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てんぐ探偵  作者: 大岡俊彦
特別長編「不死の谷」
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特別長編「不死の谷」第二章 雪山のピアニスト

第二章 「雪山のピアニスト」



    1


 私はピアニストである。


 美は無限だが、音楽は無限ではない。作曲芸術家にとっては無限かも知れないが、私は演奏家である。演奏家にとって音楽は有限だ。譜面が有限個であり、現存する全ての音符は有限個である。人の命には限りがある。私の命の限りの中で、私は有限個の譜面を弾き、有限個の音符をこの虚空に響かせることを使命とする。それが私の喜びだ。

 音楽には、必ず初めの音と最後の音がある。すべては有限個の音符で構成される。それはまるで命のようだ。人は生まれ、人は死ぬ。曲は最初の音符で生まれ、最後の音符で死ぬ。途中で響く調べは、人生だ。それが取るに足らない惨めな犬死にならば、後世には残らなかった。だがその生と死に意味あるものだからこそ、時を越えた美として今に生き、何度も何度も演奏家によって命を与えられる。有限個の音符の連なり。有限個の曲。美は無限であるが、音楽は有限である。私の命が有限であることと似ていると私は思う。

 ピアノを始めた子供の頃は、曲は無限にあるように思えた。永劫の無限回帰のように練習した。しかしそれはいずれ有限回数でしかないことに私は気づいた。どんな音符であれ、世界中の音符の数は、上限がある。

 だから私は命の限り、有限個の譜面を弾きたいと考えた。どちらが先に尽きるかは、やってみないと分からない。いや、演奏は一回ではない。私は機械ではなく人間で、何度演奏しても全く同じものにはならない。それは輪廻転生に似ている。同じように生き、同じように死ぬが、曲の意味や意義は少しずつ変化する。どれも美しい。同じことを舞台俳優も思っているのかと考えたことがある。彼らも連日同じ台本の人生を生きる。同じ有限の人生に生まれ、生き、死ぬことを繰り返す。それも美であると、彼らは考えているだろうか。虚空に消えていく、その時は確かに存在した美。それが芸術の正体ではないかと私は考えている。

 「世紀の難曲」と呼ばれる譜面が、この世に存在する。超絶技巧を要するピアノ曲には、リスト「パガニーニによる超絶技巧曲」の第三番「ラ・カンパネラ」、同四番「マゼッパ」五番「鬼火」がとくに知られる。ヴォロドス編曲によるモーツァルト「トルコ行進曲」、アルカン「鉄道」、ラマニノフ「ピアノ協奏曲第三番の大カデンツァ」あたりもだろう。常人には困難な速度、運指範囲などをもって超絶技巧曲と呼ばれる。しかし私はそれらをことごとく弾き、世界で数人しか出来なかった偉業を成し遂げてきた。

 しかし「悪魔と眠る歌」(訳者によっては「悪魔と寝る為の歌」とも)は別格だ。一八三七年のウィーンで作られた、悲劇の天才スドニール・ベルコノフによる、四楽章からなるピアノソナタである。「歌」といっても歌唱コーラスがある訳ではない。悪魔の声はまるでピアノを弾くようだ、という伝説から名付けられたのだ。だが演奏家にとってこの譜面こそ悪魔だ。およそ人間の弾ける形をしていない。作曲したベルコノフ本人しかこの曲を弾けなかったという逸話があり、二百年にわたって、時代を代表する幾多の演奏家がチャレンジしては挫折した、難曲中の難曲である。

 だがその内容は最も甘美で、最も激しく、最も憂鬱で、最も真実を見る、神の造形する美を真裏から作り上げた美であるという。

 ピアニストは譜面を見れば頭の中で曲を鳴らすことが出来る。何度も何度も何度も、私はこの曲を頭の中で鳴らした。理屈やイメージは分る。しかしそれはここ(﹅﹅)には存在しない。私はその超絶的技巧に挑戦し、自らの技術を宣伝したいのではなく、二百年誰も再現し得なかった、唯一無二の美を見たいのである。

 私の生まれた萬家は、代々ピアニストを輩出する名門であった。幼き頃から鍵盤こそが私の友であり、師であり、父であり母であり、憎しみの相手で、喜びの相手であった。私の世界は八十八の鍵の中にこそあり、私はその全てを支配し、その八十八は私の言葉でもあった。しかし二百年の呪いに、萬家は代々取り憑かれていた。萬家のピアニストは、いつの頃からかこの難曲の再現に取り組んでいたようである。父の代でも、祖父の代でも、その前の代でも、誰も最後まで弾けなかった。それはいつの間にか、一族の悲願となっていた。譜面にしか存在しない美の遺伝子に、この世に受肉させること。それは萬一族の悲願であり、二百年の天才たちが挑んでは挫折した謎であった。

 私はこの悲願を、私の代で終わらせたい。

 しかし私は、命に猶予がない。

 神ならぬ悪魔が微笑んだのか、私の体には悪性の腫瘍ができているという。取り除く手術は不可能ではない。しかし肩の神経にメスを入れることが必要であり、私はピアニストに必要な指の繊細さを失うと診断された。世界中の名医を探しても、結果は同じであった。

 「悪魔と眠る歌」に挑む者には、呪いや災厄が降りかかるという。それは神ならぬ悪魔が与える試練なのだろうか?


 私には時間がない。もし、不老不死であったなら。


    2


 調律師のオッカムが最後のチェックを終えると、いつもの笑顔でうなづいた。

「万事OKです。今の所はね。今後、湿気やら温度やら気圧の変化がどれくらい影響してくるか分りませんが」

「それはそうだ。ピアノは、標高二千メートルの雪山に置かれることは想定されていない」

「ピシッて家鳴りを起こしたりして。ホラー映画のように」

 オッカムの冗談に私は笑えなかった。それは困る。

「それも悪魔の歓迎と思うしかないさ」

 調律を終えた深紅のベーゼンドルファーは、私のファーストタッチを欲しがっている。

「では俊介さん、本当に一人で良いんですね?」

「有難う。迎えは二週間後だな?」

 オッカムとスタッフ達は、表に待機しているヘリに乗りこむ。映像スタッフ達もカメラとマイクを設置し終えたようだ。私は一人、この洞窟に取り残されることになる。

「なにかあったら無線が生きてますから!」

 オッカムは叫んだ。

「あるとしたら、『成功した』しかないだろう」

 私は死と引き換えに、この曲を弾かねばならないのである。

 ヘリのローターが回り、雪煙を上げた。閉じられた窓の中からオッカムが大きく手を振る。彼は私が心配なのか、長年手を入れてきたベーゼンドルファーが心配なのか、それとも悪魔を征服できるかどうかが心配なのか。全てかも知れない。

 爆音を上げてヘリは去ってゆく。音楽家の耳にヘリの音は暴力だ。ff(フォルティシモ)やベートーベンのfffフォルテ・フォルティシモでもあんなデシベルは出ない。


 私──萬俊介は、こうしてヒマラヤ山中の天然の洞窟にて、二週間の山籠もりの生活を始めることとなった。

 世界で三番目に高いカンチェンジュンガの、青白い偉容が眺められた。本格的な冬の前とはいえ、辺りは新雪に埋もれ始めている。夏でも溶けない根雪に混じり、それは永遠の白の一部となってゆくのだろう。

 世界中の登山家に依頼し、これだけの大きさの洞窟が過酷な環境にあるかを尋ねた。グランドピアノを置け、十分な反響が確保できる大きさの洞窟。しかも命の危険があり、免疫力がざわざわと生きる力を取り戻す場所。私は癌で、手術せず、免疫療法を選んだのだと説明すると、皆驚いた顔をした。それでもこの環境で生涯の目標を達成したいのだと彼らを説得し、ついに希望通りの洞窟をヒマラヤ山中に探し当てることが出来た。気温は地上より十二度度下がる。いい塩梅だ。

