第百六話 「妖怪大決戦」 妖怪王「鏡」登場(前)
心の闇にとらわれて 出口の見えない人がいる
井戸の奥の奥底に 沈む大なる七角形
時は来たれり決戦の 青き炎で打ち祓え
1
なぜオレは人と違うのだろう?
なぜオレは他の人と違って、妖怪が見えるのだろう?
「力を持つ者の義務」と大天狗は言った。人と違うことが出来るのならば、その力を使うべきであると。
シンイチは、出来ることなら他の子と同じように、遊んだり喧嘩したりする、普通の小学生でいたかった。ミヨちゃんとデートしたり、ススムや大吉や公次や晴馬や芹沢や内村先生と、サッカーをし続けたかった。
だけどオレには妖怪が見える。
人を苦しませ、取り殺そうとする「心の闇」が見える。その力を使って、その力がない者を助けろと大天狗は言った。
シンイチが大天狗の弟子となり、天狗の力を行使するのは、妖怪「弱気」に取り憑かれた玄田を助けられなかったからだ。彼が弱気に取り憑かれていると分っていながら、子供の力では助けられなかったからだ。自殺を助けようとしたシンイチの手を、彼は払った。その冷たい手の感触をシンイチは忘れたことがない。妖怪「死の恐怖」に見せられた幻の世界で、何度も何度も自殺する玄田の冷たい右手を、シンイチはついに掴むことに成功した。いつかまたどこかで自殺しようとする人がいれば、シンイチはいつでもその右手を掴むだろう。それがシンイチの「力を持つ者の義務」だ。
大天狗はシンイチへ全てを託すことを決意し、循環の理の世界へと還った。最後に差し出された左手を、シンイチはあれほど固く握ったことはない。大天狗の思いを、シンイチは左手に受け取ったと思っている。シンイチの左手に残されたのは、命とは何かを探り続け、命を使い切った男の思いだ。
何故、シンイチはてんぐ探偵になったのか?
「心の闇」による悲劇を繰り返さぬ為である。
何故、シンイチは天狗の弟子となったのか?
火を灯す為である。
それは、右手に握られた約束。
それは、左手に残された思い。
2
九州一の大山塊、英彦山が見えてきた。吉野修験、羽黒修験、そして英彦山修験を日本三大修験という。この土地の言葉で「ヒコサン」といえば修験者と言われる程、古くから全能の験力者=天狗を目指す者はここで修行した。
「鬼瓦みたいな山だな」とシンイチは感想を述べた。
図太く平たい山塊。その上に尖った山峰が何本も鬼の角のように突き出ている。その奥の方、奥英彦山の険しい岩山の上に、どうやって建てたのか想像もつかない英彦山神社がある。そしてその裏山は岩ばかりの、修行には持ってこいの崖だらけだ。その奥の奥の七つ奥の谷底――鬼瓦の裂け目のような場所に、巨大な結界が張ってあった。
「人間ごときに、あんなものをつくることが可能なのか?……」
鞍馬天狗は目を見張った。随分長いこと生きてきたが、ここまで巨大で多層の結界は初めてだった。突き出た峻峰から別の峰へ結んだ線が逆五芒星を描き、注連縄が張力に震えている。
それが二重、三重……全部で八重の封印である。
「修験界の至宝、八幡蔵人大僧正の全力結界や。それでもアカンってどんだけの魔力やねん」
光太郎は震える。その結界が、今まさに割れようとしているのだ。
余程の結界の力なのだろう。注連縄の向こうは何も見えなかった。摩利支天法――封印されているものを、見えないようにする呪法である。
だが下からわずかに亀裂が入り、そこから中の光が漏れ出ていた。
一行はその裂け目の前に立った。
シンイチは漏れ出る光、結界のほころびに近づいた。
「八つの破片は、ここから漏れ出したんだな」
「触ったら飛ぶで!」
光太郎が警告する。シンイチがレベル1だとすれば、その結界はレベル888やぞと。
「指一本触っただけで電気ショックで死ぬで?」と脅される。
外からは、亀裂の中が覗けた。かがんで覗き込むと、中は七色の光で充満している。
「パーティータイムみたいになってる」
シンイチが言うと、光太郎も覗き込んだ。
「ホンマや。なんでやろ?……あっ」
シンイチも同時に気づく。
「すべての光を、反射するから?」
遠野での「鏡」の破片との闘いを思い出す。すべての攻撃という攻撃が跳ね返された。「鏡」は何もかも反射する。この結界の力すら反射しているのかも知れない。
