ねえんだ」

 千代は先代の写真を見た。

「山鹿組が全滅する訳にはいかない。これは生存戦略である。こちらから手を出すな。バッジを捨てても、私は捨てない。山鹿の一員と見做すからね」

 ウィスキーを飲み切り、黒薔薇は本音を吐いた。

「私は悲しいんだ。……喪に服せ」


    4


「少し、妖怪は大きくなったかね」

 その夜、皆の帰ったあとの事務所で、サボテンのある窓を見つめながら千代は言った。その窓には、疲れ切った「黒薔薇」の顔と、その肩の上の妖怪「不老不死」が映っていた。

「……ごめんなさい。カルロスさんを助けられなかった」

 シンイチは謝った。不動金縛りの術は、臨、兵、闘、者、皆、陣、烈、在、前の九字の印(それぞれ、獨古印どっこいん大金剛輪だいこんごうりん印、外獅子げじし印、内獅子ないじし印、外縛げばく印、内縛ないばく印、智拳ちけん印、日輪にちりん印、隠形おんぎょう印)を詠唱に必要とする。印を結ばず、刀印とういんだけで行う早九字はやくじもあるが、それでもカーチェイスのスピードには間に合わなかった。

「お前さんが気に病むことはないよ。スーパーヒーローじゃあるまいし。あんたの仕事は天狗としての妖怪退治だろ?」

「そりゃそうだけど……」

「やくざがやくざと抗争して死んだ。それだけさ。妖怪退治とは関係ない」

「でも元を糺せば、千代さんが妖怪『不老不死』に取り憑かれて、後継者を育てきれなかったことが」

「元を糺しすぎにも程がある」

「……すいません」

「謝んなくていいって言ったろ」

「……はい」

 ネムカケが口を開いた。

「シンイチはな、昔目の前で人に死なれたことがあっての」

 黒薔薇は妖怪から化け猫へと視線を移す。

「その人も巨大な『心の闇』に取り憑かれておってのう。その時のシンイチにはどうしようもなかった。ただの妖怪が見える子供でしかなく、天狗に弟子入りする前じゃったからの。妖怪『弱気』に操られ、目の前で飛び降り自殺するその人を、止められなかった。妖怪のせいだと分かっておったのに」

「……そうだったのかい」

 千代はシンイチと同じ目線にしゃがみ、彼を抱きしめた。

「そいつは辛かったろうに」

 シンイチは、それを克服したつもりだった。だが目の前で人が死なれると、そのことを思い出さずにはいられなくなる。克服など先の話だ。いや、克服して、忘れてしまってはいけないことだとも考えている。

「……できれば、悲劇は失くしたいんだ」

 シンイチは静かに言った。千代は立ち上がって言う。

「仮にカルロスの命がそこで助かったとしよう。しかしまた死神に取り憑かれたように危ない橋を渡った筈だよ。それがカルロスって男であり、やくざの宿命だ。しょうがないんだ。私みたいに長生きしてんのがおかしいんだ。やくざは長生きしない。歳取ったやくざは、命を何にも使わなかったってことだ。カルロスは自分の意地を張るのに命を使った。名誉の為だ。それは立派なことだ。私はどうだい? こんな歳まで死や危険を怖がって、『不老不死』を願っているんだろ? ……さっきだって山鹿組を残すことばかり考えていた。先代なら『戦争だ馬鹿野郎』って血が沸騰してたかも知れないのに」

 写真の中の若き先代、山鹿(ひろし)は、「すぐに爆発するぞ」を一枚の写真に収めたような顔をしている。リスクを避け、なるべく長く存続しようとする心の闇「不老不死」の目とは、対極的な目だった。

