第九十七話 「清五郎の心」 大妖怪「虚無」登場(後)
心の闇の奥底に 更に広がる闇がある
集え天狗の弟子たちよ 若き炎で闇を焼け
1
「大天狗は、なんで人間から天狗に化ったの?」
座り込んだまま動かない大天狗に、真正面からシンイチは問うた。
大妖怪「虚無」の、無数の無の肢。それは大天狗の全身を蝕んでいる。
遠野十天狗は、遠野世界を統べる。その十のうち五は、元人間から天狗に化った者であった。天ケ森イタチ坊、白見山立丸坊、五葉山真人坊、物見山鎧丸。皆それぞれの理由で不老不死を欲した者たちだった。
大天狗――早池峰山薬師坊もそうなのだろうか?
シンイチは考える。
親友、鞍馬光太郎は術によって十二歳――阪神大震災時の年齢で、時を止め続けている。死を目の前で経験しすぎて、「命とは何か」を知りたいと思ったからだ。大天狗にも、そのような悲劇があったのだろうか?
「清五郎」
大天狗は声を振り絞って言った。
「……私の人間時代の名は、清五郎といった。姓はない。馬村の清五郎と呼ばれていた農民だった」
苦しそうに大天狗は呻いた。それ以上話せそうにない苦しみが、眉間に皺を刻んでいる。普段見上げるほどに高い、つやつやの赤い顔が陰に沈んで暗くなっている。心の中で、大天狗は大妖怪と闘っている。しかしそれは表には出てこない。
長老天狗、三つの目を持ち十二枚の羽を持つ、天野山天道坊が地上へ降りて来た。
「薬師坊は儂の弟子よ。儂が天狗にしてやったのだ」
「どうして? 大天狗は何を望んだの?」
「……あれは、千年ほど前かの」
天道坊は空を仰いだ。天狗に時を数える習慣はないが、あえて人間の為に数えたようである。
馬村という小さな村があった。
清五郎は働き者の農民で、今年の米は豊作だった。ようやくこれまでの借金を返し終えられるだろう稲穂が、たくさん実った秋だった。
美しく働き者の嫁に恵まれ、子宝にも恵まれ、清五郎の人生は、黄金のこの稲穂から逆転しようとしている時であった。
村の外れに、不吉な黒い煙があがった。
野盗の群れがやってきて、火をつけたのだ。
田んぼの草むしりから帰ってきた清五郎は、秋を告げるアキアカネを一匹捕まえて、長男の太郎に見せようと思っていた。だが家の中は暗く静かで、清五郎は思わずアキアカネを手放した。妻と子らが、死体として転がっていたからだ。首は切られ、腹は裂かれ、現金が入ってきたら替えようとしていた古畳が、真っ赤な血を吸っていた。その赤の中に、アキアカネが一周して窓から出て行った。
清五郎は鉈を振り、野盗共に襲いかかった。二人殺した。だが三人目に捕われ、集団に抑えつけられ、両腕と両脚を斧で切断された。うち一本は業物と言われた日本刀であったが、すぐになまくらになったので斧に替えられた。重たい斧で手足を切られるのは、痛みというより重みしか記憶に残らなかった。
「真っ赤な達磨さん転んだ」と、清五郎は草むらの中に放り出された。
秋を迎えていずれ枯れていく、いまはまだ夏の緑が残る畦道は、赤一色に染まった。
死は間近に来ていた。清五郎は、唯一動く首を回して我が家を見た。最後に一目家族の顔を見たかったからだ。だがそれも叶わなかった。両目を抉られたからである。
家の焼ける匂いがする。野党たちの笑い声が去ってゆく。
焼け、爆ぜる音しか聞こえなくなった。
「何故人には、いのちがあるのか」
清五郎は呟いた。
「何故人は死ぬのに、生きるのか」
清五郎は運命を恨んだ。馬村の大明神も、虚空蔵菩薩も、薬師如来も恨んだ。あれだけ拝んだのに、神も仏も、何もしてくれなかった。
だから、天に唾を吐いてから死のうと思った。両手両脚両目のない、赤い達磨の清五郎は、自分の全生命力をもって、人生最高の高さまで天に唾を吐いた。
天に唾吐く者は、己に返ってくるという。
だが待っても、その唾は落ちてこなかった。
自分はもう死んだから、唾を感じないのだと清五郎は思った。
その唾が落ちて来なかったのは、清五郎が死んだ為ではなく、天を通りかかった天道坊の顔にかかったからである。それで天道坊は足を止めた。この命の消えゆく人間に、興味を持ったからである。
「知りたいか」
天道坊は尋ねた。
「終わらぬ命が、主の問いに答えられるかも知れぬ」
「……私は、どうすればいい」
「儂の弟子になれ」
こうして清五郎は、大天狗天道坊に命を拾われた。
天狗の薬草で回復し、天狗の山で傷を癒し、修行によって不老不死の天狗の肉体も手に入れ、人間清五郎の命の最後の灯は、薬師坊大天狗の、巨大な炎となった。
「薬師坊は、『命とは何かを知りたい』と言った」
天道坊は、三つの金の眼を瞬かせて言った。
「ふん」
飛天がそれを聞き、あざける。
「それで薬師よ、命に限りある者が六道の外へ出て、何が分ったというのだ?」
大天狗は小さな声を振り絞った。
「……何も分らなかった。……これを知るのには、永遠に生きて初めて分る、と思った」
「笑止。是逆説也」
飛天は更に笑う。
「五十六億七千万年後にまた聞くとしよう」
飛天は空に飛ぶ。
「天狗共よ! いいのか?」
飛天は、灰色の冷たく曇った空から指示を飛ばす。
「周囲の状況は、より悪化しておるぞ!」
大天狗の肉体に刺さった無数の触手は、空中の大妖怪の本体に、虚無なる栄養を与え、注いでいる。最初に見た時より、上空の大妖怪「虚無」は何倍にも膨れ上がり、成長した大樹のように、根を遠野七十七の山へ広げている。いずれ遠野盆地の外にも手を伸ばすだろう。
