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てんぐ探偵  作者: 大岡俊彦
五章 ふたりの探偵
65/116

第六十一話 「殺したいほど愛してる」 大妖怪「嫌い」登場



    1


     朱い仮面と黒い鳥 二人の天狗が闇を焦がす

     心の闇の奥底に たどり着くのはいつの日か

     てんぐ探偵只今参上 お前の心の悪を斬る



「この漬けダレはですね、パルテノというギリシャのヨーグルトに、レモン汁とオリーブオイルをたっぷり入れ、刻んだオレガノを……」

 レモンを絞り、オリーブオイルの瓶を片手に、鶏肉の漬けダレを作ろうとした手が、ぴたりと止まった。

「……先生、どうなされました?」

 アシスタントの、若いアナウンサーが尋ねる。

「よく考えたらね、私オリーブオイルもレモンも嫌いでした」

「は?」

 先生と呼ばれた、まだ若い美しい女性は、長い髪をかきあげてレモンを放り出してしまった。

「えっ……えっ……」

 人気テレビ番組、「ギリシャ料理研究家・晴田はるたつぐみのお料理(マギーレマ)教室」の、公開収録の途中であった。先生――つぐみは、やおら醤油の小瓶を取って鶏肉にかけた。

「日本人なんだから醤油とネギが一番でしょ。よく分かんないオリーブオイルとか有難がってる場合じゃないですね!」

「は……はあ」

「レシピではオレガノを最後に散らすことになってますが、これも実は私嫌いなんです」

「……はい?」

「キャベツにしましょう! 安いし、焼き鳥には生キャベツが最高よね!」

「あの……今日の料理マギーレマはスブラキ、つまり鶏のグリルを串に刺して、ヨーグルトベースのザジキソースを……」

「私ギリシャ嫌い! あそこの鶏パッサパサなのよ! だからオリーブオイルとレモンと塩で味誤魔化してるのよねぶっちゃけ! 地中海の岩塩も嫌い! 伯方の塩の旨味の方が上でしょ! 食材としては日本の鶏の方が油乗ってて旨いんだから、ちょっと醤油垂らしてキャベツ合わせた方が美味しいに決まってるじゃない! ハーブなんかいらない! 七味持ってこなきゃ!」

「ええ、……ではお酒にはミケーネ産の赤ワインを……」

「バーカ! ワインなんて大ッ嫌い! 焼酎持ってきなさい! 焼き鳥には日本酒か焼酎がベストマッチでしょう!」

 公開収録の場は騒然となった。ギリシャ・ミケーネ島帰りのオシャレ料理研究家で、地中海ブームの立て役者で、しかも人気ワインソムリエの清田きよた雅之まさゆき氏と恋人関係にある、「ステキの代表」のような彼女が、突如ガード下のオヤジのような好みを語り始めたのだ。

「大体ねえ! 地中海なんて乾燥するから大ッ嫌い! 肌も髪の毛もパッサパサになるし! ふつうに出歩ける日本最高!」

 番組はメチャクチャだ。公開生収録なので、やり直しも利かなかった。地中海の食材を調達してブームを仕掛けたスポンサーは激怒し、視聴者の幻滅の抗議電話は殺到し、番組プロデューサーは自分の首が落とされることを覚悟した。

「嫌い嫌い嫌い! 何もかも、大っ嫌い!」


 晴田つぐみは、何故自分でもこんなことを言い出したのか分らなかった。つい昨日までは地中海最高、アテネテッサロニキピレウス最高と信じていた筈なのに。急にすべてのパルテノ(ギリシャヨーグルト)やタラモ(マッシュポテトに玉ねぎを混ぜ、塩とレモンを絞ったもの)やフェタチーズ(山羊や羊のチーズ塩水漬け)やワインが、嫌いになってしまったのだ。どうして? 風邪でも引いた? 体質の変化? まさか妊娠?