 ネパールまで愛用のベーゼンドルファーを運び、ヘリで吊ってここまで運んだ。私は、「紅き貴公子」として世に知られている。デビューで深紅に塗られたこのピアノを使ったからである。輪島の朱塗りだ。偶然妻の出身地と同じだった。結婚してからは、彼女の出生地の近くの工房で手入れをしてもらっている。ベーゼンドルファーの金色ゴールドフレームと相まって、派手で華麗な印象だ。私の好む華やかさを、ピアノ自身でも表現する為である。赤いピアノの男として私は世に出、以来、この相棒とともに世界を回ってきた。運搬中の事故に備え、常に予備も運んできた。これはその予備の方だ。ピアノの寿命は三十年とも四十年とも言う。残響板となる木材を総取り換えしなくてはいけなくなる。今日の過酷な空中遊泳で、寿命は更に縮んだかも知れない。だが安心せよ我が友よ、少なくとも二週間保つガソリンエンジン駆動のヒーターで、この洞窟内は温度も湿度も一定に保たれる。洞窟の入り口は特殊なビニール素材でカーテン状態となっていて、明り取りの窓も兼ねる。凍りついてしまった時用に、叩き割る為の斧まで用意した。

 私はピアノと同じ色の、深紅のビロード椅子に座ってみた。天井は高く、岩の反射音が天然の音楽堂ホールを形成している。人類最初の教会はこのような音場だったに違いない。映像スタッフ達が設置したカメラやマイクが、そこかしこからこのピアノを狙う。私の演奏の証拠、正解に至る試行錯誤の記録をする為である。万が一失敗したとしても、何故、どうして、何に失敗したのか記録できれば、後世の研究資料になると私が申し出た。

 食糧も水もある。いや、私は既にヨガで減食していたから、殆ど食糧を必要としない。

 誰も訪れることのない静寂が私を包む。二百年の謎など、千年以上人の訪れぬこの洞窟に比べれば、ちっぽけなものかも知れない。峻厳たる雪山達に似合わぬ、深紅のピアノと音楽堂ホール。まるで空中音楽堂だ。

 さあ、悪魔との取り引きを始めよう。私は第一楽章第一小節の第一音の、黒鍵に手をかけた。

 その時、ピアノの色と同じ、朱い顔の少年が入り口に立っていることに気づいた。

 朱い顔ではない。──天狗? そうだ、日本の……天狗?

「あなた、妖怪に取り憑かれていますよ」

 悪魔ではなく、この場に似つかわしくない「妖怪」なる言葉で、その天狗は私の出鼻を挫いたのだ。


    3


「よく考えたら、ここはネパールと中国とインドの国境辺りだもんな。西洋の悪魔よりも、東洋の天狗の方が似合うか」

 翼の生えたインドの悪鬼、迦楼羅天ガルーダが天狗の原型、というような話をどこかで聞いたことがある。天狗を称える曲はピアノではなく雅楽や和太鼓なのだろうかと、私は音楽的想像をしていた。

「呑気なことを言ってんなあ。もうその『不老不死』は破裂しそうになってんだぜ?」

「ザクロの実のようにか?」

「そうそう。パーンてはじけて、中からうようよと子供が出てきて、街中に散っていくのさ」

「街っていっても、山しかないけど」

 私は外の白い山々を眺めた。

「そっか! でもその時は、萬さんが死ぬときだぜ」

 私はごくりと唾を飲みこんだ。時間がないのは分っている。

 何もかも信じ難い話であった。妖怪「不老不死」だって? 天狗の力だって? 喋る猫に心の闇だと? しかし鏡の中に映る不気味で巨大な顔と、何より私の心からの欲望、「もし不老不死であったなら」が、その全てを受け入れる根拠となった。

「でもさ」

 シンイチと名乗った少年は続ける。出会いのインパクトの為、天狗の仮面をつけているのだと、彼はトリックを明かしてくれた。

「その『悪魔と眠る歌』を弾く為に不老不死が欲しいんだよね?」

「ああ」

「で、それを二週間で弾き切る為に、ここまで来たんだよね?」

「そうだ」

「じゃ、弾き切れば憑き物は心から落ちるよね?」

「……そうだろうな」

「じゃ、弾き切るしかないじゃん! 妖怪退治も何もないじゃん!」

 シンイチ少年は、その場の岩に座り込んだ。

「『心の闇』ってのは、人の心の拘りに出来た癌みたいなもんなのさ! どうしてそういう思いに取り憑かれたのか、それを解きほぐし、そう思わない心のループになるまで、つまり考えを変える以外、『心の闇』から脱出する方法はないんだ」

「成程」

 私も紅いビロード椅子に腰掛けた。

「でも出口は見えてんじゃん! その曲が弾ければ、ドントハレ」

「ドントハレ?」

「これでお仕舞い、天晴れ天晴れ、というような意味じゃな」

 シンイチ少年の膝の上で丸まっていた喋る猫、ネムカケ翁が言う。

「遠野の昔話は、必ずこれで締め括る習慣がある。ハイドントハレ、と語り部が言えば、『めでたしめでたし』の意味じゃな」

「心が晴れる、という意味だから気に入ってる」

 シンイチ少年が付け加えた。

 たしかに、もし私がこの曲を弾き終えることが出来たら、心は晴れるだろう。二百年の謎は解け、萬一族の恨みも晴れるのだ。

「出口は見えた。じゃあとはやるだけだな」

「どんな曲なの?」

「言葉では言えない、美しい曲だ。ウォーミングアップがてら、一四五のテンポで弾いてみよう」

 私は鍵盤に構えた。

「いかんいかん。記録を撮らなければ」

 私はカメラのスイッチを入れにいった。先程天狗少年の乱入によって、録画は中断されたままであった。勿論標高二千メートルに少年と猫が来るのはおかしいから、さっきの録画は削除デリート済みだ。

「失敗も成功も全て録画しておきたい。後進の為だ。……もうちょっと右に座って。カメラに写ってしまう」

「オッケー!」

「一時間はかかると思う。途中で寝ててもいいぞ」

 私は録画のスイッチを入れ、悪魔と眠る為の旅に出た。演奏時間は八十二分五十五秒。


「第一楽章の急、第二楽章の緩はなんとかなりそうだ。問題は第三楽章の急……」

 私は反省点をカメラに向かって報告し、カメラのスイッチを切り、目を丸くしていたシンイチ少年を見た。

「起きたか」

「うん。途中寝ちゃった」

「それは正しい反応だ。『悪魔と眠る』だからな。全ての生き物は眠る。それほどに心地良いということかもな」

「でも途中で起きちゃった」

「……ここか」

 私はミスをした第三楽章の問題の箇所を何回かゆっくりと弾いた。

「そんな感じかな」

「こうミスした」

 ミスの再現もまた大事である。何故そのようなミスが起きるのか、研究に値する。

「多分それかな」

「流れを変えきれなかった」

 私は自分のミスを分析しようとして鍵盤に振り返った。肩から恐ろしい程の獣の匂いが漂い、私は妖怪に取り憑かれていることを思い出した。

「……この肩の妖怪を退治するには、やはり弾き切るしかないのだな?」

「うん。『時間がない』って焦るでしょ。そうするとその妖怪が負の心を栄養にして喜ぶと思うよ! たっぷり時間があるって思わなくちゃね!」

「確かに。……心に余裕がないと、いい演奏も出来ない」

 と、少年のお腹が鳴った。

「ごはん食べないの?」

「ヨガをずっとやっててね。ほとんど食べなくても大丈夫な体になっている。二週間分の食糧はあの程度だ」

「マジで!」

 その梱包パックの小ささに少年は驚いた。

「給食より小せえよ!」

「シンイチ、麓の街ではネパールカレーが美味しいそうじゃ」

「ネムカケいつの間に調べたの!」

「物知りの知恵袋とは、遠野の眠り猫也」

「じゃ萬さん、オレ晩ご飯食べてくる!」

「現金持ってるのか?」

「来るときに岩塩の鉱脈見つけたから、物々交換さ!」

「たくましいな」

 一本高下駄を履いたシンイチ少年は、ひとっ飛びに山を降りて行った。「飛翔」と呼ばれる天狗の力であった。天狗は一歩で四里進むんだって、とシンイチ少年は笑顔で教えてくれた。

 私はテンポを一五五に上げることにする。作曲者ベルコノフの指定は二三六。およそ人間に弾けるものだろうか。そこから見える世界は、美しいのか? ベルコノフは本当に、悪魔と取り引きしたのではないか?