あの時は、地獄温泉の水面の反射で無限鏡をつくった。シンイチは辺りを見回す。そんな大きな反射物はない。来る途中にも……なかった。
「ようこそ御一行様!」
七色の光の中に、男の影が現れた。歩いてではなく、結跏趺坐のまま浮いている状態だ。
結跏趺坐を解くと亀裂の外に這い出て来て、空気を胸いっぱい吸った。
「久しぶりのシャバだわい! 外の空気はうまい」
大僧正八幡蔵人という大げさな名前に比べて、随分とフランクなじいさんだった。いや、老いて見えるが本当は40代くらいかも、とシンイチは思った。つまり自分の寿命を使って、この封印をつくっていたのではないかと。
「君が高畑シンイチ君。――遠野早池峰山薬師坊の弟子だな?」
八幡はいきなりシンイチの目線までしゃがみ込み、シンイチと目を合わせた。
「はい」
シンイチはまっすぐに答えた。
八幡の目に涙が浮かび、ひしとシンイチを抱きしめた。
「よくここまで来た」
「えっ……あれっ」
「うおんうおんうおん」
初対面で抱きしめるなり号泣する。シンイチは面食らった。
「全部見ていたんだぞ! 大天狗を失った辛さも知っておる! そのあと『シャドウ』退治までやってのけるのも見ておった! だからこそ、ここまで闘いに来たことも知っておる! あの塩の柱を振り帰らずに飛んだのは、君の覚悟だな!」
心の上下動の豊かなじいさん。それが八幡蔵人という人となりであった。十年前、修験界の将来を背負って立つ男と目されていたが、突如表舞台から姿を消し行方不明となっていた。その間ずっとこの谷で、「鏡」を封印し続けて来たのである。
「オレにはやるべきことがあるんだ」
シンイチは静かに答えた。
「『鏡』って何? それが何故『心の闇』の素になるの?」
八幡はシンイチの顔を見た。
「早速核心に入るか。うむ、いい目をしておる」
八幡はシンイチの頭を撫でようとしたが、やめた。この子は子供ではなく戦士だと分ったからだ。
「ここに封じられている『鏡』が、何故『心の闇』の素なのか? それはこの鏡を見た人間は、百パーセント『心の闇』に取り憑かれるからなのじゃ」
「百……パーセント?」
「そう。おそらく『鏡』として特別に反射率が良いのだろう。それが長年人に使われ続けて付喪神化したものが最初だったのだろう。あまりにも反射するものだから、見た者の心の闇まで見えてしまう鏡となったのではないかと」
「ちょっと待って。『心の闇』ってのは、空気中に漂った青鬼と、心の闇を持った人間が触れることで……」
「そうだ。その発見はシンイチのものだ。よく解明したと思う。それを遠見の法で知った儂は、試しに青鬼を『鏡』にぶつけてみた。よう跳ね返りおる。だからこれを見た人の心の奥底まで『青鬼』が入り込み、妖怪『心の闇』まで一気に成長しやすいのではないかと考えている」
「考えている、って?」
「実験する訳にもいかんからの。仮説じゃ。なにせこの『鏡』は、『心の闇』を喰らうのじゃよ」
「えっ?」
「『心の闇』製造機であるばかりでなく、出来た闇を喰らうのじゃ。そして成長する」
「成長するの?」
「最初はこれくらいであった」
八幡は手のひらを広げた。
「だから封印できた。ところが封印といっても完璧ではない。『心の闇』共がどこからかやって来て封印の隙間から入り込み、それを『鏡』が喰らい、少しずつ少しずつ大きくなりよるんじゃ。結果八重に封印を広げざるを得なくなったのだ。……見ろ」
八幡は袖の中から金色に光る法具――七鈷杵(七つの角を持つ)を出した。
震えている。
「この震えがワシの術の負けを意味している。この震えはじきに大きくなり、八重の結界が、ダムの決壊のように破れようとしている」
八幡は後ろを振り返った。
「八咫(38・6センチ。一説には136センチ)の鏡なんてものではすまんよ? 今、そうだな……直径……40メートルくらい?」
「はあ?」
「この谷底全部くらいに大きい。大の大の大妖怪じゃ」
「そ……そんなの倒せるの?」
「分らん。シンイチが地獄谷でやった、合わせ鏡で無限に火力を注ぐのは、ひとつのやり方かもだ」
七鈷杵の振動は次第に大きくなり、持っているのも困難なくらいに、暴れ馬のように震えはじめた。
「諸君」
八幡はてんぐ探偵たち、遠野と鞍馬の天狗たちに言った。
