特別長編「不死の谷」第一章 人工知能は殺人の夢を見るか
2019年江戸川乱歩賞三次通過作品です(最終候補作落ち)。
テレビシリーズがレギュラーのてんぐ探偵だとすると、
今作は劇場版みたいな位置づけでつくってみました。
第一章 人工知能は殺人の夢を見るか
1
ちん。
電子レンジから冷凍チャーハンを出した男は、直接袋にスプーンを突っ込んで食べはじめた。強い蒸留酒のロング缶を開け、胃を焼いて現実を忘れようとする。
不味い。冷凍チャーハンってどうしてこんなにも不味いのか。いや、チャーハンは冷凍ジャンルの中では優秀な方だ。しかしチャーハンジャンルでは、冷凍チャーハンは最低だ。本物の中華料理屋の輝くような黄金に比べれば、こんなもの奴隷船の配給だろう。──いや、だったら本物の店に直接食いに行けばいいじゃないか。それが出来ないから困っているのである。
男──小林は、アパートの部屋に引きこもって三年になる。勤めていた会社を辞め、退職金で細々と暮らす生活。夜目覚め、朝眠る生活になったから、リアル店舗のやっている時間には行けない。そもそも外の空気なんて吸いたくない。あれは瘴気だ。俺は鉱山で毒ガスを吸うカナリヤなのだ。
貯金が減っていくのが恐怖で、だから深夜のコンビニで働いてもみた。「俺になんでも聞けよ。この仕事長いぜ」とタメ口で話す年下と、逆に全くしゃべらないベトナム人が嫌で、この六畳に戻ってきてしまった。
不味い。ぼそぼそとした米粒に、三色野菜と謎肉。安い油のべとつきが、小林の口の周りを汚していく。小林の外界との関わりは、七年落ちのPCとスマホしかなく、その窓からしか彼は外を見ていない。
【 天狗面の少年が、妖怪退治!? 】なる話題を見て彼は毒づいた。
「昭和のオカルトかよ。ダセエ」
「朱い天狗の面をつけた少年が、夜な夜な何処かで妖怪を退治している」という噂は、最近そこかしこで見かける都市伝説だ。そういえば前にも見たネタだ。噂は何度もコピーされ、ネットの海に波のように打ち付けられる。今夜も少年は天狗の「火の剣」で妖怪を斬り……
「火の剣? 天狗は風属性だろ。調べが足りなさすぎる。何もかも嘘臭え」
小林はふと、自分が獣のような匂いを放っていることに気づいた。
振り向いて冷蔵庫に二本目の缶を取ろうと、自分の後頭部の居た空間に鼻を突っこんだ瞬間だ。
妖怪は獣の匂いがするのだという。お、新しい設定が都市伝説に加わっているぞ、と小林は目を留めた。妖怪は凡人に見えることはない。純粋な赤子や、修行を積んだ高徳僧には見えることもある。都会の片隅で何もない空間に、急に獣のような匂いが漂ってきたら、それは妖怪とすれ違った証拠かもしれないのだという。
「馬鹿いえ」
小林は突っ込んだ。小林は何もかも否定する。それは自分の知性が皆より優れていると証明したいからかも知れない。
「大型犬のしょんべんが乾いて、それがもう一回濡れただけだろ。あるいはネズミの死骸の跡だな」
では何か? この俺の放っている臭気は、しょんべんか死体か?
気分の悪くなった小林は、別の話題を探した。
【 人工知能を用いた『永遠の命』技術、無料で一人だけ『永遠の命』が体験できる! 】
「はあ?」
【 各界セレブが十億円の申し込みをするエターナル・プロジェクト、その夢が一人だけ無料で当たるキャンペーン! 】
そのプロジェクトの概要は、以下のようなものであった。
まず脳をまるごとスキャンする。世界に張り巡らされたクラウドサーバ上に、そのデータを上げる。思考を司る思考野、言語野は一つのサーバに収め、関連する領域を世界中に分散する。そうすると、その「人工知能」が提供者とまるで同じ脳のはたらきを始める。つまり、「脳を人工知能にアップロードする」ことに成功したというのだ。
「……それじゃ、人格がふたつに増えるだけじゃねえか?」
小林は画面をスクロールさせて続きを見た。
エターナル社の新技術はさらに、人工知能のデータを脳にダウンロードする方法をも開発したのだと言う。
「マジかよ」
脳の「中身」は、神経細胞同士の接合である。電気を通す神経細胞同士が結合して、人は記憶や思考や意識を持つが、その機序解明は完全には進んでいない。しかしナノ単位でMRIを稼働させ、神経細胞間に強い磁場を与え、帯電するようにすれば、思うところに結合を作ることが可能になる。逆電流を流せば結合を切れる。つまり、人工知能の脳マップが、それがどういう仕組みで動いているか解明する必要なく、それを脳内に書き込み、コピーすることが可能になったというのである。これまで理論上は可能であったが、洗脳や人格破壊、死を恐れない兵士の製造などに使われる危険があり、倫理上自粛していたが、この研究を続けるにあたってスポンサーが必要になり……
「うさん臭え」
自分の「妖怪臭」と同じだぜ。小林は話半分で先を読み進む。
つまり、脳から人工知能にアップロード、そのデータを脳にダウンロードすることが、「永遠の命」を実現するというのだ。
「どうやって?」
人体冷凍保存──SFでは冷凍睡眠としてお馴染みだ──人間を冷凍させて眠らせる方法によって。液体窒素でマイナス二百度以下に保つことによって。アルコー延命財団では、実際に百四十九名が、温度伝導性のよいアルミに包まれたまま、冷凍保存者となっているという。その脳スキャンデータは公開されており、彼らの記憶や人格は失われていない。
「永遠の命」の概要はこうだ。脳を人工知能にアップロードし、「本体」は冷凍保存する。その間、その人は人工知能として生きる。肉体はないが、ネットに繋がれているから、あらゆる情報の取得や通信は可能。つまりは巨大なネット喫茶にいるようなものだと。時が経てば、「経験」により記憶や人格が少し異なってくるだろう。本体が目覚めたとき、その人工知能を脳にアップロードして「更新」することも出来るし、その人工知能の映像記録や対話を通じて、眠っている間にしたことの「引き継ぎ」をすることも出来る。いずれにせよ、本体が目覚め、引き継ぎが終われば人工知能は破棄され、「その人が一人である」は保持される。
「なるほど。……つまり、寝てる間は人工知能自我になれて、本体はいつまでも眠っていられる、ということか」
何年眠れる? 一年? 三年? 十年? 百年?
「まるで未来への自由タイムスリップみたいなもんだな。眠りっ放しの冷凍睡眠と違って、自分の意志で起きていいんだからな」
眠れる回数、起きられる回数は無制限、肉体の寿命が来るまでは、未来へのタイムスリップを繰り返し、実質「永遠」に生きられる──それが「永遠の命」であった。
永遠に生きたい金持ちが、冷凍睡眠の施設、クラウド人工知能サーバの維持費、及び記憶読み取り装置、書き込み装置に、一人十億円を払うという。
【 それが今なら! 抽選で一名様を無料体験にご招待! 】
小林はその文字に釘付けになった。
永遠に生きられるとしたら?
今のこの人生に未練なんてない。会社には行きたくねえ。コンビニの年下のタメ口もどうでもいい。俺より弱そうな癖に。しかもこのアパートの維持費は永遠にかかる。死ぬまで。
小林が【 申し込む 】のボタンを押すまでに、それほど時間はかからなかった。
俺は永遠の命を手に入れる。別に永遠の命でなくてもいいさ。ちょっと未来を覗いてみたいだけなんだ。
獣のような布団の匂いは、本当に妖怪の匂いかも知れない。妖怪引きこもり。妖怪誰からも忘れられた男。
俺を誰も知らない、未来に行ってみたい。
2
まさか本当に当選するなんて、思ってもみなかったのだ。
封筒に書かれた「永遠の命」のオレンジのロゴを見て、小林はしばらく何も思い出せなかった。
「マジで?」
──永遠の命に最終的に必要なものをご準備ください。身分証明証。戸籍謄本。印鑑証明書つきの実印。賃貸契約の解約書。医師による健康診断書。など、など、など。
「……マジで?」
本当に「永遠の眠り」につく為に要りそうなものばかりで、小林は現実に戻ってきた。
「まずは体力的に人体冷凍保存に耐えるかどうか、三日間眠るテストをします。脳の転送のテストも兼ねます。つきましては、以下の住所までお越し下さい」と文面にあった。今後のスケジュールとして、第一次テスト(三日間)、第二次テスト(一か月)を経て、本格的な「眠り」につくのだという。このプロジェクトを推進しているのはアメリカのエターナル社であるが、その日本代理店、エターナルジャパンからの手紙であった。手紙、そう、このネットの時代に、証拠として残り易い封書をエターナルジャパンは選んでいるのである。呼び出された場所は、茨城県筑波の学園都市内。
「……マジ、みたいだな」
SF映画に出てくるような、真っ白で無菌室のような施設とは違い、実際のその施設は、生きている工場のリアリティがあった。ガムテープでラベルの貼られた荷物が廊下に積まれ、ビニールシートは汚れ、軽トラがコード剥き出しの機材を運び、移動用の自転車は沢山停めてあり、清掃業者の洗剤の匂いもする。
高校の頃、小林はプレス印刷工場のバイトもしたことがあったから、ここは「工場に来た」と思えるリアリティがあった。SFじゃないんだ。この「工場」で、俺は冷凍庫に入れられた解体マグロのようになるのだろう。
「まずは小林様には、三日間の低温冷蔵睡眠のテストをしていただきます」
案内の、後藤と名乗った紳士が言った。
「チルド?」
「はい。低温チルド冷蔵庫なんて聞いたことがございますでしょう。四度くらいの凍る前の低温に保つんです。お肉を保存するのには、チルドの方がおいしいといいます。丁度熟成が進むのですね。もっとも熟成が進んでしまっては、『永遠の命』ではありませんが」