「私ゃあね、もともとやくざなんかじゃなかったのさ」

 千代は意外なことを言った。

「えっ! そうなの?」

「山鹿大という男に惚れちまっただけの、ただのOLだったのさ。でも惚れちまったらしょうがない。命がけでついていくのが女ってもんだろ」

 若き頃の「火の男」、山鹿大はまだ山鹿組の若頭であった。しかし当時の組長、父親のたけしのやり方に反対であった。なぜなら山鹿組は薬を仲買し、市中に流していたからだ。

「『薬は人を駄目にこそすれ、良くしない』が口癖だったよ。まるで正義の味方だ」

「えっ、やくざって悪じゃないの?」

「やくざには二種類いる。悪いのをやくざといい、良いのを任侠という。もっともそんなの、今じゃ殆どいなくなっちまったがね」

「いいやくざなんて言語矛盾じゃん」

「まあお聞き。法律のない時代を考えな。原始時代だ。弱肉強食の世の中、強い者が勝ち、弱い者は死ぬ。そういう世界。縄文時代からずっと続いて、昭和の戦後くらいまではそうだったんだ。なんでもありのそういう世界で、勝つのは誰だと思う?」

「え、一番強い奴でしょ?」

「違うんだな。『一番ずるい奴』さ。人間は人間を騙す事が出来る。正面から喧嘩するより寝首を掻く方が殺せる。だから一番ずるい奴が生き残る。優しくて、正直で、正しい奴はずるい奴に殺される。そんなのはおかしい、ってのが任侠の徒さ」

「そうなの?」

「人々を集めて、何かあった時は協力しようって体勢が、もともとの『組』って意味だろ。世の中には色々ある。柔らかいことから暴力沙汰までね。腕づくで脅してくる輩に舐められないように、我々も強い必要がある。ずるい奴から、やさしくて正しい奴らを守る為にね」

「カッケー! それってヒーローそのものじゃん!」

「でも先々代はヤクを街に流した。それは任侠の徒じゃない。やくざでしかないと、先代の大は父親に啖呵を切った」

「へえ」

「『魔王』と」

「魔王?」

「そうさね。俺は魔王を倒す勇者になる、と宣言して、父のシマの薬の売人を次々締めあげていったのさ。父親の方は面白くない。それで父子の全面戦争さ。私はその頃ただの銀行員で、炎の出ている彼に出会い、一発で惚れちまったのさ」

「姫は魔王にさらわれたの?」

「ははは。そんな劇的なことはなく、戦争の結果、勇者は魔王を倒し、無事ここの王となったんだけどね」

「そうなんだ」

「でも病気でコロッと死んじまってねえ。三発腹に銃弾喰らっても生き残って来た勇者が」

 千代は黒いコートを翻しながら、山鹿大を演じた。三発腹に喰らい、それでもドスを振り降ろした。

「で、私が跡を継いで現在に至る。しかし未だ『勇者』に相応しい後継者は現れてくれないって顛末さ。……三人の王子はいた。しかし誰もが小粒で、『勇者』には足りなかった。誰もがじっとしていたら、三人目は死んじまったというわけさ」

「そっか……」

 千代は再び窓に映った、己の「不老不死」を見た。

「彼らに、成長の時間が欲しい」

 妖怪「不老不死」は、その言葉で少し大きくなったように思えた。

「今の『魔王』って峡谷会なんじゃないの?」

「ん?」

「魔王を倒すから勇者なんでしょ?」

「峡谷会なんざ倒す価値もない雑魚キャラだよ。四天王の中でも最弱……」

 千代は言いかけて、言葉を止めた。

「どうしたの?」

「……いや、分ったよ」

「何が?」

「分った。お前さんのおかげだ」

「何が?」

「あとで話す」

 千代は急いで電話を始めた。峡谷会の会長、鷲尾わしおにだった。


    5


 木村は荒れた。

 おれたちは「山鹿の三銃士」とかつて呼ばれた。切れ者の参謀、長男滝本、頭は弱いが愛嬌のある三男カルロス。そのどちらとも仲が良く、二人をつなぐ接着剤のようであった次男木村。年齢の違う三人は、偉大なる母(ビッグマザー)「黒薔薇」の下ですこやかに育ってきた筈だ。

「なぜ死んだ! カルロス! なぜ!」

 木村は荒れに荒れた。

 カルロスに女を紹介したのはそもそも木村だった。弟が寂しいというから、つてを辿ったのだ。まさか峡谷会に汚染されるとは予定外だった。木村は兄者として責任を感じた。

 カルロスはバッジを置いていったという。「俺は山鹿の看板を借りる小さい男ではない」という遺志を、たしかに木村は受け取った。しかし滝本(ニイ)は自己責任だと冷たく言い放った。アンタおかしいよ。俺たちに迷惑かけないあいつの配慮に、そんなこというのかい。