「命を大事に」
「……それほどの魔怪なのかい?」
魔王尊が天狗達を代表して尋ねた。
「おそらく。天狗の火力ですら足りぬかも」
「ふん。試してみようじゃないのさ」と白女が居丈高に突っかかる。八幡はにやりと笑う。
「天狗達は不死だからまあいいさ。てんぐ探偵たちは、死なずに時を稼ぐことだ」
「時を稼ぐって?」
「火力で倒せないとしたら、別の方法を考えなくてはならんだろ。その時を稼ぐのだ。稼げばシンイチが……」
「オレが?」
「何か思いつくさ」
「オレに無茶ぶりかよ!」
「わはは。勿論先に思いついた奴勝ちだがな。皆で考えるべし」
皆、ふと無言になった。強く振動していた七鈷杵が、静かになったからである。
びしり。
自ら真っ二つに割れた。それでも振動は収まらず、天空へ勝手に飛んで行ってしまった。
「ワシ一人でよう持たせた方じゃわい。君たちの到着が間に合って良かったよ」
太い注連縄がばんと音を立てて切れ、ひゅんひゅんと蛇のように舞った。
「遠野の天狗よ。鞍馬の天狗よ。天狗の弟子たちよ。封印が切れる。再び封じるか、退治するか、ふたつに一つ」
七色の光が漏れ、闇が漏れた。その中の七重の封印が、六重の封印が、五重の封印が、四重の封印が、三重の封印が、二重の封印が、封印が、切れた。
てんぐ探偵たちも天狗たちも、九字を切った。九字呪文は身の安全を保証するが、巨大な魔怪に役に立つかは分らない。
皆それぞれの天狗の面を被る。シンイチは天狗の面を被ると天狗の力が増幅する、てんぐ探偵である。
巨大な円形鏡、妖怪王「鏡」がその全貌を現した。
直径40メートル。見た者全てに「心の闇」を取り憑かせ、しかもその心の闇を喰らって大きくなるという。
答えの出る日が来た。
心の闇とは、何か?
3
巻き起る烈風の中で、シンイチは天狗面の裏からその正体を見極めようとする。
巨大な「円」だ。
円の形に世界が切り取られているように見えた。
だがそれは、こちら側の風景が円に反射しているだけだと分る。鏡というのは普通は少しくすんでいるから、写った風景は実景と区別がつくものだが、この鏡は特別だった。鏡に写ったものと実風景の区別がつかない。反射率百パーセントの魔鏡。あそこから世界が別の世界に続いているかのようだ。
「攻撃しても反射するよね? あの時のように」
シンイチは呟いた。奥羽で戦い、大天狗の右腕を切り落としたのは、この「鏡」の一部である。
「確かめれば良い」
せっかちな明神独眼が飛び、一つ目から金の光線を浴びせた。瞬時に反射した金の光は傍らの岩を赤くし、溶かした。
「わはは、真正面でなくて助かったな」
炎寂坊は遠野一の火力をまとわせて笑う。
「全火力を真ん中に集中してみよう」
「承知」
遠野九天狗、鞍馬十天狗、魔王尊、てんぐ探偵たちが、真ん中に炎を集中させた。
それは全反射し、右側の崖をひとつ消失させた。
「物理攻撃はどないや!」
一番刀を買って出た光太郎は、大鴉で鏡をしばく。
「痛ッた! 硬ッた!」
思わず太刀を取り落としそうになる。
「むん」
二番槍は峯丈の次元を貫く霊槍と、赤石の全てをぶち抜く火のドリル。だがまるで歯が立たないどころか、その威力が自分に帰ってくる。
「手が失くなるぜ」
赤石は不敵に笑う。峯も渋い顔をする。
「次元が違うとはこのことだ」
石上山白女が、シンイチに尋ねる。
「さあシンイチ。何か策はあるかい?」
炎も、物理も跳ね返す。「つらぬく力」や風の力を一点に集めても、同じく跳ね返されるだろう。
「『無限鏡作戦』をしようにも、この辺にこんなデカい湖も海もないんだよね……」
「そうさね」
「裏はどうなってる?」
「裏か! 面白い!」
足の最も速い天ケ森イタチ坊が走り、裏回った。
「銅鏡みたいな装飾だね」
古い文様が刻まれていて、酸化した黒い金属のような質感を持つ。金属だとしたら炎で溶けるはずである。それほどには天狗の炎の温度は高い。
「そっちからなら攻撃可能なのかい?」
「やってみるか。火走り!」
イタチ坊が両手で地面をめくりあげるようにすると、二筋の炎が地を駆けた。鏡の背中に到達した炎は、だが鏡の表から出てきた。
「なんだ?」
「裏が表に出てくる。表のものは表に跳ね返される。それが奴の能力だ」
と八幡は言う。