    4


 標高二千メートルの山は、地上よりも夜明けが早い。

 私はテントの中の寝袋で目覚めた。私の紅き相棒(ベーゼンドルファー)は音楽堂の中で完璧な温度と湿度を保たれているが、私は別である。私は過酷なる自然の中で寝起きする必要があり、その為の山籠もりである。

 私に登山経験はないが、この洞窟を見つけてくれた登山家から山のイロハは学んだ。万が一の場合は無線もある。私は私の命を追いこむ為にここに来ているのである。「死にそう」と体に自覚させ、免疫力を高める為に。生きたいだろう、私の体よ。悪魔と眠る為に。

 シンイチ少年はネムカケと共に空調の効いた洞窟でまだ眠っているようである。「山で修行したから慣れてる」と少年は言ったが、そこは子供、暖かい寝床を選んだ。私は外で眠る。いや、むしろ外で眠る為にここに来た。

 低い太陽は夜の蓋を開けてゆく。私の闇もこうして晴れるべきだと考えながら、ルーチンになっているヨガの体操を始める。大自然のプラーナを体に採り入れ、大都会の汚れた空気を肺から出していく。清冽な滝の前にいるような気分になってくる。

 朝の散歩に出かけた。

 雪山の散歩ルートは、事前に確認しておいた。素人でも歩ける所で、しかも命の危険を感じるコース。たっぷり三十分かけて私は付近の尾根を周遊する。

 落ちたら死ぬであろう崖もある。いいぞ。私の体よ、目覚めよ。出来るだけ死に近づき、そして生に反転せよ。


 シンイチ少年が目を覚ましたのは、第一楽章も半ばに入ってからだ。記録カメラに映らない角度はもう心得ていたから、ギリギリまで来て座って、私の悪魔とのたわむれを聴いていた。

 妖怪と悪魔は仲良くすることが出来るのだろうか。ジャンルが違うものなのか、元々同根なものを、国や文化によって名前を変えたのだろうか。どちらも見ることの叶わぬ私には、同じものとも違うものとも感じられた。私の肩の上の妖怪「不老不死」は、命の取り引きを迫る悪魔と、たいして変わらないかも知れない。この悪魔と共に眠る歌。それはいかなるものなのか。

 何度かの試演のあと、シンイチ少年は質問してきた。

「この金の字、なんて書いてあんの?」

 鍵盤の上に鎮座する、金のロゴマークを指さす。

「ベーゼンドルファー。このピアノのメーカーだ。オーストリア、ウィーンの名門だ」

「ドイツ語じゃな」とネムカケが言う。

「ドイツ語かあ」

(オー)の上に点々が二個あるだろ。これはウムラウトといって『エー』と読むのさ。世界三大ピアノといえばスタインウェイ、ベーゼンドルファー、ベヒシュタインだ。日本のヤマハ、カワイを使うプロもいるけど、ヨーロッパのメーカーの方が歴史が長い」

「何が違うの?」

「素直すぎる質問で、逆に答えづらいな」

 少年は何にでも好奇心があるものだ。私はいくつかの音を単音で打った。

「なんかカッコイイ」

「初めて聞いた時、どう思った?」

「あ。最初びっくりしたよ! ピアノってこんなに大きい音が出るだって!」

「体もでかいからな」

「そうそう。この大きさの生き物が、鳴いているみたいだった」

「いい感性をしている」

 私は感心した。子供は時に私たち大人の想像を超えてくる。

「ベーゼンドルファーは低音の響きが良い。ボディが分厚く、増幅する特別な構造をしている。それがゆえに艶があり、甘い『ウィーンの(ウィンナー)トーン』と言われる。私は人の声に一番近いと思う。楽器というより、歌だな」

「そうそう! 笑ったり泣いたり、不満を言ったりビビったりしているみたいだった」

「いい耳をしているな」

 私は低音の重厚さを存分に響かせ、高音へ駆けあがって見せ、またいくつもの切ない和音を響かせても見せた。

「これは歌だ。人の手によって紡がれる、運命の糸なのだ」

「なんでこれにしたの?」

「いい質問だ。萬家は代々ベーゼンドルファーでね。私は最初好きではなかった。機械のように率直なスタインウェイ派だった。しかし『最初の作曲家』リストが愛用したのはベーゼンドルファーで、そもそも『悪魔と眠る歌』はベーゼンドルファーで弾かれていた。この曲の謎を解くのに一番だろう」

「へええ。でさ、ずっと気になっていたんだけど!」

 少年は白と黒の鍵盤を指さした。

「白黒逆じゃん!」

「リストやショパンの時代は、現代と白黒が逆のこうした鍵盤を用いていたそうだよ。白が多いほうが見栄えがよい、と変わっていったそうだが」

「真っ黒のほうが悪魔っぽいよね!」

 シンイチ少年の言葉に私は指先が止まった。「悪魔と眠る」とは今の白鍵、ここでいう黒鍵のことなのか? だとすると第三楽章の解釈が変わってくる。音を立てて楽譜が私の頭の中で組み立て直される。少年は再び素直すぎる質問をした。

「この蓋、何?」

 ピアノの鍵は全部で八十八で、これが私の世界の全てだ。人間の可聴域をピアノは全てカバーしていて、それを十二律音階で分割すると八十八になる。もっとも最高音の三音は、現存する楽譜の中では唯一ラヴェルの「左手の為のピアノコンチェルト」の中にしか見ることが出来ない。これ以上やこれ以下も可聴音の範囲には入っているが、音程としては認識出来ないそうだ。

 八十八の音といったが、ベーゼンドルファーには、実は九十七の鍵が存在する。それがシンイチ少年の指摘した、最も左にある九の低音鍵エクステンドベースだ。普段は鍵に蓋をされ、誤って弾かないようになっている。

「まるで封印されてるみたいだね!」

「そうかも知れない。でもこれは共鳴用で……」

「悪魔の封印だったりして!」

 私を再び子供の発想がハッとさせる。少年の豊かな発想など、私はずっと持っていなかった。どうして私は悪魔のことを、こんなにも考えていなかったのだろう。

「そもそもこの九つの音は、他の音が鳴った時に共鳴する弦を張ってあるんだ。ベーゼンドルファーの重厚な低音は、この増幅された共鳴構造にある。だから打鍵して音を出すものではない、という意味で蓋をしたり、鍵を黒く塗りつぶしてある。しかし封印を解けば、まさか悪魔が復活したり……」

 私は好奇心を抑えられず、 蓋 (エクステンドベース)を開けた。

「……復活しないね」

「いや」

 九つの音を打鍵してみた。長年のピアノ生活で、この音は聞いたこともなかった。

「ふむ」

 この鍵を打鍵することは普通は(﹅﹅﹅)ない。しかし「悪魔と眠る歌」は普通じゃない曲だ。謎に包まれた第三楽章の主要部を、私はその封印された鍵を和音にして打ってみた。