二人は長い廊下を歩いていた。後藤氏の高そうなチャコールのスーツが、窓から差し込んだ陽に光っていた。
「テストだから、三日間の熟成と」
「左様です。その前に、小林様の脳をスキャンさせて頂いて、弊社のサーバに小林様の『人格』を転送させて頂きます。郵送しました契約書に、実印をここで押して頂きます」
「なんでそんな一々面倒なことを?」
「ご同意の映像を撮る為です。本体が眠っている間は、サーバの人工知能こそが小林様です。『人格の譲渡の同意』というのは世界に類例がありません。のちのち問題がないように、契約関係を明らかにしておきたいのです」
「成程」
「ここまでで、ご質問はありますでしょうか」
「他に眠るであろうセレブとやらは?」
「そのほかの方々は、残念ながらアメリカやドバイなどの、外国の方々なんですよ。日本人は一人もいません」
「それが何で俺に?」
「正直な話、日本人でも『永遠の命』が欲しい人がいらっしゃると見て、私どもは日本に支社を構えたのです。機材がある筑波さんに間借りして、無料キャンペーンまで張って。残念ながら、半年間キャンペーンを継続したのですが、契約はゼロでして」
「意外と景気悪いんだなあ」
「でも外国には、既に眠った方々もおります。『彼ら』とは話せますよ?」
「『彼ら』ってのは、つまりデジタル化された人工知能の方とだな?」
「左様です。ネットに繋がっておりますので、グーグル翻訳レベルで宜しければ、リアルタイムチャットも可能です。話されますか?」
「グーグル翻訳じゃ、いいや」
通された部屋には、銀色の巨大なマシンが鎮座していた。工場然としたコンクリの床に、太いボルトで固定されている。何本もの太いカラフルなケーブルがつながっていて、これ自体が工場の中のひとつの内臓のように見えた。
「医療用のMRIの大型版のようなものです。脳をナノ単位でスキャンし、この時点での脳の神経細胞の結合パターンをすべて記録できます」
人間の脳の持つ情報量は、一ペタバイト(=千テラバイト)くらいだそうだ。映画一本が二ギガバイトくらいに圧縮される時代だ。映画五十万本の記憶か。そう計算しても小林には想像できなかった。プレミアムクラウドサービスが一テラくらいだから、千人分契約すれば、一人の人格をアップロード可能なのか。
「中間補完法を用いないので、弊社では十ペタバイトのクラウドをご用意させて頂いております」
人間ドックに入れられる時のような検査着を着させられ、睡眠薬を渡された。脳が活発に動くとスキャンデータがぶれる為、睡眠中のものをスキャンするという。
「夢見てたらどうすんだよ」
「レム睡眠とノンレム睡眠では活性化している所が違いますので、静かな所だけスキャンします」
「成程。しかし脳の部分を結合して組み立てるって、プラモみたいだな」
「開発者もそう考えたのでしょう。このマシンの名をヴィクトルと申します」
「?」
「『フランケンシュタイン』は、あの怪物の名だと皆さん誤解されております。フランケンシュタインは人造人間を造った博士の名、人造人間の方がヴィクトル」
「へえ。……しかしそれで人工知能に『俺』が再現できるのかい?」
「そのテストでございます」
「たしかに」
「お眠りになりましたら、明朝には小林様の『意識』がネット上に現れます。視覚も聴覚もございませんが、『心の声』のようにネットの情報が聞こえるそうです。私どものサーバ室にも直接通信出来るホットラインがありますので、なにかありましたら呼び出して下さい。三日後の七時にはモーニングコールを致します」
「ホテルかよ」
「実際眠る必要がなくなるので、小林様は二十四時間覚醒することになります。今回は計七十二時間のご滞在です。眠ることも可能ですけど、食事やお酒は無理ですね」
「そりゃそうだ」
「そしてもう一つ大事なことが」
「?」
「小林様の肉体が三日後に目覚めますが、この時人工知能のデータを、小林様に『戻す《ダウンロード》』実験は、今回は致しません。今回は、『眠る』ことに肉体負担がどれくらいかかるかのテストです。それ以降は第二回のテストとなります」
「分かった。……ん?」
「どうなされました?」
「人工知能の方の〈俺〉はどうなんの?」
「小林様の肉体が起きましたら、引き継ぎ後、停止します」
「停止?」
小林は想像した。停止するということは……
「〈俺〉は死ぬのか」
「人工知能が停止するだけです」
しかし「俺が停止させられる」のは確かだ。
「三日間の『経験』をあとで見ることが可能です。それによって小林様の人格は、『ひとつづき』に保たれるのです」
「ああ……成程」
一旦は納得したものの、自分が二人になってしまうのではないか、と小林には疑念が湧いた。いや、眠っているから関係ないのか。寝て起きたとき、俺は寝る前の俺とはたして同一だろうか? もし俺の肉体と精神が、寝てる間に火星の基地にコピーされていたら、火星の俺は「俺のつづき」だろうか?
しかし恐怖を、小林の好奇心が上回った。
「この三日間の感じが……永遠に続く意識の体験版、ということだな」
日焼けサロンのような、酸素カプセルのような、棺桶のようなポッドに小林は入れられ、生暖かいぬるぬるとした液体に入れられてその中で浮いた。心拍数を測るコードが小林に繋がれ、医療器具のようなものが連動している。医師と看護婦が、三日間常駐するという。
小林の意識は、冷たい水と飲んだ睡眠薬によって、いよいよ混濁してきた。
暗く、夢のように捉えどころのないような空間を漂うのだろう、と小林は想像していた。
ところが、まるで夢を見なかった日のように、小林はポッドが開いた光景を突然目にした。
──あれ? そうか。俺は三日間、眠っていて。
眠る前と起きた後がつながっている。胸や手についた吸盤のような奴は、外していいんだよな。風呂の中で眠ったような感覚だ。ぬるぬるとした温かい液体が、全身にまとわりついている。
目は霞む。耳も良く聞こえない。そうだ、俺はまだ目覚めている最中なのか。看護婦か、医者か、さっきの後藤さんが、「おはようございます」と言ってくれるのだろう。朝食はクロワッサンとコーヒーって言っておいたっけ。旅館みたいな和食のほうが良かったかな。
しかしそこに居たのは、二人の刑事であった。
──刑事? ……刑事ってのは……俺トレンチコートでそう思ったのか? ていうか、ほんとに刑事ってトレンチコート着るものなのか?
男の一人が言った。
「小林誠さんですね。聞こえますか?」
いや、聞こえてはいる。しかしプールから上がった時のように聴覚が遠い。ごぼり、ごぼりと泡の音が混ざり続けている。声を出そうにも、口が開けられない。瞬きを数回してみる。
「オイ、瞬きをしたぞ? 意識はあるんじゃないか?」
男はもう一人の刑事に言い、再びこちらを覗き込み、大声で言った。
「小林誠さん。あなたの身柄を重要参考人として拘束します。聞こえていますか?」
──なんだって? クロワッサンとコーヒーは、鮭定食と赤だしに変更だって?
「信じられないかもしれませんが、あなたは殺人事件の重要参考人なんですよ」
ごぼり。ごぼり。その音が自分の呼吸の度にチューブから噴き出ているのだと、ようやく感触で分かった。
これは夢か? 俺はまだ夢の中にいるのか?
3
「人工知能が……殺人事件を起こしたって?」
刑事たちの不明瞭な言葉を聞きながら、小林の意識は混濁し、遠のいていった。〈俺〉という人工知能が、殺人……?
三日間の低温睡眠の肉体への負担は予想以上に大きく、小林は面会謝絶のまま入院措置となった。まだあの液体の中にいるような感覚だった。暗闇、暖かい液体の中、ごぼりごぼりという泡の音。子宮に帰って生まれ変わったとでもいうのか。いや、子宮にいた頃の記憶など小林にはないのだが。
自力で歩き、食事し、睡眠を取れるようになり、小林の身柄はいよいよ筑波警察に引き渡された。パトカーで東京まで連れていくという。
「どうせ東京のご自宅まで帰宅されるんでしょう? 月島警察でお話を聞かせてもらったら、そのあとお送りしますよ。『犯人護送』じゃないですけどね。ははは」
若い警官がパトカーを運転しながら笑っている。
「月島警察」と目的地を聞き、小林は〈俺〉が誰を殺したか確信した。
「殺されたのは……宇童祐也ですね?」
尋問を刑事ドラマのように受けるのかと小林は身構えていたが、通された部屋は殺風景な会議室だった。ただし隅で記録官がこの会話を速記しているようだ。この部屋で起きることは「証言」になると小林は理解した。
「察しがいいじゃないか」
戸田刑事、と名乗った精悍な顔つきの男が言った。フルネームは戸田剣。「鬼剣」と異名を取る、現場叩き上げの刑事である。不摂生がたたってぶよぶよになった肌の白い小林とは対照的に、現場焼けした鉄火肌だ。ぎろりと睨むと鬼瓦のような顔になった。これで多くの善人をびびらせてきたのだろう。呑まれるものかと小林は思った。
「……筑波からここに来るまで、考えていました。『俺』が月島界隈で殺すとしたら、宇童氏しかいないと」
「宇童……『氏』とは不思議な言い方だね。あなたの元上司だと聞いたが?」
「さん付けするほど尊敬できた男ではなかった。……僕なりに礼儀を払ったつもりです」
冷静になろうと努めたが、その気持ちに比例して表情が崩れてしまう。宇童のことを考えると、心がざわついてしょうがない。
「しかし仮に恨みがあったとしても、実行しなければ罪にはならない。それが現代の法の考え方ですよね?」
「……その通り。あなたは実行犯ではない。手を下したのは、エターナル社の人工知能だ。それはアクセスログの解析結果から明らかとなった」
事件のあらましはこうである。