八幡は色々なことをこれまで試したのだろう。破壊することが出来ず、だからこそ封印するしかなかったのだ。
飯綱神の肩の上の白い狐がぴくりと動いた。
地震。
「……いや」
円形に切り取られた風景が、ゆっくりと動き出した。
「動いてる? どこへ行くの?」
4
妖怪王「鏡」の鏡の進行方向には何がある? シンイチは振り返った。
ここは英彦山、そのふもとは街。人の街――
「北九州市がある」
「『修羅の国』いうやん! 『鏡』の大好物『心の闇』も多そうやな!」
光太郎は冗談で緊張をほぐしたつもりだった。だが冗談にならなかった。この鏡のせいで心の闇が増殖するとして……それを退治しきれるのか? そしてその心の闇を喰らった「鏡」は大きくなり、さらに大きな面積で人の心に闇を取り憑かせて……
「うん、だいぶ『心の闇』が増えるかも」
さくらが万里眼で未来を少し見る。その未来は? まだ見えていない。自分たちの活躍で決まる。そんなこと分ってる。
「火力を集めるしかないのう」
鞍馬天狗が言う。
「真ん中に集中させて、一点突破を」
遠野の天狗たち、鞍馬の天狗たちはうなづき、火柱を浴びせた。何度も何度も。跳ね返る炎を避けながら、何度も業火を叩きつける。
鏡はびくともせず、ゆっくりと山を下り始めた。
爆炎。炎。竜巻。ねじる力。つらぬく力。ありとあらゆる攻撃が浴びせられる。あたり一帯に焦げ臭い匂いが漂う。火の粉が舞う。だが黒い煙の中をゆっくりと進む「鏡」には、傷一つつかない。
「どないしょ! これ全然アカンやつやん! どうするシンイチ?」
光太郎はシンイチが鏡の代わりにできるものを思いつくだろうと考えていた。だがシンイチはその期待と裏腹に、突然「鏡」の前にすたすたと歩いて行ったのだ。
「ハア?」
シンイチは鏡の進路を塞ぐように立った。
そして両手を広げ、鏡を止めようとした。
「正気か! 何考えとんねんシンイチ!」
「待てや光ちゃん!」
さくらが止める。
「あの子、『鏡』と話すつもりやで?」
「は? マジか!」
シンイチの目の前には、両手を広げた自分自身が写っていた。
その自分の向こうの「鏡」に向かってシンイチは叫んだ。
「あのさ! 『鏡』! 名前は『鏡』でいいね! そう呼ぶよ! 聞きたいことがあるんだけど!」
シンイチは大声を出す。鏡の中の自分も、同じく叫んでいる。
「きみはなんで『心の闇』を増やそうとするの?」
「えええ! 今それを聞くゥゥゥ?」
光太郎は顎が外れた。まさかこの大妖怪のボスのボスのボスに、その存在理由を聞こうとするとは。お前スーパー大物くんやな!
「石鎚山の青鬼は、『台風や自然に心がないとでも?』と言っていた。妖怪も人も自然現象だから、自然には意思があるって考え方は分る。だからキミにも、何らかの意思があるんだと思うのさ。それを聞きたいのさ!」
「聞いてどうする」
声が轟いた。
「鏡」の前に、空気中に漂っていた青鬼が貼りつき、急激に成長して「鏡」の声の代弁者になったようだ。その青鬼は自壊し、崩れてはまた成長して青鬼の姿になる。
「人が米を喰らうのと何が違うのだ? 我は『心の闇』を喰らう。それだけだ」
「あー、それ、自殺行為だと思うんだよね?」
「何だと?」
「『吸血鬼のパラドクス』と同じだよ。分る?」
「説明してみよ」
「吸血鬼はさ、人間の血を吸って生きるわけじゃん? で、血を吸われた人間は死ぬか、または吸血鬼になる。でもこれ、おかしいんだよね」
「何がだ?」
「これが続けば、一方的に人間が減っていって、吸血鬼ばかりになる。餌の人間が先に枯渇しちゃうんだよ。でも吸血鬼は賢いから、人間が減りすぎないように、自分たちが増えないように制限するんだって。どうやるか知ってる? 『我慢』するんだってさ! おかしいよね? つまりこれは逆説なんだ。増えれば増えようとするほど滅亡する。それって自然界には吸血鬼は存在しないってことの証明でもある。いたらとっくに餌の人類ごと絶滅している筈だよね!」
「……で?」
「『心の闇』がどういう妖怪か分らないけどさ、同じだよ。人間に取り憑き、取り殺して増えるでしょ? いずれ人間が絶滅して、『心の闇』たちばかりになって、餌がなくなるよね? じゃあ君たちも滅びに向かってるの? ヘンじゃね?」
「知らぬ」
複数の青鬼が同時に答えた。