「対症療法だが、焼くしかあるまい」
炎寂は大天狗の肉体を焼いた。
白女は天に舞い、竜巻の炎を出した。飛天と共に本体を焼き切らんとする。明神独眼は一ツ目から火柱を出し、周囲の肢を切断する。飯綱神は峰伝いに隣の山へゆき、菌糸のように広がる根を狐火で焼いた。
てんぐ探偵たちも協力する。峯丈は炎の霊槍で一本一本肢を断ち切る。赤石大志は炎のドリルで突貫工事。三神は幣を振り、狼は食い千切る。シンイチも小鴉を抜く。
「大天狗!」
シンイチは火の剣で無数の触手を切りながらも、尚大天狗に話しかけた。
「オレ、大天狗と出会って楽しかったよ!」
ぬらりひょんが「妖怪でありたい」とむなしい心から脱出したとき、心の闇から抜けたことを思い出していた。虚無の反対は在だ。「在る」ことに心が向かえば。
「遠野での修行は辛かったけど、そのお陰でオレはこうして闘えているんだ! 大天狗の稽古は意味があったよ! 遠野で妖怪『不安』を倒したあと、妖怪たちと皆で酒盛りした時、本当に大天狗は楽しそうだったよね! またみんなでやろうよ! ていうか、本当はその為に来たんだけど! 河童のキュウにもまだ会ってないしさ、ぬらりひょんも呼ばなくちゃ! 飛天僧正はまだ喧嘩したがってるし、大天狗は『在る』べき人だ! まだ闇に消えちゃいけないんだ!」
シンイチの声は、大天狗に届いただろうか。
触手は更に増え、大天狗を中心に、繭のように取り巻いてしまった。
「くっそう、全然人手が足りないよ! バカな光太郎助けに来いよ!」
空に一点、黒い烏。
たちまちそれは大きくなり、地面に降り立った。
「だーれーがーバーカーやねーん!」
「来たのかよ光太郎!」
地獄耳の光太郎は笑って大太刀の大鴉を抜いた。光太郎は口笛を高く吹いた。天空に飛ぶ罵詈雑は「阿呆」といなないた。
たちまち、一本高下駄を履いた「万里眼」のさくら、「百面師」の才一、「鬼倒し」の鬼塚、酒屋の酒田が飛んできた。
「ウチの万里眼で見えてたで。てんぐ探偵大集合やってな?」とさくらは笑い、
「ひと舞い献上奉る」と才一は扇を開く。
鬼塚は黙って拳を固く握りしめ、酒田は「これ終わったらうまい酒飲みにいこ!」とすでに酔拳が始まっている。
シンイチは朱の大天狗面を被り、火の剣小鴉を構えた。
光太郎は黒の烏天狗面で、火の剣大鴉を構える。
さくらは青の三目蔵王天狗面を被り、朱の法螺貝を構えた。
才一は白の能天狗面を被り、背筋を伸ばして金の扇子を広げた。
鬼塚は鬼天狗面を被り、左拳の手甲から炎を出す。
峯は黒の三ツ口醜悪天狗面で、炎の槍を水平に構える。
酒田は朱の禿天狗面を被り、朱のひょうたんから火吹きの酒を仕込む。
三神は白狼天狗面を被り、神力の大幣を構えた。
赤石は朱の烏天狗面で、竜の爪の炎の螺旋を纏った。
九人の若者は、天狗の面を被ると天狗の力が増幅するてんぐ探偵である。
シンイチは小鴉の炎で触手たちを撫で切りにし、突き、払い、流して巻き、全身の力で斬った。
これまで鍛えてきたあらゆる太刀筋を披露する。鞍馬天狗に言われたんだ。斬る前は全身の力を抜いて、斬る時だけ一瞬鋼になれと。すばやく動き、状況に応じれるようにいつもはフニャフニャで、斬る時だけグンッて行くんだ。
鞍馬天狗見てる? そして大天狗見てる? これが鞍馬流剣術だ。日本最古にして最強の剣。牛若丸の剣。
この小鴉は、大天狗にもらったものだ。折れた時は飛天僧正に修復してもらった。この小鴉で、オレは大天狗を助けたいんだ。
「火力が足りぬ」
炎柄の衣を翻し、炎寂が呻いた。
「天狗の弟子たちの協力に感謝する。だがなお火力が足りぬ」
飛天が空から叫ぶ。
「では、地獄の炎を借りるか」
天狗たちの動きが止まった。それはまるで禁句のように、天狗たちの表情を変えさせたのだ。飛天が嫌われているのは、このように本当のことを言うからかもしれない。
「なにそれ?」
シンイチは無邪気にも聞く。天狗たちは恐怖している。飛天は追い打ちをかける。
「地獄の釜を開けるか、それとも遠野七十七の山の妖怪たちが『虚無』の餌食になるか。妖怪たちばかりではない。このままでは下界の人間共も喰われるだろう。妖怪の王、天狗とて、心があるならば『虚無』にやられぬ保証もない」
「むう……」
炎寂は躊躇う。
「ネムカケ、何それ?」
木の陰で火の乱舞に怯えていたネムカケに、シンイチは尋ねた。
「遠野にはふたつの神がある。天の上にオシラサマ、地の底に石神様じゃ」
「オシラサマはよく聞くけど、石神様って何?」
「地の底にいらっしゃる。真の名を、摩愚魔様という。溶岩を寝床にする、地の底の神じゃ」
飛天が続ける。
「釜石に、地獄に通ずる『釜の蓋』がある」
「……それを開けようって言うの?」
2
遠野盆地からひとつ山を越えた釜石は、かつて鉄が算出し、鉱山として賑わった町である。鉱山が閉じたあとは静かに佇んでいたが、先の震災で津波の被害を受けて有名になった。
その鉱山のさらに山奥、七つの谷を越えたところに、「釜石」という巨大な岩がある。これが釜石の地名の由来になっている。
「……このデッカイ岩が、地獄の釜の蓋代わりなの?」
シンイチは飛天に尋ねた。
「誰も動かしたことがないので分らぬ。言い伝えでは、地獄へ繋がり、石神様が溶岩の寝床に棲むという」
一行はビルのような巨大岩を仰ぎ見た。
「ぬん」
巨漢の炎寂が、牛のように大岩に体当たりした。だがびくともしない。天狗の力は天変地異を起こすというのに、この岩はそれほど特別に硬くて重いのか?