 やくざは舐められたら終わりだ。弔い合戦の用意をしなければならない。しかし今の山鹿組の勢力では、本気になった峡谷会に簡単に潰されてしまうだろう。

 だが木村には持ち前のつてがあった。兄者と弟をつなぐ接着剤のように、木村には天性の人たらしの才があった。顔の広さでは北九州のやくざで一かも知れない。

 木村は、山鹿組よりは規模が劣るが、同じ老舗の灰谷はいたに組と組もうとしていた。「任侠時代からの付き合いじゃねえか、ここらで組んで古参の意地を見せましょうや」と灰谷組の野澤のざわを、いきつけのバニーガールキャバレー「パラダイス宮殿」に呼び出した。


「はい?」

 だが野澤の出してきた要求は、木村の想定外のものであった。

「薬のビジネスを一緒にやることが条件、てどういうことですかい?」

 野澤はテキーラをあおって言う。

「お互い、今の時代に対応しようという事よ。先代の教えを忠実に守ってる場合じゃねえだろうってことさ」

 木村は反発する。

「先代の教えを守ってるわけじゃねえですよ。それじゃただのお題目じゃないですか。俺はオレの意志として、人を駄目にするものには手を出さねえんです」

「じゃあ話は決裂だな」

 野澤は駆け引きを迫った。

「山鹿組は孤立する。灰谷組だって生き残りに必死だ。峡谷会だってそうさ。みんな必死だろ。シマの取り合いなんて所詮生き残りの戦争だ。サバイバル・フォー・フィッテスト。アンタんとこのシマは、美味しい領土なんだよ。分ってんのかい?」

「野澤さん、手前の話を、聞いてませんで?」

「聞いてたよ。『交渉の余地はあるか?』と、こっちは譲歩したんだよ。このままじゃ象が蟻を踏みつぶしてお終いになりかねないだろ」

「潰れませんよ」

「じゃあウチらに助けてもらわなくていいんじゃないか?」

「……」

 足下を見やがって。そう言おうとしたがグッと飲みこんだ。

「野澤さん、何でもしますよ。薬以外はね。貸し借りでいうなら、ひとつ貸してくんねえか、って話じゃねえですか」

「今度はそっちが交渉かい。流石にその余地はねえ。ウチの要求は一つだ。飲めねえなら決裂」

 木村は野澤のテキーラを奪い、一気飲みした。

「話は飲めねえですが、テキーラは飲めます。しょうがない、決裂ですけど、もともとケツは割れております! 今日は奢ります。飲みましょう! おーい、テキーラ山盛り持って来い!」