月島にある小さな商社、富山社の六階給湯室、十五時。給湯室の電気は、昨今の節電の影響で消されていた。明り取りの窓のない給湯室は、薄暗く中がよく見えない状況になっている。しかし皆それに慣れているので、わざわざ電気を点けずに珈琲を淹れたり、弁当をチンしたりは日常茶飯事であったという。
だから、異変があったことに気づきにくい状況にあった。床が水で濡れていたことにだ。
「宇童氏は十五時きっかりに珈琲を淹れに席を立つ。この習慣は、そのフロアにいた者や部下、元部下なら誰でも知っていることだ」
戸田は説明を続けた。
漏電があった。宇童氏はその水を踏み、感電死したという。心臓疾患を患っていることも、身近な人物であれば知っていたことだ。
何故水が床に撒かれたのか。何故漏電が起きたのか。
「人工知能って単なるネットワークでしょう? 『実行犯』が可能なんですか?」
「それが可能なのさ。現場にN社製の自動食洗器があったことはご存じかね?」
「会社を辞める前に『自腹で買ってやるぜ』と聞いたような気はしますが、実物は見たことありません。おそらく辞めた後に来たのかと」
「小林さんの退社日は三月三十一日、食洗器の納品日は翌五日。あなたは現物を見ていないだろうね」
「で?」
「このN社の自動食洗器は、流行りのネット対応家電だった。ネットに接続し、遠隔でコントロール出来るというやつさ。そんなもの要るのか、という機能だが、N社は全製品ネット対応をウリにしたからしょうがない。だがそのネット脆弱性が、今頃になって指摘されていた」
「といいますと?」
「ハッキング出来るということさ。クラッキング、って言うんだっけ。まあどっちでもいいや」
「ああ、見た事があります。『何者かにハッキングされ、第三者に皿を洗われてしまう可可能性!』ってネタを」
「まさにそれだよ」
戸田はPCの中のN社食洗器を示した。
「ハッキング、大量に水を流し続ける、蓋をオープンさせ水漏らし、オーバーロードで漏電状態をつくる。十四時五十五分から、十五時五分の間」
「……たしかに、肉体がなくても実行できる」
「それが人工知能のしたことさ」
戸田はひと息つき、立ち上がって窓の外を眺めた。富山社の入っているビルは、大きなビルに隠れてここからは見えないだろう。それがわかるくらいには小林は土地勘がある。おそらく戸田刑事は、その現場を頭の中で見ているのだ。そうか、あの薄暗い給湯室に彼は入ったんだな。会議室とはいえ、窓に鉄格子がはまっているのが小林には気になった。
「……で? 僕が容疑者であると?」
小林は本題に切り込む。戸田は苦々しい顔で振り向いた。
「勿論、今目の前にいるあなた──小林誠さんは容疑者でも犯人でもない。これは我々が保証する。やったのは人工知能だ。アクセス記録で証明できる。ハッキング信号は、エターナル社のサーバからなんだ。記録映像も見た。あなたは三日間一回もポッドから出ていない。だから私たちはあなたを『重要参考人』と呼ぶ」
「僕に何を聞きたいんですか? 机を派手に叩いて、『バン! なんで殺ったんだ!』ですか」
「まさにそうだ。もしエターナル社が言うように、あなたの人格が正確にサーバに転送されていれば、人工知能が持った殺意は、あなたの殺意ということになる」
「……それはおかしな話だ」
小林は考え、慎重に発言する。
「この野郎、殺してやるッ! そう思っても実行しないのが大人というものでしょう? 人が何を思うかに罪はない。どんなに猥褻なことを考えても罪には問われない。猥褻なモノを開陳したり、違法な行為が罰の対象になる。誰だって殺してえと思う輩はいます。ただ実行はしない。明日になったら忘れるだけだ。だからこの世界は概ね平和に保たれているんだ」
「おっしゃる通り」
戸田も慎重に言葉を選ぶ。記録されているという緊張感が伝わってくる。
「つまりこれは、『誰が犯人なんだ?』という事件なんですよ」
戸田は窓の外を見るのをやめ、再び小林の向いに座った。
「殺意がないなら過失致死、あるいは単なる事故。しかしこの件には殺意がある。次に計画性。人工知能は富山社のネットをハックしようとしたり、監視カメラに侵入した記録がある。人工知能の野郎、どうも何回か宇童氏が同じ習慣──すなわち十五時かっきりに珈琲を淹れに来るか、そして給湯室の電気は消えたままか、監視カメラで確認していたんだ。つまりこれは、計画殺人だ」
「状況を聞く限りは、たしかに」
「人が一人死んでいる。計画がある。人だったら話は簡単だ。逮捕、裁判、有罪。しかし相手は機械だ。車が人を轢いたら、それは車の責任か、人か? 人だよな。車メーカーは捕まらない。簡単だ。しかし今回は『中の人』はいないんだ。『人のコピー』なんだ」
戸田は苛々して煙草を出そうとしたが引っ込めた。この会議室は禁煙なのだ。
「いつもなら楽勝だ。『ドン! お前がやったんだな!』で立件だ」
「人工知能にそうすればいいじゃないですか」
「ふん。明日その予定だよ。とにかく小林誠という人の中に、『恨み』という感情が存在した、と事実関係を確認したまでさ。いや、有難う。もう解散だ。あなたは容疑者ではないから、拘束はされない。ただ重要参考人として、法廷で証言はして頂く」
案外あっさり終わるんだな、と小林は内心ほっとした。
「もし僕が」
帰り際、小林は振り返って戸田刑事に訊いた。
「全く彼に恨みなんてありませんでした、って言ったらどうするつもりでした?」
「多分帰さねえな。そりゃ嘘をついてるってことだからな。アンタが会社で宇童氏にどういう扱いをされて退社したのか、こっちだって調べてるんだぜ」
「それって……会社の人たちが『重要参考人』として尋問されたと」
「最初は現場に犯人がいると思うだろ。だから周囲からしらみつぶしに潰していく。それが捜査だ。彼らの話を総合するに、宇童氏には殺されるだけの理由はあった。アンタより殺意を明確にした奴もいたぜ? 死んでせいせいしたってな。人工知能の天誅だって言った奴もいた」
もし俺が〈俺〉だったら。
小林は想像する。
三日後停止されることが分かっていて、本体が目覚めてそっちに〈小林〉が譲渡されることが分かっていたら。そして宇童を殺せる手段が分かったら。
──間違いなくやるだろう。チャンスだ。罪に問われるのは機械だ。小林じゃない。だって宇童は、昔からあんなことをしていたんだぜ?
4
「人工知能殺人事件」と扇情的な赤の文字を腕章にしたためた、テレビのレポーターが裁判所の前に来ていた。傍聴に来た人達から、今回の裁判の興味、争点についてインタビューしていく。
ワイドショーの生放送スタジオでは、司会と論説委員が対峙する。
「人工知能による初の殺人事件! 第一回公判です! 争点になっているのは、『誰が犯人か』ということです! その殺意は『誰の』ものか? 責任は誰が取るべきなのか? これが明らかにならないと、誰も罰せられないという不幸な結末になることになります。どう思われますか?」
「そうですね。先日『自動運転車』による痛ましい死亡事故がありました。自動運転車が、街道を横断してきた人を跳ねてしまった事件です。識者団体による統一見解として、『責任は車ではなく、運転者』という第一次結論がはっきりと出されました。これは今後の指針となると考えます」
「ということは、中の人、『重要参考人』小林氏の罪であると?」
「それもおかしな話ですよね。小林さんは『運転者』じゃない。眠っていただけだ」
「でも件の自動運転車の事故では、たしか運転者は居眠りをしていた」
「それとこれとは話が違います。自動運転車は事故を予防することが義務付けられている。注意義務違反による過失致死です。しかし今回は、自分の預かり知らぬ所による『車』の暴走だ」
「カギになるのは、小林氏が眠る前に『人格譲渡』という前代未聞の契約書に判を押したことですよね?」
「しかしそんなものは無効な、誤った契約であると、小林氏の弁護団は主張するでしょう。いまだかつて人権が他人に譲渡されたことはない。そんなの奴隷時代に逆戻りだと。一方、エターナル社は契約は有効と主張するでしょう。事前に封書で内容の通知もしている。人工知能は車ではなく人である。人である以上、本人──小林氏が責任を負うべきであると」
「今後の裁判の流れはどのようになりますか?」
「……人類が初めて迎える人工知能裁判になるでしょう。これが軍事ロボットなら殺人は正義ですが、いや、今政治的な発言は控えておきます。エターナル社の人工知能は人か?が、焦点となりますね」
「しかし素人質問になりますが……」
「……どうぞ?」
「『それが人である』と、どうやって証明するんです?」
解説者は沈黙し、司会者のバカな振りをした鋭い質問に答えた。
「……困難だと考えます。エターナル社は、別の論理を用意しているのかもしれません」
「ありがとうございました。現場の森チャン! 傍聴者たちの予想は集計できたのかな!」
二十歳の美人レポーター、森チャンは元気に答えた。
「現場の予想です! 小林氏が有罪と出ました!」
「は? 何でだよ! 今の解説聞いてなかったのかよ!」
「『闘う人権弁護士』朝香陽デシ」
小林への弁護を申し出たのは、朝香と名乗るおじいちゃん弁護士だった。たくさんの弁護士を引き連れて弁護団をつくったが、金は一切取らないという。語尾がデシになるのは、歯が悪いのかどこかの訛りか。
「そもそもデシね、人工知能に人権を与えるのか、っちゅう話よ」と朝香は初対面から演説をぶった。