「全員で、『ねじる力』をかけるのは?」
シンイチは提案した。
十天狗がうち五天狗――炎寂、白女、飯綱神、独眼、天道坊、そして半人半天狗の飛天僧正。
そしててんぐ探偵は九人。計十五名の「ねじる力」を合成する。
「これだけいれば、やってみるか。全員で時の進む方向の力を」
炎寂が音頭をとった。
「ゆくぞ! ねじる力!」
全員が思い思いの格好で、術をかけた。
「遠野物語」にすら動いたことが記載されていない釜石は、ねじる力でわずかに動いた。
「いけるぞ! もう一回!」
これだけのねじる力が揃ったことが、かつてあっただろうか。ついに釜石はごろりと動き、地獄の蓋が開いた。中の洞窟から熱気が漏れてくる。
「中に道が!」
シンイチは小鴉の火を松明がわりに入る。
鍾乳洞だ。天から地から、長いつららが剣のように生えていた。人間がこの地に住み着いて以来、一度も足を踏み入れたことのない洞窟へ、一行は降りていった。
溶岩がこの先にあるという。地の底に近づくに連れ、冬だというのに汗をかく温度になってきた。
「うわっ!」
闇の中に赤い光。それはゆっくりと大河のようにたゆたっている。
「溶岩だ! ここが摩愚魔様の寝床?」
溶岩の流れは二手に分かれて奥へ流れてゆく。いや、そうではない。分水嶺と思われた黒い大きな岩が……
「呼吸しているぞ!」
地獄の蓋の釜石が小石に見えるほどの、山のようなひとつ岩。巨大な熱量の溶岩を二手に分け、その中でその黒岩は眠っていた。よく見ると人の形が胎児のように丸まり、眠っているようでもあった。
「摩愚魔様!」
シンイチは呼び掛けた。しかし応答はない。シンイチは一本高下駄を履き、飛び上がって耳元で叫ぼうと思った。
「熱ッ!」
肩に乗ろうにも、熱気が黒岩の周りに噴出し、近寄ることすらままならない。
「摩愚魔様は火の化身。どの天狗の炎より熱い」
ネムカケが言った。
「起きたい時しか起きないそうじゃ。しかし誰も起きているのを見たことがないぞい」
「困った……どうしよう……。光太郎、水ある?」
「なんでや? ていうか、何の為や?」
「水ビシャーってやったら起きるでしょ」
「なんちゅうこと考えんねん、罰当たりな」
「罰当たりも何も! 遠野の大ピンチなんだ。そんなこと言ってる場合じゃないだろ!」
シンイチは洞窟の外へ走って行った。
「?」
と、両手で抱えきれないほどの雪の塊を持って戻った。
「これでどうだ!」
再び一本高下駄で飛び上がり、大雪を耳元に撒いた。だが空中でじゅうと音を立てて蒸発する。
「足りない!」
シンイチが叫ぶ。
「オモロそうやな! よっしゃ、みんなで雪だるまつくろや!」
光太郎がシンイチに乗っかった。
「それだ!」
シンイチは答える。
「まずねじる力で外とつなぐでしょ? みんなで外へ出て、谷中の雪をかき集めて、巨大な雪玉をつくって、摩愚魔様の上から落とすんだ!」
「雪だるまはどうすんねん?」
「え、二個玉作る必要ある?」
「あるで。気分や!」
「よし、じゃ二個の大玉つくろう!」
天狗達は唖然とした。
地獄の底の神を起こすのに雪だるまだと? だが天道坊は言った。
「遠野に二つの神あり。天にオシラサマ、地に摩愚魔様。天から降る白い雪は、オシラサマからの頂きもの。それを集めれば、天の力で地の力が目覚めるかも知れぬ」
皆はシンイチに続いた。シンイチの奇抜な発想が事態を動かすことは、シンイチを知っている者なら期待することだ。
皆でつくった雪だるまは、大天狗より大きなものとなった。
「どうやって運ぶねん」
光太郎のツッコミにシンイチは答える。
「釜石が動いたんだから、これくらい皆の『ねじる力』でいけるでしょ!」
「確かに! ほなみんなで行くで! ねじる力や!」
シンイチと光太郎のコンビに、天狗達もてんぐ探偵達も協力する。まるで彼ら二人がリーダーのようだ。
地獄の底に向けて、巨大雪だるまが飛んだ。
雪煙を上げて、溶岩流の中に眠る、呼吸する黒岩に命中する。
「なんの雪合戦やこれ」
光太郎は思わず突っ込んでしまう。しかしシンイチは大真面目だ。
「摩愚魔様、目覚めて! 遠野が大変なんだ!」
今度は空中で雪は溶けなかった。どさりと頭の上に落ち、猛烈な湯気を立てて蒸発する。
「ちーべーたーいーのーうー」
黒岩から轟く声がした。
「いかん! 皆逃げろ! 目から火が出るぞ!」
天道坊が警告する。皆はねじる力で空いた穴から外へ出て空へ逃げる。
「摩愚魔様! おはよう!」
シンイチは振り返って叫ぶ。
ごう。
ねじる力で開いた穴から、火柱が立った。
釜石で覆われていた谷が崩れてゆく。周囲に積もったオシラサマからの贈り物――白い雪は溶け、たちまち温泉となった。