「木村さんのケツ踊りが見れるのね!」

「北九州一下品と誉の、ケツ踊りをいたします!」

 木村が諸手を挙げると、若手のバニーちゃん達が集まってきた。安い赤とピンクと金色の衣装が、薄暗いキャバレーに花を咲かせた。

 テキーラを飲んでからの木村が本当の木村だ。今夜は帰さねえぞと木村は考えた。灰谷組が峡谷会サイドにつかなければ御の字としよう。

「ケツは割れておるのではなく、ひらいているのでありまする!」

 木村は尻を開き、バニーちゃん達に尻の穴を開いて見せた。

「ケツの裂ではござりません、どうぞこいつでおひらきに!」

 開いたままの尻の穴から屁が出る奇怪な風景に、バニーちゃん達は嬌声で卒倒した。



 黒薔薇は、まっさらな黒いコートをおろした。カルロスへの喪服のつもりだった。

 電話の件は、峡谷会への挨拶であった。

 山鹿組総出で行くと、既に決めていた。


    6


 黒焦げた跡が残る峡谷会の本部に、山鹿組の構成員三十五名が詣でた。

 峡谷会会長の鷲尾が出迎える。

「いい事務所じゃろ?」

 鷲尾は黒薔薇に微笑んだ。

「その壁の染みは、金城の内臓の飛び散った跡じゃ。天井の染みは、合田の首がぶつかった跡。その割れたガラスは、お宅の勇者カルロスがヘルメットで叩き割った跡じゃ」

「……元はとえば、うちのカルロスがしでかしたこと。カルロスは自業自得。しかしそちらは二名死んでいる」

「プラマイで、ウチがマイナじゃの」

 鷲尾は、人の目から冷淡なやくざの目になった。

「どう詫びを入れるつもりだ」

 若頭の滝本と木村は、そのひと吠えで子犬のように小さくなってしまった。それを横目で見ながら、黒薔薇は続ける。

「今日は申し入れに参りました。おたくの薬ビジネスに、パートナーとして協力させてもらいたいと」

 思わず木村が声を上げそうになるのを、滝本が抑えた。

 シンイチはかくれみのの中で「ええええええ!」と声を上げたが、かくれみのから声が漏れることはなく、誰も気づかなかった。

「……どういう風の吹き回しだい? 山鹿組らしくもない」

「ウチは、今まで先代の教えで薬はやらなかった。だから峡谷さんとも相容れることがなかったね。これからは違う。ウチのシマにも薬の自由化をしようと思う」

「さ、傘下に下るんですか」

 木村が恐れ多くも言った。

「協力するパートナーになりましょう、とお願いしに来たつもりだよ」

 黒薔薇は再び鷲尾の目を見た。

「大変な決断をなされたな」

 鷲尾は天井を仰いだ。合田の驚いた顔のまま、染みがついていた。「なんでじゃああああ」とでも言っている顔のようだ、と鷲尾は思った。

「覚悟を見せましょう。プラマイのマイナをチャラにしますよ」

 黒薔薇はコートを翻し、立ち上がった。

「滝本、木村、前へ」

 滝本と木村は、何をされるか分らないまま、立たされた。

 黒薔薇は言う。

「今から私は銃を出します。アンタたちには向けないが、万が一に備えて、組員全員に私に銃を向けさせても構わない」

「……何をするつもりだ」

「滝本、裏と表、選びな」

「?……な、なにを言ってるんですか?」

「木村、じゃあお前が選べ」

「……お、表」

「滝本が裏でいいな?」

「は?……は?……」

「いいな」

「……はい」

 黒薔薇はゆっくりと懐に手を入れた。峡谷会の組員全てが銃を彼女に向けた。

「まずはコイン」

 白金プラチナ色のコイン。山鹿組直営カジノの一番高いコインだった。美しく光るそれは一枚一千万相当。一番高いコインを、と千代は餞のつもりで用意した。

 運命を、高い音とともに宙に投げた。

 天井の合田の顔は、それを再び取った千代の手の中に、裏が取られたか表が握られたか見たであろう。黒薔薇は手を開け、コインを改めた。

「表」

 直後、電光石火で懐から拳銃を抜き、撃った。


 木村修治の額を。


 峡谷会が銃で取り囲んでいる中、誰も反応できない早業であった。もっとも、鷲尾が狙われたわけではないから、反応しなかったという言い訳もあとで出来る。

 木村は吹き飛んだ空中にいる間に、人間から死体になり、事務所の固い床にごとりと倒れた。

 誰も何も言えなかった。かくれみのの中のシンイチも反応できなかった。

「指を詰める代わりだ。これでプラマイの貸し借りなしだ」

「……契りの杯を」

 鷲尾だけが、その場で落ち着いて決断した。


    7


 帰りの車の中。

 千代の隣に座らされた、実質の次代筆頭候補──滝本は、一言も発しなかった。

「どうして何も喋らないんだい」

 滝本はずっと下を向いている。

「……どうして、木村を撃ったんですか」

 ようやく絞りだした言葉は、喉のすぐそばでしか響かない。

「表が出たからだよ。裏が出たらお前を撃っていた」

「どうして……どうして、そんなことをしたんですか。木村は、……木村は、兄弟だった。同じ孤児で、親は違うけど、いや、どっちも親の顔なんて知らないけど、兄弟みたいに育ったんだ。いや、親は組長、あなただと思っていた。木村もだ。カルロスもそう思っていたと思う」