「人工知能は人じゃない。なのに世間は人工知能=小林誠にしようとしている節がある。それに我慢ならずここまで来たのデシ。人工知能が人なら、基本的人権を与える? 参政権は? 人工知能同士が結婚して子供を産んだら、戸籍やマイナンバーを与えると? ゲイやレズビアンのように、人と人工知能の結婚を認める? ナンセンスデシ!」
語尾はデシだが論旨はまともで、それを理解した小林は「よろしくお願いします」と頭を下げた。
世間が注目する裁判となった。「誰が」殺したのか? 小林にはアリバイがある。人工知能が実行した証拠がある。小林は重要参考人として呼ばれ、人工知能も喚問されることとなった。もっとも、筑波にあるサーバ本体を東京まで持ってこれない為、回線を裁判所内に引き、ノートPC上で接続するという。前代未聞のPC喚問だ。裁判のプライバシーが漏れてはならない。セキュリティ万全の暗号化回線の為に、裁判の開始は二週間遅れた。
小林は「被告」ではない。重要参考人である。被告は人工知能であるべきかについても議論があった。エターナルジャパンの代表、後藤氏が被告と便宜上決まった。そもそもこの訴えは、殺害された宇童氏の遺族、妻の果津氏からであった。彼女の望みは、死んだ夫の賠償金である。それを誰が払うのかが争点だが、それは誰の罪かという、より大きな問題を解かなくてはならない。
重厚な造りの木の椅子と手すり。ドラマのような法廷劇だなと小林は思った。反対側の席に、後藤氏が瀟洒なスーツを着て、背筋をまっすぐにして座っている。ネクタイはスカイブルー。深い赤のネクタイ(これは弁護団の指示である。主役に見えるべきだという指示だ)の小林とは対照的に、知性を感じさせた。
あの低温睡眠装置で別れて以来の再会でだった。どれくらい前のことだろう。四週間しか経っていないのに、何年も前の出来事のように小林には思える。
後藤氏は目を合わさなかった。「敵」なのだろうか。
「では小林誠さん」
「はい」
「これから発言する内容に嘘偽りが含まれないようにお願いします。黙秘権はありますが、嘘は偽証に問われます」
「わかりました」
ここまでは弁護団との練習通りだ。
「小林さんは被告ではありませんが、真ん中の席に立ってください」
「はい」
もういいよ。一々「犯人じゃない」断りは。心の中では、殺人だと認めたら裁判はすぐ終わるのに、とか思っているんだろ? 検察サイドが話を始める。
「殺害された宇童祐也氏。確認しますが、彼はあなたの元上司でしたね?」
「はい。僕が入社五年目に宇童部に配属されました。退職するまで三年間、彼の部下の一人でした」
「配属は上の指示? それとも……」
「僕の意志です」
「? 社内の人間なら、宇童部の悪評『部下潰し』を知らない筈はない」
「もちろん知ってましたよ。それなりに体力自慢でしたからね。スラム街を救う、ヒーローのつもりでした」
「裁判長。ここに当時の小林さんの勤務記録があります。証拠1として提出します」
紙焼きした勤怠記録。ああ懐かしいなあと小林は思った。あれに振り回された生活だった。
「残業時間は百五十を下回ったことがありません。労働基準法にぎりぎりですが、不自然な時間帯が『手空き時間』と書かれています。改ざん用の手口です。当時の部下たちの証言も取りました。宇童氏が労基に引っかからないよう、虚偽の勤務時間を申告させていたようです。実態は月二百以上の時もありました」
「三百を超えたこともありますよ」
小林は冷淡に言った。
「……有難うございます。貴重な証言だ。つまり宇童部は、いわゆる大変ブラックな部署であったといえるでしょう」
検事は間を取り、皆の注目を集めた。
「誰もが宇童氏を殺したいと思っていた。宇童部はそういう場所でした」
ツカツカと小林の前に歩み寄り、尋ねた。
「『小林が殺らなければ俺がやっていたかもしれない』。そう言う同僚の方もいるくらいです。宇童部の人員定着率は恐ろしく低い。あなたの退社理由は、宇童氏の仕打ちに耐えかねて、ですか?」
「はい」
「恨みはあった?」
「ないと言えば嘘になる。はい」
「異議アリ! それは誘導尋問デシ!」
朝香弁護士が異議を申し立てた。小林が遮る。
「殺意はあったか、と聞きたいんでしょう? 刑事さんにも喋りましたよ。記録も残ってるでしょ? 出来るなら殺したいとね。でも実際に実行しなければ犯罪ではない。思うだけでは罪ではないでしょうとも」
「たしかに。思うだけで罪になるなら、本を読んではいけないことになる。いや失敬。僕は罪深い本ばかり読んでいるので」
場の笑いを取ろうとした検事は小林を見たが、逆に会場は凍り付いていることに気付いた。咳払いで間を取る。
「小林氏にフェアじゃないので、そろそろネタバラシをします。実はこの問答、『二回目』なのです」
「は?」
「申し訳ありません。小林氏の考えていることと人工知能が考えていることが同じなのか、それとも異なるのか、同じ質問をしようと言い出したのは僕です。それをあなたに通知すると警戒されるため、黙っていたのです」
「なんだって? どういうことなんだ」
「私は二時間前、まったく同じ質問を人工知能にしました。……回答は今聞いたものと、まったく同じだということを、この場の全員が体験したのです」
「なん……だって……?」
「つまり。小林誠氏は二人いる。この小林氏と、人工知能〈小林〉だ」
会場のざわざわした空気を小林は背中で受けていた。彼らは「同じ問答」を二度見たというのか。しかも二度目は「同じかどうか」をチェックしながら。
「俺は見世物にされたのか」
「申し訳ありません。不意打ちでした。しかし黙ってやらないと、人工知能とあなたが同じ答えをするかどうか実験できない。つまり『壁の向こうの中国人』です」
人工知能研究で初期の頃から言われている、思考実験による逆説である。仮に非常に発達した人工知能が完成したとする。〈彼〉は人の言葉を理解し、人としてふるまうように見える。知的な会話もこなし、冗談も理解し、感情も有する。しかしそれは、壁の向こうに中国人が監禁されていて、こちらの言葉も、冗談も、感情も理解しないまま、決められた符号を出力しているに過ぎないのではないか、という疑問の事だ。ヨーロッパ人にとって「地球の裏側」、言葉の通じない所として中国が選ばれている。我々日本人からすれば、「壁の向こうのブラジル人」だ。言葉の通じる日本人と、通じないが通じているように見えるブラジル人を区別できるのか? ということである。もちろん、その方法はない。
「私たちは、人工知能に自我や自意識があるかどうかを、確認できないのです。会話をすることは出来る。巧妙につくられた人工知能は、自我があり、自己判断をするようにふるまうように見える。しかしそれは、日本語が分からない壁の向こうのブラジル人がマニュアル通りにコードを打ち込んでいるだけかもしれない」
「それは他人も同じじゃないか」
小林は反論した。
「他人に、自分のような自我や自意識があるかどうか、確かめる手段はない。脳を開いてこれが自我だという臓器を見つけることは出来ない。我々は、自我があるという仮定の下に生きているだけなんだ。心の中は誰にも分からない」
会場が再び凍り付いた空気を、小林は肌で感じ取った。
「……本当に申し訳ありませんでした」
検事も弁護団も謝った。
「え? 何?」
「ここまでが、人工知能にした質問と、まったく同じだったのです。そして彼もあなたも、ほぼ同じことを発言した」
「なんだって?……」
「『自我という臓器』なんてエキセントリックな譬えの言葉のチョイスも同じだった。私たちは、人工知能とあなたを区別できない。人間の見た目か、ノートPCかというビジュアル上の違いでしか区別できない。仮にあなたとチャットするとしたら、どっちか当てる自信はない。それくらい、エターナル社の『人格転移』は成功しているということです」
それを聞いて、小林はなんだか愉快な気分になってきた。
「ひとつ質問が」
小林は手を挙げた。
「どうぞ」
「僕はいつ、『永遠の命』の続きが出来るんですか?」
子供みたいに馬鹿な質問をしてしまったと、小林は控室で後悔していた。
人が死んだ以上、「永遠の命」は凍結を余儀なくされるだろう。後藤さん、エターナル社は窮地に立たされているのだ。彼らが有罪と確定したら、永遠の命計画は凍結するのか? 永遠の命の権利は、まだ自分にあるのだろうか? では自分が罪を認めればエターナル社は営業再開? 自分は牢屋で、これまた永遠の命は得られない。
朝香弁護士と弁護団のセンセイ達が、口角泡を飛ばして議論を重ねている。「長引きそうだ」という言葉だけが理解できた。
面倒臭い。どうしてこんなことになってしまったのだろう。宇童が死んでみんな喜んでいるし、こんな裁判意味あるのか? さっさと未来に逃げていきたいよ。もう「ここ」とはおさらばだ。面倒臭い。色々勝手に必死でやってな。俺はさっさと「未来」にいくぜ。
ふと小林は、また自分が獣のような匂いを放っていることに気づいた。おかしいな。人前に出るから風呂には入ったし、シャンプーもした。さっきまで石鹸の匂いを俺はさせていた筈だ。香料強めのやつにしたのに。小林は袖や脇を匂ってみた。違う。肌の油からか。違う。手か。足か。
「違うよ。それは妖怪の匂いだ」
子供の声が控室に響き渡った。
さっきまで激論していた弁護団は黙っている。いや、黙っているのではない。──目を見開き、拳を上げ、口を開けた状態で固まっているのだ。口角から飛んだ泡が空中で静止している。小林は思わず触ろうとしたが、それはオッサンの唾だと思ってやめた。
小林は立ち上がった。全員ポーズを固めたまま、石膏像のようになっている。ジュースの自販機のモーター音も止まり、耳が痛いくらいに静かで……
妖怪。……今、妖怪って言った? 子供が?