白い蒸気の中から、黒い岩石巨人が現れた。
「誰ぞ、我を起こしたのは」
喋るたびに口から炎が出る。その先の樹々は一瞬にして炎に包まれた。
「オレ!」
無謀にも、シンイチがその前に立ちはだかった。
3
その日、地底から何千年かぶりかに目覚めた摩愚魔様の行動は、麓の人間達には地震として観測された。後日、釜石近辺で地崩れが報告され、いくつかの温泉が湧いたことも確認されている。その日の天候は大雪だが、釜石市、遠野市とともに何故か遠野の早池峰山上空のみ雪雲が観測されず青空が広がり、早池峰山中の雪がまるで春でも迎えたかのように消失し、山肌が露わになった怪現象が報告されている。釜石の地震の影響で地熱が増し、山の雪が溶けたのだと科学者たちは後日説明した。だがそれは人間の考える真実にすぎない。神は人間の目には見えないからである。真実は、地の底より目覚めた摩愚魔様が、遠野中に広がった大妖怪「虚無」の触手をことごとく焼いたのだ。
「虚無」に囚われた数多の妖怪たちは、ぬらりひょんに次いでドントハレとなり、死にたいと思う心から妖怪の心へと回復した。
その中の王、大天狗はどうか。
「大天狗! これでも駄目なのかよ!」
摩愚魔様の高温をもってしても、大天狗の肉体は滅びず、同様に大妖怪「虚無」の本体は潰えなかった。火の力では心は変えられない。根本的な解決策は、大天狗が死ぬか、大天狗の心が虚無に取り憑かれなくなることだ。
シンイチは後者を選択したい。大天狗といて楽しかった日々を、大天狗に思い出して欲しかった。ね、命を永らえて良かったでしょ、と言いたかった。だが大天狗の心は閉じたまま開かなかった。
てんぐ探偵としてこれまでやってきたことは何だったんだろう。
シンイチの目に涙が浮かぶ。
「どうして分ってくれないんだよう! 人の心の謎を解き、『心の闇』はどうやって退治するか、完全に解明したくないのかよ!」
この世には、目に見えないほど小さな青鬼が空気中に漂っている。人が心の闇に取り憑かれたとき、その影に触れた青鬼は妖怪「心の闇」へと成長する。ここまでが、ようやく分ったことだ。心の闇同士は連携して繋がり、大妖怪化するが、大妖怪だろうが小妖怪だろうが、宿主の心の闇を根本的に祓えれば、妖怪は心の臓から離れ、成長できなくなる。それがシンイチのたどり着いた「妖怪退治」であった。
「オレのやり方じゃダメなの? オレは大天狗を救えないの?」
「落ち着けやシンイチ!」
光太郎がシンイチの肩を叩いた。
「いつものシンイチとちゃうで。動揺しとる。いつものお前やったら、『あ、思いついた、ピカーン!』ってやってきたやんけ!」
「そんなうまいこと行かないよ! いつも必死で考えてきたんだ!」
「せやな。それがお前のエエ所や。でもな、ちょっと周りを見てみ?」
さくらがいた。才一がいて、鬼塚がいた。さくらがほほ笑む。
「ウチらは直接君と知りおうて、一緒に闘った仲やん? シンイチの凄さは誰よりも知ってんで。まあ落ち着きよし。あかんかったら、ウチらが何とかするし」
「ひと舞い舞えば、心も落ち着かむ」
「いや、苦しい時こそダッシュだぜ」
「みんなバラバラじゃんか」
シンイチは笑って突っ込んだ。
「ツッコム余裕はまだあるようやな」
光太郎は、まだ本気で心配するときではないと信じた。
「シンイチが思いつかなくても、誰かが『虚無』の心から離れる方法を思いつけばよい」
と峯は言った。
「ワシやったら酒やねんけどな」と酒田は無限に酒の湧く天狗のひょうたんを掲げる。
「山籠もりで穢れを落すか」と神主らしく三神は言った。
「このドリルでは天狗の心臓まで届かん。火事の方が簡単なくらいだ」と赤石は首を振る。
てんぐ探偵は九人いる。それぞれがシンイチの活躍をその目で見てきた者たちだ。だから、シンイチへの信頼は厚かった。
てんぐ探偵は十人いる。
「ん? 十人目やと?」
十人目のてんぐ探偵が、いつの間にかそこにいることに光太郎は気づいた。
「アレ? なんで? 自分誰やねん」
「うむ。出るタイミングが難しく、名乗る隙を伺っていたでござる」
黒づくめの男。忍者の恰好のようであった。
黒頭巾の中は赤目の天狗面。背格好は小さく、軽業師のような体形。
「申し遅れた。赤目四十八滝、伊賀忍者の百地尹之助でござる。師は笠置山大僧正。十一人目のてんぐ探偵、八幡蔵人より伝令を託され、早駆けに参じ申した」
「伝令?」
「今から十分ほどして、羽黒山中地獄谷に大地震あり」
「?」
そもそもこの旅は、シンイチと峯丈が、羽黒山を目指すまでの旅の途中であった。何故そこに大地震が?