 砂漠で遭難した男も、もう少し大きな声を出すだろう。滝本の喉は極限状態だ。

「だからさ」

 黒薔薇は冷たく言い放つ。

「だから……撃った?」

「そうさ。お前らが孤児院兄弟ごっこを止めないからさ。私の欲しいのは後継者さ。兄弟ごっこは、いらない」

「……私は、今日まであなたを尊敬していました。しかし今日の件で、親ではないと思えてきました」

「ほう。言うね」

「言わせてください」

 千代に目を合わせなかった滝本が、初めて千代の目を見た。

「私は先代の山鹿組の方針が好きでした。現代の、真の任侠だと思っていました。しかしもう違う。山鹿組は、山鹿組でなくなってしまった。薬は人を滅ぼす、そう先代は言っていた。なのにどうしてそれを覆すんですか。山鹿組は、北九州を滅ぼすつもりですか」

「……で?」

「で、って、……俺は、俺は、賛成できない。だから、だから……抜けます。ここはもう、山鹿組じゃない」

「抜ける? そんなこと、やくざの仁義として、許される筈ないだろう。やくざは一生やくざだ」

「俺はやくざじゃない。任侠だ。もうここは山鹿組じゃない。俺が、俺が本当の山鹿組をつくる!」

 滝本は懐から銃を出し、千代の額につけた。

 運転手はブレーキを踏もうとし、千代は片手で制した。

 千代は左眉だけを吊り上げ、言った。

「何様のつもりだ」

「最後通告です。薬を止めてください」

「断る」

「……俺が山鹿だ! ここに居る理由は、ない!」

 滝本はドアを開け、転がり落ちた。風圧がドアを閉め、滝本の黒いスーツは何度も回転して白く汚れていく。バックミラーに滝本が映った。額から血を流し、割れた眼鏡の奥に、初めて獣の目を見せた。

 若獅子。その目だと千代は思った。

「ふっ」

 千代は小さく息を吐き、それから大声で笑った。

「あははははははは」

 聞いたことのない音量の笑い声だった。こんな小柄の老婆の、どこにそんな力があるのかと思うほどの音量であった。

「あはははははは。あははははははは」

 ひとしきり笑い終えると、千代は窓にもたれて言った。

「もういいよ。出てきても」

 助手席に座ったシンイチとネムカケは、かくれみのを脱いだ。

 手は不動金縛りの、最後の一字の印で止まっていた。

「こんなにも早く狙い通りになるなんて思っていなかったよ。事務所に帰って、何日かして、それから改めてかなと予測していた」

「……一体どういうことなの?」とシンイチは尋ねる。

「私は所詮女親だったんだ。彼らを護ることしか考えていなかったよ。彼らに足りないのは、男親だったのさ。千尋の谷に突き落とすような、厳しい父親が」

「それって……」

「勇者の誕生に必要なのは、魔王だったのさ」

「あ」

「私は今日から魔王だ。倒しに来い勇者。継げ山鹿大を。永遠の時間など必要ない。魔王は、倒されるまで生きられればそれで良い」

 黒薔薇は芝居がかった魔王の表情をした。

「シンイチ。心の闇ってのは、人の心の弱さだと言ったね?」

「うん」

「私はちっぽけな、弱い女だよ。『黒薔薇』なんて恐れられてるけどね、ほんとは怖くて怖くてしょうがない。ずっと、滝本と木村とカルロスと、三人で仲良くやっていけたらと、そう思ってたんだ。庭で花育ててんじゃない。私は男を育てなきゃいけなかったってのに、怖くて怖くてしょうがなかったのさ」

「……何が?」

「時計を進めることが」

 その瞬間、妖怪「不老不死」は千代の肩からぬるりと滑り、遊離した。


 シンイチは不動金縛りの結印、「前」の字を切った。

「不動金縛りの術!」

 走行する車内の時が止まった。運転手も、千代も、バックミラーに映る遥か遠くの滝本も、周囲に走る車たちもぴたりと時を止めた。ただひとつ、妖怪「不老不死」の蠢きを残して。シンイチはドアを開けた。妖怪は外に出る。広い所に逃げたくなる本能を利用した。天狗の面を被り、朱鞘から黒い刃、小鴉を抜く。