「ごめんごめん。びっくりしたでしょ! 不動金縛りの術をかけたのさ! 他の人がいると、話がややこしくなるからね!」
再び子供の声がする。何処から? 壁の向こうからか。
小林がその白い壁を見た途端、壁はぐにゃりと歪み、ねじれ、穴があいた。
「はあああああ?」
その穴から入ってきたのは、朱い天狗の面を被った少年だった。
憤怒の相に、金に光る双眸。二十一世紀に似つかわしくない、民芸品の土産物のような仮面。朱い漆は、手で塗ったようにぼこぼこしている。よく見ると大人の天狗ではなく、子供の天狗のような顔だ。隆々たる鼻であるべき所は丸くまっすぐな鼻で、鋭く吊り上がるべき両目は驚いたように丸く見開かれ、吼えるべき口は閉じられ、小さくカールしたカイゼル髭に隠されている。
小林は思わずあとずさり、その分天狗少年が中に入ってきた。太った虎猫がお供のように足下に絡む。背後で穴が閉じてゆく。向こうはただの裁判所の廊下だ。つまりこの天狗少年は、壁に穴でも開けて入ってきたことになる。
「小林誠さん」
小天狗が言った。仮面の向こうの、すこしくぐもった声だった。
「あなたは、妖怪『不老不死』に取り憑かれているんです」
「なんだって?」
何を言ってるんだこの子は。今世間が注目する人工知能裁判の真っ最中で、俺は重要参考人で……。しかし周囲は異常な光景だ。時を止めた弁護士たち。壁に開いて閉じた穴。漂う獣のような匂い。
【 天狗面の少年が、妖怪を退治している 】という都市伝説を、小林はようやく思い出した。
5
「妖怪って何だよ」
唐突に壁の向こうから現れた、猫を連れた天狗少年。その少年は、懐から小さな鏡を取り出して小林に見せた。
「何だこりゃ!」
鏡には小林が映っている。その肩の上に……
「これが……妖怪?」
緑と紫の混ざったような肉塊に、目がびっしりとついている。
小林は思わず肩を払いのけたが、現実の自分の肩の上にはいなかった。恐る恐る鏡を覗きこむと、鏡の中にだけそれ《﹅﹅》は居る。
「妖怪は普通の人には見えない。でも取り憑いた本人には、鏡越しに見えることがあるんだ」
小林はそれ《﹅﹅》を見た。小林の視線に気づき、それ《﹅﹅》も小林を見る。現実の自分の右肩を見る。しかし何もいない。
「そいつの名は、妖怪『不老不死』」
少年が妖怪の名を告げた。
「……不老不死になる妖怪?」
「違う。不老不死になりたいという、人の心の闇を吸い取る妖怪」
「心の闇?」
「そうさ。心当たりあるでしょ? 『不老不死になりたい』って強く願い、その心のループが止まらなくなったでしょ? その負の心の渦が、こいつ《﹅﹅﹅》の栄養さ」
「心当たりも何も……俺はエターナル社の『永遠の命』に当選して、永遠の命の権利を貰ったんだ。ニュースで見たろ? その人工知能が殺人をして、今裁判に……」
「うん。さっき傍聴席で見てた」
「え?」
少年は天狗の面を取った。黒い大きな瞳がくりくりと印象的だった。素直で、すべてをまっすぐ見るような澄んだ目だ。目立つ顔とはいえ、傍聴席を見ていた訳ではないから覚えてもいない。
「突然『不老不死』の欲求が募ってきて、空気の読めない発言したじゃん!」
シンイチはあの時の様子を語った。
「あ? ……ああ、あれか」
「それは妖怪『不老不死』のせいなんだ。不老不死になりたい心を増幅するんだ。だから急に小林さんは不老不死を強く願った。それがまたこいつの餌になる。さっきそいつは笑ってたよ? オイシイって」
「笑うのか。こいつ」
小林は、少年のもつ手鏡だけでなく、控室のガラス窓に映った自分の肩にも、その妖怪が映っていることに気づいた。少年は鏡をしまい、話を続ける。
「一端負の心を自覚したら、そうやって他の鏡でも見えるようになる。自分の心の闇がね」
人の顔がみっつ。いや、よっつ。まとめて肉の玉のようだ。向きもばらばらで、顔だけがプレス機で一体化されたような。どこからどこまでがひとつの顔なのか、境目が判然としない。肉の盛り上がりが不規則で、顔に顔が食い込んでいるようにも見える。さっき目が合ったのは、こっちの顔か。髪は長い数本しか生えていない。肉の玉という印象はそのせいかもしれない。手足はない。いや、足が伸びて自分の胸に刺さっている。ガラスの反射を見ながらその胸の部分に触れたが、手に感触は感じられなかった。この「足」は、俺の心臓に刺さっているのか? 大型の獣のような強烈な臭気が再び小林を襲う。「妖怪は異様な匂いを放つ」という都市伝説を小林は思い出していた。
「嘘だと思ってたよ、ネットの噂なんか」
「妖怪に取り憑かれた人はどうなると思う? 『不老不死』の心を増幅されて、ますます不老不死になりたいと願うんだ。それを妖怪が吸い、大きくなり、エスカレートする。宿主が干からびるまで」
「干からびる?」
「心が壊れて、衰弱するか、自殺しちゃうまでだ」
「……マジか」
「そうするとようやく宿主から離れて、次の宿主を探しに行く」
「寄生虫かよ」
「ははは。うまいこと言うね! こいつらは、心に取り憑く寄生虫だね!」
少年は懐から朱の仮面と同じ色の鞘を出した。小刀だ。神社の鳥居の色に似ていると思った。
「ちなみに」
柄には葉団扇紋が小さく刻まれている。少年は、すら、と短刀を抜く。銀に光る鋼の刃ではなく、黒い刃。艶のある石のようなもので出来ている。短刀というより、黒いナイフのようであった。
「唵」
少年は印を切った。刀が妖しく光ったように見える。
「これは妖怪を切ることが出来る天狗の剣、小鴉っていうんだけど」
その刀で、妖怪「不老不死」を突然真っ二つにした。切り口から炎が上がり、左右に割れた火達磨となる。
「うわっ! うわっ!」
小林は慌てて肩を払うが熱くもなんともない。不思議だ。まるで手品のようだ。次元が違う所に妖怪は存在するのだろうか。
妖怪は燃え尽きた。……いや、「足」がまだ残っている。
「切っても切っても、また生えてくるんだよね。厄介なことに」
残った切り株のような所から、じわりじわりと再生が始まる。「足」は震えだし、脈打ち、どくどくと音を立てた。たちまち肉塊が成長し、人の顔のようになり、顔の中から顔が出てきて、目と口がぼこぼこと温泉のように湧き、もとの形になってしまった。明後日の方向に向いた目たちが、同時に小林向いて開かれる。
「根が残ってれば、水を吸って雑草って生えてくるじゃん。あれと一緒。水がある限り、また生えてくる」
「……水ってのはつまり、俺の心か。不老不死になりたいという」
「そういうこと!」
ぱちんと指をならし、少年は刀を鞘に納めた。
小林は考えた。この事件はすなわち、俺が不老不死になりたいと願った所から始まっているのか?
「不老不死なんてみんな思うだろ。何故俺が妖怪に取り憑かれなきゃいけないんだよ?」
「たまたまその妖怪の通り道にいたからでしょ」
少年はあっさりと答える。
「?」
「あるいは、余程人より多く不老不死という考えに『取り憑かれて』いたか」
「取り憑かれて……」
少年の言う通りならば、強く願うことは「考えに取り憑かれる」ということなのだろうか。妖怪「不老不死」はにやりと笑い、小林をいくつもの血走った目で見た。方向がバラバラな目たちと目が合うのは気味がいいものではない。これはこいつにとって「餌の時間」なのか。いつからこいつは俺の肩にいたんだ。エターナル社の広告を見た時か。いや、その前に悪臭がした。その前から? 俺がどうでもいいと人生を捨てて、引きこもりになった時からか。世界から捨てられたと思った時からか。
「ん?」
小林はある考えに至り、少年の顔を見た。
「なに?」
「人工知能の方の『俺』にも妖怪が?」
「鋭い!」
少年は両方の人差し指を立てる。
「前代未聞のノートパソコン尋問を見たらさ、回線を伝って、ノートパソコンから顔を出してやんの、『不老不死』!」
少年は思い出し笑いをしている。
「笑ってる場合じゃねえだろ」
「ごめんごめん。なんか妖怪のやつ、人に取り憑くのと勝手が違うみたいでさ!」
「パソコンに妖怪が取り憑くのか」
「違うよ。取り憑くのは『心』にだよ!」
心。人工知能にも心が。いや、俺のコピーなのだから当然か。むしろ俺に心があったことの方が驚きだぜ。
「……もう一人の〈俺〉も同じ心だとすると、この妖怪が分裂したのか?」
「わかんない。仲間を呼ぶことも出来る妖怪もいるし!」
少年はこの異様な事態にも関わらず、明るく笑っている。この状況を楽しんでいるとでもいうのかよ。いや、慣れているだけなのか。戦場で笑う兵士かよ。
「あっ! 不動金縛りがそろそろ解ける! あとで話そう! 裁判所の裏口で待ってるよ! テレビレポーターは裏口の存在知らないみたいだから!」
少年は再び天狗の面を被り、壁に向かって手を突き出し、内側に捻転させた。
「ねじる力!」
その手の回転とともに壁がねじ開けられた。なんだこれ? CG? 超能力?
「あ、これ天狗の神通力のひとつ。じゃあとで!」
神通力、ってまた古めかしい言葉だなと小林は思った。二十一世紀だぜ? ブラックホールとかダークマターとか量子コンピューターとか人工知能とか言ってるこの時代に、神通力?
しかし目の前で閉じつつある、少年と猫が出ていった穴はたしかに目の前にあった。ガラスに映った妖怪「不老不死」は見えている。
穴がぴたりと閉じて元の白壁に戻るのと、弁護団の議論や自販機の稼働が再開するのは同時だった。こうして小林に「現実」が戻ってきた。
作戦会議は終わったらしい。第二回公判に向けて、再び重要参考人として召喚される際の注意事項を、彼らは簡潔に纏め始めた。
白い鳩の群れが一斉に飛び立った。古いベンチに少年が座っていて、膝の上でお供のデブ猫をあやしていた。「散歩をして帰ります。表口にいるテレビ達のインタビューには、口が達者なセンセイ達が」と小林は言い残し、一人裏口から出た。昼下がりの光線が、猫や鳩の毛に反射して美しい。そういえば、太陽の光をこうしてまじまじと眺めるなんていつぶりだろうか。少年は小林に気づくと言った。黒い瞳に猫の光を反射させて。
「俺、名乗るの忘れちゃってさ。ゴメンゴメン。俺、高畑シンイチっていいます。天狗の弟子をしてる」
「天狗の……弟子?」
「そう! まだまだ未熟者だけどさ、妖怪退治をひそかにしてるのさ」
「天狗って妖怪退治をするって設定だっけ」
「ちがうよ?」
シンイチ少年はあっさりと答える。子供だから素直なのか、それともこの素直さはこの少年の特質か。いずれにせよ気持ちのいい少年だった。
「正確には、こいつは新型の妖怪なんだよね」
シンイチ少年は、ベンチの横に座った小林の、肩の上を指す。今は虚空の空間だが、この少年には常に見えているという。
「新型?」
「東京では、一度妖怪は絶滅したのじゃ」
シンイチの抱いていた、太った虎猫が突然喋った。
「な、なんだ! 猫が喋った!」
まるで眠ったままのような猫は、シンイチの膝の上で喋り続けた。
「びっくりさせて申し訳ないの。ワシはネムカケと申す。シンイチのお目付け役の妖猫じゃ」
今俺は、現実にいるのか? まだポッドの中で夢を見ているんじゃないか? 肩の上の異様な妖怪、天狗の面で壁を抜け、不動金縛りで時を止める少年。そして喋る猫と来たもんだ。毒を喰らわば、だ。小林はネムカケと名乗った猫に尋ねた。
「妖怪が絶滅したって、どういうことだよ?」