「心の闇に、根源的な七つの闇があることは?」
「七角形の角を持つ青鬼が、そう証言していた」
青鬼から直接聞いた峯が答えた。
「その闇は、たったひとつの妖怪から発生したことはご存じか」
「マジか!」
シンイチがうっすら考えていたこと。心の闇には基本になる原型があり、それらは七つの淵に過ぎず、大いなる根源的な闇がその奥にあるのではという思い。
シンイチはようやく真実に触れた気がした。
「その名を、大妖怪の中の大妖怪、妖怪王『鏡』という」
古来、鏡は魔力を宿すとされた。三種の神器にも数えられるほど呪力の強いものだ。付喪神が大妖怪化したのか、それとも。
百地は赤目の天狗面を外し、黒頭巾の中の素顔を見せた。精悍な、戦う者の顔をしていた。
「我々は九州で闘っていたのでござる。妖怪『心の闇』が現れて以来」
「我々、というのは」
「我が眷属の赤目牛『但馬』と、英彦山の大僧正、てんぐ探偵八幡殿とでだ」
光太郎は目を剥いて驚いた。
「さっきからどっかで聞いたことある名前やと思てたら、八幡ハンいうたら、修験道界隈では知らん者のおらん大僧正やんか! 行方不明になったって聞いてたけど」
「鏡との闘いに入った為、下界と連絡を絶ったのでござる」
「そうやったんか……」
「八幡殿は『心の闇』と闘ううち、それが七つの『原型』に根差したものであることを突き止め、更にそれはたった一つの妖怪から生まれたことを突き止めたのでござる」
「それが、あの大鏡か」
「これまで八幡殿が、九州の高千穂に『鏡』を封印し続けていたのでござる。それが近年の増え過ぎた心の闇に耐えられず、ついに八幡殿の結界が一部破られたのでござる」
「なんと」
「きゃつは己の体の一部を割り、その破片を全国に散らしたのでござる。八幡殿によれば、その数は八つ。うちひとつが遠野に」
「……まさか」
シンイチは腰のひょうたんから遠眼鏡の千里眼を出し、過去通の力を使って大天狗を見た。
元気な頃の大天狗が、山をパトロールしている。谷にきらきら光るものを見つけ、大天狗はそれを拾った。それがまさに、鏡の一部であった。
たちまち、大天狗の心臓に妖怪「虚無」が芽生えた。それはあっという間に成長し、触手を遠野中に伸ばす、大妖怪となった。
「大天狗は、その『鏡』に触ってしまったんだ!」
忍びの者、百地は続けた。
「その『鏡』の破片は、その後羽黒山に向かった所までは突き止めたのでござる。八幡殿は未来通の力で、大地震とともに再び『鏡』の破片が姿を現すと知り、拙者を向かわせたのでござる」
「皆の衆」
二の天狗、炎寂は皆を見た。
「儂は薬師をこのまま助けたいが、それよりも大物が羽黒に来る。上空の『虚無』と合体されても困る。闘いにゆくしかあるまい」
「儂はここに残り、『虚無』を焼き続けるとしよう。天狗達はそちらに行け」と、摩愚魔様は言った。
「大天狗」
シンイチは虚無に取り憑かれた、赤い巨人に向かって言った。
「必ず戻る。それまで耐えて。絶対助ける方法は思いつく」
てんぐ探偵たちはそれぞれの仮面を被り直し、それぞれの得物を持った。
五人の天狗と一人の半人半天狗は、体中から炎を出して戦闘態勢を取る。
「羽黒山。三大修験の一。北の天狗達の聖地へ」
シンイチが言い、皆思い思いに飛んだ。
4
羽黒山、湯殿山、出羽山の連峰は「出羽三山」とも呼ばれ、羽黒修験の聖地である。東北には険しい岩山が数多あり、それぞれに天狗の修行場となっている。その中でも羽黒修験は最大の勢力を誇り、東日本最大の規模である。修験道開祖、役小角直系の奈良吉野、九州の英彦山と並び、日本三大修験と言われる。
その羽黒山の峰と谷の奥に、地獄谷温泉と呼ばれる硫黄泉があった。「温泉」などという生ぬるい名前とはほど遠い、死の泉であった。有毒の硫黄ガスが噴出し、生物が生きることを許されない。周囲の岩はそのガスで変色し、黄色と蒼の縞模様を呈していた。その広大な泉――泉というより池のような地に、大妖怪「鏡」の一部が出現するという。
一行が到着しても、その姿は確認できなかった。さくらは万里眼を開き、これから起こることを予見する。
「……アカン」
さくらはその未来図に絶望したかのようだ。
「どうしたのさくらさん?」
「ウチの見た未来を、変えなアカンで。未来は変えられるんや。ウチらはその為にここに来たんやで」
「勿体振らんと、はよ言えやさく姉!」
光太郎がせかす。さくらは咳払いし、告げる。
「あと七分で、ここに直下型の大地震が起こる。これ自体は八幡ハンの予言と同じや。ウチが見たのはさらに悲惨な未来……」
「つまり?」
「雪崩が起きて、みんな巻き込まれて死ぬ。『鏡』はその機に乗じて、遠野へ進み、大妖怪『虚無』と合体、さらなる巨大妖怪に成長を遂げる」
「ちょっと待ったれや!」
光太郎が言う。
「そんなアホな! 全員死ぬって」
「それを変える為に来た。そうだよね?」
シンイチは冷静に言う。
「その大地震までに……妖怪『鏡』を倒せばいいんだよ」
黒い翼を広げ、明神独眼が叫んだ。遠野一の千里眼だ。
「あの空を見ろ!」
「えっ、何?」
その空の一部が、四角に切り取られていた。
いや、違う。
「鏡に空が反射してるんだ! アレが『鏡』!」
明神独眼は、一つ目から火を吹いた。
「それはアカン!」
万里眼のさくらが予言する。
炎は、鏡の表面で反射して戻ってきた。
「おおっと!」
その返り火を、からくも明神は避けた。
「どういうことやねん。全部反射するんかい!」
光太郎はその鏡を睨んだ。
「試してみるか」
炎寂は最大火力を「鏡」にぶつけた。その渦巻く炎は、ことごとく帰って来る。炎寂自身がその炎で焼かれることはないが、他の天狗たちはその炎を避けて飛びのく以外にない。
「オイもっと考えて火を放ちな! 牛男!」
白女も竜巻の炎を鏡に投げるが、帰って来る。ねじる力でそれを曲げ、再び鏡に返すも、再び反射される。
「全員の火力を集中すれば、割れるか」
飛天僧正は虚空蔵菩薩印を結んだ。
「七支炎」
「言われなくてもやってやるよ!」
飯綱神が狐火を追加し、明神、炎寂、白女、そして天道坊も火力を追加した。
だがそれすらもことごとく跳ね返される。攻撃、反射、回避。何度やっても同じループだ。
「ねじる力でループをつくるんだ!」
シンイチは叫んだ。
炎、反射、「ねじる力」でまた炎、反射……反射した炎を「ねじる力」で再び「鏡」へ当てる。だが徐々に炎は弱まり、燃え尽きてしまった。
「無理か!」
「物理攻撃やったらどないや!」
光太郎は大鴉の太刀を抜き、宙に飛び、切りつけた。
だが硬質な音とともに斬撃力はまともに光太郎の両腕に還ってきた。
「硬った! なんやコレめっちゃ硬い!」
峯の槍、赤石のドリル、鬼塚の拳も同様だ。三神の狼たちもかぶりつく。だがその牙でも傷一つつかない。
「全力で行ったら、拳も牙も壊すぞ」
鬼塚は左拳をひりひりさせながら言った。鬼をも倒す威力が自分に返ってきてはひとたまりもない。
才一は鬼神面を被り、両手に金の扇を広げて炎の扇で切りかかった。だがその力も跳ね返される。酒田は火酒を口に含み巨大な火球を吐くが、それも跳ね返される。忍者の百地は手裏剣を放つが、刺さりもしない。
鏡は何も言わず、ただ静かに進むのみである。
その進行方向は東。
「遠野に向かっている?」
「せや」
さくらは言う。
「地震まで、あと五分」
遠野中に広がった虚無が、この鏡に反射されて増幅することを想像した。それは、大天狗の死を倍早くする――倍? 四倍、八倍と反射したら?