「我は進むのみ。進み、『心の闇』を増やし、人々の心を喰らう。それが我である」
「……きみは、台風と同じかも知れないなー」
シンイチは腕を組んだ。
「その先に何があるかを考えてないんだね?」
「考える必要があるのか?」
「うーん、それを知性というと思うんだよな」
「それだ」
青鬼たちが急激に増え、笑った。顔だけの妖怪なので手足はないが、手足があったら全員一斉にシンイチを指さしただろう。
「人の知性。それこそが『心の闇』なのだ」
「……かつて人には知性がなかった。だけど人が知性の光を持ったが故に、その反対に闇が出来たってこと?」
「そうだ。我はそれを喰らう」
「うーん、じゃ人類全員バカになるか!」
シンイチは笑ってアホな顔をした。青鬼たち、鏡には冗談は通じない。ただゆっくりと前に進むのみだ。シンイチは腕を組み、再び考える。
「シンイチ、よけろや! 轢かれるで!」
光太郎が叫ぶ。間近なところまで「鏡」は迫っている。だが毅然としてシンイチは言い放った。
「じゃあやっぱりきみと闘うしかないじゃん。生かしてたら人類絶滅&きみも餌がなくなって全滅。きみを倒せば人類は救われる。かも」
「何を分かり切ったことを。人類は人類でがん細胞のように増えている癖に」
「そうだね。お互い地球の癌細胞かもね!」
シンイチは笑う。
「でもさ、オレ、妖怪と人類がうまく共生する方法ってないかな、って思ってたので! その為に、『橋渡し』ができないかって考えてたんだ」
皆、はっとする。それは薬師坊大天狗が望んだこと。シンイチは、このぎりぎりまでその可能性を探っている。
「うまいこと共生する方法、ないかなあ」
「不可能也」
「鏡」は止まらず歩を進めた。目の前に餌――「心の闇」の渦巻く人の都市がある。止まらない筈もない。
「オレは、きみを理解したい」
シンイチは鏡に右手をついた。
だがその鏡は、想像していたような硬質で冷たいものではなく、柔らかかった。
「え?」
そのまま、ぐにょんと鏡は歪んだ。
「えっ? えっ? えっ?」
シンイチの腕が、「鏡」に喰われていく。
「シンイチ!」
光太郎はシンイチの所にすっ飛び、シンイチを「鏡」から引きずり出そうとした。
ずるん。
シンイチの肉体は、「鏡」の中へ取り込まれてしまった。
「シンイチ!」
光太郎は鏡を叩いた。それは冷たくて硬い鏡でしかなかった。
「シンイチ!」
5
中は真っ暗で、闇が広がっていた。
「シンイチ! シンイチ!」
光太郎の声に後ろを振り返る。光太郎が、天狗たちがいる。進行方向には北九州市が見えている。
光太郎は自分が消えた辺りを、何度も拳で叩いている。
シンイチはその鏡を触った。固く、冷たく、すぐ向こうに光太郎がいるのに全くそれを感じなかった。
「完全に遮断しているのか……」
「そのようじゃの」
傍から声が聞こえた。
「ネムカケ!」
「シンイチのお供もしんどいもんじゃわい。一人で鏡に取り込まれるなんて無茶しおるぞい」
「一人で心細くなってたけど、ネムカケがいれば百人力だ!」
後方の暗闇へ、シンイチは目を凝らす。
鏡で出来た迷路が、奥に広がっていた。
その一枚一枚は角度が微妙に異なっていて、シンイチの顔をそれぞれ違う角度で写している。
「何か普段見ている自分の顔の角度じゃないから、別人みたいだな」
「奥に進んでみるかの?」
「うん。鏡って何か、オレはそれを理解したいんだ」
その鏡に、天狗達、てんぐ探偵達の火炎攻撃が写っている。音は伝わって来ないから、まるで他人事のように見える。
目の前の複数のスクリーンに、状況が映し出されているようだった。だがその炎も、物理攻撃も、ことごとく手前で跳ね返って彼らに返ってゆく。とっさに飛びのくが、このままでは自分の攻撃力に殺されてしまうかも知れない。
「おりょりょ。射線が被って同士討ちにならなきゃええの」
「天狗の反射神経ならセーフでしょ」
「それは心配せんよ。じゃが、上の連中」
「あ、罵詈雑!」
「阿呆、阿呆!」
光太郎のお供の烏の罵詈雑と、峯のお供で隼のファルコが「鏡」に向かって突撃、体当たりを繰り返していた。
「無駄だよ! 罵詈雑! ファルコ! 『鏡』には効かないぞ!」
「……はて?」
「はて、って何? ネムカケ!」