 強い。急に音の存在感が立体的に増した。霞の向こうにしかいなかった悪魔が、すぐ隣に座ったような気がして、私はぞくりとする。

 勿論、楽譜には「封印されし九音」は記載されていない。しかし和音の法則を考えれば、もうひとつ下を意図的に足すことは可能だ。

 私は必死に考えた。三倍速でこの悪魔の九音の出番をイメージする。

「?」

「……駄目だ」

「何が?」

「ここ」

 私は楽譜の一部を指さした。

「こことこことここ、もっとある」

「何かわかんないよ」

「指が足りない。六本ないと弾けない」

「そりゃ無理だ!」

 少年は笑って、すぐに言った。

「でもその人、本当に指が六本あったのかも?」

「まさか。リストはあまりにも超絶技巧ゆえに『指が六本ある』と当時誇張されたが、実際に指が六本あった訳ではなくて……」

 私は言葉を止めた。作者ベルコノフにしか弾けなかった曲。二百年、彼以外に弾けなかった曲の謎。

「多指症だったのか? 本当に」

 多指症の作曲家として、真っ先に浮かぶのはジュゼッペ・タルティーニだ。バロックの十八世紀、ヴェネツィアのヴァイオリニスト。その最も有名な、タルティーニと言えば……

「『悪魔のトリル』か」

 この曲は二重奏法ダブルストップと呼ばれるふたつの倍音を同時に出す多用で有名で、その悪魔的難易度も、左手の指が六本あった多指症であれば合点がいく。しかもその名に「悪魔」が冠されるという符合。

「どうして今まで全く気づかなかったんだ?」

 私は封印された九鍵を、幻の六本目の指で触っている様を想像していた。

 眠り猫ネムカケが、居眠りから覚めて語り始めた。

「多指症は歴史の中では比較的ポピュラーに見られるものじゃ。かの豊臣秀吉も右手に六本の指があったと言われておるぞい。信長に『六ツ目』と呼ばれて可愛がられたと記録に残っておる」

「そうなんだ。じゃ、あるかもね、六本指の演奏!」

 なんということだ。少年の素直な発想が、二百年来の謎の扉を開けようとしている。大人たちは楽譜にとらわれ過ぎていたのか。私は麓に滞在しているオッカム達スタッフに無線を飛ばした。

「東京の妻に、ネット回線で繋げるか」

「繋げますが、そちらへは無線なので、声だけですよ」

「構わん」

 妻も音楽家の端くれだ。この話は理解できる。萬財団の調査力をもってすれば、ベルコノフの墓を暴いてでも、彼の左手が六本指だったかどうか確認することが出来る筈だ。

 その日の午前中は、この仮説に基づいた左手の運指の見直しに費やした。低音を倍増するベーゼンドルファーは、悪魔の咆哮を上げるだろう。ピアノの鍵は、低音ほど左にある。つまり、左手の小指または薬指の運指が、まるで違ってくる。もっとも、ベルコノフは左小指(1番の指)の外に、もう一本、0番の指があったかもしれない。


 昼になり、私は少量の玄米粥を摂る。シンイチ少年は再び縮地の力で麓の村へ昼食に出た。標高二千メートルではお湯も百度まで沸かない。粥になるまで時間が余計にかかる。

 食後のジョグに出た。朝の散歩コースと同じだ。万が一事故になっても困る。ポケットの中のGPSスイッチをオンにし、麓の村に私の現在位置を正確に報せる。コースを大きく外れたら、アラームが鳴る仕組みだ。

 快晴の下、一帯を最高峰カンチェンジュンガが睥睨している。向こうには、氷河が山を削る姿を見ることができる。あの山は「悪魔と眠る歌」がつくられた一八〇〇年代、世界最高峰と考えられていたそうだ。インドのダージリン地方からよく見える為、古くからイギリス経由でよく知られた山だったらしい。

 この絶景はなんと言葉にすればよいのだろう。貧弱な私の言葉では表現できない。いや、私は作家ではなく音楽家であった。音楽で表現すればよいのだ。この景色はすなわち、長三の和音、減五短七の和音、属九の和音だ。

 天狗は山を駆けるというが、悪魔もこの雪山を駆けるのだろうか。六本の指で、これらの悪魔の足音を表現できるか想像してみた。頭の中でテンポを上げてゆく。

 がらり。

 私は浮石をうっかり踏んでしまい、バランスを崩した。

 咄嗟に十指を守る。子供の頃から反射で守る癖がついている。小学生の頃は、お陰で校庭に顔面からダイブしたこともある。しまった。悪魔に気を取られ、私は顔面から崖にダイブした。

 上も下もわからない。視界が、ただ白に染まった。


    5


 夫の無線の第一声は、無事着いたでもなく、私たちへの心配でもなく、謎かけでした。

小夜さよ、ベルコノフは六本指だったと思うか?」と。

 なんということ。夫の説明を聞けば聞くほど、それが確からしく私には思えてきました。拡張低音九鍵エクステンドベースを六番目の指で弾いていたのではないか、という仮説は悪魔という題名にたしかに相応しく思われます。誰もベルコノフが六本指だったなんて想像したことなどなかった筈。夫の思考は東京よりも清冽な空気に晒され、冴え渡っているのかも知れません。

 私は萬俊介の妻です。音大で彼に遭った時、既に彼は「紅き貴公子」で、いつも取り巻きに囲まれていたことを思い出します。初めて話したのは学食でした。カルシウムを補給しようとして、生協の自販機でパック牛乳を買っていたら、彼が突っかかってきたのです。「牛乳のどこがおいしいの?」と。

 彼は牛乳がいかに意味のないものであるか説明しはじめました。日本人は牛乳を消化する遺伝子がほとんどないから、飲んでも無駄なだけだと。

「そんなに苛々してるのは、カルシウムが足りてないからじゃない?」

 私は面倒になってパックをひとつ奢ってやりました。彼はとても驚いた顔をしました。人にほどこしを受けたことのない坊ちゃんだったと、あとで聞いて笑ってしまいました。たった七十円で、彼の人生ががらがらと崩れたらしくて。

 それから何年経ったでしょうか。ようやく子供に恵まれた頃、彼はいつも家に居ませんでした。世界中の人々から、彼の演奏が求められたからです。息子──祥平しょうへいは父にほとんど会ったことがありません。父のCDや映像が英才教育の子守歌。ベーゼンドルファーがオモチャなんて三歳児、世界に百人もいないだろうに。

 萬家の屋敷はとても広く、今はベーゼンごとヒマラヤに出張中で、だから余計に広く見えます。夫は「最後の我儘」と、莫大に稼いだ金を全額私と子に渡し、その中から一億円だけ抜きました。その資金で二週間の山籠もりをすると。癌の手術は受けないと誓ったけれど、悪魔に敗北しても勝利しても、私は手術を受けてくださいと頼みました。世界的ピアニストを、どちらにせよ世界は失う。しかし祥平の父はあなたにしか出来ないし、私の夫はあなたにしか出来ないのだと。

 再び私は夫のいない、がらんとした部屋を見ました。天窓から陽光が降り注いでいます。山の天気は変り易いと言いますが、ヒマラヤは今晴れているのでしょうか。私は財団の者を呼び出し、ベルコノフの指を調べる最短ルートを尋ねました。


 視界が蒼天だ。私の体はおそらく三回から七回くらい回転し、雪の中で止まった。丁度太陽と青が見えたから、私は上向きに止まったのだ。

 体を起こし、何が起こったのかを確認する。ジョグルートからの滑落、およそ二百メートル。新雪と天候が私を救った。私は運がいい。滑落という体験が私の命を活性化するだろう。私は笑いながら新雪を掻き分けた。