「……」
考えたくない。いや、考えるのだ。知恵と勇気がオレの武器だろ。
「ねじる力で、鏡の進行方向を変えられないかな?」
「やってみよや!」
光太郎はねじる力で、左へ進路を逸らせようとした。
「全員でやるぞ」
炎寂が天狗たちの音頭を取る。全員のねじる力は鏡に作用した。だがその瞬間跳ね返され、反射先の岩が大きくねじれるのみだ。
「違う! 進む少し先の空間をねじれさせて、左に曲げるんだ!」
シンイチは進行方向の空間を指さした。
「なるほど! やってみよ! いくで!」
今度は光太郎が音頭を取る。全員のねじる力は空間に溜まり、鏡の進行方向を左にずらした。
「おっ、行けるやん!」
だがねじる力のスポットから外れると、鏡は再び元の進行方向に向き直る。
「空間をドーナツ状につなげて、ループする回廊を作り出せばいいんじゃない?」
シンイチは必死にアイデアを出す。皆は実行する。
「おっ、行けたんちゃう?」
鏡は左に少しずつ進路を変えられ、円形軌道に乗せられたトロッコのようになった。
「おっしゃ、これで時間稼ぎ出来るで!」
シンイチは周回軌道に入った小さな鏡を見た。
「九州の八幡さんという人は、どうやって封印してるの? これだけの術者がいれば、その術を使えば、あの『鏡』はなんとかならない?」
シンイチが尋ねるが、百地は首を振った。
「山籠もり修行の末に会得した、修験道の術でござる。それ専門に修行せぬと得られぬ力」
「ふん。今から全員で羽黒千日修行でもするか」
飛天僧正は毒づく。
「シンイチ。アイデアはあるか」
皆がシンイチを見た。
「反射を使うことを今考えている」
「? どういうことや」
「反射の反射をつくるんだ」
「?」
シンイチは地獄温泉を指さした。
「鏡→水面→鏡→……って無限に反射させられないか、って」
「いやでもあの温泉、ボコボコ湧いとるやんけ。その為には水面を凪にせんとアカンやろ。風ひとつ吹いてもアカンやん」
「風は……たぶん止められる」
「は? どうやってや」
「これだけの火の使い手がいるんだ。高気圧を呼べるでしょ」
「???」
「三国志で諸葛孔明が大きな火を焚いて雨を呼んだんだよ。上昇気流をつくって低気圧をつくった」
「逆をやんの?」
「こことは別のところに上昇気流をつくる。そしたらこっちは高気圧になるかと」
「理屈はあってるような気がするけど」
「それで水面と鏡の間に、さっきの火力を注ぎ込めば……」
「行けるやん! いやアカンわ。温泉がボコボコ湧いとんねん。さざ波どころか、ボッコボコやんか」
「それならなんとかなるぞ」
地の底から低い声が轟いた。
「摩愚魔様?」
「地の底の儂の寝床と羽黒山は、地下の溶岩で繋がっておる。遠野の地下に熔岩を集めれば、そっちの温度は下がるぞ」
「そんなこと出来るの?」
「地の神を舐めるなよ。せっかく起きたんだから、暴れ足りぬ」
「あ!」
さくらが叫んだ。
「これや! 大地震! みんな空へ!」
「雪崩が起こるならば、すべて火で溶かせばよい」
炎寂は火をまとう。一行は空へ舞う。
どん、と空気が振るえた。
「摩愚魔様が地殻を踏んでいる」
地獄谷温泉、すべてが揺れた。
「雪崩が!」
「むん!」
遠野一の火力、炎寂坊は雪崩に火を穿つ。白い雪はたちまち水の流れになった。温泉に注ぎ込まれる、清水となった。
「分っていれば、巻き込まれて死ぬこともない。……さくらさんの予言、みんなで外したようなものだ」
シンイチはそう言って水面を見た。
「もっと外さなアカンで」
とさくらは言う。
「みんなでドントハレを目指すんや」
沸騰していた熱源は収まり、注ぎ込まれた大量の水で、地獄谷温泉は巨大な池となった。
「ボコボコ湧いとったんが止まっとるぞ!」
と光太郎が叫ぶ。
「再びお湯になる前に、風を止めよう!」
シンイチが言うと、皆がうなづいた。
炎寂が提案する。
「山向こうの早池峰で火柱を上げ、雪を呼ぼう。そうすれば羽黒は晴れる」
皆うなづく。
「天狗共は一端遠野へ。ここが晴れたら再び来る」
「たのんだ!」
その日早池峰山を目撃した者は、山頂から謎の火柱が上がったのを見たであろう。まるで噴火したのかと勘違いするほどに、天空を赤く染めた光景を目撃したであろう。同時に大地震とともに地熱が上がり、河童淵が温泉になったことも目撃したであろう。神の御業としか思えないその現象は、天狗が起こした天狗火であったのだ。
「オッ! 晴れてきたでシンイチ!」
雪深き羽黒山の上空に、徐々に青空が戻ってきた。
「すごいな。やっぱ天狗って天候を操れるんだな」
風が止んだ。
凪だ。
温泉の水面は、青空を写す巨大な鏡となった。
「今だ!」
シンイチは小鴉に火を灯し、松明のように掲げた。
天狗達が遠野の空より舞い戻る。
六角牛山炎寂坊。石上山白女。権現山飯綱神。明神独眼。天野山天道坊。飛天僧正。
「『鏡』を水面と平行に! ねじる力!」