「火よ、在れ!」

 これは全ての闇を照らし、全ての闇を焼き尽くす正義の炎である。紅蓮の炎は紅蓮の仮面を照らし出し、同じく妖怪「不老不死」を照らし出す。

 シンイチは葉団扇をひと煽ぎし、妖怪の足元を掬った。

 ひとつ煽げば天狗風。ふたつ煽げば石つぶて。みっつ煽げば火が燃える。足元の業火に、「不老不死」は身動きが取れなくなった。

「丹波千代の心の闇、『不老不死』。拠り所なき妖怪よ。心の闇よ、晴れよ!」

 天狗は火の粉に飛び込む。

「一刀両断! ドントハレ!」

 水平一直線に横薙ぎし、小鴉の炎は水平に走る。

 黒薔薇改め「魔王」、丹波千代の心の闇は、上下に真っ二つとなった。

 紅蓮の炎は妖怪を焼き尽くし、炎が去ったあとは清めの塩がばらばらと散った。



「天狗は風の力が有名だけど、一番の力は火なんだ」

 事務所に戻ったシンイチは、「魔王」に説明した。

「日本一の大天狗、愛宕栄術太郎坊あたごえいじゅつたろうぼうは、かつて平安の都の大半を焼き尽くす大火事を起こした」

「『太郎焼亡(じょうもう)』と呼ばれる、安元あんげん三年(一一七七)のことじゃ」

 ネムカケが補足する。

「だから太郎坊を祀る京都愛宕山の愛宕神社のお札は『火之要慎ひのようじん』。京都中の竈に貼ってある。火を起こす者は、『せ』も出来るからね」

 シンイチは天狗の火の舞を踏んだ。

「静岡の秋葉山あきばさんに棲む秋葉三尺坊あきばさんじゃくぼうは火防神として、江戸から大量にお参りが来たって。それを江戸に勧請したのが秋葉の原。今の秋葉原」

 日本三大火祭りといえば、道祖神どうそしん祭り、鞍馬くらまの火祭り、那智なちの火祭りである。それぞれ長野県野沢(のざわ)温泉郷、京都府鞍馬山由岐(ゆき)神社、和歌山県熊野(くまの)那智大社の祭りだ。これらの共通項は火と修験道である。野沢温泉郷のすぐ傍には信濃三大霊場のひとつ小菅こすげ神社があり、鞍馬山、熊野那智も修験の霊場だ。神仏分離令により、修験の行事が大社の権宮司に委ねられるようになった現在でも、熊野の権宮司はこのときだけ特別に八咫烏やたがらす帽を被り、火の操作を演じるという。修験者たちは験力げんりきを競い、火を伏せる火渡りをする。そして彼らの神は不動明王と天狗──火の神だ。

「闇は火に照らされ、火に焼かれる。心の闇が人の心の弱さだとすると、千代さんはそれを認めることで火に照らせたのかも知れない」

 千代は話を聞きながら、車内から見た天狗の火を思い出していた。

 黒い刃から次々に噴き出してくる炎。それが照らした、己自身の心の闇。

 あんなもんか。チンケなものだ。しかしそれがずっと自分自身を苦しめていたのか。

「闇は燃え尽きると、真っ白になるんだねえ」

 木村を撃った手を、千代はじっと見ていた。

 シンイチは目の前で人が死ぬのに慣れていない。そのことを千代は思い出した。

「シンイチのお陰だよ」

 千代は柔らかく言った。

「アンタが『魔王を倒すから勇者』って言わなきゃ、私が魔王になるなんて発想はなかった。山鹿大は、倒すべき父がいたからこそ勇者になれたんだって、理解出来たよ」

「魔王っていうより、『炎のババア』って感じだったけど」

「炎のババアか。悪くない。『黒薔薇』より振り切ってていいね」


 銃声が響き、ガラス窓が割れた。


 窓際のサボテンが撃ち抜かれていた。その穴から外の風景が覗く。向かいのビルに、走り去る滝本の背中がちらりと見えた。

「『男はサボテンを枯らすべき』って話、覚えてやがったな?」

 千代は鼻を鳴らした。

「時間はないぞ。どんどん成長しないと北九州が潰滅だ。仲間を増やせ。同志を集めろ。そして私を倒しに来て、山鹿の名を簒奪せよ」


 「黒薔薇」改め「魔王」改め「炎のババア」は、割れた窓を震えさせ豪快に笑った。


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