 しかし転落の際、左手の手袋が失われていた。左手は今要になる低音部を弾く大事な手だ。右手の手袋を左にはめ替え、私は元のコースに戻るよう急いだ。

 だが新雪が私の足に絡み、思ったように進めなかった。

 雪を下手に掻き分けた右手が、冷たくなってきた。まずい。これでは第一楽章の華麗さに影響がある。

 気づいたら視界がグレーになっていた。いつの間に天気が変わったのか、私には気づけなかった。気流を山頂が切り裂いている、その風下の乱流がここである。どっちに渦を巻くかで、晴れが曇りに、嵐になったりする。

 風が冷たく頬を叩いていく。雪に浸かった私の右手は、感覚を失いつつある。なるべく左手で雪を掻き分け、なんとかして元のコースに戻ろうとする。焦れば焦るほど、雪の中で進んでいるのか後退しているのか、分からなくなってくる。6番、7番、8番、9番、10番の指は生きているのか。もし凍傷にでもなったら。私は恐怖した。右手を見るのが怖い。既に何本かなかったら。私は第一楽章を頭の中で弾いてみる。指が動く。大丈夫だ、まだ指はある。手袋のある左手で、右手の指を確認する。

 朝起きて指がなかったら。そんな恐怖を今でも感じることがある。喉を失ったカナリアはどうなるのか。交通事故で顔をぐちゃぐちゃになった女優は、その後どうやって表現の手段を得るのだろう。私はこの指だけが私なのだ。それ以外私を表現する手段を知らない。言葉は私の指より饒舌ではない。私は私の中にいない。この指の中にいる。今この指を一本でも失ったら。気温が下がる。風は音を増し、私と滑落跡を雪が埋めてゆく。指は体温を吐き出し、雪と同じ温度になってゆく。冷たいのか痛いのか分からない。いや、感覚はもうない。第一楽章は三十二小節で止まってしまっている。白くまみれた、私の手袋の片割れを見つけた。慌てて手を伸ばし、私は足元の新雪を踏み抜いた。

 雪の下に、裂け目(クレバス)があったのだ。奈落に吸い込まれる。助からなかったら。私は恐怖した。

「つらぬく力!」

 シンイチ少年の叫び声がこだまし、「矢印」が私の服を貫き、岩肌にピン留めにした。

 私はクレバスに貼りつけられた昆虫採集の標本のようになった。

「危ない危ない! それヤバい奴だよ!」

 シンイチ少年は私の足元を指さした。私は宙に浮いた状態で、ぶらぶらする足の下を確認する。底が見えなかった。うなり声を上げて風が吹きあがってくるのみだ。悪魔が私の喉を掻き切る用意の音だ。


「つらぬく力は、天狗の神通力のひとつ!」

 お湯に右手の指を浸している私に、シンイチ少年は得意げに説明する。

「つらぬく力とねじる力があってね、つらぬく力は因果をつらぬき、ねじる力は因果をねじるの」

「良く分らんな」

「オレも原理自体は分ってないんだけど!」

 少年は笑う。

「でもさ、最近ねじる力の調子が悪いんだよなあ」

「?」

「因果をねじる、って意味がちょっと分らなくなっちゃってさ」

「私も想像が出来ない」

「天狗は山の木を月に一回数えるんだ。その日はマタギは禁猟日にして、決して山に入らない」

「何故?」

「天狗が目印代りに、二本の木をこよりみたいにねじり合わせるから。その時に山にいると、木と間違えられてねじ殺されるって!」

「本当か」

「マタギに聞いてみ!」

 少年はころころと笑う。

 私は彼に感謝してもしきれない。一人であったなら、そのまま喉を掻き切られ、来年の春に氷漬けの男として、凍土の中から発掘されることになっていただろう。

「しかし指が凍傷にでもなっちゃったら、どうするつもりだったんだよ!」

 シンイチ少年は怒っていた。笑顔から怒りへ。猫のように表情の変わる子だ。

 彼は彼で、悪魔と眠る歌を最後まで聴きたいのだとブーイングする。


「そもそもさ、なんでそんな難しい曲を弾きたいの?」

 シンイチ少年はまたもや素直な質問をぶつけてくる。

「よくいるじゃん! すげえ難しくて速い曲弾いて、ドヤ顔する人! あれ、曲芸師なら分るけど!」

「いい質問だ。私は曲芸師ではない」

「だよね?」

「しかしピアノは誰にでも弾けるものではない。技量というものが深く関わってくる」

「うん。書道にも上手い下手があるよね」

「そうだ。下手な人にはいけない領域というのがあるのだよ。上手い人しか弾けない場所というものが」

「じゃあやっぱ曲芸自慢じゃん」

「早合点してはいけない。その曲の現す美を弾こうとしたら、それだけの技量が必要というだけのことだ。技量が問題なのではない。美が価値あるかどうかが問題だ。技量だけ必要で美しくない曲なら、弾く意味などない。その技量でしか弾けない美があるなら、技量を上げるしかないだろ」

「でもさ、そんなに難しいなら、ロボットにでも弾かせればいいじゃんか」

 私は目を見張った。この少年は賢い。質問は馬鹿かも知れず、無知かも知れない。しかし世の中の真ん中を見ようとしている。

「まさにそうだ。自動機械の方がいまや正確で、人間の方がミスをするかも知れんな。ヤマハの電子ピアノなんか楽譜をダウンロードしたら自動演奏してくれるもんな。しかし、人が弾くから違うのだと私は思っている」

「曲は曲なんじゃない?」

「違うな。……そうだな、宇宙食やカップラーメンみたいな食事と、お母さんの手料理、どっちがいい?」

「時々カップヌードル食べたくなるよね! お母さんに怒られるけど!」

「君はいい母親を持ったな。毎日どっちかしかないなら、どうだ?」

「毎日カップヌードルは死ぬ!」

「『人が人に与える』のは、人生の最も大事なものだと思う。食、芸術、教育。これらは人が人に与えるべきで、自動化してはいけない部分だと私は思う。それは、人が人でいる条件ですらあるべきだと思う」

「人が人に与えることが、人が人でいること?」

「そうだ。CDやネット配信は、そこに行けない人の為の代用品だ。書道のJPEGは代用品だ。本物を生で見ないと何の意味もない。フリーズドライと本物の差は、思った以上にあるものだ」

「カップヌードルより、商店街の『すみ屋』のチャーシューメンの方が美味しいよね!」

「それが人である喜びだと私は思う。人である喜びは、人が人に与えることによってあると思うのだ」

「じゃあさ」

 とシンイチ少年は懐に入ってきた。

「人工知能が弾くピアノは?」

「人工知能」

 シンイチ少年は、現在世間を騒がせている「人工知能裁判」について教えてくれた。人工知能は人か。殺人罪を適用するのは「誰に」か。そしてその小林誠青年が、妖怪「不老不死」に取り憑かれていることも。

「妖怪……不老不死」

 私は自分の肩の荷を、再び思い出した。私は悪魔と闘うことが、この妖怪と闘うことだと思っている。しかし小林という青年は? どうしたら「不老不死を願う心」から脱出できるのか?