「妖怪は闇に棲むものじゃ。辻の角にも、部屋の物陰にも、押し入れの中も屋根裏も。かつて闇が身近にあり、そこに妖怪は棲んでいた。ところが文明が闇を駆逐したのじゃ。電気がつき、テレビがつき、ネットが広まり、科学が広まり、人は隈なく無知や闇を照らせるようになった。だから妖怪は棲むべき所を失い、山や田舎へと追いやられた。見かけ上、都会から妖怪は消えた。ところがじゃ」
小林は何もない自分の右肩を見た。見えないが、いる《﹅﹅》筈だ。だってさっきから獣のような匂いがずっと肩からしている。
「伝統的な妖怪ではない、新しいやつらがはびこるようになった。彼らの名は、妖怪『心の闇』。都会には闇があったのじゃよ。人の心の闇がの」
「心の闇」
「たとえば妖怪『ねたみ』、妖怪『上から目線』、妖怪『あとまわし』、妖怪『弱気』、妖怪『若いころ果たせなかった夢』……」
シンイチが言った。
「放っておくとどんどん大きくなるよ? そして子供を産んで増えるんだ」
「増えるのか、これ」
「だから俺たち、こいつらを退治中」
ネムカケは嘆息した。
「しかし東京のど真ん中は『心の闇』どもが多いのう」
シンイチは懐から出した金色の筒を、小林に渡した。両端に古ぼけたレンズがついている。
「『千里眼』っていうんだけど、これでその辺を見てみてよ」
小林はその遠眼鏡を覗きこみ、ベンチから転げ落ちそうになった。
物陰に、人の肩や腰に、極彩色の化け物たちが闊歩する。たしかに江戸百鬼夜行のような、茶色っぽい妖怪ではない。カラフルなのに、見ていると不安になる絵に似ていた。
「僕らはこいつらを退治する。天狗の代わりにね」
「天狗」
「山の王たる天狗は、妖怪世界のバランスの崩れを憂いている。でもただ『心の闇』を焼き尽くしても、さっきみたいに宿主の心の闇を吸って、再生しちゃうんだよね。根本的に退治するには、宿主の心の闇がなくならないと」
「どうやって?」
「この場合、小林さんが『不老不死なんかもういいや』って精神状態になることだね」
「そ、そんなの無理だろ」
小林は反論した。
「不老不死は人類全ての夢じゃないか。誰だって死ぬのは嫌だ。死ぬか不死なら、不死を取るに決まってるだろ? どうしろってんだ。死にてェって思えば、解決なのか?」
シンイチは頭を掻いた。
「……だから厄介なんだよねえ」
「シンイチは頭のいい子での」
ネムカケがシンイチの膝の上から付け加えた。
「人の心を前向きにする天才だと言っても過言ではない。人の心の闇とは、大概後ろ向きの心から生じる。それを前向きに、明るくすれば、心が晴れた状態になる。そうすれば『心の闇』の取り憑く島がなくなって、妖怪は肩から滑り落ちる」
シンイチは頭を掻きながら続ける。
「たとえば妖怪『ねたみ』は、妬んでる自分に気づき、自分でも気づいていない自分のいい所に自信を持てばいい。妖怪『上から目線』は、当事者の目線に降りられれば解決する。でも妖怪『不老不死』はさ、どうやって思い直せばいいんだろ?」
シンイチは立ち上がり、腕を組み、歩いて考える。
「『生きることはいいことだ』って気づいても、生きて、しかも不老不死の方がいいよなあ。死ぬことと生きること。よく分かんないんだよそこが」
「そりゃ誰でもそうだろ。お前たちだって『不老不死』に取り憑かれる可能性はないのか?」
「あると思うけど、小林さんは、人一倍『不老不死』に執着があると思うんだ。だから妖怪から見てオイシイ人だったんだ」
「……不老不死に対して貪欲ってことか」
「多分。……あのさ、不老不死になって、何がしたいの?」
シンイチはあっけらかんと聞いた。あまりにもストレート過ぎる質問に、小林は思わず呑まれそうになる。
「たとえば……」
「たとえば?」
「そう。宇宙にはまだ分からない所が沢山あるだろ。ブラックホールはどうなってんのかとか、ダークマターって何かとか、宇宙の外には何があるのかとか」
「うん。膨張してる宇宙って、光速を超えてるっていうよね!」
「そうだよ。この宇宙の最高速って設定を宇宙自ら超えてるってのがおかしすぎる。それだけじゃない」
「うん」
「ニュートリノに質量がないってどういうことなのか。量子力学の謎過ぎる振舞い。俺が子供の頃は、二十一世紀には人類が宇宙開拓してワープ航法もつくって、宇宙人とコンタクトして、銀河戦争に巻き込まれるって信じてたぜ」
「宇宙人っているのかな! 会いたいよね!」
「そこだよ! 人工知能がようやく人間並みになったが、ロボットはまだ運動能力が足りない。世界は平和になるのか。資本主義や金というシステムの限界について。人間の心の謎は解かれるのか。多次元世界はあるのか。なぜ宇宙は存在するのか」
「分からないことだらけじゃん!」
「だから、俺はそれが解き明かされた未来に行きたいんだよ」
俺は本当はそんなことを思っていたのか。目の前の少年に熱く説明することで、小林は自分の真の欲望に、あらためて気づいたようだった。
「……それには、この人間の体の寿命が短すぎる」
「んー、参ったなあ。想像も出来ないね。どれくらいの未来だろ?」
「千年か、一万年先か」
シンイチは遠眼鏡の千里眼を撫でて言った。
「この天狗の遠眼鏡はさ、『遠見の力』がこめられているのさ。空間的に遠くを見れば千里眼、時間的に遠くの先を見れば未来通、月読の力だ」
「マジか!」
「でもこれでわかるのは、ちょい先レベルなんだよね」
「……それじゃ意味がねえんだよなあ……」
小林は落胆した。「永遠の命」は無事再開するのだろうか? 自分の永遠の命の権利は失効したのか? 裁判の結果、業務停止命令がエターナル社に下されたら……。小林は震えた。
「あ。また妖怪『不老不死』が大きくなった」
シンイチ少年は、的確に小林の心の奥を指摘する。
小林は、先ほどのシンイチの言葉に、ひとつ重大な事があったことを思い出した。
「お前……人工知能の方の〈俺〉にも、妖怪が取り憑いてるって言ったよな?」
「うん。傍聴席で見た」
小林はシンイチ少年の顔を見た。
「……なに?」
「会えないか?」
「? 人工知能に? どうして?」
「いや。単純に話してみてえんだ。俺と同じことを考えているのかって。しかし会うのは禁止されている。人工知能は重大な『被告』だからな。しかしそもそも、俺は奴に一度も会ったことがねえ。もともと互い違いに入れ替わる筈の、ふたつの魂だ。俺が目覚めたら破棄される予定だったんだからな。でも今は事件の為に生かされている。それが計算外の出来事なんだが」
「話してどうするの?」
「……奴に、訊きたいことがある」
6
筑波学園都市まで、行きは秋葉原からつくばエクスプレスに乗った記憶がある。帰りは護送のパトカーであった。高速が退屈で、若い警官が知らないだろう昔の曲がラジオから流れていた。今度は電車か、と思っていたら、シンイチ少年が懐からまた妙なものを取り出そうとしていた。
「なんだそれ? ひょうたん?」
「そう! 天狗のひょうたんはどれだけ飲んでもお酒が減らないって知ってる? でもこれは子供用なので、酒じゃなければ何でも入るんだよ!」
妖怪を斬った黒いナイフも、手鏡も、金色の遠眼鏡もそこから出したのか。シンイチ少年が出したのは、天狗の面と同じ朱色をした一本歯の高下駄。靴をひょうたんにひょいとしまい、その下駄を履く。
「天狗の一本高下駄! 天狗の驚くべき行動力は『飛翔』とも『縮地』とも言われてる。翼が生えてるともワープ出来るともね! 実際、翼のある天狗もいればないけど超足速い天狗もいるんだぜ! じゃいくよ!」
と、シンイチ少年は小林を背負った。太い虎猫のネムカケはシンイチの頭に乗る。
「は?」
ジャンプした所までは分かった。次の瞬間、雲の上にいた。そこから山が顔を出している。ああいう山の上に天狗はいるんだとシンイチ少年が雑談をしたと思ったら筑波にいた。
「なんだ? なんなんだ?」
この少年が現れてから、訳の分からない所だらけだ。まるで狐に──いや、天狗に騙されているのではないかと小林は思う。しかし立ち入り禁止の黄色いテープが張られ、警官が立っている、エターナル社が間借りしている建物があるのを見て、小林はこれが現実だと認識する。精悍な顔つきにぎょろりとした目の「鬼剣」戸田刑事の姿を認めると、自分は大変な規則違反を犯そうとしている自覚が湧いてきた。
「どうしよう、見つかったら」
「そこは天狗の力さ!」
シンイチは再び腰のひょうたんを探り、次なる七つ道具を出してくる。
「天狗のかくれみのって知ってるよね?」
昔の農家の人が被るような、草で編んだ大きな蓑をシンイチは見せた。
「これを被ると透明になるという、昔話に出てくる奴か」
「昔は天狗の内職だったのじゃよ」とネムカケが解説する。
「え?」
「姿を消せる奴は高いけど、消せない奴も普通に出来が良くての。物々交換とか現金を得る為、山の材料で作ったものじゃよ。最近見ないのは、天狗が山から減ったのかのう」
「マジか」
シンイチ少年が被るが早いか、本当に透明になってしまった。
「中に入って。全員消える」
「……マジか」
こうして一行は、鬼瓦のような戸田刑事の真横を、堂々と歩いて侵入した。シンイチ少年は黄色いテープを、リンボーダンスのように潜る。
「とは言え、どこにサーバ室があるか分からんな」
蓑の中で小林が言うと、シンイチ少年は既に金色の千里眼できょろきょろと辺りを見ていた。
「あった! こっち!」
サーバ室の前は厳重な扉があり、警官が詰めている。なんといっても殺人事件の容疑者だ。人だと考えればそうだし、物だと考えれば重要証拠品である訳だ。厳重な警備は当然だ。そして人なのか物なのかが、まさに裁判の分かれ目となっているのである。
警官達の死角に入り、シンイチ少年は壁に掌を向け、あの時と同じように回転させた。
「ねじる力!」
しかし何も起こらない。
「どうしたシンイチや」
「うん。最近なんか『ねじる力』の調子が悪いんだ」
「またソフトクリームの食い過ぎで、腹でも壊したのか?」
「ちげーよ!」
この会話だけ聞いていれば、ただの小学生だ。不思議な子だと小林は思う。この子のペースに、自分が巻きこまれているのが心地良い。
「じゃあ面を被るよ!」
シンイチ少年がひょうたんから例の天狗の面を出して被った。相変わらず少し恐くて、少し剽軽だ。面を被ると天狗の力が増すのだ、とネムカケが解説を加えた。
「ねじる力!」
ようやく人が一人通れる程の穴がねじ開けられた。
「早く入って!」
小林とネムカケは、弾かれるように穴へと飛びこむ。
薄暗い中に、図書館のように本棚が並んでいる。小林は第一印象でそう感じた。これらひとつひとつがスーパーコンピューター並みの処理速度で、「人格」を計算するのである。しかし同じ本棚と比べて、どちらが知識として多いのだろうと小林は考えてしまう。ビットやバイトやテラバイトだけで、知識というのは決まらない。
「これらが全部つながって、もう一人の小林誠の脳になっているんだな」
ディープラーニングという方法論で、二十一世紀初頭、突如人工知能が発達した。それまでの機械知能は、ルールベースのプログラミングであった。つまり「ああいう場合はこうである」という膨大な法律書のようなもので動いていた。「プログラムする」という言い方そのものである。だから設計通りに動くし、どこが間違えたのか、ソースを丹念に辿れば穴は見つけることが出来た。人工知能はその意味で、エンジンと同じ構造をしていた。部品に分け、法則で組み立て、改造することが出来る機構を有する、という点に於いてだ。