「彼らは『鏡』を攻撃しているつもりはないかも知れんぞなもし」
「どういうこと?」
「知っとるか。野生動物は、『鏡』を理解せん」
「そうなの? 知らないぞそれ?」
「鏡の中に自分が写っている、つまり鏡像を理解するのは、知性のある獣だけだそうじゃ。チンパンジー、イルカ、ゾウ、そして人間だけだと」
「ネムカケは理解できないの?」
「ワシは妖猫じゃからセーフ」
「そっか。じゃ、罵詈雑やファルコはなんで攻撃してんの?」
「敵の鳥がすぐそばにいると思うのじゃ。その敵を追い払っているだけなのじゃ。あいつらは血気盛んだから攻撃するが、臆病なやつならば、『敵だ! 危ない!』と思って逃げるくらいじゃ。野生の虎すら、逃げて隠れるらしいぞい」
「そうなんだ!」
さくらのお供の白鹿の蛾次郎、赤石のお供の金のジャッカルのジャック、百地のお供の牛の赤目と八幡のお供の猪のしのぶは、森の中に身を潜めている。才一のお供の管狐のすずも、鬼塚のお供の土蜘蛛のクロオも、袖の中で縮こまっている。酒田のお供で柴犬の山田は、蛾次郎の隣で敵だ敵だとわんわん吠えるのみで――
どすん。巨大な衝撃が走る。
「松尾!」
象のように巨大な狼、三神のお供の松尾が鏡に体当たりを繰り返す。金の瞳は、鏡の中のシンイチを見ているかのようだ。
「分ってるんだ! 鏡の向こうにオレがいること! でも無駄だよ! 八幡さんが『命を大事に』って言った意味が分る。全部自分に跳ね返ってくるんなら、どうしたらいいんだろ?」
ずずん。さらに巨大な地響きとともに、炎に包まれた赤い巨人が現れた。大天狗よりも大きく、裸の仁王像のような筋肉隆々の天狗であった。
「誰? 大天狗より大きな――」
「英彦山豊前坊。日本八大天狗にして、てんぐ探偵八幡蔵人の師じゃの」
「八幡さんの師匠? ……武闘派なんだ」
炎に包まれ、怒張した右拳を振り上げる。力任せにそれを鏡に叩きつけた。
鏡は歪む。しかしその歪みはもとの拳へ集中して戻ってゆく。拳ごと豊前坊は吹っ飛んだ。
「むんッ」
体勢を立て直し、三発、五発、七発。爆弾のような衝撃を何度浴びせても、「鏡」は歪み、そして同じ力を天狗の拳に跳ね返した。
「九州男児のパワー見せてくれる!」
豊前坊はラグビーのように「鏡」に体当たりし、そのままスクラムを組んで「鏡」の進行を止めようとする。だが両脚が地面にめり込んだままずるずると後退していく。金剛力士のような筋肉をもってしても、「鏡」の進行は止められないようである。
「このままだと、山を降りちまうぞ!」
八幡が叫んだ。もうすぐ麓だ。その向こうは街。
ずずん。豊前坊よりもさらに大きな天狗が現れた。
「おせえぞ愛宕坊!」
「すまん寝てたわ」
叫んだ鞍馬天狗に、愛宕坊――日本八大天狗の筆頭、愛宕山太郎坊は答えた。年寄の顔めいた鞍馬天狗に比べ、愛宕太郎は赤ん坊のような顔立ちである。素直すぎる性格で、自由奔放な天狗だ。
「愛宕大火」
目の前が赤に染まった。平安時代京都を焼け野原にした、愛宕の火が鏡に向かう。だが目の前のスクリーン、鏡の表面で全ては反射し、火は愛宕坊のもとへ帰った。
「近江比良山次郎坊なり」
僧兵の恰好の大天狗が現れた。
「信濃飯綱三郎なり」
烏天狗が現れた。
「大仙伯耆坊」
「大峰山前鬼坊」
「白峰山相模坊」
次々に現れる天狗たち。
「ほうほう。日本八大天狗が勢揃いとはのう!」
ネムカケはありがたやーと両手で拝んだ。それくらいに稀なことらしい。
「八大天狗が全員揃うのは、初めてじゃなかろうか!」
鞍馬天狗は破魔矢を構えてテンションが上がった。
「前一回あったよ。崇徳上皇の讃岐流しのときだな」
伯耆坊が答えた。もともと相模大山にいた相模坊が、崇徳上皇の讃岐流しについてきた(山替わり。現在相模大山は天狗の空席)ため、八大天狗がそれに付き合った宴会である。能の「松山天狗」にも出てくる話で、「雨月物語」にも語られている内容だ。
「そうじゃったそうじゃった! ワシは自分の出番の『謡曲鞍馬天狗』しか覚えとらんでの!」
才一は「松山天狗」をひと舞し、八大天狗集合の舞を奉納する。
鬼の顔の前鬼坊(鬼塚の師匠)は両拳を握りこみ、叫んだ。
「いっちょやったるか!」
日本八大天狗は、太古の昔から日本に住む大妖怪である。日本にいる数万とも十二万とも言われる天狗たちの頂点で、天狗の秩序を統べる者たちである。