「ちがうよ。それは妖怪のせいなんだ」

 突然、天狗面の少年と猫と、烏天狗面の少年がテレビ局の控室に現れた。

「は?」

「その鏡を見てみなよ。あなたの心臓に刺さった、妖怪の触手を」

 少年の指さす先には姿見がある。

「なにこれ!」

 どす黒い、ぬめぬめしたタコの足のようなものが、つぐみの左胸に刺さっていた。潰れたようなイボがついていて、触るのも不快だ。恐る恐る触ってみたが、手が通り抜けてしまい、触ることが出来なかった。どこから? それは廊下の方から伸びてきている。

 つぐみはその先を追った。テレビ局の廊下、スタジオ前、搬入口を経て、局の建物の外へ出た。触手はその先から伸びてきている。それは空から降りるように……

「ぎゃあああ!」

 雲の上に、巨大な球体がいた。どす黒く、イボだらけの禍々しい顔だ。分厚い唇を歪め、とがらせている。そこから伸びた触手が自分の左胸に絡みついて、肉体の内部に潜り込んでいる。

「大妖怪……『嫌い』」

 てんぐ探偵シンイチは、妖怪の名――すなわち彼女が囚われた、心の闇の名を告げた。


    2


「今回はなあ、シンイチのやり方をたっぷり観察させてもらうで」

 光太郎は烏天狗の面を外し、腕を組んで見物を決めこんでいる。

「なんでだよ」とシンイチはプレッシャーに弱い。

「大妖怪『不寛容』のときにはコリゴリやったやん。なんぼ斬っても大妖怪は結合しよる。対処療法より根治療法、つうお前のやり方を見たいんや。今回の大妖怪『嫌い』は特大球やで。ワシのやり方ではキリがなさそや。あの足、百本か二百本か……。数えんのも嫌んなる」

 光太郎は上空を見た。巨大な球体は雲より大きく、そこからタコ足配線のように触手を地上に伸ばしている。あの先にそれぞれ、「嫌い」という感情に取り憑かれた人がいるのだ。

「大妖怪『嫌い』。それだけ人の心には『嫌い』が潜んでるってことなんだよね……」

 シンイチは光太郎に尋ねた。

「あの本体の中にも『青鬼』が入ってるの?」

「多分な」

「どれぐらいの奴?」

「分らんわ。これぐらいか、それともこんなんか」

 光太郎は両手でキャベツ大を示し、次は両手いっぱい広げて見せた。

「『青鬼』から触手が伸びて、大妖怪になるのかな」

「それも分らんわ。目撃した奴もおれへん。いっつも我々は妖怪が現れてからの対応やさかい」

 光太郎は少し嫌な顔をした。

「まるで我々は、害虫駆除業者のようじゃのう」

 ネムカケがなで肩をすくめ、罵詈雑が「呆」と同意した。

「でも放っておいたら、この触手の数だけの人が死んじゃうよ! そのタイムリミットは分らないけどさ!……」

 シンイチは空を仰いでつぶやく。

「で? ……私に取り憑いたってのが大妖怪『嫌い』だって?」

 鏡で上空と自分の胸を交互に確認しながら、つぐみは尋ねた。

「そうなんだ! オレたちがパトロール中に、雲の中に隠れた大妖怪を見つけて、そこから触手がスルスルと地上に伸びていくのを目撃したんだ! それをたどったら、あなたに取り憑く瞬間だった! つまり、あなたの心が一番最新の『嫌い』に取り憑かれた感情ってわけ!」

 シンイチは説明した。つぐみは答える。

「じゃあ『嫌い』のルーキーってわけか。治る確率も、早期発見だから高いってこと?」

「多分!」

「おかげさまで私の番組、メチャクチャになっちゃったわよ。ギリシャ関係全部嫌いって言っちゃった。妖怪のせいでしたって謝りに行っても、信じてくれるわけないわよね?」

 ふと視線を外したつぐみを見て、シンイチは慌てて諫めた。

「あっ、ため息をついちゃダメ!」

「?」

「ため息をつくと、妖怪が巨大化する! その心を認めて、心がループをはじめるから!」

「あ……そう。たしかにね、そうだろうけれど」


 シンイチはこれまでの経緯を、つぐみから聞き出し始めた。

 晴田つぐみは料理研究家、評論家である。美味しい/美味しくないを追求する職業柄、「好き」「嫌い」をハッキリさせる日常だ。

「好きでも嫌いでもない『普通』のものを、『好き』と嘘をつかなければならなかったかしらね……」

 つぐみは自己分析した。スポンサーの売り出したい地中海の食材や調味料を勧めるのが、彼女の番組上の役割でもあったからだ。正直、たいしておいしくないものまで「美味しい!」と笑顔でいなければならない。