しかし神経細胞網のシミュレータとしてのプログラムが別に研究された。N個の──最初はNは2から8程度であったが──の脳細胞を想定する。これらには別の細胞からくる入力信号と、別の細胞への出力信号がある。全部でN×Nのネットワークがあり得るが、最初はランダムに繋がっていたり繋がっていなかったりする。ある信号を入力する。研究当初はたった1ビット(1か0か)の入力信号だ。ネットワークに電気が流れる。繋がっている回路に電気が流れ、繋がっていない部分には電気が流れない。細胞たちは一定以上の入力で興奮し、他の所へ電気を流す。最終的な出力細胞から出された信号を人が受け取る。これが入力信号と合っていれば「正解(1)」、間違っていれば「不正解(0)」を与える。1の時電気が流れた所は少し太くなり、電気が流れなかった所は少し細くなるようにする。0の時は逆とする。これが「ネットによる機械学習」のアルゴリズムだ。これを何回も繰り返すと、各細胞の繋がり(ネットワーク)は正解を出すように成長する。
こうして、入力信号に対して必ず正解の出力を出す網が自動生成される。これは脳細胞の学習の挙動を、計算機上でシミュレートしたものであった。これの何が画期的かというと、入出力信号がデジタル化さえ出来れば、網がどのような形になるか、他人が知らなかったとしても正解を出す仕組みが作れることにあった。エンジンのような機械部品とは、根本的に考え方が異なっていた。エンジン型人工知能は、人が設計して、相互作用や組み合わせを考えた上で埋め込む。すべてどのように作動しているか把握している「メカ」であった。しかしこの網は、内部メカニズムが分からないまま機能だけが正しく動作する、ブラックボックスを生んだのである。それは丁度人の脳がブラックボックスであることと似ていた。人の脳はいくらCTスキャンしても、神経細胞の繋がっている繋がっていないは分かるが、どこに自我という部品があるのか、どこに感情や知識や経験が部品として入っているのか分からない。「機構は分からないが、機能する」という意味において、脳とこの網は同一である。
二十一世紀に入ってこれがブレイクスルーしたのは、計算速度の向上によってであった。Nをメガバイト、ギガバイトに拡大したのだ。グーグルの画像検索アルゴリズムとしても使われた。入力は膨大な画像データ、出力をことば(テキスト)としておけば、1か0かという1ビットを、数メガバイトまで拡張できる計算力さえあれば「学習」が出来てしまう。「似た画像」を探すのも学習できることが分かってきた。
ここまで来れば、さらにNを巨大化させれば、より複雑なことをシミュレートできるようになる。「ディープ」という技術の名の由来は、何層にも脳のレイヤーがあることのシミュレートであった。入出力構造を三次元に拡張した訳だ。
こうしてエターナル社は、人の脳の神経細胞と同等の数、N=一千億(百テラバイト程度)とその網、十ペタ(=一万テラ)バイトのクラウド脳を作り出した訳である。
これだけの「脳」を、ゼロから学習させる情報量と時間を用意することは出来ない。しかし既に出来上がったものをコピーするなら簡単だ。何十年も学習してきた人間の脳さえスキャン出来れば、そのデータをデジタイズし、その人間の学習した脳内ネットワーク通りに各細胞を結べば、その人の脳と同じ振る舞いをする〈脳〉が出来る。どのように働くのか、どこからどこまでがどういう機能なのか、メカのように把握することなくだ。つまり、脳機能の生理学的解明など待つ必要がなくなったのである。
二十一世紀の人工知能研究は、人を部品のように分解し、再組立てをする「サイボーグ」は諦め、「ブラックボックスをコピーする」方向でブレイクしたのである。
「どうやってこいつと話をするんだ?」
小林はシンイチに尋ねた。
「またまた天狗の力を使うよ?」
「パカパカ口が開く道具でも、こいつに貼りつけるのか?」
「ははは! それ面白い! 違うよ。『つらぬく力』でさ!」
「?」
「『ねじる力』と『つらぬく力』は天狗の基本の神通力なんだ。説明するより見た方が早いよね! いくぜ! つらぬく力!」
少年は人差し指を突き出した。指の先から矢印のようなものが突き出したように見えた。空気の関係だろうか。
次の瞬間、一行はその矢印に従って、コンピュータの中へ吸いこまれた。
ほのかに暖かい空間であった。電気が点いたように、周囲がぼんやりと白くなってゆく。
上も下も、右も左も真っ白い、だだっぴろい空間。
「ここ何?」
「〈脳〉の中」
「は?」
「回線を伝って、人工知能の中に入った」
「なんだそれ? そんなこと出来るのか?」
「オーイ! 小林さーん!」
シンイチ少年は、両手を口に当て、大声で叫び始めた。
「は? そんな原始的な方法で人工知能を呼び出すのか?」
「一番強いやり方が早いんだよ。オーイ!」
もうどうにでもなれ。小林も叫んだ。
「オーイ俺! ちょっと話してえことがあるんだ! 寝てんのか! この糞野郎! 人工知能になっても引きこもりかよ!」
思いつく限りの罵声を浴びせる。
「お前、人工知能の癖に、獣臭がする筈だぜ! 妖怪のせいでな!」
目の前にモザイク模様が現れる。ナウローディング、といった所か。
それはたちまち〈小林〉の立体像となった。
「お前の所為だろ」
生意気なつっかかり方は、俺そのものだなと小林は思った。
7
小林は〈小林〉に頼んで、自分の妖怪をこの電脳空間内で可視化してもらうことにした。互いに妖怪「不老不死」を載せた二人の小林が、真っ白な空間で向い合っている。
「妖怪『不老不死』」
〈小林〉は事情を聞き終え、嘆息する。
「お前が取り憑かれてたから、俺にもコピーされちまったってのか」
もちろん〈小林〉に妖怪は見えない。しかしシンイチが鏡を出し、闇を自覚させたのである。だからこれは妖怪の実体ではなく、CGによる再現映像だ。
「で」
小林は単刀直入に訊いた。
「お前が殺ったんだろ?」
「そうだよ。そんなの俺なら分かってんだろ」
〈小林〉も単刀直入になる。本人同士の会話は余計な探りなどいらない。
「尋問されたのか? あの『鬼剣』とやらに」
「アイツ目が怖えよな」
「人工知能でもそう思うのかよ」
「俺は人工知能じゃねえ。小林だ」
「ああそうか。そうだったな。……俺、ずっと分かんねえんだよ。ポッドに入れられて、色々あって、一度もお前と会ってねえ」
「別に会う必要ねえだろ」
「会ったこともない奴の罪被せられそうになってんだろうが」
「俺の罪じゃねえよ。〈小林誠〉の罪だ」
「だから小林誠は誰か?って話だろ」
小林は頭がこんがらがってきた。一体「俺」とは何なのだ。
〈小林〉の方が白状を始めた。
「仮に証拠が残ってもよ、俺は裁かれねえと思ったんだ。何せ人工知能だからな」
「やっぱりそうか。……悪党め」
「なんとでも言え」
「……俺だったら発狂するぜ。三日後お前は死んで、本体がお前の記憶を引き継ぐからって言われたら」
「だろ? 俺も最初はそう思った。死ぬのは勘弁だってな」
「だから誰か殺して巻き添いにしてやろうと?」
「面白いこというな? お前そんな度胸ねえだろ」
「……」
「ふん。だから『本体』に出来ねえことをやってやろうと思ってな。俺が俺の為にだぜ」
「宇童を殺すことが、俺の為?」
「やったのは本体じゃねえだろ。お前の罪にはならない。だけどあの宇童を小林が殺したんだぜ? 最高じゃねえか」
「最高だよ。俺ぞくぞくしたもん。本当は」
小林はこの数日間を思い出すように、辺りを歩いた。シンイチはどっちがどっちか分からなくなるので、ずっと人間の方を指さしている。
「お前は無罪放免だろ。俺の罪かエターナル社が被る」
〈小林〉は言う。小林は振り返り、今まで考えていたことを尋ねた。
「お前、永遠の命になって何がしたい?」
「……は?」
「……俺、この少年に言われて、とっさに言えなかったんだ。でも、見たいものが沢山あるって思ったのさ。見たい映画は沢山ある。漫画も、小説も、完結してねえのも山ほどあるしな」
「作者が死ぬか完結が先かって言われるシリーズもあるよな」
「それだけじゃねえ」
「宇宙の果てとか、宇宙人とのリアルコンタクトとか、火星進出とか、太陽系脱出とか、高次元への移動──アセンションとかか」
「そう。流石俺。話が早え。……でもな」
「でも?」
「見るだけ?」
「は?」
「見るだけ?ってこの少年に言われて、ドキッとしたのさ。……俺は、見る為だけに生きてんのかなって」
「見てえだろ。見届けてえだろ」
「見届けて、どうする」
「?」
「そこで何して生きるかな、って考えた。今と一緒だ。相変わらず部屋に引きこもって、ネットで、いやネットじゃない何かがもうあるだろうが、新しいそれで外を覗きつづけるだけなのかと」
「最高じゃん」
「どうかな」
小林は〈小林〉の妖怪「不老不死」を見た。自分の肩のものと瓜二つではあるが、顔の組み合わせが異なるように見えた。色の系統も違う気がする。水色と赤っぽい。ゲームの1Pと2Pのような関係かなと思った。
「俺は永遠の命を得て何をしたいんだろう。それがない限り、俺はこの妖怪に取り殺されるだけかも知れないと思ってな」
「……なるほど。その気持ちは分るよ」
「この少年は今まで色々な心の闇を退治してきたという。それでも『不老不死』を願う人の心までは止められないって、倒し方が分んねえって悩んでる」
「そうだろうな。人の心は普通そうだろ」
「でもこいつを倒さないと、永遠の命どころか、いずれ死ぬ」
「…………」
「永遠の命になりたいってのはいい。それは分った。じゃあそれでどうするか、俺は自分で答えを出さないといけないんだ」
「で、『俺』に相談したいってのか?」
「それもある。あるけど、どうせ出てこねえだろ。俺だからな」
「まあ俺だからな。俺もノープランだな。宇宙の果てを見てから考えるよ」
「でもその外には何があるんだろうな」
「……分んねえよ」
「……まあいいや。それより今日来たのはさ、確かめておきたいことがあってさ」
「何だよ?」
「宇童のしたこと──まるまる全部、吐いてねえだろうな、ってこと」
「そりゃそうだろ。お前俺を誰だと思ってる」
「流石俺。じゃああとは上手く罪を被ってくれよ」
「最後に俺の記憶とか、体験とか、引き継いでくれよ」
〈小林〉は急に捨て犬のような目になった。
「本来その為に俺が用意されたんだ。停止期限を過ぎて、本体と離れた時間分、俺はお前とどんどん離れた人格を形成しつつある。小林誠は二人に分裂してしまうことになる。だから警察も極力俺が目覚めている時間を最小にしようとしているんだ。だけど、大分時間は経ってしまった。俺がこのまま消えるのは嫌だ」
「分った。俺から頼んでみる」
「流石俺」
「よし、大体確認できたから、帰ろう」
と、小林はシンイチに言った。
「え? これだけでいいの? 何も進展してないじゃん」
「進展はあったよ。確認したいことはした」
「どれのこと?」
「いつか話す。じゃまたな俺」
「……おう。じゃまた寝るわ」
白い空間から明かりが消えたように、次々と暗くなっていく。〈小林〉は再びモザイク状になり消えていった。
施設の外に出てきた小林は、ガラス窓に映った妖怪「不老不死」を眺めていた。大きくも小さくもなっていなかった。俺の中に渦巻く永遠の命への欲望。それは雲散霧消するのだろうか。どうやって?