その八大天狗が揃う――妖怪王「鏡」を、妖怪世界の秩序を乱した「新型妖怪」の存在を、許していないのである。
「ファイヤー!」
八大天狗の四――鞍馬天狗が発破をかけると、八つの炎が向かってきた。しかしことごとく彼らに返って行く。
「ファイヤー!」
一斉に火を吐く。八大天狗は思い思いの炎を浴びせた。
愛宕太郎は「京都名物八つ橋の火」を、
比良山次郎坊は「琵琶湖の涙」を、
飯綱三郎は「戸隠そばの火」を、
鞍馬天狗は「破魔矢」を、
大仙伯耆坊は「灼熱の砂丘の砂」を、
大峰山前鬼坊は「那智黒の拳」を、
白峰山相模坊は「うどん火」を、
英彦山豊前坊は「豚骨火」を浴びせた。
だがどんな炎も駄目だった。
英彦山の麓は焦土と化し、てんぐ探偵たちとお供は避難場所を探すので精一杯である。
「ええー。これでも駄目なのかー……」
シンイチとネムカケは、あまりの炎の明るさに、腰のひょうたんからサングラスをかけ、炎の競演を見つめるしかなかった。
シンイチは鏡の迷路を触る。ひんやりと冷たい。
「あれだけの炎の熱が、伝わりさえしていない」
「真空の層があるやも知れん」
「魔法瓶と同じ原理?」
「そうぞなもし」
日本妖怪最強の攻撃力をもってしても、妖怪王「鏡」の進行を止めることは出来ない。
ゆっくり、だが確実に「鏡」は街に入る。北九州市のメインストリートへ。
6
街には人がいて、こちらを見た。
つまり、「鏡」を見た。
妖怪は人間には見えない。ただこちらを見ただけだ。
魔が差すときに、ふと「鏡」が見えるのだろうか? とにかくその瞬間、その人の肩に、妖怪「心の闇」が取り憑いた。妖怪「誰か」である。
「えっ……あまりにも一瞬で『心の闇』が取り憑いたぞ?……百パーセント『心の闇』に取り憑かれるってこういうこと?」
人がいた。その人もこちらを見て、妖怪「ねたみ」に取り憑かれた。
人がいた。その人もこちらを見て、妖怪「あとまわし」に取り憑かれた。
次々に、次々に、人々は「心の闇」に取り憑かれてゆく。
量産。
心の闇が量産されてゆく。その様が、鏡の迷路に色んな角度で映って見えた。
人によって、肩の上に湧くように現れた「心の闇」は、色も形も違っていた。赤、青、ピンク、グリーン、オレンジ、金、紫、黒――。カラフルな色と様々な形の「心の闇」が、急激に街にあふれてゆく。「あれは『なかまはずれ』、あれは『上から目線』、あれは『若いころ果たせなかった夢』……!」
「てんぐ探偵! 出番やぞ!」
光太郎が飛び、炎の大鴉で「心の闇」と心の臓を切り離し、燃やした。鬼塚が鬼フックで「心の闇」を叩き潰し、さくらの法螺貝の音波が心の闇を包み込む。てんぐ探偵たちの縦横無尽の活躍で、次々と「心の闇」は浄火されてゆく。これはシンイチの根治療法ではない。あくまで対処療法で、時間が経てばまた「心の闇」は生えてくるかも知れない。だがいちいち根治している時間はない。信号が青に変わった。鏡の見えていない大量の人が、横断歩道を渡ってこちらへ向かってきた。
「やばいイタチゴッコになる!……」
シンイチは予感した。鏡は心の闇を生産する。てんぐ探偵は斬る。打ち漏らした心の闇を「鏡」が喰らい、少しだけ大きくなる。天狗達がどれだけ止めても「鏡」は止まらない……つまりこの先にあるのは、「鏡」の巨大化。
人々に妖怪は見えていない。「鏡」も「心の闇」もだ。「鏡」が人にぶつかっても物理的干渉はなく、ただ通り過ぎるのみである。天狗も、天狗の炎も見えていない。物理的干渉もないので焼けることもない。ただ人間に人間は見えるから、修験道の恰好をしたジジイとガキ(イケメンや!本人談)と、女子高生と能の衣装を着た人と、トレーニングウェアの人と、頭にタオルを巻いたラーメン屋と、黒いマントのオッサンと、神主と赤Tシャツの男が、天狗のお面をつけて走り回ってヘンテコなパフォーマンスをしているようにしか見えていない。
「この『鏡』はどこへ向かってるの? 人の多い所? 都会? まさか……」
「うむ。そのまさかじゃろうの」
「日本中を縦断して……東京にでも向かうのかな?」
「九州から近畿へ、それから東海道沿いに東京かのう。止められなければ」
「……」
シンイチは考える。策は? 策は?