シンイチ、光太郎、さくら、才一、鬼塚、峯、酒田、三神、赤石、そして百地のてんぐ探偵たちは、鏡を平行に寝かせ、水面と無限反射の回廊を作り出した。
「火よ在れ! 循環の理の外の者、天狗の名に於いて!」
白い世界に真っ赤な火が燃えた。
「六自由度の火」
飛天僧正が火球をつくり、鏡と水面の間に固定する。
「この火は負の火。火を吸う火也。ここに火力を集中させよ」
天狗たちの火が燃える。
探偵たちも出来る限りの炎を注ぎ込む。
「めっちゃ眩しい! 三つも目があったらかなんわ!」
さくらは万里眼を閉じる。
「風でより燃えるやろ!」
光太郎は葉団扇で風を送る。
才一は遮光土偶面をサングラス代わりにして、さらに炎を注ぎ込む。
鬼塚、峯、酒田、三神、赤石、百地は、それぞれの火力を最大にして、何度も何度も火を噴いた。
その火は鏡によって反射され、水面に反射され、鏡に反射され……無限に反射が起こっていく。
「どうだ!」
ぴしり。鏡の中央にひびが入った。
「いけるか!」
「もっと火を寄越せ!」
飛天は天狗に文句を言う。
「やっとるわい!」
炎寂は普段他人に見せることのない赤い牛の角を突き出し、そこからも炎を吐いた。両手両脚両角の、六本の火柱を割れた鏡に注ぎ込む。
びしり。鏡の亀裂はさらに広がった。
「行けるやろ! あとは物理でも!」
光太郎は大鴉を大上段に構えて飛ぶ。
真向から切り落とすのと、鏡全体にひびが広がるのは同時だった。
「しゃあ!」
鏡は粉々に砕けた。
だがその中でも最も大きな破片が、シンイチに向かって飛んできた。
鏡は最後の力を振り絞り、己を殺した指揮者に、刃の呪いを向けたのである。
「シンイチ!」
光太郎は、ねじる力で鏡の破片の軌道を変えようとした。だが間に合わない。その鋭い鏡の断面がシンイチの喉笛を掻き切れば即死。鞍馬流「変化」で巻き取れるか。いや、光太郎の大太刀ならまだしも、シンイチの小太刀でこの大きさは無理だろう。
その刹那。
シンイチの前を、巨木のような朱い腕が遮った。
鏡はその腕を切断した。その肉塊が地面に落ちるより速く、鏡の殺意はシンイチに迫る。
シンイチは形通りに、小鴉で鞍馬流二の手「変化」を繰り出し、その破片を巻いて落した。巨腕を両断して威力が落ちていなければ、シンイチもこれを落せたかどうか自信がない。
その朱い腕の主は――
「大天狗!」
谷底で苦しんでいた大天狗は、シンイチの危機を知り、四里を一歩で歩く縮地で、「虚無」の肢を引きちぎりながらここまで来たのであった。
切断された大天狗の右腕は、ずずんと大きな音と煙を立て、硫黄で変色した地面に落ちた。腕から赤い血が流れる。大天狗の右肩からも、赤い血が吹き出した。
普段ならばたちまち腕が生えてくる天狗の肉体も、鏡の妖力ゆえか回復しない。切断面が、鋭すぎるのだろうか?
大天狗はシンイチの顔を見た。
「……儂がこのまま死なず、『在る』意味を思い出したよ」
体に巻き付く大妖怪「虚無」の触手を、鬱陶しそうに祓う。
「シンイチ。儂は自分の天狗の技を、全て伝授することにした」
「なんと」
その言葉に天道坊は悲しんだ。
「清五郎よ。……それは本心か」
「死ぬ前に儂がやるべきことは、それだと分ったのだ」
天道坊は三つの目を瞑り、ショックの大きさがシンイチにも伝わって来た。
「……どういうこと?」
シンイチは尋ねた。
「あのな」
光太郎が解説する。
「人間が天狗に化るには、あらゆる術の知識を得ることでなるんやな。それを少しずつ他人に授けると、知識がゼロになって、元の人間に戻ってしまうんや。つまり、薬師ハンは人間――循環の理に戻る代わりに、シンイチを天狗に推薦するということや」
「……えっ」
大天狗は、優しい目で笑った。
「勿論、シンイチには断る権利がある。お前は人間のまま、妖怪や天狗たちと人間の橋渡しをするべき役割かも知れぬ。だが儂は、自分の全ての術を授けるならば、お前が相応しいと覚悟が出来た」
「……」
「お前の活躍は全て千里眼で見ていたぞ。遠野始まって以来、五人の天狗と地の神が喜んで力を貸した大物などおらぬ」
「儂は数えんのか」
飛天が文句を言う。
「じゃあ天狗五・五としとくか」
大天狗は笑う。そうしてシンイチに再び笑った。
「また稽古をつけたい。我が弟子よ」
シンイチは大きく笑い返した。大天狗に、生きる力が湧いてきたと分ったからだ。
「命とは何か、ひとつ分った」
その大天狗の目は、いつもの金色に戻っていた。それは、未来を向いた色だった。
「継ぐことだ」
かくして、大天狗早池峰山薬師坊清五郎に取り憑いた心の闇「虚無」は、心の臓から遊離した。
無数に絡みつき、浸潤していた触手たちは、次々と弾けるように解け、拠り所を失ったように宙で藻掻いた。
「今だ!」
シンイチが叫ぶ。
皆、同じ印を組んだ。
大金剛輪印、外獅子印、内獅子印、外縛印、内縛印、智拳印、日輪印、隠形印!