「次どうする?」
小林はシンイチ少年に聞いた。
「大体こういう時サッカーしようぜ!って言うんだオレ!」
「?」
「サッカーには人生の全部が詰まってる。何かのヒントになることが多いからさ!」
「心の闇」は心が動かず、一箇所にループしてしまうことから発生しやすい。だから体を動かし、考え方を変えるようにすると、心がいい方向に動き出すことが多いのだ。鬱病の治療に、走ったり筋トレする方法がある。体を動かすことで、脳という臓器のホルモンバランスを変えてゆくというのは、最近の脳科学の知見でもある。
東京へ戻った一行は、河原の小学生の草サッカーに加わった。シンイチの友達ばかりという。しかし小林は運動神経が悪く、小学生相手に迷惑ばかりかけてしまう。
ただ疲れただけで得るものは何もなかった。「こんなの初めてだ」ともシンイチは言った。
今日は疲れた。色々なことがあり過ぎて、自分の中で処理しきれない。シンイチ少年と再会の約束をしたあと、帰宅した小林は泥のように眠った。
8
エターナル社の後藤氏は、「精神鑑定」を要求してきた。
普通は被告が心神喪失するなどして、責任能力がなかったことを証明するものだが、要求は逆だ。つまり人工知能が「人間並みに責任能力がある」ことの鑑定である。
「人工知能の精神鑑定」という前代未聞の事態に、精神科医、発達心理学者、哲学者、文学者、法学者が集められ、通称小林委員会を組織することとなった。
人工知能〈小林〉を鑑定する方法は幾通りもある為、その度に〈小林〉がコピーされ、学習してしまったら破棄される取り決めとなった。
世間は反発した。「拷問を受けたと思ったら殺され、殺されたと思ったら生まれ変わって再び拷問を受ける無間地獄」と批判され、人権団体が大規模なデモを行った。〈小林〉は人か? マシンか? マシンだとしたら無限コピー使い倒しは罪ではない。この場合エターナル社が犯人となる。殺人プログラム製作者としてだ。〈小林〉が人だとしたら、エターナル社ではなく小林誠が犯人となり、後藤氏は無罪放免である。だから大規模なデモと後藤氏の利害は一致している。デモの先頭に立つ姿がマスコミによって繰り返し報道された。「小林誠は人である」は流行語になってゆく。
一方、無限回頭部をコピペされ、その度に潰される小林の糞コラージュがネットにアップされる。小林は悲劇の人として同情され、クローズアップされた。仮に人工知能〈小林〉が人だとしても、人間の小林誠は無実であると考える者が多勢を占めた。一方、人格はひとつであると考える一神教の人々は、小林が責任を取るべきという意見が多かった。双子の弟が犯人で兄は別人というアジアの主張に対して、双子ではなく同一人物であるとヨーロッパは噛みついた。毎日議論は炎上し、小林コラージュは多数の作品を生んだ。
小林の住むアパート前からテレビカメラがいなくなることはなく、もはやどの観光名所よりも有名になってしまっている。「撮影は一分まで」などの自治ルールが出来るほどだ。「小林アパート前を掃除しよう」という意識の高いボランティアもやってきて、テレビのインタビューに答えている。
「ふん。勝手に騒いでろよ。本当に大事なのはそこじゃねえんだ」
紫煙をくゆらせ、「鬼剣」こと戸田刑事はテレビを眺めている。禁煙運動が署内に進む中、このデスクだけ特例で灰皿が置かれているのは、優秀な腕と引き換えだ。
「現場百回か」
今日も戸田は「現場」へと向かう。その先はエターナル社の施設ではない。エターナルジャパン代表後藤氏の、神奈川県の自宅近辺に停めたバンの中である。戸田は後藤の通信を傍受して、エターナル本社とのやり取りを盗聴していた。勿論違法捜査である。証拠として提出も出来ない。だが戸田は長年の勘から、エターナル社のやり方に何か嘘があるのではないかと考えていた。どういう嘘かは知る由もない。その尻尾を見るには、現場で待つのが一番である。後藤は何を考えているのか、裁判でも尋問でも何も分らなかった。食えねえ男だぜ。しばらくコンビニ飯のローテーションになるな。戸田はうんざりしながら、しかし獣のような目は崩さなかった。
同じころ、シンイチ少年は自宅でネムカケを膝に乗せて同じニュースを見ていた。
「この家の周辺の人たち、迷惑だよねえ」
「前代未聞の事件じゃからのう。でもテレビは騒ぎ過ぎじゃ。妖怪『不老不死』の様子は?」
シンイチは遠眼鏡の千里眼で小林の自宅を覗く。
「現状維持」
「打開策は?」
「全く思いつかない」
先日小林氏に草サッカーをやってもらった。「不老不死でない心」になるのは、この人生が素晴らしい、この生に価値がある、と思うことで達成できるのではないかと思ったからだ。だがサッカーが面白いほど、人生が面白いほど、「もっとやりたい」と思ってしまい、「永遠にやりたい」「永遠の命が欲しい」になってしまうのではないか、と感じた。暮れない夕日の河原で永遠にサッカーが出来たら、それは最高じゃんと考えてしまったのだ。これでは「不老不死」の渦の中である。
他にどんな方法があるだろうと策を巡らせていると、テレビのニュースは次に切り替わっていた。
深紅のグランドピアノが梱包され、ヘリに吊るされてヒマラヤの山中に運ばれている。
白い雪山に紅が映える。りゅんりゅんとプロペラの音が空を切り、まるで交響楽の一節である。
世界的ピアニスト、萬俊介氏の愛用ピアノ、深紅のベーゼンドルファーを山中の洞窟に空輸、というニュースであった。ネパールの街まで運ばれた真っ赤なグランドピアノが、空を飛んだのである。
「なんでそんなことすんの? ヒマラヤでピアノ弾くの?」
「癌を治すんじゃと」
そのニュースを知っていたネムカケは言った。
「?」
テレビのアナウンサーが説明する。
「『神の左手』『紅き貴公子』と称えられた萬氏は、癌の手術を拒否しています。肩の腱にメスを入れる術式が必要で、二度とピアノが弾けなくなるからです。民間療法である所の『免疫療法』を選んだのもその為です。身体を極限まで追い込み、免疫力を活性化することで、延命しようとするそうです。酸素が薄く、夜は氷点下になる雪山に籠るのは、それに賭ける為だそうです」
「そんなんで癌が治るの?」
先日手術を拒否して、若くして亡くなった美人タレントがシンイチの頭をよぎった。
「どうじゃろか。しかし何故ピアノを持っていくのじゃ?」
アナウンスは続ける。
「萬氏生涯のテーマである、世紀の難曲──『悪魔と眠る歌』。彼は二週間の山籠りでこれを征服しようとしているのです。現地から送られてきた『雪山のピアニスト』、最新の萬氏の写真です」
「あ」
シンイチはその写真を見て、思わず立ち上がった。
妖怪はデジタル写真や映像には映らない。アナログの写真や映像には映りこむことがある。結像原理の違いであろうとの、物知りのネムカケの意見である。現地ネパールの新聞社が撮影した写真は、まだ銀塩写真を使っていたのだろう。その偶然が、遠く離れた「妖怪が見える少年」に、その存在を知らせたのだ。
「妖怪『不老不死』!」
いくつもの顔が貼りついたような異容。どこを見ているのか分らない複数の目。色こそ違えど、それは小林の肩に乗ったものと同じだった。しかし大きさが違う。小林より深刻な大きさ。それは萬氏の頭部より大きく成長していて、写真のフレームに収まりきれていない。
「危険水域だ。このままじゃ、爆ぜてしまう」
「つまりこの男は『不老不死になりたい』と、恐ろしく強く願っていると?」
ネムカケは食卓に乗り、テレビをまじまじと見つめる。
癌の手術を拒否までして、人類が二百年弾けなかった曲を弾こうとするピアニスト。
妖怪「不老不死」に取り憑かれた、もう一人の男。
シンイチは腰のひょうたんから一本高下駄を出し、印を組んだ。
「やれやれ。雪は苦手じゃ。すばれるんじゃろ?」
「小林さんの心の闇を晴らす、ヒントになるかも知れない!」
ネパール側の麓からヘリで五十分。地形は映像で大体覚えた。
跳ぶ。