「……」
シンイチはぴしゃりと頬を打ち、開き直った。
「オレ達は中を探検しよう。どうせオレが何を言っても外には届かない。外は外で、てんぐ探偵と天狗たちに任せるしかない」
シンイチは腰のひょうたんから縄を出した。
「その縄をどうするのじゃ」
「端っこをここに置いて、徐々に縄を出しながら迷路を進めばいいでしょ? 最悪ここに戻って来れる」
「賢い! 流石シンイチ!」
これは英雄テセウスがミノタウロスの迷宮を突破した方法である。戦うてんぐ探偵達、八大天狗達を背に、シンイチとネムカケは鏡の迷路世界へと足を踏み入れた。
色んな角度の自分とネムカケが沢山映っていて、どれが本物か一瞬区別がつかなくなる。
「これは『鏡』の内臓なのかな? 『心』なのかな?」
シンイチはネムカケに尋ねる。
「分らん。しかし広いのう。ぐるぐる回っているような気分になって来る」
「一端戻る?」
不安に思ったシンイチは縄を取ろうとしたが、青くなった。
「切れてる……!」
千切られたような跡がある。
「いつの間に!」
「はーっはっはっ。甘い甘い甘々ちゃんだぜ!」
鏡の中から青鬼が顔を出して嘲笑った。
「オイラが食い千切ってやったぜ!」
別の鏡から別の青鬼が顔を出す。
笑う青鬼。笑う青鬼。たくさんの青鬼が鏡の迷路の中に現れた。
「青鬼って体内常在菌みたいなものなの?」
シンイチは冷静に観察する。青鬼はせせら笑う。
「『鏡の迷路』を抜け、外に出る方法を教えてやろうか?」
「なにそれ?」
「この問いに答えられたら出してやる」
「問い?」
どんな難問でも答えてみせる。シンイチはこれまでそうやって解決してきたのだ。伊達じゃねえぜ。そう思い、次の質問を待った。
「鏡は左右を反転するのに、何故上下は反転しないのか?」
「?????」
混乱した。頭の中でぐるぐる回す。
「たしかに。何で?」
いや、いかん、これは妖怪の作戦で、あり得ない問いで混乱させるのが目的かも知れない。
「しかし……え……何でだ?」
妖怪の作戦だとしても、この問い自体の答えが、シンイチにはぱっと出なかった。落ち着け。落ち着け。じっくり考えろ。
「ネムカケ知らない? このナゾナゾの答え!」
「んんんんん?」
三千歳の知恵袋、ネムカケは首をひねった。左右に上下にひねり、グキリと腰を痛めそうになった。
「なんでじゃろ?」
ネムカケはでんぐり返しをして、横に転がり、必死で考える。
「むっ。そういえば、思い出したぞい」
「えっ! 答えを知ってるの? 教えてよネムカケ!」
「いや。これはギリシャ時代からの問いなのじゃよ。それから人類は数千年――」
「数千年かけて、答えを見つけたの?」
「いいや。数千年かけて、まだ決着がついていない難問なのじゃ」
「ええええええ?」
鏡は左右を反転するのに、何故上下は反転しないのか?
ここに、人の心の謎を解く鍵がある。
てんぐ探偵只今参上
次は何処の暗闇か
次回、妖怪王「鏡」中編「鏡地獄」につづく
次回予告
なぜ鏡は左右を反転するのに、上下は反転しないのか? ギリシャ時代以来の問いを解かない限り「鏡」の中からは出られない。
その中はなんと、シンイチの故郷とんびの町だった。だがシンイチ自身の顔が違う。それは他人が思っている「シンイチ」。他人のシンイチ像は全て異なる。オレの共通点がないじゃないか!
次回てんぐ探偵第百七話「鏡地獄」に、ドントハレ!