「実は近代になって、『人間には弾けない曲をわざと作曲する』という流れが音楽史にあったんだ」

 私は鍵盤の蓋を開け、マルク=アンドレ・アムランの「サーカス・ギャロップ──自動演奏ピアノのための」の触りを弾きはじめた。軽快な馬レースを想起させる序盤が心地良い。

「ここから人間には弾けなくなる」

「なんで?」

「腕がもう一本必要になるのさ」

「マジで?」

「ネットとかあれば動画で見れるんだが……」

「よし、『水鏡の術』でアクセスしてみる!」

 「水鏡の術」とは、天狗の術の一種だと少年は説明してくれた。岩手県の遠野には、不思議な言い伝えを集めた「遠野物語」があるが、そこに出てくる寺の泉に、京都の様子が映ったという。「遠くのものを写す」から、ネットもいけるだろ、と少年は言った。

「これだね!」

 サーカス・ギャロップの続きが、動画で見れたようだ。丁度連弾の分岐がはじまる。

「ここは右手が二本必要だろ。こうと、こう。この間左手は低音部を弾いてるから、腕が三本いる。ついでに後半はもっと必要になってくる。十一音の和音が同時に鳴るから、腕十一本だな」

「へええええ! なんでこんなのつくったの?」

「『不可能解』があることを示したかったのだろう」

 私は自分の考えを述べた。

「写真の誕生によって『正確な絵画』が意味を失くしたのと同じではないかと思う。『人間には弾けない楽譜』の誕生によって、『楽譜通りの超絶技巧の曲を弾くこと』自体の競争は終わったのだと」

「じゃあ何で?」

「そこにしかない美を、人が人に与える為に、私は弾きたい」

「……そんなにいい曲なの?」

「ゆっくりではあるが、聞いたろう」

「なんとなくだけど。寝ちゃったし」

「あれが楽譜通りのテンポになると、地獄と天国の蓋が開くそうだ」

「マジで?」

「その領域は人には行けないと言われてきた。しかしベルコノフ本人だけは人に与えることが出来た。これまで何十人の天才が挑んで、達成できなかった。私はその『美』の正体を見たいのだ」

「うーん、オレも見たい!」

「君は幸運だな。本来なら私一人で独占してたものを」

 私は笑った。この少年は自分のペースに他人を巻き込んでしまう。一人でここにいたら、私は今頃悪鬼のような顔のままであっただろう。そう言うと彼は人工知能殺人事件の担当刑事、「鬼剣」戸田の顔真似をしてくれた。鬼瓦とはまさにこのことだ。

 指六本の謎。焦点はそこに絞られている。

「人工知能が弾くピアノに、私は意味がないと思う」

 私は悪魔に再び挑戦する前に言った。

「どうして?」

「人工知能に肉体はないからな。いずれ死ぬ者が、肉体を使って、いずれ死ぬ者へ与えるものこそが、私は芸術だと思う。つまり不老不死のする事は、芸術ではないと私は考えている」

 小林氏の「不老不死」を、私は取り払うことが出来るかも知れないと思った。

 この曲を弾くことが出来るならば。


    6


 一週間が経過した。運指の組み立て直しは難航した。ただでさえ複雑で速い曲なのだ。私は曲芸師ではないのだ。いっそ山を降りて、長期的に出直せないかとすら考えた。いや、私には時間がないのであった。あと七日で、全ての決着をつけたい。

 「左手の指が六本」という仮説に基づき、左手の運指を六本指でやる。私の左手には五本しかないから、右手から借りてくることになる。その手の形や跳躍が不安定で、スムーズにいかず、私は暗礁に乗り上げていた。

 午後、絶望的なニュースがやってきた。

 「ベルコノフの左手は、五本指であった」と事実確認が取れたというのだ。

 複数の肖像画や書簡などで、左手が描写され、そのどれもが五本指で描かれていたという。

「なんということだ……。仮説は振り出しに戻ってしまった。私はこの一週間、全く無駄にしてしまった……!」

 私はパニックに陥った。しかし側で見ているシンイチ少年は、大人のように落ち着いている。

「凝り固まった弾き方にこだわらない、って見方が分っただけ良かったと思うけど?」

 ──たしかにそうだ。楽譜というのは、右手パートの高音、左手パートの低音と二段組で書かれている為、これは右手、これは左手、と先入観で指の分配を決めてしまう。しかし「六本指仮説」のお陰で、随分私は「指の貸し借り」を工夫するよう迫られた。そのせいか、曲を弾くことに姿勢が柔軟になったように思う。演奏にもそれは現れはじめていた。最初の頃の演奏は硬質であった。今は随分柔らかくなってきている気がする。それはベーゼンドルファーのピアノの音質にも合っている。

「固い枕で眠るより、柔らかい寝床の方がいい筈だ」

 作曲者のベルコノフは、「悪魔と眠る歌」で何を表現したかったのか? 絶望か? 希望か? その解釈で、弾き方やタッチはまるで別物になってくる。


「駄目だ!」

 どうしても右手が追いつかなくなった。左手はなんとかなる。しかし右手に負荷がかかり過ぎる。

「利き手が右なのに?」

 とシンイチ少年は再び子供のような質問を私に投げかけてくる。私はそれに答えようとする度に、先入観の鱗を目から落としてきた。

「普通ピアノは左手で低音を弾き、右手で高音を弾くものだ。器用な右手は主旋律を弾き、左手はそれに合わせた和音や通奏低音を弾く。つまり右手が主で左手が従だ」

「じゃなんで?」

「私は左手の方が得意でね」

「へえ。なんで?」

「……」

「?」

「特訓したのさ」

「特訓スゲー!」

 私は嘘をついた。

 私の「神の左手」は各界で絶賛されている。非利き手である左手が、あまりにも自在に動くからである。ピアニストは左右が均等になるように鍛える。左手で箸を使い、工作も左手でやることなど、子供の頃には当然だった。

 私は嘘をついた。

 この「神の左手」は、特訓のみによって得られたものではなかったのだ。

「……どうしたの?」

 私の心の揺れを感じたシンイチが尋ねてくる。私は観念した。

「仮に、私が弾き切ったとする。……だとしても、本当に『人が弾いた』事になるだろうか?」

「? なんのこと?」

 私は少年に生涯の秘密を言うべきか。少し迷った。しかしこの雪山での秘密は、外に漏れることはない。それほどに私はこの少年を信頼していると考えていた。

「私の左腕はチートなんだ」

「偽って、手、あんじゃん」

「私の腕は偽物だ。メスを入れて改造したのだ」

「改造? どういうこと?」

 どんなに泣き叫んだって、左手を右手並みに動かすのは不可能だ。だからこそ、泣き叫びながら我々は左手を訓練するのだ。私はその苦痛から逃れる為に、七歳の時自分の左腕にメスを入れることを母に頼んだ。

「七歳の時?」

 シンイチ少年は十歳だと言った。この年端もゆかぬ少年より更に年端のいかぬ私の、それは生涯の決断であったのだ。

 父の訓練の厳しさは母も知っていた。そしてその要求に答えられない、先天的な器質の問題があることも母は知っていた。私は先天的に腱が固い。柔軟性が弱いのである。

 ピアニストにとって体が硬いのは致命的である。指が広がらないからといって、指と指の間をナイフで裂いた男もいるそうだ。ピアニストは、曲を弾く為ならそこまでするのだ。

「手を広げてみな」

 シンイチに手を出させた。

「中指を出来るだけ折り畳む。その時、薬指を動かさない。出来るか?」

「んんんんんん、無理!」

 シンイチは手がぷるぷると震えている。四歳の私もそうだった。

「薬指を折り畳む。その時中指を一切動かさない」

「もっと無理!」

「人差し指を折り畳む。中指は伸ばしたまま」

「あれ? これはちょっと出来る」

「何故か分るか」

「人間の腕の腱は、二本しかないからじゃな」

 物知りのネムカケ翁は知っていた。

「その通り。人差し指を曲げ伸ばしする腱は、指の中から上腕部を通り、肘に、肩に繋がっている。一方、中指、薬指、小指を曲げ伸ばしする腱は、三本が一本の中に収まって入っているんだ。だから中指、薬指、小指をバラバラに動かすことは解剖学上できない」

「なるほど!」

 シンイチは色々な指を別々に動かそうとしても、「人差し指とその他」しか分離出来ないことを自分の手で確認する。

「ピアニストはこれを長年かけてバラバラに動くように訓練する。十本の指が独立して動くまで」

 私は十本の指を独立させて動かしてみせた。

「スゲエ!」

「だが私はメスを左手に入れて、一本の腱を切開し、中指、薬指、小指の腱を切り離す手術をしたのさ」

「そんなのズルじゃん!」

「そうだ。だから私はチートと言った」

 私は再び十本の指をバラバラに動かした。

「どんなに訓練しても、ここまでバラバラに動くことはないだろう。『神の左手』と人は言うが、これは『悪魔の左手』かも知れない。私は悪魔と取り引きして、人より動く指を手に入れたのだ」