「でもそれは下地に過ぎないと思うんだよね。今日すぐ爆発する類のものじゃない」

 と、シンイチは彼女の心を推理する。

「もっと最近あった、『嫌い』に関する事件トリガーがあったと思う」

「……あれか」

 つぐみは昨夜のことに思い当たった。

「なに?」

「……あまり言いたくないんだけど……雅之……彼氏と大喧嘩したのよね」

「それかな!」

「せや! 彼氏ってソムリエの清原さんや!」

「光太郎なんで知ってんの?」

「シンイチ、テレビ見なさすぎやろ! 日本中みんな知ってるナイスカップル、『マリアージュ』コンビやんか!」

 つぐみの彼氏は、今をときめく人気ソムリエの清原雅之氏である。ワイン好きの清原とギリシャ料理のつぐみは、雑誌やテレビ番組で度々コンビを組み、意気投合して交際をはじめた。食材と酒の出会いのもの、マリアージュように、彼ら二人も「マリアージュ」と呼ばれた。交際は同棲に発展し、結婚マリアージュも秒読みと思われていた筈だ。

「……きっかけは大したことじゃなかったのよ。豚肉をすぐ冷凍庫に入れたか入れなかったか、そんなことで揉めただけ。肉に対する考え方と段取りの考え方がずれただけ。でもそれが、普段我慢していた感情を全部爆発させてさ」

 デートの時に堂々と遅刻してきたこと。漢字を知らないこと。何度やめてと言っても鼻くそをほじる癖。番組のアシスタントの子に色目を使ってたこと。トイレの便座をあげたままにする癖。

「むかつくの! なにもかもむかつくの! 息をしてるのも嫌いになるの! 思い出しただけでもまた腹立ってきた! いくらでもアイツのネタを思い出せるわ! 横腹のたるみ! 足の指に生えてる毛!」