「臨! 兵! 闘! 者! 皆! 陣! 烈! 在! 前!」
大天狗も九字を切った。六・五人の天狗と九人のてんぐ探偵が唱和する。
「不動金縛りの術!」
落雷のような音とともに、結界が羽黒山全体に張られた。それは遠野まで及ぶ長大な結界だ。大天狗から及んだ「生きる力」は、遠野上空にいる大妖怪「虚無」の本体に届く。虚無の肢はイタチ坊、立丸坊、真人坊、鎧丸からも外れ、彼らは生きる力を取り戻す。
「シンイチ」
大天狗は言った。
「鞍馬天狗に習った剣、目の前で見せてくれ」
シンイチは朱の天狗面を被り、朱の鞘から天狗の剣を抜いた。
「火よ在れ!」
シンイチは天狗の面を被ると天狗の力が増幅する、てんぐ探偵である。
長い間大天狗の心臓に絡みついていた、最も太い触手目掛けて飛んだ。
太刀筋はひとつ。鞍馬流一之太刀、最も練習した正當剣。触手がうねり、シンイチを打とうとした。それを小鴉の鎬で斜めに弾く。「乗り」である。そのまま剣ごと体当たりするように突っ込む。
「なんでやねん!」
掛け声とともに極太の触手は両断され、炎の柱と化した。
「シンイチ、なんで『なんでやねん』やねん!」
光太郎が笑いながら叫んだ。
「アレ、つい『ノリツッコミ』の癖で……」
シンイチは自分が無意識でそうしたことに気づいていなかった。
「アホか! そこは『え、言うてないで、もう一度やってみよか? おりゃーなんでやねんー! あ、言うてたわ!』とノリツッコミするところやろ!」
「関西ノリ、難しすぎ!」
「漫才は終わりだ。突っ込むぞ」
赤い衣を翻し、飛天僧正が前に出た。
左手に陰の印、右手に陽の印が結ばれている。
「続け天狗の弟子たちよ!」
「応!」
九人のてんぐ探偵たちが宙に舞う。
飛天は上空の本体、その眉間に、九尾の火柱、八岐の竜、七支炎をたてつづけに放つ。六自由度の火を横に置き、攻撃してくる触手を吸い寄せ、直撃は五臓の焔で焼き切った。四象の雷火で八方の触手を同時に焼き、三絶で上中下段の中心線に火球を叩きつけ、両儀で左右から陰陽の炎で焼き尽くした。
「あやつ」
天道坊はふふと笑う。
「そこが半人前というのだ。人間の感情がのこっておる」
「どういうことだい、長老」
白女の問いに、長老天道坊は白いひげをしごいた。
「飛天の坊、敵討ちの感情が駄々洩れじゃわい。さて、我らも天狗の弟子たちに遅れを取ってはならぬぞ」
翼を広げ、天狗たちも上空へ飛んだ。
大天狗はねじる力で黒雲を呼び、雷を落した。
六角牛炎寂坊、石上山白女、権現山飯綱神、明神独眼は、それぞれの赤い炎で本体を貫き、切り刻み、擂り潰す。
そこへ、天狗の加勢が来た。「虚無」を振り切った、イタチ坊、立丸坊、真人坊、鎧丸である。イタチ坊は「疾風」を駆使して触手の雨を潜り抜け、カマイタチの原理でことごとく切った。立丸坊は、「不入刀の法」の呪文で体を硬化し、六文銭の剣で切り裂く。真人坊は中国拳法の「地震脚」を使い、大地を揺らす程の踏み込みで空気を揺らし、全体にダメージを与えた。鎧丸は体を丸め、自らが火の弾になる「弾」で突撃する。
てんぐ探偵たちはこれに続いた。
「小鴉!」
「大鴉!」
「ウチの法螺貝聞いとくれ!」
「昇天の舞を奉る」
「鬼フックで地に這え」
「中心を貫かれよ」
「新作の火酒を喰らえ! その前にちょっと飲んどこ」
「やれやれだぜ、神の道を開け」
「ブチ抜く!」
「炎の手裏剣でござる!」
大妖怪の全てが炎に包まれ、落城するように崩れてゆく。炎は心の闇を浄化し、すべてを清めの塩に帰するのだ。
「これにて、ドントハレ!」
遠野の結句で、シンイチはこの大事件を締めた。
5
「摩愚魔様が頑張りすぎて、遠野に温泉が湧きまくっているらしいじゃん!」
シンイチははしゃいで走り出した。
「大天狗! オレを庇った右腕、温泉に入れば復活するかもよ!」
「うむ」
通常ならば天狗の肉体は、その不老不死の力によって修復する筈である。だが今回ばかりは鏡の妖力の強さか、天狗の腕はいまだ生えてこなかった。温泉で回復すればよいが、と大天狗は思う。
湯につかり、戦いの疲れを癒しながらシンイチは思った。
十一人目のてんぐ探偵、八幡蔵人に会うべきだと。
九州英彦山で封印が続く、大妖怪鏡を倒しにいくべきだと。
現代社会に現れた謎の新型妖怪――「心の闇」。その根源が九州高千穂にある。
震えたのは、怖かったからだろうか。大天狗の弟子になったあの時から、追い求めていた「心の闇とは何か」に、答えが出る日が迫っていることが分ったからだろうか。
その時、温泉の水面を使って、八幡から「水鏡の術」による通信が入った。
「てんぐ探偵たちよ。そして全国の天狗たちよ。我が名は八幡蔵人、英彦山筑紫坊の弟子なり。封印から逃げた大妖怪『鏡』の破片、残り七つの行方が分かった。それらは全国に散り、心の闇の根源――七つの闇、七角形に発展する恐れあり。繰り返す。警戒せよ。七角形の闇が、日本を覆う」
慌てて温泉から出たシンイチは、身支度を整え、一本高下駄で上空へ飛んだ。
七本の光の柱があがった。東西南北、あらゆる方向にだ。
遅れて、落雷とも大地震とも異なる恐ろしい音が鳴り響いた。
「てんぐ探偵たちよ、散れ!」
天道坊が叫ぶ。
それぞれのてんぐ探偵たちは、それぞれが見た光の柱へ飛んだ。
シンイチと百地は北へ。
三神と赤石は南へ。
鬼塚と酒田は西へ。
光太郎と峯は西南へ。
さくらと才一は西南西へ。
そこに心の闇の奥底、原型となる七角形の闇がある。
てんぐ探偵の最後の戦いの幕が、今、切って落とされた。
てんぐ探偵只今参上
次は何処の暗闇か
第八章「妖怪大決戦」に続きます。