 どうして私はこんな告白をしているのだろうか。墓場まで持っていけば悟られないものを。私は誰かに、理解されたかったのだろうか。

「私の演奏を、人間業じゃないと人は言う。そうなのさ。人間には不可能なんだ。改造人間には可能なだけだ」

 私は私の右手よりも動く左手の動きを止めなかった。

「……改造人間がこの曲を弾くのと、人工知能がこの曲を弾くのに、何の差があるというのだ? 私がこの曲を弾き切ったとしても、私は何を達成したというのだ!」

 息を荒げた私は、拳を握った力をどこにもぶつけなかった。手をかばうことが習慣になっているからである。

「弾いてから言えば?」

 シンイチ少年はあっさり言った。

「弾けない言い訳にしない方がいいよ」

 少年は時に大人より真実に近い。残酷な真実を、無邪気な剣のように突きつける。

「……」

 私は静かに椅子に座り、どうしても弾けない部分の反復を続けた。


    7


 残り三日となった。

 これまで天候の良い日が比較的多かったが、吹雪き始めた。嵐が来ている、と風を見る天狗たるシンイチ少年が教えてくれた。今夜は外のテントで眠れないかも知れない。

 今日は散歩をすることも叶わず、籠りっ切りになるだろう。嵐の低音が洞窟内に通奏低音を満たしている。目を瞑ると、嵐の腹の中にいるようだった。

 この絶望の和音は、絶望の報も連れてきた。

 街から無線が入った。妻の小夜と萬財団が、ベルコノフの指について、新たに歴史的発見をしたという。

「右手の指が、四本しかなかっただって?」

 無線経由でのスカイプ通信は、嵐の影響もあって途切れがちだが、しかしその重要箇所は繰り返し伝えられる。

「ベルコノフの肖像画では左手は必ず描かれていて、五本指なんだけど、右手は組んだ左手の下に隠れていたり、布の陰になっていたりして描かれていないの」

 小夜は手短に調べたことを伝える。

「ベルコノフのデスハンドが残っている博物館も突き止めた。左手しか現存していない。もちろん五本指。しかし右手は破棄せよ、との遺言があったそうよ。私たちは生前の記録を探して……」

「墓まで暴いたか」

「はい。確認しました。薬指が、第二関節までしかなかったの。幼い頃栄養不足と凍傷で失ったという友人の日記も見つかった。演奏は『指の動きを見られたくない』という理由で布を被せて行われていたと」

「それは文字通り運指を盗まれたくないからかと、解釈されていたが……」

「真実は違ったのよ」

「……欠損を隠し続けた男」

 嘘をついて偽の腕を持つ私と、二百年前の指の足りなかった男。時を隔てて、私たちは楽譜を境に対峙する。

 私はピアノの前に座った。右の薬指を使わず、左手側に六本を使う運指。頭の中で何度も何度も繰り返す。

「やってみるよ。ありがとう」

「珍しいわね。苛々していないの?」

「牛乳は荷物の中に入れたからな」

 私は袖を裂き、長い紐をつくった。右の薬指だけ縛り、一方を肘と縛る。薬指だけ動かないようにするギプスである。

 十一本必要と思われる楽譜を、果たして九本で弾けるのか?

 嵐は益々ひどくなる。対照的に、私の心は水のように静かになってゆく。


「駄目だ。指が足りない」

 第二楽章で既に挫折がやってきた。左手の方が指が多いが、右手の方に指が欲しい。

「手をクロスさせちゃ駄目なの?」

 シンイチ少年は言った。

「本式の弾き方じゃなくて曲芸だって、テレビで見たけど」

「いや。指が足りなきゃ交差法クロスハンドはやることもあるよ。あからさまに曲芸にする輩がいるだけで……」

 私は交差法で問題の箇所をクリアする。指が一本足りないのだ。正式も非正式もない。楽曲が最優先だ。今まで右手で弾いていた所が左手に、左手が右手になる。鏡像反転はとっさに混乱しやすい。何度も何度も間違え、体で覚えるしかない。

 だが第三楽章の指の素早い動きに、ギプスが邪魔になってしまう。反射で薬指を動かそうとしてしまう。

 邪魔だ。右手の薬指が邪魔だ。

 ベルコノフはこの指がなかった。ない前提で楽譜があるんだ。

 私は洞窟の外を見た。吹雪は勢いを増している。風は上から下から縦横無尽に吹いている。

「どうしたの?」

 演奏が止んで、ネムカケを膝に抱いていたシンイチは目覚めた。

「凍傷になれば、右薬指を落とせるのか?」

 氷を割る用の斧は、入り口に立て掛けてある。


    8


「何馬鹿なこと言ってんの!」

 シンイチ少年の叫びは、風の中にすっ飛んでかき消える。

 雪の粒が真横から頬を殴る。洞窟の外に立っているだけで体が持っていかれそうになる。私は四つん這いになり、烈風に対抗した。膝から手袋から、芯まで冷えてゆく。

 ──おあつらえ向きだ。

 私は右手を手袋から出した。

 薬指を一本に伸ばし、雪の中にざくっと入れる。

「やめなよ! その後どうなるの!」

「きつく縛れば血も止まるだろ!」

「痛いとかあるでしょ! そんな状態で曲なんて弾ける訳ないよ!」

「俺は精神だけでここまで持ってんだ!」

 私は癌である。もうすぐ死ぬのだ。手術をしたとしても生存率は低い。私には生涯の望みがある。その為に、全てを棒に振ってこんな無茶な山籠もりをしたのだ。

 私は狂っているのか。人が生まれ、死ぬ、その僅かな一瞬、なぜ人は狂わないのか。

 美は無限だが、音楽は有限だ。悲劇の天才ベルコノフが作った「悪魔と眠る歌」は、永遠に忘れられ、死んでしまう。有限なる命を持つ者として、私はこの美を永遠のものにしたい。

 私は斧を薬指の上に置いた。感覚はない。上出来だ。左手を斧の上に乗せ、全体重で一気に踏み抜いた。


 白に散る赤は美しい。

 かき消してゆく白の永遠に、せめてもの間抗おうとする、それは人の命の爆発であった。


    9


 第一楽章を九本の指で弾くと、私にはベルコノフのコンプレックスが伝わってくるように思えた。

 一般には、この楽章は悪魔との邂逅を示しているという。悪魔とは、自分の弱さのことではないかと私には思えた。右手の薬指がないことを悟られないように、右手を少なめにしている。左手の連弾を多めにし、急激な駆け上がりと駆け下りが目眩ましのように私には思えてきた。従来の説では、これは悪魔が自分の周りをうろうろし、誘惑してくる様を表現しているとされていた。だがこれは違う。そう思わせることが目的で、真の意図は右手のコンプレックスを隠している。隠している心の自覚こそが、悪魔という名の弱い心に出会うことなのではないか。

 テンポを落した第二楽章は、明るく流麗な踊りのようにピアノが歌う。悪魔に褒められ、心をくすぐられ、偽の有頂天になっている様を表現していると従来では言われてきた。甘言に騙されているのだと。

 いまや私にはこの様はまるで違って見える。弱い心を見抜かれまいと、騙されたことにして責任を悪魔に転嫁しているようにだ。ワルツのステップを取り入れた中盤では、悪魔と踊る情景が広がる。誘惑されたのではない。これは狂言だ。私は嘘をついている。嘘の仮面を被っている。