「落ち着いて!」

 シンイチは不動明王の印を組み、彼女の心を静めた。

「私……好きだったものが、いきなり何もかも嫌いになった。世の中のものが全部嫌いになったみたい」

「……彼は、どうしたいの?」

「殺したい」

 つぐみの表情が急変した。うすら寒く、背筋が凍る、人でないものの表情だった。

「これが憑かれてるってことかもね」

 シンイチは再び鏡を出し、彼女に自分の表情を確認させた。

「う……私今、こんな顔をしてたの?」

「そう。妖怪も、今の感情を吸って喜んでるぜきっと」

 うおおおん。うおおおおん。

 天空から、巨大なものがこすれ合わさるような低い音が響いた。

「アイツ、鳴くんかい」

 光太郎は憎々しげに、黒い球体を仰いだ。


    3


「どうしよう。雅之さんと仲直りさせたら、『嫌い』は『好き』に戻るかな」

「そんな簡単なものじゃろうか?」

 ネムカケはシンイチの質問に訝る。

「どういうこと?」

「嫌いと好きは、反対の感情だと思うか?」

「え? 好きの反対は、嫌いでしょ?」

「必ずしもそうとは限らんぞ。たとえばシンイチがこないだまで嵌っておったゲーム、なんで今やっとらんのじゃ。嫌いになったからか?」

「いや。うーんと、飽きたから。好きだったよ。でも、その感情が蒸発したというか……」

「それじゃよ」

「ん? 好きだったものは、嫌いになるんじゃなくて、飽きるってこと? つまり好きの反対は嫌いとは限らなくて……」

「好きの反対は無関心、いうやっちゃな?」

 突っ込みたがりの光太郎が首を突っ込む。

「先に言うなよ光太郎!」

「わはは」とネムカケは二人の漫才に微笑んだ。

「好きと嫌いは、同じ軸の正反対じゃが、それは『対象に関心がある』ことでの反対軸じゃな。『関心がある/ない』というもう一つの軸があるということじゃ」

「うーむ」とシンイチは考え始めた。

「好きと嫌いが反対。好きと無関心が反対で、関心と無関心が反対。じゃあ嫌いと関心は……同じ?」

「おっ。よく気づいたな。対偶関係じゃな」

「対偶?」

「反対の反対は、反対の反対じゃ」

「???」

「とにかく、嫌いは関心かも知れぬぞ」

「……よく分んないけどさ」

 シンイチは何かを思いついたようだ。こういう言い方をするときは、企みがある時だ。

「彼女の最初の『飽きた』、つまり、好きだったものが無関心になった瞬間を知りたい」

「最初の? どういうことやねん」と、光太郎はシンイチの思いつきが分らない。

「光太郎! 二人のねじる力なら、時空をねじって彼女のその瞬間に、戻れるかな?」

「? 妖怪『スリル』の時にやった、仮の世界線に行くやつ?」

「そう! オレ一人だと無理だけど、過去に行きたいんだ!」

「……なんや分らんけど、シンイチなりの企みがあるんやな?」

「大体こういうときのシンイチはなんかやるぞい」

 ネムカケの言葉を聞き、光太郎は左掌を構えた。

「光太郎のねじる力は、オレより全然大きいんだよね。オレは修行が足らないからかなあ」

 シンイチは光太郎に掌を重ねた。掌を重ねることで、「ねじる力」は倍増する。

「ねじる力って修行年数に大体比例するんだよね? たった一つ上の歳なのに、その凄い力は、どんだけ子供の頃から修行したの?」

「ふふん。才能があったんや」

 ドヤ顔で光太郎は答えた。

「そっか。まあいいや」

「ええんかい! 褒めてくれやもっと!」

「いくよ! ねじる力!」

「二人の心を合わせろ、言うとんのに! まあええわ! ねじる力!」

 七対三とか、八対二ぐらい、光太郎のねじる力の成分は強大だった。光太郎は剣の腕も立つし、術にも秀でている。シンイチは少しコンプレックスがちくりとする。

 ぐにゃり。

 空間が螺旋状に歪み、一行は過去の世界へと旅をした。そこは、つぐみが六歳の子供の頃の部屋だった。


「ジョー!」

 つぐみは叫んだ。

 目の前の六歳の自分が、ぼろぼろになった熊のぬいぐるみをソファの上に置き忘れ、外に遊びに出た瞬間だった。ばたりと扉が閉じた。誰もいない少し暗い部屋に、その熊だけが取り残されていた。

「ああ……なんで今まで忘れていたのよ……私は熊のジョーを愛していた筈なのに! この時がジョーとの最後だったの! 今の今まで、まるで忘れていたこと!」

 つぐみは熊のジョーに駆け寄り、抱き上げた。子供の頃のつぐみが顔をうずめすぎてすっかり臭くなり、毛玉だらけで汚れも染みた、ボロ雑巾のようなぬいぐるみだった。

「ひどいよ忘れて行っちゃうなんてさ」

 突然、ジョーが口を開いた。

「ジョー! 喋れるの?」

「喋れるも何も。ぼくときみは、いつも毎日喋っていたじゃないか」

「そうだった……そうだった!」

 天狗の力に、動物の言葉を聞く力がある。言葉なき者の気持ちを汲み取り、人の言葉に変換する術である。シンイチは特に、猫と烏の言葉が得意だ。天狗の力で出現したこの世界で、人の念のこもったぬいぐるみの言葉が、自然と彼女に届くようになったのだ。

「誤解しないで! 私は、あなたが嫌いになったわけじゃないの!」

「知ってるよ。だから恨みはしないさ」

「私はただ……ただ……」

「そう。ぼくを忘れて出て行ってしまった。無関心になったんだ。ただそれだけなのさ」


 つぐみは引っ込み思案で、友達がいなかった。男の子が恐くて、女の子の遊びも馴染めなかった。話し相手はジョー一人だった。どこに行くにもジョーを連れていた。寝るときは勿論、公園に行くときも、風呂に入るときも、幼稚園に行くときも抱いた。

「あなたはもう一人の私。それぐらい私はあなたを大切にしてたのに!」

「そうだね。今日この日、たった5分前まではね」

「……何があったのかしら。……全然思い出せない」

 つぐみは頭を抱えた。無関心は好きの反対。記憶に無関心は残らない。

「外に出てみようか」

 ジョーはぴょんとソファーから降り、たたたとドアまで走った。しかしドアノブまで手が届かない。二回ジャンプするが届かない。思わずつぐみがドアを開けた。外はまぶしかった。

 走る六歳のつぐみの後ろ姿が見えた。手に持っているのは、きらきら光るシールのコレクション。たしか雑誌の付録だったか、ガチャガチャで出したのだったか。

「あれ……友達が出来たらあげようと思ってたの」

 つぐみは涙が出てきた。それは転校生の良子にあげた。その記憶が鮮やかに蘇る。だって彼女も友達がいなかったから。彼女の何かに耐えていたような顔を、綻ばせようと思ったから。