 驚くべきことに、弾き方もタッチも変えていないのに、薬指を失うことで、見えてくる景色がまるで違ってきた。ベルコノフは嘘をついた。二百年間、この曲を弾き、伝記を伝え、再現を挑もうとする人々を、ことごとく騙し切ってきたのだ。

 悪魔などいない。いるとすれば、己の心の中にこそいる。

 問題の第三楽章だ。最も技術が要求され、最もテンポが速い箇所だ。

 拡張低音鍵盤エクステンドベースを使い、六本の指を低音部に使う。交差法も多用しなければならない。

 しかし問題は、この難関な技術を使って、何を表現しているかだ。

 これは悪魔との闘争である。誘惑してきた悪魔に気づき、闘い、征服し、第四楽章において和解して共に眠る、クライマックスの闘争部である。それ自体は従来の説と違ってはいなかった。しかし悪魔が外からやってきた者ではなく、己の心の中にいる弱さのことだとすれば、闘争の場所とは心の中だ。つまりこれは激しい葛藤を意味しているのである。嘘をついた男。その嘘にさいなまれ、虚偽の名声を得た男。それは私そのものではなかったか。これは後悔だ。自分を責め続ける嵐だ。だから極限まで己を苛め抜くのだ。心が持たない。私は失神しそうになる。だが右の薬指の痛みが私を正気に戻す。私は私の嘘と向き合わなくてはならない。謝罪し、公のものにしなければならない。自分の弱さを、認めなければならない。私は訓練の辛さを手術で逃げた改造人間だ。自動演奏機械になろうとした愚かな男だ。七十円の牛乳で高慢な鼻を挫かれた、世間知らずだ。妖怪に取り憑かれる程の負の心を持った男だ。息子の顔など殆ど見たことのない、音楽に憑かれた男だ。

 私は何の為にこの曲を弾くのだろう。己の心のちっぽけさを再確認する為だけに弾くのだろうか。

 嵐の音など、私にはとうに聞こえていなかった。世界で最大の山脈を覆う爆弾低気圧は、複雑な峡谷を駆け抜ける巨大な雷龍だ。人類が人類になる何万年も前から、音楽が生まれるずっと前から、この岩たちは、この風たちは、ただ暴れ、ただ沈黙してきた。

 一台数千万円のグランドピアノが何だというのだ。年間三百台しか作られない、何百人もの職人の手作りが何だというのだ。それを弾く何万人のピアニストが何だというのだ。荒れ狂う龍の数とそれ以上の悠久の沈黙に比べて、私たちに何ができるというのか。

 まる二日が経っていた。私は寝てもいなかったし、食事を摂ってもいなかったらしい。

 第四楽章の最後の音を弾き終えたとき、最終日の夜が終わり、世界で最も早い朝がやってきていた。

 拍手が聞こえた。そうだ。一人の少年と一匹の猫が、私の演奏を最後まで聞いてくれていたのだ。

 少年と猫は涙を流していた。私も涙を流していた。

 人間は小さい。人間は死ぬ。人間は嘘をつき、人間には闇がある。

 「悪魔と眠る歌」とは、それと眠るしかない人間を描いた曲だった。

 幸あれ。

 私はそう思うしかなかった。

 幸あれ。

 だから私は泣いていたのかも知れない。

 地平線から太陽の光が差した。光の矢が私の相棒に刺さった瞬間、びしりと大きな音が響いた。気圧や温度や湿度が合わない時、木材同士の反りが合わず、軋むことがある。家鳴りと呼ばれる現象だ。軋むだけでは済まなかった。私の深紅の相棒は、身体の隅々からばきりばきりと大小の悲鳴を上げはじめ、その度に細かいひびを生じた。ばきんと断末魔を上げたその瞬間、鋭い木片になって飛び散り、砂のように崩れさった。

 私の指に、最後の音の感触が残っていた。

 悪魔は去った。生贄を喰らい尽くして。


「第三楽章のあの部分、まさか椅子から立つと思わなかったよ」

 シンイチ少年が声をかけた。

「……何のことだ?」

「……覚えてないの?」

「私は曲の中にいた。椅子に座っていたのか、立っていたのかは分からない」

「こうしてたんだぜ?」

 シンイチは後ろ向きになり、後ろ手にピアノを弾く格好をした。

「交差法じゃクロスした腕の可動範囲に限界がある。……そうか、そうすればあそこは弾き易い」

「って、さっきアンタがやったのに!」

「そうか……無意識だった」

 技巧などどうでもいい。「悪魔と眠る歌」は人の心を歌ったものだった。そっちの方が重要だ。

「惜しむらくは、生演奏の観客が、大自然と、少年と猫だったことだけか」

「超ぜーたく」

 私はカメラの録画を止めていなかったことに気づいた。私は一人で山籠もりしていることになっている。彼らの声すら入ってはならない。

 だが、飛び散ったベーゼンの破片が、空中に浮いたままであることに私は気づいた。

 おかしい。昇る筈の太陽が、山間からわずかに顔を出したまま、一向に昇って来ない。

「不動金縛りの術」

 シンイチ少年は種明かしをしてくれた。

「弾き終えた瞬間から、時は止まっていたのさ。拍手したかったので!」

 シンイチ少年はウインクして、腰のひょうたんから天狗の面を出して被った。

「これより、天狗の妖怪退治をはじめます」

 朱鞘の短剣を出し、天に構えた。

「妖怪不老不死。萬俊介の心より遂に落ちる也。拠り所なき妖怪よ、心の闇よ、晴れよ」

 封印のようなものを解き、黒い刃を抜く。

「火よ在れ」

 黒い刀から炎が上がった。その炎と共に小天狗がひと舞いすると、辺りに炎が散らばり、照らされたものが浮かび上がった。私は私の、心の闇を見た。

 いくつもの顔が融合したような恐ろしい顔の妖怪。不老不死を願う負の心。鏡の中にしか存在しなかったものが、今目の前に晒された。

「一刀両断!」

 神速の刀術で、天狗が火の剣で妖怪を斬った。

 剣の炎は妖怪に燃え移り、紅蓮の火柱となった。火の中に消えてゆく私の心。人の弱さ。「悪魔」とベルコノフが呼んだもの。

 断末魔とともに炎が尽きた時、妖怪は真っ白な塩の柱になっていた。

「清めの塩」と少年の声に戻ったシンイチは言った。

「これにて、ドントハレ!」

 不動金縛りが解かれ、録画を再開したカメラを私は止めた。太陽は昇りはじめ、我らが洞窟を暖かい光で包んだ。

 嵐は去った。後には何も残らない。青空だけだ。


「私はピアニストを引退するよ」

 シンイチ少年とネムカケに、私は声をかけた。

「そうだろうと思った」

「手術も受けるさ。治ればラッキー、治らなくてもそれまで」

「……なんか、スッキリした顔になったね」

「文字通り、憑き物が落ちた訳だからな」

「ははは。そりゃそうだ!」

「息子の祥平が、ピアノを習いたいと言うなら、私は鬼にならなければならんな。かつての父のように」

「え、だって『悪魔と眠る歌』は弾けたじゃん」

「アレは手術した左腕のチートがあったからだろ。息子は素で弾ける才能がある。何せ俺と愛する妻の子だからな」

「何歳?」

「三歳」

「親バカにもほどがあるぜ!」

 シンイチとネムカケが一通り笑うと、ヘリの音が聞こえてきた。

 二台。

「……しまった。ピアノ回収用の二台目のヘリは不要、って言うの忘れた!」

 振り返ると、少年と猫はいなかった。

 ふらりと初めて来た時のように、小さなつむじ風を残して、いなくなってしまっていた。



 私の中には、熱情が残っている。

 深紅に染めたベーゼンドルファーは、その象徴だと私は考えていた。

 今やそれは炎の色となって、私の心に焼きつけられている。


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