「そうか。……今日はその日なのか」

「そうだよ」

 ジョーが扉にもたれてさびしく呟いた。

「今日はきみに、友達がはじめて出来た日だ」

 その言葉で、つぐみはこの日のことをすっかり思い出した。

「私は……良子と……友達と引換えに、あなたを忘れてしまったの?」

「そう。これからぼくは、庭から入ってきた隣の犬、ジムに見つかって引きずり回され、バラバラになる運命だ。犬に噛まれなくたって、既にぼくの手足は引っぱれば千切れるほどに弱っていたしね。その一か月後、側溝に落ちてたぼくの右腕を、きみは一度だけ見るだろう。でもきみは何も思い出さない。それで、ぼくときみのストーリーはおしまいだ。以来、今まで一度も思い出されることはなかった。だってきみには、話し相手が出来たのだしね」

「そんな……そんな……」

 つぐみは涙が止まらなかった。このような感情をなんというのか、つぐみには分らない。後悔。懐かしさ。成長すること。そのどれでもないし、その全部のような気もする。

「ひとつ、聞きたいことがある」

 シンイチが口を開いた。

「あなたの彼氏のこと、どれだけ覚えてる?」

「え? ……そりゃもう、初めてのデートに二時間遅刻したことや、ワインのチョイスを間違って怒ったことから、きのう大喧嘩したことまで、全部」

「じゃ、『関心』だね」

「……」

 つぐみの左胸に刺さった妖怪の触手が、びくんびくんと動きはじめた。

「私は、ジョーのことは忘れてしまっていた。けれど彼のことは、何一つ忘れていない」

「さよなら」

 ジョーは手を振った。

「好きの反対は無関心。関心がまだあるってことは……?」

「ジョー!」

 つぐみはジョーにかけより、はげしく抱きしめた。

「忘れないよ! 忘れないから! 絶対あなたを忘れないから!」

「それじゃダメさ。忘れなきゃ、友達は出来ない。ぼくの望みは、きみがぼくを忘れて、ここに戻って来なくなることさ」

「そんな!」

「またきみが誰も友達がいなくなったら、呼んでよ。その時おもちゃ屋のぬいぐるみの棚で、ふと目に止まったのがぼくだよ?」

「ジョー!」

「さあ、きみの関心のある所へ帰りなさい。ぼくはこれから犬に噛まれなきゃ」

「ジョー! ジョー!」

 ジョーは部屋の中に引っ込み、ドアを閉じようとした。しかしドアノブに手が届かない。二度三度ジャンプする。

「……」

 つぐみはドアノブに手をかけた。

「……」

 ジョーは笑って頷いた。

 ぱたん。

 つぐみはドアを閉め、ジョーの運命は変わることはなかった。


 「ねじる力」で別の時空へ行った一行は、元の世界に戻ってきた。テレビ局の外の駐車場だった。

 泣くだけ泣いて落ち着いたつぐみは、ようやく口を開いた。

「私が彼を嫌いなのは、彼を好きだからなのね?」

 つぐみはケータイを出し、彼にかけた。

「もしもし? 今夜のデートのワインはもう決めてるの? それ、キャンセルしていい?  私は、今夜は焼き鳥と焼酎の気分だから」

「はあ?」

 雅之はなんのことか分からなかった。つぐみは続けた。

「私は今あなたが嫌いよ。でも絶対忘れないの。何もかも全部覚えているの」

「はあ?」

「殺したいほど愛してる」

 電話を切ったつぐみは、シンイチと光太郎に笑った。

「ありがとう。これからも、好きと嫌いに埋もれて生きていたい」

 こうして、彼女の左胸から大妖怪「嫌い」の触手は外れた。

「阿ー!」

 上空を周回していた烏の罵詈雑が、甲高く叫んだ。

 彼女に刺さっていた触手へ彼女の波動が伝わり、本体へ届いた瞬間に、他の触手へと波のように伝わってゆくのが見えた。

「触手の繋がる他の宿主たちの所へ行くか?」

 光太郎は聞いた。

「いや、その必要はないかも」

「なんでや」

 シンイチは脈打つ大妖怪を見た。

「心は、伝わる。晴れた心もだ」

 人の心は「嫌い」であるままに保てない。気分により「好き」にも「嫌い」にもなることがある。それが「嫌い」に固着ループすることが、心の闇の取り憑く隙間となる。波打つ触手たちは、全て本体へ帰っていった。嫌いの心へ好きの心が伝わり、宿主たちの心の負のループが途切れたのだろう。

「これがシンイチのやり方か」

 光太郎が烏天狗の面を被った。

 シンイチも天狗面を腰のひょうたんから取り出した。

 二人は同時に印を結ぶ。

「臨! 兵! 闘! 者! 皆! 陣! 烈! 在! 前! 不動金縛り!」

 シンイチは天狗の面を被ると天狗の力が増幅する、てんぐ探偵である。

「とう!」

 一本高下駄を履いた二人は、大小の火の剣を抜き、大妖怪へ襲いかかる。

 うおおおん。

 大妖怪「嫌い」は、巨大な鳴き声を超音波にしてぶつけてきた。

「ホイ!」

 光太郎は天狗の葉団扇で「変化へんか」を出す。鞍馬流剣術の奥義、受け流しからの巻き落としである。螺旋の力で自分はその分前に進む。シンイチはまともに音の壁を食らってしまい、一歩出遅れた。

オン阿留麻耶アルマヤ数万騎スマンキ天狗テング!」

 光太郎の真言とともに、大鴉の炎が赤く燃え上がる。

「真向唐竹! めでたしやん!」

 光太郎の火の剣が、大妖怪「嫌い」を真向に割った。

「おったで!」

 その中心部から、顔だけの鬼、「青鬼」が出てきた。

「不動金縛り!」

 光太郎は素早く九字を切り、青鬼の周囲に結界を張る。青鬼は動けなくなり、暴れても結界の壁にぶつかるだけだ。

「オレだって斬るぞ! 大鴉の火だけじゃ足りないだろ!」

 シンイチは小鴉の炎で、残りの大妖怪の肉片を小間切れに斬ってゆく。

「これにて、ドントハレ!」

 二人のてんぐ探偵は、剣を鞘に収め地上に降り立つ。轟く炎で燃え盛る大妖怪は、清めの塩となって爆散した。


    4


「青鬼、お前は一体何(モン)や!」

 結界に閉じ込めた青鬼を、光太郎は尋問した。

「人間よ、お前は何者だ?」

 青鬼は、低い声で空気を振動させた。

「しゃべれるんやなお前」

「しゃべれるんだなお前」

「こいつ、ムカつくな」

「こいつ、ムカつくな」

「……」

「……」

「青鬼ってなんなの? 妖怪? 新型妖怪? 心の闇との関係は?」

 シンイチは聞きたいことを全部聞く。

 青鬼はシンイチをにらみ返す。

 と、光太郎の張った結界を、額から生えた角で割ってみせた。

「あっ!」

 青鬼は結界から飛び出し、空気に触れた所から青い粉へと自壊してゆく。

「しもた……!」

 青色の粉は茶色く変色し、ぐずぐずになっていった。あとにはあの鮮やかな色も、恐ろしいほどの目つきも残らなかった。

「くそう。しかし一歩前進やな。青鬼は、しゃべることが分った」

「一体あいつ、なんなんだ?」

「師匠の鞍馬天狗は、心の闇の大元が青鬼のバックにいるんちゃうか、って考えとる」

「……心の闇の大元」

 シンイチの目の色が変わった。それは何処から来るのか、シンイチが一番知りたいのかも知れない。妖怪「弱気」に取り憑かれた、最初の日から。

「青鬼はその使い魔ちゃうか、みたいな説や」

「……」

 新型の妖怪「心の闇」が、都会に現れた。それは妖怪の棲むべき闇が、都会から消えたからだ。人は科学を信じ、闇を忘れ、妖怪を駆逐した。

 だがその都会にこそ「心の闇」は増えている。闇は人の心の中にこそあると、新型妖怪たちが見つけたのだ。「心の闇」が人と人と人の影が重なる所から生まれたという、シンイチの一度限りの目撃もある。

 妖怪「心の闇」の謎。やつらは一体どこから来るのか。青鬼とは何か。青鬼の背後に、何がいるのか。「心の闇」とは何か。その答えは、まだ何も出ていない。



 ギリシャ料理研究家晴田つぐみは、その後ガード下焼き鳥研究家になり、白ワインをソムリエの清原氏に選んでもらう番組で再ブレイクした。焼き鳥と白いワインの新しいマリアージュだった。

 その何年か後、生まれた子供の為に立ち寄ったおもちゃ屋で、つぐみは熊のぬいぐるみと目が合う。



    てんぐ探偵只今参上

    次は何処の暗闇か



予告


 次期金メダル確実と言われたペアフィギュアスケーター、「氷の女王」氷室透子に妖怪が取り憑いていた。自分の失われた半身がこの世にあるはずだ、と思う妖怪「半身願望」だ。ペアの海老原をその半身に変身させてしまえ! 双子コンビになってしまったペアの行く末は?

 てんぐ探偵第六十二話「氷の女王」に、ドントハレ!

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